ハングルは李氏朝鮮第4代世宗(セジョン)(在位1418~1450)が発明したとされ、1446年に同王によって公布された。(日本では『ハングル文字』と呼ぶことがあるが『ハングル』が正しい)
現在韓国内で使用されている文字の殆んどがハングルである。たまに漢字を目にする機会と言えば、名刺の氏名部分か看板、冠婚葬祭の花飾りに「祝・華・謹・忌」等を見かけるくらいである。
ハングルは考案時点から、漢文を使用していた両班(ヤンバン)という特権階級層に「~唯蒙古・西夏・女眞・日本・西蕃之類、各有其字、是皆夷狄事耳、無足道者」(~モンゴル・西夏・女真・日本・チベット等は固有の文字を持つが、未開人のなすことで、取るに足りない。)と反発されたうえ、中国の威光を盾にハングル使用を阻止しようとする勢力もある中での公布だった。
「刊経都監」(1461)が設置され、仏教経典が次々とハングル翻訳されるなど、李朝初期にはハングルを使用した文献が多いが、その後、燕山君(在位1494~1506)によりハングル使用者処刑等の弾圧があり、その後継者中宗(在位1506~1544)も公式な場でのハングル使用を禁じた為、公文書にハングルは無くなったが、漢字使用者以外の層へのハングルは確実に浸透していった。
近代のハングル転換点は、民族意識高揚を背景に、朝鮮初の近代新聞(官報)『漢城周報』(1886年創刊)が漢文の他にハングルのみによる朝鮮文を採用した時と言われるが、正式に公文書でハングルを使用するようになったのは、1894年11月に公布された勅令一号公文式からになる。
文字はハングルだけになりつつあるが、朝鮮語にはいくつかの語源がある。主なものは中国語由来・日本語由来・純ハングルの3つだ。現在も日本語由来の朝鮮語が結構残っているようで、韓国内の外国人向け韓国語講座でのことだが「チェソはヤチェ(野菜)とも言えますか?」と尋ねたところ「ヤチェは日本語由来なので使いません」と冷たく言い放たれドキリとした。更なる民族意識の高まりと純ハングル増加を予感した出来事だった。
2012年12月31日月曜日
2012年12月24日月曜日
★クリスマス・イヴの物語★ by Miruba
もうすっかり断ち切ったはずなのに、お茶くらいなら、と思ったのは、どこかお互い寂しさを感じていたからかもしれなかった。
久しぶりに会った彼はロマンスグレーの素敵な人になっていた。それでも、「仕事仕事で結局いまだに一人さ」と笑った顔が、昔の人懐こいイメージを思い出させた。
よくデートした銀座に足を運ぶ。
驚いたことに、あのとき通ったピアノバーがまだ営業していた。
2人で久しぶりにカクテルで乾杯した。
思い出話は時を忘れさせる。
明日は、また機上の人となるという。
「ね、昔なんで来てくれなかったの?航空券送ったでしょう?ずっと待っていたんだよ」
酔っていたのかもしれない。無性に腹が立ってきた。
「行けるわけなかったでしょう!母が倒れて介護しなくちゃいけなかったし、店はあるし・・それに・・・」
「それに、僕の子供が出来たから?」
私は驚いた。
「何で知っているの?調べたの?」
「ごめん、だって君に僕と同じ名前の子供がいるって知って。お兄さんに聞いたんだ」
誰にも言わなかったのに、兄は薄々気がついていたのかもしれない。
「おまけに年齢を聞いて確信したんだ。何で知らせてくれなかったんだ」
「何を言っているのよ、子供が出来たらどうする?って聞いたら、あなたは言ったじゃない。『今はほしくない。仕事に専念したい。自分の実力を試したいから』って、私に相談も無くフィンランド行きを決めたのはあなたでしょう!だから、一人で産むことにしたんじゃない。」
言った言わないの口げんかのようになって、その夜また私達はしこりを残したまま、別れることになったのだった。
一生逢うまいと思っていたので、息子にも父親と同じ名前をつけてしまったが、失敗だったかな。未練だったのよね。
次の日息子の孝に父親のことをどう言おうかと考えたが、二日酔いの頭では良い案も浮かばなかった。大体子供のときから父親の話はタブーだったので、息子の孝がどう思っているのか知らないですごしてしまった。
携帯に彼からの電話やメールが入っていたが、無視していたらいつの間にか音沙汰もなくなっていた。
これでいいのだ、私は忘れることにした。
浅草に用があったので、ついでに羽子板市に足を運んだ。東京都の伝統工芸品に指定されている「江戸押絵羽子板」は、魔除け厄払いに、また女の子が丈夫に育つよう、初正月に羽子板を贈る習慣から江戸末期頃、歌舞伎役者を貼りつけたことから女性に人気を集め、更に羽子板の商人が増えて「羽子板市」として定着したという。
実家の酒屋に飾るのだからと少し大きめなものを頼んだら、縁起が良いというので三本締めのおまけがついた。
ちょっとくすぐったいような、誇らしいような変な気持ちになる。
総武線沿線で小さな酒屋とコンビニをやっているのは兄夫婦だ。
羽子板を持っていくと義姉が満面の笑顔で迎えてくれた。
「いっつもすまないねぇ喜美ちゃん。これで商売繁盛間違いないよ」
「義姉さん、羽子板は厄払いでしょう?縁起物ではあるけどね。商売繁盛には関係ないんじゃない?」
「いいんだよぉ。なんだってさ。早速お供えしなくちゃぁね」ちゃきちゃきの東京弁で気持ちがいい。
「私もお線香あげなくちゃ」
義姉の後を追って仏壇の前に座った。
祖父母と両親、そして兄夫婦の娘の写真を眺めて、私はお線香に火をともした。
そもそも、羽子板市に行きだしたのは、病気で3歳のときに亡くなった兄夫婦の一人娘、私の姪っ子へのプレゼントが始まりだったのだ。
それから毎年、欠かさず買うようになって20数年の今に至る。
義姉がお茶を入れてくれている間に、兄が店から母屋にはいってきた。
「やれやれ、ようやく交代のアルバイトが来た。これで愛酒試飲同好会にいけるな」
居間のソファーに兄が座り込んだ。
「兄さん邪魔しているわよ」と私が声をかける。
「おお、来てたのか。孝はまだアフリカから帰ってこないのか?危ないことやめて、うちの店そろそろ継げって言っといてくれ。
アルバイトがコロコロ変わってまいってんだ。」
私の息子の孝はフリーのカメラマンだ。
もう30をいくつも過ぎたのに結婚もせず世界中を飛び回っている。
それでも、子供の頃一緒に住んで、酒屋の手伝いを中学生頃からしていたので、
兄としては要領のわかっている甥っ子の孝が頼りになるのだろう。
「コンビニ、忙しいのでしょう?ごめんね手伝えなくて」と私が言うと、
義姉が、お菓子とお茶を出しなが口を挟む。
「いいのよ。この人はみんな自分がやらなきゃ気がすまないから忙しいだけさ。
これだけ周りにどっさりコンビニがありゃぁ、そう忙しくも無いんだよぉ」
「死んだ親父が『酒屋は美味しい酒さえ売っていればお客さんはきっと付いてくださる。
コンビニなんぞやったって潰れちまうぞ』と説教するのを押し切って始めたけど、
親父の言っていたとおりだよ。今はむしろ昔ながらの酒屋として、ワインや日本酒の良い製品を入れることで店がやっていける」と、兄がつぶやくように言った。
「でも昔、お父さんがお客さんによく言ってたわよ。
『息子の言うことを聞いてコンビニ始めてよかった。
酒屋だけでは潰れていた』ってね」
「まぁな、向かい風の時代だったからな。それも今や逆転だ。商売なんてわからないもんだな。
ま、ゆっくりしていってくれ。
俺はこれから、愛酒会にいってくる。酒の売り込みに役立ってくれて助かるんだ。
そうだ、お前への手紙まとめてあるから、忘れずにもっていけよ」
兄はあわただしく出てった。
私は転勤が多いので、以前からの知り合いはみんなまだ実家に手紙を寄越すのだ。
手紙の宛名を一枚一枚ひっくり返しながら確かめる。
その束の中に、懐かしい名前を見た。
義姉が横から覗いて、
「あら、孝だって。え?ああ同名のヒトか、孝からの手紙と思って喜んで損した」
義姉も孝を自分の子供のように接してくれていたので、便りが無いかと首を長くしているのだ。
「孝のやつ、ハガキの一枚も寄越せって、叱ってやってくださいね、義姉さん」
そういって、私はみこしを上げた。商売の邪魔をしてはいけないのもあるが、手紙を早く見たい。
義姉が世話好きの好奇心から、興味を示しているのに気がついたからでもある。
アパートに帰ったのはもう夕方になっていた。
そろそろ孝も帰国するだろうし、用意をするかな。
私はクリスマスツリーを出した。
孝が子供の頃は沢山の飾りをつけたものだが、最近は一色だけのボール飾りにしている。
数年前は銀色だけのボールにしたが寒々しいので、昨年から赤い飾りだ。
ストーブでやっと部屋があったまった頃、私はボイルしたソーセージをつまみながらワインを飲み始めていた。
もったいぶっているわけじゃないが、ようやく「山井孝」と書かれた彼の手紙を開いた。
フィンランドからのエアーメールだ。
あのときから更に一年が過ぎようとしていた。
_今度こそ、こっちに来てくれるよね。心から待っている_
そう書かれてある。
エアーチケットも同封されていた。
日にちを見て驚いた。
「え!12月23日発?もうすぐじゃない。まったく相変わらずね」
そう思ったとき、携帯が鳴った。
息子の孝からだった。
「あ、おふくろ?オレ孝。さっき、同名の親父に会った」
「え?アフリカじゃなかったの?」
「帰りにヘルシンキに寄ったんだ。空港に迎えに来てた親父を見かけて、すぐに判った。
親父もオレってすぐに判ったって。思わず抱き合っちゃってさ。涙のご対面よ。おふくろにも見せたかった。残念だったな。自分で自分を撮影して、YOUTUBEにでもUPしたら大反響だったぜ。」
_会えて良かった_と30男と思えないほどはしゃぐ声を複雑な思いで聞いていた。
あの再会の後、息子には父親の存在を話してはあった。
複雑な思いはあっただろうが、自分自身の中で折り合いをつけていたのだろうか・・・
そのわざとはしゃぐ言い草に、私への優しさをむしろ感じた。
だが、私が一人で子供を育てるのにどれほど大変だったか・・・
もっとも、孝が生まれた頃は両親もまだ健在だったし、
兄夫婦も一緒に住んでいたから、まったくの一人で育てていたわけではないが。
それにしても、一瞬にして息子を味方にしてしまうなんて、
あなたってずるい」エアーメールに同封されたフィンランドの広大な景色をバックにした彼の写真につぶやいた。
フィンランドか・・
クリスマスをサンタの国でW孝と過ごすのも悪くないかな、と思った。
2012年11月10日土曜日
怪異万華鏡6 by 暁焰
黒い鏡
Aさんが近所のKデパートで経験した話である。
Aさんは、現在は、サラリーマンのご主人と今年6歳になる娘さんの3人暮らしである。元々はマンションで暮らしていたのだが、娘さんが保育園を卒業したことを切欠に、昨年一戸建ての新居を構えた。
Kデパートは、Aさん宅から車で5分ほどの場所にある商業施設で、名前こそデパートとなっているが、実際にはデパート以外にも多くのテナントが入った大型ショッピングモールだ。出来たのは、Aさん一家が越してくる一年ほど前のことだと言う。
住まいからも近く、どんな商品でも揃っているため、Aさんも良く利用していたのだが、一箇所、余り近寄らないようにしている場所があった。
それは、デパートの一階付近の西側にあるエントランス付近の場所だった。フロアに並んだテナントと、エントランスの自動ドアに間にできた、少し開けた空間。その場所のちょうど中央に、床から天井までをつなぐ大人が二人並んだほどの幅の柱があり、柱の大人の腰の辺りから上の部分が鏡張りになっている。Aさんには、その柱の周辺が他の場所よりも薄暗く見えた。エントランスの自動ドアも、その回りの壁に当たる部分もガラス張りになっており、外からの光を取り込めるようになっている。できたばかりの建物であるから、照明も明るく、内装も綺麗だ。にも関わらず、Aさんはその場所を見るたび、薄く影が挿しているように感じたという。
気のせい、と言われてしまえば、そうかもしれない、と思えてしまうほどのかすかな違和感であったが、それでも一度気になってしまうと、良い気分はしない。Aさんがその場所に感じる違和感は、夕方に特に強くなるように思えたため、夕飯の買い物等でKデパートを訪れた時にも、一人でいる時には、出入りには他のエントランスを使い、西側のその場所には、なるべく近づかないようにしていた。
Aさんは、本心では、できれば、昼間に買い物を済ませて、夕方以降はKデパートを訪れないようにしたかったらしい。とはいえ、昼間は昼間でしなければならない家事もある。加えて、娘さんを保育園に迎えに行ってから、Kデパートへ行くと、ちょうど夕刻のタイムセールが始まる時間になる。何度も出かける手間も省ける上、多少なりとも家計の節約になる、と自分に言い聞かせて、毎日娘さんと二人で夕方Kデパートで買い物をするのがAさんの習慣になっていた。
そんなある日、Aさんは、自分が感じていた違和感が、自分の気のせいではないことを知った。その日は、車を西側の駐車場に停めたために、普段は避けている西側のエントランスから入ることにしたのである。
エントランスを抜けると、急ぎ足でその場所を離れ、食料品売り場で夕飯の買い物を始めた時に、手をつないでいた娘さんが言った。
「ねえ、ママ。見た?さっきおっきな鏡、真っ黒だったね」
「真っ黒って…?黒い服を着た人が。映ってたの?」
「ううん、そうじゃなくて…鏡、全部真っ黒だった。お外、明るかったのに、変だよね?」
娘さんの言う『おっきな鏡』が、例のエントランスにある柱に取り付けられた鏡面であることに気づいた時、Aさんの背筋に寒気が走った。季節は初夏に差し掛かったこ頃合で、腕時計は4時を少し過ぎた時刻を指していた。時刻を確認するまでもなく、駐車場で車を降りた時も、デパートに入った時にも、まだ辺りには明るい陽光が満ちていた。娘さんの言うとおり、夜でもない限り、鏡が『真っ黒』になるようなことはない。恐る恐る、先ほど、通り抜けてきたエントランスの方を振り向くと、やはり、鏡張りの柱を中心に、その辺り一帯が、薄暗く翳っているように見えた。
それからというもの、AさんはKデパートを使うことを控えるようになったのだが、それに気づいたご主人に、どうしてKデパートを避けているのか、と問いただされた。
「『食材が高い』とか、適当な嘘を言っておけば良かったんでしょうけど…」
そうすれば、あんな目にあわなくて良かったのに、と、Aさんは血の気の引いた顔で続けた。
自分が感じていた違和感や、娘さんが何かを見た、とご主人に話したところ、一笑に付された。それどころか、ご主人は、そういった類の話を一切信じない人であるため、そんな理由で…と、呆れられてしまった。
呆れはしたものの、元々、優しく穏やかなご主人は、頭ごなしにAさんをとがめはせず、諭すようにして、ならば、次の休みの日に、自分もついていくから、もう一度行ってみよう、と提案した。
「それで何もなければ、気のせいだって納得できるんじゃないか?」
そう言ったご主人の声の穏やかさに励まされ、Aさんも、ひょっとしたら、自分や娘さんの経験したものが気のせいだったのかしれない、と思った。ご主人が一緒についてきてくれる、という安心感も手伝い、結局、もう一度、確かめてみようという気になった。
次の日曜日、Aさんはご主人と、娘さんの3人でKデパートに出かけた。
時刻も、最後に訪れた日と同じ頃合の4時頃を敢えて選ぶことにした。気のせいかどうかを確かめるためならば、同じ時間帯がいい、と思ったためである。
西側のエントランスから、一階のフロアへ入ると、やはり鏡面張りの柱を中心に辺りが少し薄暗くなっているように感じた。そのことをご主人に告げると、ご主人は、天井の照明を一つ一つ確認するように眺めながら、おそらく照明の加減でそんな風に感じるのだろう、とAさんを説得した。
「特に君は乱視があるだろう?そのせいで、過敏に光の加減に反応してしまうんじゃないかな?」
理屈は通っていたが、それでは、娘さんが見たもの何だったのだろう。
「それはわからないけど…。でも、何かの見間違いだったんじゃないか?今は何も見えないみたいだし…」
ご主人の言葉通り、娘さんも、何も感じていないようで、家族揃っての買い物だと、無邪気に喜んでいた。
結局、Aさんも、薄暗く見えるのはご主人の言うとおり、照明と自分の乱視のせいで、娘さんの見た『真っ黒な鏡』は見間違い、ということで納得することにした。
横にご主人がいることが、恐怖を薄れさせてくれていたし、はしゃいでいる娘さんの姿にも張り詰めていたものが緩んだ。これなら、このデパートを避けて、わざわざ遠くのスーパーにまで行かなくても…と、安心した。
買い物を済ませ、2階のフロアにあるレストランで少し早めの夕食を取ってから帰る際に、帰りも西側のエントランスを使おう、とご主人が言った。
エスカレーターを降りて、鏡面張りの柱を通り過ぎた時に、ご主人がAさんに、冗談めかした口調で、まだ、怖いかい?と尋ねた。時刻は7時半を少し回った頃で、エントランスのガラスの向うには、初夏の宵闇が黒く映り、そこに親子三人の姿がぼんやりと映っていた。エントランスのドアに映る宵闇と、柱の鏡面がちょうど合わせ鏡のように見えた。外が暗くなってみると、Aさんが感じてたフロアの薄暗さは却って目立たなくなったようで、Aさんもご主人に、もう平気、と答えた。
その次の瞬間である。
一歩先を跳ねるような足取りで歩いていた娘さんが、突然、転んでしまった。どこかぶつけたのか、その場に座り込んで泣き出し始めた娘さんに、Aさんとご主人は慌てて、駆け寄った。
「Hちゃん!大丈夫?」
娘さんの名前を呼びながら、助け起こそうと娘さんに手を伸ばしたAさんの動きが、固まった。
娘さんが転んだ場所は、鏡面張りの柱の、エントランスのドアのちょうど中間あたりだった。外が暗いのであるから、ドアのガラスにも、背後の柱の鏡面にも床に座り込んだまま泣いている娘さんの姿が映っていた。その映り込んだ娘さんの姿に、鏡とドアの両方から、無数の白い手が伸びていた。一瞬のことだったが、Aさんには娘さんに伸びる手が、合わせ鏡のようになったドアのガラスと柱の鏡の一つ一つから伸びているのがわかった。
悲鳴を上げながら、Aさんは、娘さんを抱き上げ、その場を逃げ出した。エスカレーターの辺りで、慌てて後を追いかけてきたご主人がAさんに追いつき、恐怖で震えているAさんをなだめてくれた。
ご主人も、そして、幸いなことに、娘さんも、Aさんが見た無数の手は見ていなかった。それでも、震えが止まらないAさんの様子に、御主人もただならぬものを感じたらしく、泣き続けている娘さんを片手で抱き、もう片手でAさんの震える肩を抱くようにして、Kその場を後にした。
家に帰ってからも、先ほどの光景が目に焼きついていて、Aさんはベランダのガラスや、洗面所の鏡も見る気に慣れず、いつまでも震えが止まらなかった。心配したご主人が、娘さんを寝かしつけてから、ソファに並んでAさんの肩をずっと抱きしめていてくれていた。
ご主人の腕の中にいるうちに、ようやっと気持ちが落ち着き、気がつけばAさんは眠りに落ちていた。
気がつくと、ベッドで、耳元で携帯のアラームが鳴っていた。眠っていた自分をご主人がここまで運んでくれたのだろう、と思い、いつもなら隣で眠っているはずのご主人の姿を探したが、不思議なことに寝室にご主人の姿が見当たらない。
「あなた?」
ベッドから起き出して、声をかけてみると、隣の子供部屋からご主人の返事が聞こえた。先に起きて、娘さんを起こしに行ってくれたのだろうか、と思いながら、子ども部屋のドアを開けると、娘さんが眠っているベッドの前で仁王立ちになっているご主人の姿が目に入った。
目の下には、くっきりと隈が浮かび、一目で、一晩中眠らずにいたことが、わかった。
何があったのか、と問いかけるAさんに、ご主人は血走った目を向けると、疲労の滲む声で謝った。
「君の言うとおりだった。本当にすまない。信じなくて」
重ねて、問うと、ご主人は恐怖の色を目に浮かべながら、話した。
昨夜、眠ってしまったAさんをベッドへ運んでから、ご主人は、シャワーを浴びた。濡れた身体を拭き、パジャマに着替えて、脱衣場も兼ねている洗面所から出ようとすると、いきなり、背後から右肩を掴まれた。驚いて、右肩を見ると、がっしりとした大きな手が肩を掴み、パジャマの上から太い指が食い込んでいた。視界の隅に、たくましく太い腕が、背後の洗面所の鏡から伸びているのが映っていた。余りのことに、声も出せずにたじろいだ瞬間、耳元で男の声がした。
「気をつけろ。次は連れて行かれるぞ」
そう聞こえた後、肩を掴まれている感触が消え、腕も消えていた。
「もう、心配で、眠るどころじゃなくて……」
まだ眠っている娘さんの顔を見ながら、安心したように話すご主人が、パジャマをずらすと、右肩に、何かに掴まれたように、5本の指の形に痣が残っていた。
以来、Aさんもご主人もKデパートを利用することはなくなった。ご主人の肩にはいまだに痣が残ったままだという。
Aさんが近所のKデパートで経験した話である。
Aさんは、現在は、サラリーマンのご主人と今年6歳になる娘さんの3人暮らしである。元々はマンションで暮らしていたのだが、娘さんが保育園を卒業したことを切欠に、昨年一戸建ての新居を構えた。
Kデパートは、Aさん宅から車で5分ほどの場所にある商業施設で、名前こそデパートとなっているが、実際にはデパート以外にも多くのテナントが入った大型ショッピングモールだ。出来たのは、Aさん一家が越してくる一年ほど前のことだと言う。
住まいからも近く、どんな商品でも揃っているため、Aさんも良く利用していたのだが、一箇所、余り近寄らないようにしている場所があった。
それは、デパートの一階付近の西側にあるエントランス付近の場所だった。フロアに並んだテナントと、エントランスの自動ドアに間にできた、少し開けた空間。その場所のちょうど中央に、床から天井までをつなぐ大人が二人並んだほどの幅の柱があり、柱の大人の腰の辺りから上の部分が鏡張りになっている。Aさんには、その柱の周辺が他の場所よりも薄暗く見えた。エントランスの自動ドアも、その回りの壁に当たる部分もガラス張りになっており、外からの光を取り込めるようになっている。できたばかりの建物であるから、照明も明るく、内装も綺麗だ。にも関わらず、Aさんはその場所を見るたび、薄く影が挿しているように感じたという。
気のせい、と言われてしまえば、そうかもしれない、と思えてしまうほどのかすかな違和感であったが、それでも一度気になってしまうと、良い気分はしない。Aさんがその場所に感じる違和感は、夕方に特に強くなるように思えたため、夕飯の買い物等でKデパートを訪れた時にも、一人でいる時には、出入りには他のエントランスを使い、西側のその場所には、なるべく近づかないようにしていた。
Aさんは、本心では、できれば、昼間に買い物を済ませて、夕方以降はKデパートを訪れないようにしたかったらしい。とはいえ、昼間は昼間でしなければならない家事もある。加えて、娘さんを保育園に迎えに行ってから、Kデパートへ行くと、ちょうど夕刻のタイムセールが始まる時間になる。何度も出かける手間も省ける上、多少なりとも家計の節約になる、と自分に言い聞かせて、毎日娘さんと二人で夕方Kデパートで買い物をするのがAさんの習慣になっていた。
そんなある日、Aさんは、自分が感じていた違和感が、自分の気のせいではないことを知った。その日は、車を西側の駐車場に停めたために、普段は避けている西側のエントランスから入ることにしたのである。
エントランスを抜けると、急ぎ足でその場所を離れ、食料品売り場で夕飯の買い物を始めた時に、手をつないでいた娘さんが言った。
「ねえ、ママ。見た?さっきおっきな鏡、真っ黒だったね」
「真っ黒って…?黒い服を着た人が。映ってたの?」
「ううん、そうじゃなくて…鏡、全部真っ黒だった。お外、明るかったのに、変だよね?」
娘さんの言う『おっきな鏡』が、例のエントランスにある柱に取り付けられた鏡面であることに気づいた時、Aさんの背筋に寒気が走った。季節は初夏に差し掛かったこ頃合で、腕時計は4時を少し過ぎた時刻を指していた。時刻を確認するまでもなく、駐車場で車を降りた時も、デパートに入った時にも、まだ辺りには明るい陽光が満ちていた。娘さんの言うとおり、夜でもない限り、鏡が『真っ黒』になるようなことはない。恐る恐る、先ほど、通り抜けてきたエントランスの方を振り向くと、やはり、鏡張りの柱を中心に、その辺り一帯が、薄暗く翳っているように見えた。
それからというもの、AさんはKデパートを使うことを控えるようになったのだが、それに気づいたご主人に、どうしてKデパートを避けているのか、と問いただされた。
「『食材が高い』とか、適当な嘘を言っておけば良かったんでしょうけど…」
そうすれば、あんな目にあわなくて良かったのに、と、Aさんは血の気の引いた顔で続けた。
自分が感じていた違和感や、娘さんが何かを見た、とご主人に話したところ、一笑に付された。それどころか、ご主人は、そういった類の話を一切信じない人であるため、そんな理由で…と、呆れられてしまった。
呆れはしたものの、元々、優しく穏やかなご主人は、頭ごなしにAさんをとがめはせず、諭すようにして、ならば、次の休みの日に、自分もついていくから、もう一度行ってみよう、と提案した。
「それで何もなければ、気のせいだって納得できるんじゃないか?」
そう言ったご主人の声の穏やかさに励まされ、Aさんも、ひょっとしたら、自分や娘さんの経験したものが気のせいだったのかしれない、と思った。ご主人が一緒についてきてくれる、という安心感も手伝い、結局、もう一度、確かめてみようという気になった。
次の日曜日、Aさんはご主人と、娘さんの3人でKデパートに出かけた。
時刻も、最後に訪れた日と同じ頃合の4時頃を敢えて選ぶことにした。気のせいかどうかを確かめるためならば、同じ時間帯がいい、と思ったためである。
西側のエントランスから、一階のフロアへ入ると、やはり鏡面張りの柱を中心に辺りが少し薄暗くなっているように感じた。そのことをご主人に告げると、ご主人は、天井の照明を一つ一つ確認するように眺めながら、おそらく照明の加減でそんな風に感じるのだろう、とAさんを説得した。
「特に君は乱視があるだろう?そのせいで、過敏に光の加減に反応してしまうんじゃないかな?」
理屈は通っていたが、それでは、娘さんが見たもの何だったのだろう。
「それはわからないけど…。でも、何かの見間違いだったんじゃないか?今は何も見えないみたいだし…」
ご主人の言葉通り、娘さんも、何も感じていないようで、家族揃っての買い物だと、無邪気に喜んでいた。
結局、Aさんも、薄暗く見えるのはご主人の言うとおり、照明と自分の乱視のせいで、娘さんの見た『真っ黒な鏡』は見間違い、ということで納得することにした。
横にご主人がいることが、恐怖を薄れさせてくれていたし、はしゃいでいる娘さんの姿にも張り詰めていたものが緩んだ。これなら、このデパートを避けて、わざわざ遠くのスーパーにまで行かなくても…と、安心した。
買い物を済ませ、2階のフロアにあるレストランで少し早めの夕食を取ってから帰る際に、帰りも西側のエントランスを使おう、とご主人が言った。
エスカレーターを降りて、鏡面張りの柱を通り過ぎた時に、ご主人がAさんに、冗談めかした口調で、まだ、怖いかい?と尋ねた。時刻は7時半を少し回った頃で、エントランスのガラスの向うには、初夏の宵闇が黒く映り、そこに親子三人の姿がぼんやりと映っていた。エントランスのドアに映る宵闇と、柱の鏡面がちょうど合わせ鏡のように見えた。外が暗くなってみると、Aさんが感じてたフロアの薄暗さは却って目立たなくなったようで、Aさんもご主人に、もう平気、と答えた。
その次の瞬間である。
一歩先を跳ねるような足取りで歩いていた娘さんが、突然、転んでしまった。どこかぶつけたのか、その場に座り込んで泣き出し始めた娘さんに、Aさんとご主人は慌てて、駆け寄った。
「Hちゃん!大丈夫?」
娘さんの名前を呼びながら、助け起こそうと娘さんに手を伸ばしたAさんの動きが、固まった。
娘さんが転んだ場所は、鏡面張りの柱の、エントランスのドアのちょうど中間あたりだった。外が暗いのであるから、ドアのガラスにも、背後の柱の鏡面にも床に座り込んだまま泣いている娘さんの姿が映っていた。その映り込んだ娘さんの姿に、鏡とドアの両方から、無数の白い手が伸びていた。一瞬のことだったが、Aさんには娘さんに伸びる手が、合わせ鏡のようになったドアのガラスと柱の鏡の一つ一つから伸びているのがわかった。
悲鳴を上げながら、Aさんは、娘さんを抱き上げ、その場を逃げ出した。エスカレーターの辺りで、慌てて後を追いかけてきたご主人がAさんに追いつき、恐怖で震えているAさんをなだめてくれた。
ご主人も、そして、幸いなことに、娘さんも、Aさんが見た無数の手は見ていなかった。それでも、震えが止まらないAさんの様子に、御主人もただならぬものを感じたらしく、泣き続けている娘さんを片手で抱き、もう片手でAさんの震える肩を抱くようにして、Kその場を後にした。
家に帰ってからも、先ほどの光景が目に焼きついていて、Aさんはベランダのガラスや、洗面所の鏡も見る気に慣れず、いつまでも震えが止まらなかった。心配したご主人が、娘さんを寝かしつけてから、ソファに並んでAさんの肩をずっと抱きしめていてくれていた。
ご主人の腕の中にいるうちに、ようやっと気持ちが落ち着き、気がつけばAさんは眠りに落ちていた。
気がつくと、ベッドで、耳元で携帯のアラームが鳴っていた。眠っていた自分をご主人がここまで運んでくれたのだろう、と思い、いつもなら隣で眠っているはずのご主人の姿を探したが、不思議なことに寝室にご主人の姿が見当たらない。
「あなた?」
ベッドから起き出して、声をかけてみると、隣の子供部屋からご主人の返事が聞こえた。先に起きて、娘さんを起こしに行ってくれたのだろうか、と思いながら、子ども部屋のドアを開けると、娘さんが眠っているベッドの前で仁王立ちになっているご主人の姿が目に入った。
目の下には、くっきりと隈が浮かび、一目で、一晩中眠らずにいたことが、わかった。
何があったのか、と問いかけるAさんに、ご主人は血走った目を向けると、疲労の滲む声で謝った。
「君の言うとおりだった。本当にすまない。信じなくて」
重ねて、問うと、ご主人は恐怖の色を目に浮かべながら、話した。
昨夜、眠ってしまったAさんをベッドへ運んでから、ご主人は、シャワーを浴びた。濡れた身体を拭き、パジャマに着替えて、脱衣場も兼ねている洗面所から出ようとすると、いきなり、背後から右肩を掴まれた。驚いて、右肩を見ると、がっしりとした大きな手が肩を掴み、パジャマの上から太い指が食い込んでいた。視界の隅に、たくましく太い腕が、背後の洗面所の鏡から伸びているのが映っていた。余りのことに、声も出せずにたじろいだ瞬間、耳元で男の声がした。
「気をつけろ。次は連れて行かれるぞ」
そう聞こえた後、肩を掴まれている感触が消え、腕も消えていた。
「もう、心配で、眠るどころじゃなくて……」
まだ眠っている娘さんの顔を見ながら、安心したように話すご主人が、パジャマをずらすと、右肩に、何かに掴まれたように、5本の指の形に痣が残っていた。
以来、Aさんもご主人もKデパートを利用することはなくなった。ご主人の肩にはいまだに痣が残ったままだという。
2012年11月3日土曜日
怪異万華鏡5 by 暁焰
くび球
Tさんが小学校高学年の時に見たものの話である。
それは、小学校の体育の時間の事だった。
その日の授業は、秋の運動会が近いこともあって、クラス全員の50m走のタイムを計っていた。
一人ずつ、出席番号の順に、タイムを計るのだが、自分の番が来るまで他の生徒たちは、スタート地点の脇に整列して、座って待っていることになっていた。
Tさんの順番はかなり後の方で、自分の番が来るまで、周りにいる友達と、たわいもない話をしていた。
と、グラウンドの隅にある砂場を見ると、妙なものが目にはいった。
黒いボールのようなものが、砂場の近くに落ちている。
ボールは風にあわせて転がっているようで、あちら、こちら、ところころと転がっていた。
Tさんの座っている所から、砂場までは10メートルほどだろうか。最初は汚れたサッカーボールかと思ったのだが、よく見ると、細い枯れ草のようなものがいくつも纏わりついているように見えた。
(あれ?なんやろ?ボールちゃうんかな?)
不思議に思ったTさんが、すぐ隣の友達に教えようとした時、一際、強い風が吹いて、ボールが、砂場へと転がりこんだ。
次の瞬間。
「うぇーっ!ぺっぺっ!」
ボールが、大きな声を出しながら、半回転した。
Tさんだけでなく、クラスの何人かがそちらを見るほどの、大きな声だった。
半回転したボールの裏側には、人の目鼻と口がついていて、細い枯れ草が纏わりついているように見えたのは、頭から生えた長く、もつれた髪だった。
砂場を転がった時に、砂が口に入ったのだろうか、首は顔をゆがませて、砂場の真ん中でぺっぺっ、とつばを吐くような声を上げていた。
「なんや、あれ!」
Tさんの隣に座っていた男の子があげた声に、先生も含めたクラス全員がそちらを見たその時、首が再び半回転して、後ろを向いた。そして、そのまま黒いボールのような——おそらく後頭部?——見た目で、ころころと転がり、近くの草むらへと消えていった。
Tさんを含め、目撃した生徒たちの話を聞いた先生が、草むらの中を見に行ってくれた。「お前らが見たんはこれやろ?」
先生が草むらから手にして戻ってきたのは、古いボールだった。元は、サッカーボールか、バスケットボールか、表面の皮かゴムがほつれて、繊維の塊が飛び出していた。
そんなことはない、あれは人の首だった、声も聞こえた、とTさん達がいくら訴えても、先生はおろか、クラスメイトにも信じてもらえず、結局、古いボールを見間違えた、ということで落ち着いた。
「そやけど、見間違いでも、ボールはしゃべりませんよねえ。それともボールが化けたんですかねえ?」
と、Tさんは笑う。
「髪は長かったけど、おっさんみたいな声で、ぺっぺって、砂吐いてました」
しばらくの間、同じものを見たクラスメイト達のあいだでは、ボールのお化けや、いや、おっさんのお化けや、お化けやけど、砂が口に入るのは嫌みたいや、と妙な話題が持ちきりだったという。
Tさんが小学校高学年の時に見たものの話である。
それは、小学校の体育の時間の事だった。
その日の授業は、秋の運動会が近いこともあって、クラス全員の50m走のタイムを計っていた。
一人ずつ、出席番号の順に、タイムを計るのだが、自分の番が来るまで他の生徒たちは、スタート地点の脇に整列して、座って待っていることになっていた。
Tさんの順番はかなり後の方で、自分の番が来るまで、周りにいる友達と、たわいもない話をしていた。
と、グラウンドの隅にある砂場を見ると、妙なものが目にはいった。
黒いボールのようなものが、砂場の近くに落ちている。
ボールは風にあわせて転がっているようで、あちら、こちら、ところころと転がっていた。
Tさんの座っている所から、砂場までは10メートルほどだろうか。最初は汚れたサッカーボールかと思ったのだが、よく見ると、細い枯れ草のようなものがいくつも纏わりついているように見えた。
(あれ?なんやろ?ボールちゃうんかな?)
不思議に思ったTさんが、すぐ隣の友達に教えようとした時、一際、強い風が吹いて、ボールが、砂場へと転がりこんだ。
次の瞬間。
「うぇーっ!ぺっぺっ!」
ボールが、大きな声を出しながら、半回転した。
Tさんだけでなく、クラスの何人かがそちらを見るほどの、大きな声だった。
半回転したボールの裏側には、人の目鼻と口がついていて、細い枯れ草が纏わりついているように見えたのは、頭から生えた長く、もつれた髪だった。
砂場を転がった時に、砂が口に入ったのだろうか、首は顔をゆがませて、砂場の真ん中でぺっぺっ、とつばを吐くような声を上げていた。
「なんや、あれ!」
Tさんの隣に座っていた男の子があげた声に、先生も含めたクラス全員がそちらを見たその時、首が再び半回転して、後ろを向いた。そして、そのまま黒いボールのような——おそらく後頭部?——見た目で、ころころと転がり、近くの草むらへと消えていった。
Tさんを含め、目撃した生徒たちの話を聞いた先生が、草むらの中を見に行ってくれた。「お前らが見たんはこれやろ?」
先生が草むらから手にして戻ってきたのは、古いボールだった。元は、サッカーボールか、バスケットボールか、表面の皮かゴムがほつれて、繊維の塊が飛び出していた。
そんなことはない、あれは人の首だった、声も聞こえた、とTさん達がいくら訴えても、先生はおろか、クラスメイトにも信じてもらえず、結局、古いボールを見間違えた、ということで落ち着いた。
「そやけど、見間違いでも、ボールはしゃべりませんよねえ。それともボールが化けたんですかねえ?」
と、Tさんは笑う。
「髪は長かったけど、おっさんみたいな声で、ぺっぺって、砂吐いてました」
しばらくの間、同じものを見たクラスメイト達のあいだでは、ボールのお化けや、いや、おっさんのお化けや、お化けやけど、砂が口に入るのは嫌みたいや、と妙な話題が持ちきりだったという。
2012年10月27日土曜日
涙という名のバー by k.m.joe
涙という名のバーがありました
痩せて色の黒い女主人がおりました
いつも首をどちらかに傾け、タバコなんぞふかしています
涙という名のバーがありました
店ではシャンソンが流れています
ブルースだと心が騒ぐ、ジャズだと音を追っかける
気取っているようで温かい
シャンソンが似合う、場末の小さなバーでした
涙という名のバーがありました
男たちは辛そうな顔で、見栄を置いて帰ります
女たちは哀しい顔で、過去を置いて帰ります
止まり木だけの小さなバーでした
涙という名のバーがありました
愛想のない女主人に、何も喋らない客ばかりだけど
なぜか何度も来てしまうのです
何かを捨てるために
何かを捨てる自分に会うために
涙という名のバーが
ある日、無くなっていました
空き地になってました
もう、風さえ吹いていません
涙という名のバーがあった場所に看板が立っていました
「涙がずいぶん集まりました。みんなありがとう」
2012年10月20日土曜日
暁焰の怪異万華鏡4 by 暁焰
<秋の夜に>
10年ほど前のことなんですけど、とFさんは楽しそうな表情を目に浮かべて、話を切り出してくれた。
「丁度、今と同じ頃だったと思います。夜になると秋の風が吹き始めてましたから」
その日、Fさんは、いつものように、アルバイト先のお店へと向かっていた。Fさんが働いていたのは、小さなレストランで、当時、大学生で一人暮らしをしていたFさんのアパートからは、歩いて10分ほどの場所にあった。レストランの周りには、昔ながらの家が並び、その間を細い路地が縫っている、古い街並みが残っていた。アルバイトの時間は夕方5時から、夜の10時までだった。
バイト先へと歩きながら、Fさんは、路地のあちこちに何匹かの猫の姿が見えることに気がついた。そこの塀の上に、あちらの電柱の根元に、こちらの店の軒先に…といった具合で、猫の姿など、界隈ではほとんど見かけたことがなかったので、Fさんはどこにこんなに、と少し驚いた。よく晴れた空から差し込む夕暮れの気配が薄く滲んだ光の下で、猫達はのんきに目を細めたり、通り過ぎるFさんに丸い目を向けたりしている。そんな猫達の姿に、Fさんはふと、幼い頃の出来事を、思い出した。
「小さい頃にも、猫が街のあちこちに出てくることがあったんです。それも、一匹や二匹じゃなくて、ホントにたくさん……。今と違って、二十年以上も昔のことですし、海や、港も近くにありましたしね。だから、猫がたくさんいるのは不思議でもなんでもなかったんですけど、それでも普段見かけるよりもずっと多くて…」
街の至る所にいるようにも思えたその猫達の姿が、夜になると、消えてしまう。飼い猫は家に帰ったのだとしても、野良の姿も、一匹も見当たらなくなる。それなのに、泣き声だけは、街のあちこちから聞こえた。
そんな夜、Fさんのお母さんが、決まってこう言った。
「『今夜は、猫の寄り合いがあるんだよ。大事な話があるから、みんな夕方から出てきて、夜になると、邪魔されないように隠れて、お話してるんだよ』って。」
だから、邪魔しちゃいけないよ。お母さんが何度もそう言っていたことをFさんは思い出したのである。
今日は、この街のどこかで、猫達が寄り合いを開くのかもしれない。猫達の姿に、Fさんはそんなことを考えた。
アルバイトが終わり、家へ向かって、歩きながら、Fさんは夕方に見かけた猫達の姿を探した。
「一匹も見当たりませんでした。だから、ああ、やっぱり、って思ったんですよね」
アパートに帰ったら、実家のお母さんに電話しよう。この街でも、猫は寄り合いを開いてるみたいだよって。きっと、喜んでくれるだろう。そう思いながら、角を曲がったFさんの足が、止まった。
角を曲がった先、アパートへと続く短い通りに差し掛かった瞬間、雲の切れ間から、一瞬、明るい月の光が差し込んだ。その青い月の光に照らされて、道の中ほどに数匹の猫がいるのが見えた。街灯もない暗い道で、月光が差し込まなければ、きっと間近に近づくまで気づくことはなかっただろう。月の光は、またすぐに雲に隠れ、道は闇に隠れ、猫達の姿も見えなくなった。
Fさんは、曲がり角で、躊躇った。アパートには、目の前の道を行けば、1分もかからずに帰り着ける。しかし…
「母が言ってたことを思い出したんですよ」
猫の寄り合いを邪魔しちゃいけない。隠れて、大事な話をしてるのだから。
まさか、と思い、足を前に踏み出しかけたものの、結局、Fさんは思いとどまり、その道を通らず、遠回りをして、帰ることにした。
「母の話を信じてたって訳じゃないんです。猫が集まってるように見えたって言っても、一瞬だけだったし…。見間違いだろうって思いました。見間違いじゃなかったとしても、まさか、ホントに寄り合いをしてるわけでもないだろうし、偶然、何匹か集まってだけだだろうって……。でも…」
本当に猫がいるのなら、どのみち人間が近づけば、追い払ってしまうことになる。そうなると、せっかくのお母さんへの楽しいお土産話に自分で水を差してしまうことになるだろう。遠回りと言っても、どうせ、数分のことでもあるし、それなら…と、Fさんは猫達のの邪魔にならぬようにと、角を曲がらずに、そのまま先へと進み、別の道からアパートに向かった。
不思議なこともあるものだ。これはますますお母さんに電話しなければ…と、急ぎ足でアパートの前に来たFさんは、再度、立ち止まってしまった。
通り過ぎた隣家の前の路上に、郵便ポストがあったことに気づいたのだ。路上に郵便ポストがあるのは何もおかしいことではない。ただし…
「夕方、家を出る時には、ポストなんてなかったんですよ。真っ暗な道だし、違和感もなかったから、危うくそのまま家に入るとこでした」
通り過ぎたものの、違和感を感じ、立ち止まって、振り返ると、やはり郵便ポストらしき影が見えた。
アルバイトに出かけている間に設置されたのだろうか。それにしたって、どうも妙だ。夜間にポストを設置するとも考えにくい。それに、改めて眺めると、街中で目にする機会も少ない円筒型だった。
不審に思って、Fさんが近づこうとした矢先、突然、ポストの影が形を変えた。一回り大きくなり、縦に少し長くなった。おまけに、てっぺんに三角のシルエットが二つ浮かび上がった。
Fさんが、驚くよりも、呆気に取られ、立ちすくんだその時、再び、雲が途切れたのか、月の光が暗い道を照らした。青白い光の下、ポスト——に見えていた影が、ゆっくりと動き、Fさんの方を振り返った。
「でっかい猫、でした。三角のシルエットが耳で…」
大きな丸い目が、月明かりに、きらりと光り、糸のように細くなった。ごろごろと、喉を鳴らす音が聞こえた。
次の瞬間、月に雲が差し掛かったのだろう。再び、辺りが暗くなった。暗闇の中、目を凝らしたFさんの視界から、ポストサイズの猫は消えていた。
訳がわからず、夢でも見たのかと思いながら、アパートに帰ったFさんは、急いで実家に電話した。Fさんの話を聞いたお母さんは、受話器の向こうで笑った。
アンタ、そりゃ、猫の王様だよ。忘れたの?
そう問い返されて、Fさんは、忘れていたお母さんの話の続きを思い出した。
猫が時々姿を消すのは、猫の王様の所に行くからだ。猫が寄り合いで話しているのは、その王様の所へと詣でる旅のことだ。だから、邪魔をしてはいけない。
「アンタが猫の寄り合いを邪魔しなかったから、王様が代わりに御礼に来てくれたんじゃないかい」
ありがたいことじゃないか。わざわざ、ポストに化けてまで、待っててくれたんだから。「母の言うとおり、ありがたいなって思いましたけど…。どうせなら、母にもみせてやりたいなって思いました」
そう語るFさんは、いつも出かける時には、辺りに猫がいないか探すことが習慣になっていると言う。
2012年10月13日土曜日
それでも大好き by やぐちけいこ
いきなりそれは始まった。最初は何が何だか分からないまま泣く事も忘れ呆然とするしかなかった。
なぜ?どうして?自分がいったい何をしたのか。いくら考えても分からない。分からないよ。
鬼のように歪んだ顔の母の手が頭や顔やお腹に降りかかって来る。
だけど知っている。もう少し辛抱すれば収まる。収まってしまえばきっとまた自分に笑ってくれる母に戻ってくれる事を。
虐待。何かの拍子にスイッチが入るようにそれは気まぐれに襲いかかってきた。
またいつものように嵐が過ぎ去るのを待っていたのだけれど今回はちょっと打ち所が悪かったみたいだ。どんどん意識がなくなる。
僕の身体が悲鳴をあげている。同時に母の心も悲鳴をあげているようだった。
何がいけなかったんだろう。
近所の人が警察に通報したのだろう。
僕は病院に運ばれ母は警察に連れて行かれた。
「お前のせいだ。お前がいなければ。お前なんか生まれてこなければ良かったんだ」
何度となく聞かされた言葉。
何度も言われるうちに何も感じなくなってしまった。
そっか。母がそう望んでいるならそれに従おう。そう思ったら気持ちが楽になった。
今度生まれてくる時は望まれて生まれてきたい。「かあさん」最期に思い浮かぶのは母の笑った顔。懐かしいな。それでも大好きだよ。
了
2012年9月22日土曜日
東京NAMAHAGE物語•最終回 by 勇智イソジーン真澄
<行雲流水>
ああ、きれいだな。
なんてきれいなんだろう。
冬に向かう季節の真直ぐな道、その突き当りに見える稜線に湧き立つ雲に向かって走っている。
両脇はビルなどない民家と空き地ばかりの、補修されていないアスファルトのでこぼこ道。
雨上がりの紺碧な無限大のスクリーンに薄墨の青い山並み、真っ白な無数の雲が思い思いの形を成している。
空はこんなにも広くて大きかったのか。
このまま愛車マーチを走らせ続ければ、あの山頂の雲に乗れるだろうか。
あののびやかな雲にたどり着けるだろうか。
秋田県内人口三万二千人ほどの実家のある市に移り住んでからは、いつも下ばかり見ていた。
空を見上げる余裕なんかなかった。
2年前の父の他界へ至るまでの付添は病院で、外の景色の見えない緊急性を要する患者、つまりいつ心臓が止まるか分からない患者用の個室だった。
1年前の母のペースメーカー植え込み術も同病院。
父の亡くなった病院で本当は嫌だったが地元に大きな病院はここしかなく、冴えない気分でお願いした。
術後三か月ほど入院して、母は自宅で生活できるほどに回復し私とふたりの生活が始まった。
先生に命をもらったと執刀医に感謝をしていた母だが、あれから1年永らえて2011年9月16日、享年85歳で旅立ってしまった。
母が腰が痛いと言い始めたのは8月半ば過ぎ。
食が細くなり、時折吐くようになり、貧血気味で横になる時間が多くなっていた。
ちょうどその頃、私も働きはじめたばかりで病院に連れて行くための休みが思うようにとれないでもいた。
仕事のない土曜日に急患として病院に行きもしたが、当直医師の処方は吐き気止め薬だけ。
これでいいのか、と疑問に思いながら、それを口に出せずに帰ってきたこともある。
一向に快方に向かわず、平日の診察も受けた。
症状を伝えたにもかかわらず、医師の判断で定期検診に腹部レントゲンが1枚追加されただけだった。
「この白いのがベンなんですよ」と担当医師が出来上がった写真をみて説明してくれた。
「普通こんな後ろにまでたまらないんだけどなあ。とりあえずベンを出しましょう」と、こんどは下剤の処方だった。
なあんだ、便秘だったのか。
「便秘だってよ」と母をからかって、そう信じて戻ってきてしまった。
いま思えば、いつもなら冗談に付き合う母が、あの時は笑いもしなかった。
母だけは己の身が尋常じゃないとわかっていたんだ。
数日たってもなんだか様子が悪い。
薬を飲んでも良くならない……。
とうとう救急搬送で入院に至った。
病院にいるから安心とほっとした翌日の昼、緊急連絡がきて慌てて病院に向かった。
人工呼吸器が取り付けられ意識のない母が狭い個室に移されていた。
気が付いたら息をしていなかったと看護師さんがいう。
父の時もそうだった。
気が付いたら、と。
いったい気が付いたのがいつなのか、どれ程の時間が経過していたのだろうか。
そこまでに何か変化があったのではないか。
苦しがっていたのではないだろうか……。
入院した翌日に母は逝ってしまった。
担当医師曰く「自分で心臓を止めちゃったんですよね」と。
そして、「眠いので寝かせてもらいます」と立ち去ってしまった。
その時は、信じられない思いと焦心で言葉の意味や死因の疑問や、
何がどうなってどうしてしまったのかなんて考えられなかった。
死ぬほど悪かったの? 一緒にいてそれを見過ごしていたんだ、と自責の念で一杯だった。
なぜ、もっと早くに別の病院でも診察してもらわなかったのだろう。
なぜ強く医師に詳しい診察を願わなかったのだろう。
なぜ、診断能力の高い医師を探さなかったのだろう。
事は重大と思わなかったから母の死期を早めてしまった。
私があの時、私がもっと早く……と後悔ばかりしていた。
急を聞き駆けつけてくれた親族も去り、初七日を終え、本当に一人になって一か月程は家の広さに寂しさを感じ、なにもする気が起きなかった。
布団に入ると、様々な生前の母の言動が思い起こされ浅い眠りの日々が続いた。
あの時のあれが、あの症状が、あんなにもシグナルを点滅させていたのに気付かなかった。
いや、気付かないふりをしていたのかもしれない。
短期雇用ではあるが休んでばかりいられないと、職を手放すのが怖くて診察を先延ばしにしてしまった。
その代償に母を手放すことになってしまったのか。
それならあまりにも大きな代償ではないか。
腰痛と便秘と思い続けたために、母の訴えを真摯に受け止めなかった。
助けを求めていたであろうに応えられなかった、愚かな娘だった。
いったい母のお腹の中でなにが起きていたのか。
後日紐解いた文献によると腹水が溜まっていたようにも思えるし、長期服用していた薬の副作用のようにも思える。
いづれにしても、いまとなっては手遅れだ。
生と死の間際には、もっと生きたいと望んだのではないだろうか。
私が悪いな、悪いのは私なんだ、と悔やんでも悔やみきれない苦悩という名の犬にまとわりつかれていた。
母が逝去して2か月が過ぎ、心の乱れもだいぶ落ち着いてきた。
常々、長患いはしたくない、人の手を煩わせたくないと言っていた母。
自らの衰えた姿を見られたくないとプライドの高かった母。
娘にまで遠慮し泣き言も言わず我慢強かった母。
自分のことより、私たち娘の心配ばかりしていた母。
あなたにだけ難儀をかけるね、と私に気遣いをしていた、かあさん……。
思い起こせば数多くの称賛を残していた。
この最期は母の望むところだったかもしれない。
誰しにも早かれ遅かれ、いつかは終わりが来る。
己のために娘に看病の重荷を背負わせたくないと、苦しみを最小限にとどめたに過ぎない。
まことにあっぱれな終焉だ。
つつがない人生を生きて、見事に雲散したのだ。
母らしい締めくくりだ。
見上げてみれば、父と母が居を構えた天空がある。
その天空の屋根の下に、34年前の新築当時には吉田御殿と呼ばれたことのある、自慢の木造家屋を残してくれた。
そうして私は一国一城の主になった。
これから先、ここが終の棲家になるのだろう。
両親が描いた人生は、子供に家を残すことだった。
彼らはそれを全うした。
私が思い描いた人生はどんなことだろう? 両親の宝だったこの城を守っていくことだろうか。
空行く雲や流れる水のように、自然の成り行きに任せて生きていければ、いつか答えが見つかるだろう。
二人の偉大さは、この空に似ている。
いつも私の上にあり、どこからか優しく見つめていてくれる。
いままでも、そしてこれからも。
悲しくなんかない、淋しくなんかない。
そう言い聞かせながら、次の十字路で右折した。
ああ、きれいだな。
なんてきれいなんだろう。
冬に向かう季節の真直ぐな道、その突き当りに見える稜線に湧き立つ雲に向かって走っている。
両脇はビルなどない民家と空き地ばかりの、補修されていないアスファルトのでこぼこ道。
雨上がりの紺碧な無限大のスクリーンに薄墨の青い山並み、真っ白な無数の雲が思い思いの形を成している。
空はこんなにも広くて大きかったのか。
このまま愛車マーチを走らせ続ければ、あの山頂の雲に乗れるだろうか。
あののびやかな雲にたどり着けるだろうか。
秋田県内人口三万二千人ほどの実家のある市に移り住んでからは、いつも下ばかり見ていた。
空を見上げる余裕なんかなかった。
2年前の父の他界へ至るまでの付添は病院で、外の景色の見えない緊急性を要する患者、つまりいつ心臓が止まるか分からない患者用の個室だった。
1年前の母のペースメーカー植え込み術も同病院。
父の亡くなった病院で本当は嫌だったが地元に大きな病院はここしかなく、冴えない気分でお願いした。
術後三か月ほど入院して、母は自宅で生活できるほどに回復し私とふたりの生活が始まった。
先生に命をもらったと執刀医に感謝をしていた母だが、あれから1年永らえて2011年9月16日、享年85歳で旅立ってしまった。
母が腰が痛いと言い始めたのは8月半ば過ぎ。
食が細くなり、時折吐くようになり、貧血気味で横になる時間が多くなっていた。
ちょうどその頃、私も働きはじめたばかりで病院に連れて行くための休みが思うようにとれないでもいた。
仕事のない土曜日に急患として病院に行きもしたが、当直医師の処方は吐き気止め薬だけ。
これでいいのか、と疑問に思いながら、それを口に出せずに帰ってきたこともある。
一向に快方に向かわず、平日の診察も受けた。
症状を伝えたにもかかわらず、医師の判断で定期検診に腹部レントゲンが1枚追加されただけだった。
「この白いのがベンなんですよ」と担当医師が出来上がった写真をみて説明してくれた。
「普通こんな後ろにまでたまらないんだけどなあ。とりあえずベンを出しましょう」と、こんどは下剤の処方だった。
なあんだ、便秘だったのか。
「便秘だってよ」と母をからかって、そう信じて戻ってきてしまった。
いま思えば、いつもなら冗談に付き合う母が、あの時は笑いもしなかった。
母だけは己の身が尋常じゃないとわかっていたんだ。
数日たってもなんだか様子が悪い。
薬を飲んでも良くならない……。
とうとう救急搬送で入院に至った。
病院にいるから安心とほっとした翌日の昼、緊急連絡がきて慌てて病院に向かった。
人工呼吸器が取り付けられ意識のない母が狭い個室に移されていた。
気が付いたら息をしていなかったと看護師さんがいう。
父の時もそうだった。
気が付いたら、と。
いったい気が付いたのがいつなのか、どれ程の時間が経過していたのだろうか。
そこまでに何か変化があったのではないか。
苦しがっていたのではないだろうか……。
入院した翌日に母は逝ってしまった。
担当医師曰く「自分で心臓を止めちゃったんですよね」と。
そして、「眠いので寝かせてもらいます」と立ち去ってしまった。
その時は、信じられない思いと焦心で言葉の意味や死因の疑問や、
何がどうなってどうしてしまったのかなんて考えられなかった。
死ぬほど悪かったの? 一緒にいてそれを見過ごしていたんだ、と自責の念で一杯だった。
なぜ、もっと早くに別の病院でも診察してもらわなかったのだろう。
なぜ強く医師に詳しい診察を願わなかったのだろう。
なぜ、診断能力の高い医師を探さなかったのだろう。
事は重大と思わなかったから母の死期を早めてしまった。
私があの時、私がもっと早く……と後悔ばかりしていた。
急を聞き駆けつけてくれた親族も去り、初七日を終え、本当に一人になって一か月程は家の広さに寂しさを感じ、なにもする気が起きなかった。
布団に入ると、様々な生前の母の言動が思い起こされ浅い眠りの日々が続いた。
あの時のあれが、あの症状が、あんなにもシグナルを点滅させていたのに気付かなかった。
いや、気付かないふりをしていたのかもしれない。
短期雇用ではあるが休んでばかりいられないと、職を手放すのが怖くて診察を先延ばしにしてしまった。
その代償に母を手放すことになってしまったのか。
それならあまりにも大きな代償ではないか。
腰痛と便秘と思い続けたために、母の訴えを真摯に受け止めなかった。
助けを求めていたであろうに応えられなかった、愚かな娘だった。
いったい母のお腹の中でなにが起きていたのか。
後日紐解いた文献によると腹水が溜まっていたようにも思えるし、長期服用していた薬の副作用のようにも思える。
いづれにしても、いまとなっては手遅れだ。
生と死の間際には、もっと生きたいと望んだのではないだろうか。
私が悪いな、悪いのは私なんだ、と悔やんでも悔やみきれない苦悩という名の犬にまとわりつかれていた。
母が逝去して2か月が過ぎ、心の乱れもだいぶ落ち着いてきた。
常々、長患いはしたくない、人の手を煩わせたくないと言っていた母。
自らの衰えた姿を見られたくないとプライドの高かった母。
娘にまで遠慮し泣き言も言わず我慢強かった母。
自分のことより、私たち娘の心配ばかりしていた母。
あなたにだけ難儀をかけるね、と私に気遣いをしていた、かあさん……。
思い起こせば数多くの称賛を残していた。
この最期は母の望むところだったかもしれない。
誰しにも早かれ遅かれ、いつかは終わりが来る。
己のために娘に看病の重荷を背負わせたくないと、苦しみを最小限にとどめたに過ぎない。
まことにあっぱれな終焉だ。
つつがない人生を生きて、見事に雲散したのだ。
母らしい締めくくりだ。
見上げてみれば、父と母が居を構えた天空がある。
その天空の屋根の下に、34年前の新築当時には吉田御殿と呼ばれたことのある、自慢の木造家屋を残してくれた。
そうして私は一国一城の主になった。
これから先、ここが終の棲家になるのだろう。
両親が描いた人生は、子供に家を残すことだった。
彼らはそれを全うした。
私が思い描いた人生はどんなことだろう? 両親の宝だったこの城を守っていくことだろうか。
空行く雲や流れる水のように、自然の成り行きに任せて生きていければ、いつか答えが見つかるだろう。
二人の偉大さは、この空に似ている。
いつも私の上にあり、どこからか優しく見つめていてくれる。
いままでも、そしてこれからも。
悲しくなんかない、淋しくなんかない。
そう言い聞かせながら、次の十字路で右折した。
2012年9月15日土曜日
東京NAMAHAGE物語•12 by 勇智イソジーン真澄
<こんな夢を…>
ああ、消えた意識の中で夢を見ていた。
束の間の酔いの眠りだった。
するべきことを終えた二人はベッドに横になっていた。
くの字になった背中に、くの字のお腹がくっついている。
その下の尻には突起物が触れている。
興奮から冷めた無防備なものは柔らかいゴム製のおしゃぶりのようで気持ちいい。
後ろ手に触ってみる。
大きくならなくても硬くなくてもいい、私はこの手触りが好き。
子供の頃、母の二の腕や耳たぶをいじりながら寝たことを思い出す。
柔らかい温もりはなんて気持ちのいいものだろう。
肌と肌の触れ合いがこんなにも安らぐものだなんて。
私は温もりが欲しいのだ。
やさしさに飢えているのだ。
あ〜いいな、気持ちいいな。
夫でも彼でもない誰かの腕枕から寝返りをうとうとした。
背中が痛い。
戻りつつある意識がまぶたを押し上げた。
はめ込みの照明器具が目に入る。
見覚えのない景色。
どこ? あたりを見回してみて気がついた。
ここはレストランのトイレだ。
私はドアの前で床に仰向けに寝ていた、いや倒れていたのだ。
はっとして起き上がり、めくれたスカートを直す。
さっき小用を済ませた後に目眩がした。
個室の便座に座ったまま少し休んでから手洗い場に出て、手を洗った。
そこまでは良かった。
そこまでの記憶はあった。
しかしドアを開けようとしてその場で失神してしまったようだ。
どのくらいの時間だったのだろうか。
倒れている間に誰も入って来なかったのだから、たぶん一瞬のことだったのだろう。
もしドアを開けて人が倒れていたとなったら大騒ぎになるところだった。
フロアに出たらトイレに向かう女性とすれ違った。
危機一髪、発見されなくて良かった。
うねる海原を歩いているように、ふわふわと席を目指した。
実際海の上なんか歩いたことはないけど、歩けたとしたらウオーターベッドを踏んだ
こんな感じなのではないかと思う。
モーゼなら自ずと道を切り開くのだろうが、私はただ酔いの波に身を任せていた。
途中、再び立ちくらみがして、落下するジェットコースターのようにスーッとしゃがみこんでしまった。
お客様大丈夫ですか、と店員が来て支えてくれた。
席に戻ると、いらいらした友人がいた。
灰皿に長いまま何本も潰された煙草の吸殻が彼女の気分を物語っている。
蒼白な顔色の私をみても「なにしてたの」と身体を気遣うでもない。
それを無視して、いまね、と倒れたことを話そうとすると「帰ろう」と、聞く気のない返事ともつかない言葉が飛び出してきた。
後悔が沸いてくる。
来なければ良かった。
微熱があるのを押してきたのに来るんじゃなかった。
熱っぽいからキンキンに冷やした白ワインを頼んだ。
からからの咽喉に琥珀色の液体が染み渡る。
レ・カイユレのシャルドネは美味しい。
いい気になってごくごく飲んだ。
二人で一本だから大した量じゃなかったはずだ。
なのに今日に限って体調が崩れた。
無理をして出てきたから具合が悪くなったのだ。
成り立たない会話、すれ違う心はいつからか生まれていた。
たまに食事をしたり旅に出たり、たわいない話をして楽しんでいたのはいつ頃までのことだったろう。
そうか、彼女に恋人ができた時期までだ。
仲良しだった二人の関係も、異性の登場で変わってしまった。
独身者同士フットワーク軽く、気楽に食事や旅行を楽しんでいた。
互いに彼がいなくても十分日々を満喫していた時期もあった。
しかし彼女に相手ができたあたりから、この関係が崩れた。
恋した女性に生じる、なによりも彼氏優先、が彼女にも襲ってきた。
仕事の悩みや今後の暮らし方などを相談したくても、聞く耳が面倒くさがっている。
私の話など、取るに足りないことなのだ。
俗に言う、二人でいることの寂しさってこういうことなのだろうか。
友人でも、恋人でも夫婦でも、興味の対象が変わってしまうと会話が少なくなる。
言葉にならない言葉が胸に残り、重い石が詰まった感じだ。
それなのに、大事な日に誘う相手のいない私は、性懲りも無く彼女に声をかけた。
根っから冷たいわけではない彼女は、かわいそうに思って付き合ってくれた。
ただし、あとで彼の家に行くから長い時間は無理ね、と。
はいはい、わかったわよ! どうせ私より彼が大事なのは。
他愛も無い話をして美味しい食事にワインを楽しむだけの、心を許せる相手がいなくなった。
身内にも見放された気分だ。
「遅咲きの恋は先が短いから激しいのよ」という恋路を邪魔する気はさらさらない。
長い間待っていた恋なのだから、大輪の花になって欲しい。
応援もしているが、少し嫉妬心もあるのが本心だ。
嫁ぐ子供の親になった悲しさみたいだ。
そろそろ私も本気になって相手を探さなければ。
くだらない話を一緒に楽しめ、苦にならないのは異性の存在だ。
互いを許しあえ尊重できるのは、たぶん三年くらいだろう。
早く誰かを捕まえなければ、その三年もまっとうできるかどうかわからない年になる。
やばいぞ。
彼女と別れ、レストランに程近い天現寺交差点からタクシーに乗った。
失神した時に打った後頭部が、ずきずき痛み始めた。
髪の毛をかき分け、左手で触ってみたら小石くらいの硬いこぶになっていた。
夢の中でだけで安らげた、冴えない誕生日だった。
2012年9月8日土曜日
日本人が知らない韓国の常識12「初恋」違い~by 御美子
韓国映画『建築学概論』のポスター。
キャッチフレーズは
「私たちは皆誰かの初恋だった」
|
「初デートの場所はどこでしたか?」の質問に「チャングムの誓い」の主人公のような物腰のギョンヒさんがいつものようにおっとりと
「私の初恋は、勿論今の夫ではなく~・・・」
と話し始めたので
「いえいえ、そりゃそうでしょうけど初恋ではなく、初めてデートした人と行った場所ですよ」
と言った途端、主婦の皆さんの目が一斉に私に向けられたので
「えっ?私、今何か間違ったこと言いました?」
と、こちらの方が逆に驚いてしまった。
韓国に住み始めて5年目にして初めて「初恋」が「初めて付き合った人」だと知った瞬間だった。
同時に、改めて思い出した2つのエピソードがある。
私が日本語を教え始めてから出会った韓国人の中で、ベスト3に入る努力家のジンソプさん(男性)の初恋は、大学卒業後の兵役時代だったと聞いていた。
初恋にしては随分遅いなあとは思ったものの、小学校から家の農作業を手伝わされたり、大学でも講義以外は図書館に篭っていたそうだから、よほど奥手だったのだろうと勝手に納得していた。
時々「私の初恋は今でも鎮海(チンへ)に居るんです」
と遠い目をして言うので
「『初恋』じゃなくて『初恋の人』ですよ」
と何度訂正しても直らないままだった。
6月から個人授業が始まった製薬会社のイ副会長さんは、今年で60歳の誕生日を迎えられるが、24歳で結婚したとき3歳年下の奥様と
「お互い初恋ですね」という合意の下で結婚したそうだ。
副会長さんご本人の口から
「大学時代に何人かの女性に好意を寄せていた」
と聞いていたのもあり、よくもまあ、そんなバレバレな嘘が言えるものだなあ、と半ば呆れていた。
しかし「初恋」が「初めて付き合った人」なら、二人のエピソードが韓国では特例とは言えない訳だ。
更にこの理論を持ってすると、初恋までに幾多の失恋経験があったとしてもカウントされないというのも韓国人らしい。
個人的には「恋人」が韓国語では「愛人」「サービス満点の店」が「多情な店」に匹敵するくらいの衝撃だった。
2012年9月1日土曜日
暁焰の怪異万華鏡3 by 暁焰
<不思議の箱>
子どもの頃、秋の祭になると、近くの商店街に屋台が立ち並んだ。
ある年、まだ幼かった弟を連れて、雑踏の中を二人歩いていると、通りの中程にある小さな公園に見世物小屋が出ていた。
この見世物小屋は、毎年、祭になるとやってきていたのだが、出し物はいつも同じ。
それも、作り物としか思えないちゃちな木乃伊、二人羽織に少し毛が生えたようなろくろ首など、一目で子供騙しのぺてんと見破れるようなものばかりだったので、幼い頃はともかく、少し長じてからは興味をそそられることも無くなっていたのだが、まだ幼かった弟が仕切りに見たがった。
仕方なく、二人分の木戸銭を払って中に入ったのだが、子供騙しのぺてんも、弟にとってはそれなりに珍しかったようで、一つ一つの出し物に他愛もなく喜んでいた。
ひとしきり小屋の中を廻り、外に出ようとすると、出口のすぐ脇にも、出し物らしきものがあつらえてあった。
見ると、黒い衣装と仮面を身に着けた手品師のような人物が、前に小さな箱が乗ったテーブルを置き、その後ろに控えるようにして立っている。
弟と二人、立ち止まり、一体何の出し物かと伺うと、テーブルの後ろの黒ずくめの男——顔が隠れていたので、実際は性別などわからなかったのだが——が、おもむろに片手で卓上の箱を、もう片手で頭上の看板を指差す。
見上げると、看板には「不思議の小箱。見えるか見えぬか、覗いて御覧」の文字。
箱に目を移すと、確かに小さな覗き筒のようなものが箱の横から突き出ていて、どうやら看板に謳われている不思議の小箱とはこれのことらしい、とわかった。
筒を指差し、ここから覗くのかと問うと、男がうなづいたので、まず弟に先に覗かせてやると、何が見えたのか、声を上げながら熱心に覗いている。
少し興味を引かれ、交代して覗き込んで見たのだが、幾ら目を凝らしてみても、目に映るのは真っ暗な闇ばかり。
顔を上げ、何も見えない、と言うと、男はもう一度先のように頭上の看板を指差す。
書かれた文句を再度読んで、なるほど、何かからくりがあって、見えたり見えなかったりするのが売り物なのだ、と合点が行った。
おそらく、見える見えないのからくりは、男が操っているのだろうと思い、見せて欲しいと頼んだのだが、男は答えず、看板を指差すばかり。
どうでも、見せる気はないらしい、とあきらめ、そのまま弟の手を引いて、外に出、家路に着くことにした。
公園から再び通りへと戻るように歩くすがら、箱の中に何が見えたのか、と弟に聞くと、何も見えなかった、と意外な返事が返ってきた。
ならば、なぜずっと覗き込んでいたのか、と重ねて問うと、箱の中には何も見えなかったが、覗き込んでいる間、閉じているもう片方の目の裏に、おかしなものが幾つも浮かんで、不思議だった、と答えるのを聞いて、ひどく驚いた。
振り返ってみたが、出てきたばかりの出口は、遠目からは薄暗いばかりで、何の気配も伺えない。
翌年より後も、弟を連れて何度か見世物小屋に入ったが、不思議の小箱も、手品師のような男も、その年に見たきりで、二度と見る事は無かった。
子どもの頃、秋の祭になると、近くの商店街に屋台が立ち並んだ。
ある年、まだ幼かった弟を連れて、雑踏の中を二人歩いていると、通りの中程にある小さな公園に見世物小屋が出ていた。
この見世物小屋は、毎年、祭になるとやってきていたのだが、出し物はいつも同じ。
それも、作り物としか思えないちゃちな木乃伊、二人羽織に少し毛が生えたようなろくろ首など、一目で子供騙しのぺてんと見破れるようなものばかりだったので、幼い頃はともかく、少し長じてからは興味をそそられることも無くなっていたのだが、まだ幼かった弟が仕切りに見たがった。
仕方なく、二人分の木戸銭を払って中に入ったのだが、子供騙しのぺてんも、弟にとってはそれなりに珍しかったようで、一つ一つの出し物に他愛もなく喜んでいた。
ひとしきり小屋の中を廻り、外に出ようとすると、出口のすぐ脇にも、出し物らしきものがあつらえてあった。
見ると、黒い衣装と仮面を身に着けた手品師のような人物が、前に小さな箱が乗ったテーブルを置き、その後ろに控えるようにして立っている。
弟と二人、立ち止まり、一体何の出し物かと伺うと、テーブルの後ろの黒ずくめの男——顔が隠れていたので、実際は性別などわからなかったのだが——が、おもむろに片手で卓上の箱を、もう片手で頭上の看板を指差す。
見上げると、看板には「不思議の小箱。見えるか見えぬか、覗いて御覧」の文字。
箱に目を移すと、確かに小さな覗き筒のようなものが箱の横から突き出ていて、どうやら看板に謳われている不思議の小箱とはこれのことらしい、とわかった。
筒を指差し、ここから覗くのかと問うと、男がうなづいたので、まず弟に先に覗かせてやると、何が見えたのか、声を上げながら熱心に覗いている。
少し興味を引かれ、交代して覗き込んで見たのだが、幾ら目を凝らしてみても、目に映るのは真っ暗な闇ばかり。
顔を上げ、何も見えない、と言うと、男はもう一度先のように頭上の看板を指差す。
書かれた文句を再度読んで、なるほど、何かからくりがあって、見えたり見えなかったりするのが売り物なのだ、と合点が行った。
おそらく、見える見えないのからくりは、男が操っているのだろうと思い、見せて欲しいと頼んだのだが、男は答えず、看板を指差すばかり。
どうでも、見せる気はないらしい、とあきらめ、そのまま弟の手を引いて、外に出、家路に着くことにした。
公園から再び通りへと戻るように歩くすがら、箱の中に何が見えたのか、と弟に聞くと、何も見えなかった、と意外な返事が返ってきた。
ならば、なぜずっと覗き込んでいたのか、と重ねて問うと、箱の中には何も見えなかったが、覗き込んでいる間、閉じているもう片方の目の裏に、おかしなものが幾つも浮かんで、不思議だった、と答えるのを聞いて、ひどく驚いた。
振り返ってみたが、出てきたばかりの出口は、遠目からは薄暗いばかりで、何の気配も伺えない。
翌年より後も、弟を連れて何度か見世物小屋に入ったが、不思議の小箱も、手品師のような男も、その年に見たきりで、二度と見る事は無かった。
2012年8月25日土曜日
暁焰の怪異万華鏡2 by 暁焰
<ベンチ>
Yさんが大学生の頃の話である。 進学することになったのは、隣の県にある国立大学で、自宅から通うには少し時間がかかる。そのために、Yさんは自宅を離れ、大学近くの街でアパートを借り、一人暮らしをすることになった。 実家を離れるのは、生まれて始めてのことで、見知らぬ街での生活に、最初は戸惑いはしたものの、活発で明るい性格のYさんは、すぐに大学での生活に馴染み、サークルにも加入して、友人もできた。 一学期目が終わる頃、やはりサークル活動を通して、恋人が出来た。相手は、同じサークルの一つ上の先輩であり、Yさんも少なからず好意を抱いていたので、告白されて、すぐに付き合うことになった。 最初は学校で一緒に時間を過ごしているだけだったが、そのうちに、休日、どこかにデートに出かけよう、と誘われた。繁華街のある隣町で、食事をして、映画を見て…と、プランを立てていることを、仲の良い友人に話すと、友人は自分のことのように喜んでくれたものの、一つだけ、不思議な忠告をしてくれた。 「S公園あるでしょ?あそこ、恋人同士では行かないほうがいいらしいよ?特に、夕方とか、夜とかは」 S公園はデートをする予定の隣街にある市民公園で、海が見えることから、デートで訪れるカップルも多いと、Yさんは聞いていた。どうして、行かないほうがいいのかを尋ねても、友人も理由までは知らないようだった。 「うーん、なんでかはわからないんだけど…。行かない方がいいんだって。あれじゃない?ほら、恋人同士で行くと、別れる、とかそんなジンクスっぽいの」 理由まではわからなかったものの、とりあえず、自分のことを心配しての言葉でもあり、Yさんは、そっか、じゃ、気をつける、と返事を返しておいた。 デート当日の日曜日、彼が選んでくれていたお店でランチを食べた後、Yさんが見たかった映画を見た。映画館を出たのが午後3時半頃。そこから、近くの喫茶店に入り、夕方になるまで、二人で他愛もない話をして過ごした。 日が傾きかけた頃に、彼の方から、この後、帰る前に、店を出て、少し歩かないかと、誘われた。ぶらぶらと手を繋いで歩いているうちに、彼の足取りがS公園の方に向いていることに気が付き、Yさんは友人の言葉を思い出した。 とはいえ、初デートで、確たる理由もない話を持ち出して、雰囲気が壊れるもいやだったし、何より、彼ともう少し一緒にいたい気持ちが強かったので、結局、彼の手に引かれるようにしてS公園に入った。公園内を歩くと、自分達の他にもちらほらと恋人同士らしい男女の姿があり、Yさんは安心した。 初夏の夕暮れ時が迫り、徐々に茜色が濃くなっていくのを感じながら、歩くうちに、二人は小高い丘の上にある遊歩道に出た。そこからは、海が良く見えたため、遊歩道沿いに置かれていたベンチに二人で、並んで座った。ベンチのすぐ後ろには大きな木が立っていて大降りの枝が張り出している。これなら真夏でも、木陰が心地よいだろう、と思えた。ベンチに座り、きれいだね、などといいながら、夕日が海に消えていく光景を見ているうちに、隣に座った彼の挙動が、少しおかしいことに気がついた。 最初、ベンチの背にもたれていたのだが、時折、頭の後ろに手をやり、背後を振り返るような仕草をする。何度か、そんな仕草をした後に、ベンチから背を離して、膝の上で組んだ手に顎を乗せた姿勢を取った。それでも、背後が気になるのか、時折、後ろを振り返っている。 つられてYさんも彼の視線を追ってみるのだが、背後には木が立っているだけで、他に何もない。 さすがに気になったYさんが、どうしたの?後ろに何かあるの?と問いかけたところ、彼は困ったような、戸惑った表情を浮かべて、答えた。 「いや…。気のせいだとは思うんだけど…。最初は、何かが頭に当たってるみたいな感じがしてさ…。こつこつって、硬いものでつつかれてるような…。もたれないようにしたら、当たらなくなったんだけど…そしたら、今度は」 背後で、何かがきしむような音が聞こえた、と彼は言った。 「なんか…ギシギシって。気にしなきゃいいんだろうけど、木に何かが当たって、擦れてるのかな…とかって思ってさ」 それで、幾度も木の方を見上げていたのだと言う。 「ふーん、そうだったの。でも…」 そんな音は聞こえなかったけどな、風で木の葉が擦れたとかじゃない?と、Yさんが言うと、彼の方も、きっと、そうだよね、初デートなのに、変なこと言って、ごめん、としきりに謝ってくれた。 気にしないで、と笑顔で応じながらも、彼の言葉が気になり、もう一度、彼の視線が向けられていた方へと目を向けた瞬間、Yさんは思わず小さな悲鳴を上げた。 背後に立つ木から、ベンチの丁度上の方に突き出した大降りの枝。その根元に黒い、小さな人の姿をしたものが座っていた。残照が葉の一枚一枚までも、赤く染める光景の中、その黒い小さな人影が、すっと、左手をYさんに向かって差し出した。影の左手には擦り切れた縄が握られ、その先端は輪になって、小さく揺れていた。 「どうか、した?」 気がつくと彼氏が、不審な表情でYさんを覗き込んでいた。 「あ、あれ…」 と震えながら、自分が見たものの方を指差すと、そこにはもう何も見えず、彼氏も訝しげな顔をするだけだった。結局、Yさんは、ちょっと気分が悪くて…とごまかして、その場をそそくさと後にした。 自分の見たものがなんだったのか、どうしても気になったYさんは、後日、別の友人にS公園にデートに行ってはいけない理由を知らないか、と尋ねてみた。地元出身のその友人は次のように教えてくれた。 「恋人同士で行くのがいけないんじゃなくて……ホントはね、暗くなり始めたら、丘のベンチに座っちゃいけないって話なの。『出る』…っていうか、よく『出た』んだって、そこ。で……そのベンチって、すごく景色がいいから、カップルが座ることが多くて。でも…それって、私達のお母さんとかが学生の頃の話らしくて…。最近は、『出た』とか、そんな話聞かないから……だから……なのかな。恋人同士で行っちゃダメ、みたいな話だけが残ってるみたい」 驚くと同時に、納得したYさんの前で、友人は続けた。 「昔…その『出た』って話があった頃だけど……。ベンチに座ると、木に近い方に座った人の頭に何かが当たるんだって。で、振り返って、見たら、首を吊った男の人がぶらさがってて……。頭に当たってたのは、その男の人の靴の先だったって……。前は本当に、よくそこで首を吊った人がいたって、お母さんが言ってたけど…ね」 唖然としたYさんは、自分の経験を話したが、友人は、そんな話は聞いたことがない、と首を横に振った。 他にも、何人かに話を聞いたが、結局Yさんは自分が見たものがなんだったのか、未だにわからない。ただし、その後、YさんがS公園に行くことはなかった。彼氏との交際はその後も順調に続いて、大学卒業後数年で、結婚することになった。 「最初、友達が言ってたみたいな破局のジンクスではなかったらしいですけど」 それでも、なんであれ、あんなものは二度と見たくない、とYさんは、語っていた。
2012年8月18日土曜日
暁焰の怪異万華鏡1 by 暁焰
友人のTさん夫妻から聞いた話である。
Tさんの家庭では、ネットでの海外TV番組配信サービスに加入している。夫婦揃って、日本のTV番組よりも、海外の番組、特にアクションドラマが好きなためだ。PCで受信した映像を、ケーブルで繋いだテレビに映しているのだという。
その日は、休日で、夕食を終えた後、ソファに並んで座り、お気に入りのタイトルを視聴していた。
番組は、一人の刑事を主人公にしたクライムアクションで、何話分かのエピソードを見ているうちに、深夜近くになった。もう一話見て、終わりにしよう、と話して、見始めたエピソードは、幼い子供を含めた一家が惨殺される、という内容だった。
ドラマのストーリーが終わりに近づき、犯行がどのように行われたか、犯人が回想するシーンがモノクロの映像で流れ始めた。両親が銃で撃たれ、子供達も順番に撃ち殺されていく。最後に残った赤ん坊に向かって、まさに引き金が引かれようとした瞬間、映像が止まった。
テレビのネット配信では、途中で映像が止まることは珍しいことではない。放っておけばすぐに映像データが読み込まれて、動き始めることが殆どだし、どうしても動かなければ、ページをリロードしたり、最悪PCを再起動すれば、続きの映像が流れる。だから、この時もTさんは最初は何とも思わず、しばらく待っても映像が流れる気配がないために、PCやネットをいじり始めた。
異変に気付いたのは、その直後からだった。
再度、流れ始めたドラマは、止まっていた場面からほんの少しだけ撒き戻った場面から始まった。子ども部屋に踏み込む犯人、あどけない赤ん坊の寝顔、向けられる銃口、そして、引き金が引かれようとする。
何度、ページをリロードしても、一度、ブラウザを落として立ち上げなおしても、その短い15秒ほどのシーンだけが繰り返し、繰り返し、流れる。
ドラマとは言え、場面が場面だけに、余り気分のよいものではない。配信されている番組の中から、別のものを選んで、視聴しようとしても、やはり同じシーンが流れ続けている。
TさんがPCやネットの設定を調べても、異常は見当たらず、結局配信サービス会社のサーバーか、プロバイダ側に何か問題があるのだろう、と結論づけた。時刻も遅かったので、次の日に、双方のカスタマーサービスにでも電話しよう、とPCの電源を落とした。
「ちょっと!早く、電源切ってよ!」
TVの画面ではなく、PCのモニターを見ながら終了させていたTさんに奥さんが少し怒った調子で声をかけた。その言葉に少しむっとして「もう切ってる」と言いかけながら、顔を上げたTさんは目を疑った。
PCの電源が落ちているにも関わらず、やはりテレビに同じ映像が流れ続けているのだ。子供部屋に踏み込む犯人、あどけない赤ん坊の寝顔、銃口が向けられ、引き金が…。
「な、なんだ…これ…」
思わず息を呑んだTさんが、テレビのリモコンに手を伸ばし、テレビの電源をオフにしようとしても、なぜか作動せず、同じ映像が流れ続ける。リモコンではなく、テレビ側の主電源スイッチをオフにしても、映像は途切れない。
「なんなの!どうなってるの!」
背後で上がった奥さんの声を聞きながら、Tさんは慌ててテレビのコンセントを引き抜いた。
ぷつり、と映像が途切れて、リビングにようやっと静寂が訪れた。夫婦二人で、顔を見合わせた瞬間、ベランダの方から音が聞こえた。
ガラスのサッシが微かに揺れている。風で揺れているというよりは、何かが押しているように聞こえた。
立ち上がって、サッシを隠しているカーテンを開けたTさんは、思わず声をあげそうになった。サッシにはめ込まれたガラス一面に、無数の小さな手形が付いていた。丁度、赤ん坊の手のような。
次の瞬間、ごうっと音を立てて、強い風が吹き、サッシが音を立てて揺れた。同時に、背後にいる奥さんが悲鳴を上げるのが聞こえた。ガラスに付いた手形を見てしまったのかと思いながら、Tさんが振り返ると、奥さんは何も映っていない真っ暗なTVの画面を血の気の引いた顔で見つめていた。
強い風が吹きぬけた一瞬、テレビが着き、映像が映った。白い背景の中に、赤い服を着た女が口を開けて笑っていた。スピーカーからは、げらげらと大声で笑う声が聞こえた。女性のものとは到底思えないような太い声の背後には、たくさんの赤ん坊の泣き声が響いていた、と今にも倒れそうな様子で、声を震わせながら、奥さんは語った。
震える奥さんをなだめ、落ち着かせてから、恐る恐る、Tさんがカーテンを開けても、窓にはもう何も見えなかった見えなかった。
Tさんは、風の音しか聞いていない。逆に、奥さんは、Tさんが見たという窓に付いた手形は見ていない。
わからないんですよねえ、とこの話を語り終えたTさんは首を傾げていた。
「赤ん坊の幽霊が何かを訴えにきたとかって話だけなら、まだ、なんとなく分るんですけどね」
奥さんが見たものと、笑い声がわからない。自分としては、そっちの存在の方が怖い気がする。それでも、
「カミさんが見たもんは女性にしか見えないんじゃないかって。そんな気がするんですよ」
ただの勘ですけどね、とTさんは語っていた。
2012年8月11日土曜日
東京NAMAHAGE物語•11 by 勇智イソジーン真澄
<風樹の嘆>
ああ、あまりにも突然ではないか。
誕生日の2日前にその報せはきた。
最近の連絡手段は携帯やメールが主で、固定電話にかかってくるのは家族か親戚、そして胡散臭い勧誘の
ためにあるくらいで活躍の場が少なくなっていた。
その電話が、うす暗くなった窓外に街灯がつき、カーテンを引き始めた刻に鳴った。
2月8日のことだった。
受話器から、徒歩5分ほどの距離に住んでいる姉の声が聞こえてきた。
「とうさんが倒れて病院にいるんだって。かあさんが動転してて、かわりに先生がかけてきた。
心臓大動脈瘤破裂で、すぐに手術をすれば助かる可能性もあるって……」
思いがけない電話の内容に、目の前のすべての時と色をなくした。
耳にあてた受話器を持つ手に力が入り、押し付けられた耳に痛さを伴った。
「しなければ助からないということ?」
歩いていた道の途中でマンホールを踏み、突然、蓋がはずれて暗闇に落ちていくような恐怖に襲われた。
「手術をするには家族の同意が必要で、かあさんは私たちに聞かないとわからないと言ってるからって」
足先から徐々に虫が這い上ってくるような、ざわざわとした震えがきた。
「手術、お願いしたからね」
「うん……」
「朝一の新幹線に乗るから準備しといて。喪服持って行ったほうがいいよね、一応」
「……」
「職場の人に連絡しなさいよ」
互いの最寄り駅、恵比寿駅で待ち合わせることにして電話を切った。
三つ違いの姉は長女らしく、しっかりとてきぱきしている。
動揺してはいるのだろうが、感情を露わにしないのは昔からだ。
喪服。
その言葉を聞いたらどっと悲しくなった。
父が死んでしまうかもしれないという現実が涙になった。
震えは全身に回り、軽いめまいを覚え立っているのもおぼつかない。
カバンに詰める荷物など考えられず、しばらく茫然としていた。
そういえば、正月に晩酌をした後ゴロゴロ横になっていたのは飲みすぎたせいではなかったのだ。
なにか不調だったのだろう。
それを気にもかけず、酔っぱらって、じゃまだと言わんばかりに「布団で寝たら」と冷たく言ってしまった。
父は自然治癒派で、通院したのは歯医者と化膿させすぎた水虫の治療くらいだった。
きっとあの時も息苦しく、具合が悪いのに我慢していたのだろう。
そういえば、電話口ではいつも「とうさんは元気だよ」と言っていたのに、いつかは
「とうさん最近、足が悪くなって」と弱音を吐かれた。
それなのに私は「無理しないでよ」と言ったきりで親身になることはなかった。
今にしてみると、そういえば、そういえばと思い当たる節は他にもたくさんある。
あれもこれもと回想し、発信していた危険信号に気付かなかったことを後悔ばかりして、
横にはなってみても眠りは浅かった。
秋田新幹線こまちは都会の街並みを置きざりにし、いくつものトンネルを抜けながら明と暗を繰り返す。
まるで妄想のトンネル。
最悪と最良のはざまを揺り動かし、それぞれの行く末を脳裏に浮かばせては消し去っていく。
また景色が途切れ、黒くなった窓ガラスが鏡のようにクマの浮き出た不安顔の自分を映しだす。
線路の脇に白い綿帽子をかぶった田畑が増え、山は遠くに水墨画の世界を作り出す。
民家がまばらに見えはじめてきた。
そろそろ終点の目的地、秋田。
駅からタクシーに乗り、昼少し前に入院先の病院に着いた。
雪道でスピードの出せない運転に、車中で気ばかりが焦った。
曲がりくねった長い廊下を急ぎ足でエレベーターに向かう。
3階、心臓血管外科病棟。
手術室前の長椅子にダウンコートを毛布代わりにした従姉が仮眠していた。
その横に浅く腰かけ両肘を膝に乗せ、祈るように組んだ手の甲を、額に押し当て背中を丸くしている
母の姿があった。
「かあさん……」
声をかけると、母は顔を上げた。
一睡もできずにいたその顔は、はれぼったく憔悴しきっていた。
従姉も気配を感じて起き上った。
母は私たちの顔を見ると、張り詰めていた緊張と不安の糸が解れたのか、ほっと安堵の表情になった。
従姉がいてくれてはいるものの、血を分けた肉親ではない。
やはり心細かったに違いない。
深夜から始まったという手術は朝方にも及び、いまは集中治療室で術後の処置中である、
と従姉が看護師の言葉を伝えた。
「とうさんな、晩ご飯のとき味噌汁ひとくち飲んで、ああうめな、って言ってテーブルさ椀をこうやって
おでな……」
母は両手で飲むしぐさと置くしぐさをした。
「したっけ、あっ背中、いで! とおっきい声出して後ろさ倒れてよ。最初は、なにふざけて、て思った
けど、なかなか起きてこねから変だと思って。側さいったけ息してねべ、顔色ねくなってや……」
母はせきを切ったように話した。
「こえだば大変だ、こんな時は胸を叩くってテレビでやってたから、見よう見まねで叩だっけ、ふうーっ、
と息したんだ。そのあと無我夢中で覚えてねけど、救急車に電話してた……」
一人であたふたしたであろう母の姿を想像した。
私たちは母の両隣に座った。
「大変だったね、大丈夫だよ」
私は気のきいた言葉など見いだせず、ただ母の手をにぎった。
しばらくして「面会できますよ」と看護師が迎えにきた。
私たちは彼女の案内にしたがい、白衣の痩せた肩幅の狭い背中を見逃さないようについていく。
大学病院の廊下は、かつては公共建築物に使用されていた、天然素材で抗菌性が高いリノリウム床材が
敷かれていた。
父の元までは短い距離なのに果てしもなく長く感じられる古い廊下だった。
集中治療室前のコーナーにある除菌剤で手を洗い、床にある自動ドア開閉ボタンをつま先で踏み、
恐る恐る中に入る。
ナースステーションで雑菌を飛ばさないようにマスクと紙エプロンを受け取り身につけた。
以外に広いスペースには数人の患者がいた。
いずれも術後の人たち。
ここで麻酔が覚めるのを待ち、その日のうちに一般病棟に移る軽症の人もいる。
父はナースステーションの正面の位置にいた。
まだ麻酔からさめていない。
幾本ものチューブを身体からベッドの脇に垂らし、器械に囲まれ、酸素マスクをしたままビクともせずに
目を閉じている。
とうさん、とつぶやき母が足早に駆け寄った。
私たちも後に続いた。
「手術は成功しました」
経過を見ていた恰幅のいい四十半ばの担当医師がやさしく言ってくれた。
「ありがとうございます」
母は頭を下げた。私たちも会釈した。
「弁を取り換えてこの部分に人工血管を入れました。破裂を引き起こした瘤が血管の中に残っていて、
それが出血を最小限に止めていたのですね。それがなければ難しかったかもしれません。大手術でしたけど、
よく頑張りましたよ」
医師は心臓の絵が印刷されている用紙に線を描きながら説明してくれた。
切れた血管を人工血管に入れ換える人工血管置換術と人工弁設置を施したそうだ。
「ただ、まだ予断は許せません。今夜が山です……落ち着くまで当分は様子を見ないといけません……」
そう言い残し医師は他の患者のもとに去った。
手術が成功したと聞いて、ほっとしたが、大手を振って喜ぶ気分でも状態でもない。
「いまは麻酔で寝ていますから、一度お宅に帰って休まれるか、地下に家族控室がありますのでそちらで
休んでください。あと、必要な物がありますので用意してください。あ、連絡はとれるようにしておいて
くださいね」
看護師から入院手続きに関する概要と準備品リストを受け取り、携帯電話の番号を所定の用紙に記入し
病室を後にした。
従姉はそのまま帰宅したが、私たちはまだ病院を離れる気にはなれなかった。
地下1階にある家族控室に行ってみるが、旅館の大広間のようで、すでに数人が陣地を確保している。
貸し布団を敷いて寝るだけのスペースで、プライバシー保護も浴室もなく、テレビと小さな洗面台が
あるのみだ。
休憩目的以外でここに宿泊できるのは病院が許可、または病院側が依頼した患者の家族一人。
つまり、危篤患者やいつ急変してもおかしくない入院患者の身内に限られている。
聞けば数日も滞在しているという部屋の主らしき夫人が集中治療室での面会時間は原則として、
朝昼晩の1日に3回だと教えてくれた。
母は昨夜から風呂はもちろん、顔も洗わず、睡眠も食事もとっていない。
周囲に気を使って過ごさなければいけないこの場所より、どこか他で休んだほうがいい。
こんな場合でも私のお腹は鳴る。
食事はちゃんととったほうがいい。
食べたくないという母を栄養はつけなければいけないと宥めすかし、とりあえず院内食堂に足を運んだ。
空腹なのに、いざ食べ始めると味覚を感じない。
みんなもただ箸を動かしているだけのようだ。
3個の丼の中に其々半分以上もうどんを残して食事はすんだ。
集中治療室にいる間は私たちができることはないのだから、近場のホテルに泊まろう、と提案した。
だが母は、少しでも父を一人にするのは嫌だと車で10分ほどなのに行こうとしない。
妥協案として、一人は病院に残り、交互にホテルで仮眠をとることにした。
最初に姉が残ることにし、私と母が移動した。
ずっと病院にいると言い張っていた母は、湯につかり客室のベッドに横になってすぐに寝息をたてた。
吐く息と吸う息。
寝返りさえ打たずに掛け布団だけが上下する。
心労の大きさが伝わってくる。
私は父の容体のことや、その間ひとりになる母の今後のことを考えて眠れないでいた。
もやもやとした気分が涙腺を弱くしていた。
両親という土壌に根をはり、私という我儘な樹はぬくぬくと安心して立っていた。
いまそこには、どうしようもない病魔という突風が吹き荒れ、静かに立っていたいと願ってもどうする
こともできない時期にきていた。
一夜明けての早朝、まだ面会時間には早いが居ても立っても居られない母と私はホテルを後にした。
緊急連絡がなかったのだから異変はなかったはずなのに気が気ではない。
控室に泊まった姉と合流し、時間を待って父のもとに行く。
数値をチェックしていた看護師が、ベッド脇の棚にあるマスクとエプロンの在りかを教えてくれた。
これからはその都度使用し、決まった医療用ゴミ箱に捨てて行くようにと。
父は昨日と同じく目を閉じたままだが、どうやら峠は越えたらしい。
だが、まだ麻酔は効いている。
起きている父を想像していたので少し気が抜けた。
「麻酔はいつごろ覚めるのですか」
看護師に聞いた。
「傷口が落ち着くまでは、しばらく……」
それはそうだ、切り傷ではない大手術だったのだ。
胸帯を取り換える際、看護師が傷口を見せてくれた。
20センチほどの縦に流れる赤く盛り上がった線に、傷口が開かないよう等間隔に横に小さな十字を切
って赤黒い縫い目がある。
その生々しさにショックを隠しきれないでいた。
この糸はいずれ傷口をふさぎ融けてなくなるという。
「拭いてあげますか」
と、看護師が温かいおしぼりを手渡してくれた。
脂の付いた父の目の周りを母が愛おしそうに拭き始めた。
気管に挿されたチューブに気をつけながら、私たちも額や首筋を軽くふいた。
血なのか消毒液のヨードチンキなのか、おしぼりが赤く汚れた。
面会時間に私たちができる、ただ一つの行為だった。
「連絡がつけば病院に泊まる必要はないですよ」
足腰の弱い母の様子と、心配疲れが伝わったのだろうか。
看護師長が声をかけてくれた。
心配だが病院に任せる以外何もできない。
とりあえず一つの峠は越えたのだ。
後ろ髪を引かれる思いではあるが家に戻ることにした。
入院に必要な品々も揃えてこなければいけない。
「よろしくお願いします」
あなたたちが頼りです、と救いを込めて母は深々とお辞儀をした。
藁にもすがる思いだったかもしれない。
私たちもつられて挨拶し、病室を後にした。
家の中は週初めのオフィスビルのように、ひんやりとしていた。
居間に入ると倒れた父を運ぶため救急隊員により隅に追いやられた卓袱台の上に、一昨日の夕餉が
乗ったままだった。
母は、ここでこうして味噌汁飲んで……、と悪夢を思い出したように再び話しだす。
ストーブに点火し、私たちは相槌を打ちながら片づけ始めた。
とうさん大丈夫かな。
頑張ったね。
大丈夫だよね。
生命力が強いから大丈夫だよ。
入院は長くなるかな。
退院したら車椅子かもしれない。
そうなったらフローリングにしたほうがいいね。
大丈夫だよね……。
見る気もないテレビをつけたまま、しばらくのあいだ誰彼となく同じことばかり口にしていた。
毎日夕方に一人で囲碁を打ち、一行だけでも日記をつけていた父の手帳が碁盤の上にあった。
開いてみると新聞の切り抜きが挟んである。
家族葬についての記事だった。
母に告げると、時々そんな話をしていた、という。
やはり迫る危機感があったのだろう。
読書家であり勉強家だった父の書庫には、漢字検定に関する本や歴史もの、園芸ものの本が数多く
ならんでいる。
歴史上の人物や漢字の読みなどは、聞けばすぐ答えが返ってきた。
その中に「老いの教訓」とか「老いに挫けぬ男たち」といった類の本が数冊増えていた。
「ねえねえ、こんな本もあるよ」
姉が指さす先にある本の背表紙は「笑って大往生」。
「とうさんらしいね」
やろうとしている自分の動きに、思うようにできない肉体の老いがギャップを作るのは仕方のないことだ。
父はそれを自覚し精神的には明るく楽しく生活しようと心がけていたのだ。
年老いても前向きに生きていこうと努力していた。
その思いに心が和んだ。
棚をかたづけていた母が、3年前の男鹿温泉郷に行った時の写真を見つけた。
「とうさん、よく写真みで家族旅行ってえなあ、て言ってた。よっぽど楽しかったんでね」
「退院したらまた行こうよ」
そう信じて言うしかなかった。
部屋も暖まり少し気持ちも落ち着ついて明日の準備と就寝の支度を始める気になった。
「タオルはこれでいいかな」
姉が大小のタオル数枚と洗面器やせっけん、ハブラシなどリストに書かれていた品々を持ってきた。
紙おむつとか家にない足りないものは明日買えばいいね、と。
今日は疲れているからと早い時間に床につくことにした。
しかし誰もが眠れずに、それぞれに異なる感情を抱えながら悶々としていた。
母は、娘たちが東京に帰ったら自分ひとりでどうしたらいいのだろうか。
万が一の事態になったら葬儀を取り仕切ることになる、できるだろうか。
決まった寺の檀家にはなっていず、岩手の山林に埋骨する契約をしている樹木葬のカタログはどこにやった
んだろう、葬祭ベルコのカタログはどこにしまったのか、と最悪ばかり考えていた。
ああひとりになってしまうのだ……。
誰か帰ってきてはくれないだろうか。
でも娘の人生、無理を言いたくはない、私が頑張ればいいのだ、と己を奮い立たせていた。
姉は、長女の自分が戻らなければいけないだろうか、もうすぐ定年だから、せめてそれまでは働いていたい。趣味のダイビングもまだやりたいし、行きたいところも沢山ある。自分の時間は自由に使いたい。でも、とうさんの看病をかあさん一人でしなければいけなくなる、心配だ。どうしたら最善なのだろうか。自分が働く方が給料は多い。少しは援助もできる。そう提案しよう。妹が帰ってくれればいいのに、と。
私は、戻るべきか、戻った方がいいのではないか、と傷心した母の姿を思い出しては決めかねていた。
バブルの絶頂期には広告代理店で働き悠々自適な生活をしていたが、水もの業界は浮き沈みが激しく、
ほどなく会社とともに破綻し、バイト生活になっていた。
恋人も人の夫で、すでに茶飲み友達の領域に入っている。
どうせ相談したにしろ「俺に何を期待しているの」と言うにきまっている。
長引いたからといって、私の面倒をみてくれるわけでも一緒に生活できるわけでもない。
ましてや身辺を整理してここに来ることなど考えられない。
小さな諍いで彼の部屋着を何度捨てたことだろうか。
諦めるのにはちょうどいタイミングだ。
まだ働いて自由にしていたいという未練に、必死で帰ろうと言い含めていた。
ずっと離れて暮らしてきたのだから、これからは一緒に生活してあげたい、東京の生活や仕事に踏ん切りを
つけて実家に帰ろう。
よし、帰ろう! と決めた途端、無性に悲しくなった。
実家より東京での生活が長くなっていた。
田舎で過ごすことへの抵抗、友人たちとの別れや手放さなければいけない色々な事柄への想いが渦を巻いて
駆け巡る。
エビのように身体を丸めた嗚咽が止まらない。
これまでの人生で最大の決断を下した日になった。
この状況を何も知らない友人からのメールだけが誕生日を祝ってくれた。
私はひっそりと年を重ねた。
眠れぬ一夜が三晩も続いていた。
昨夜の就寝は早かったのに皆眠そうで疲れた顔は変わらない。
起きがけのコーヒーを飲みながら、下した決断を二人に告げた。
「帰ってくるわ、私」
言葉にすることで自分の考えを整理し、再度確認した。
もう後には引けない。
「そうしてければ一番えども……」
母は遠慮がちに応えたが、明るい顔になった。
「かあさんも私もそうしてくれたら安心。あんたが帰るほうが運転もできるしいいよね……」
多少の良心の疼きを感じたようだが、ペーパードライバーの姉は自己弁護も兼ねて言った。
「でも、すぐには仕事を辞められないよ……」
戻ってくるとわかっていればいつでもいい、と母が言う。
「その間は1ヶ月に1回くらい交互に帰ってくるから……ねっ」
姉は私に問いかけた。
「うん、そうしよう。しばらくひとりになるけど大丈夫だよね」
迷惑かけるね、と母は頷いた。
誰もが口に出したくとも出せないでいた胸の内を飽和する私の一言に、其々の思惑のつかえがとれたようだ。
「あ、昨日誕生日でねがたが。それどこじゃねがったからな……」
気付いた母が悪びれて言った。
父はまだ集中治療室にいる。
私たちは一週間ほど休みをとっていた。
この滞在中に一度、麻酔から覚めた日があった。
とうさん、と呼ぶと声のするほうに目は動く。
が、目は開いているのだが見えていないようだった。
看護師は、麻酔から覚めたばかりだから、と言った。
次の日、父はまた麻酔をかけられていた。
チューブを取ろうと動いて危ないので、もうしばらく傷と容体が安定するまで、とのことだった。
こんなに長く麻酔漬けでいいのだろうか。
他に悪影響はないのだろうか……。
しかし動く、ということは元気になりつつあるのだ、と小さな喜びもあった。
チューブや器械は時折増え、そのたびに私たちはどきどきした。
しかし、それも短い期間で、減ってきたときは良くなってきたのだと安心した。
東京に戻る日がきた。
私たちは仕事に戻らなければいけない。
運転できない母は、私がいなくなると電車とバスで病院に通わなければいけなくなる。
公共機関を使うと片道一時間半ほどかかる。
それも大変だからと控室に泊まることにした。
そのほうが行き帰りの移動や、夜ひとりになることを考えると安心だ。
ここを利用している多くは高齢者で、なおかつ交通の便の悪い地域に住んでいる遠方の人だ。
入院しているのは大方が自身の夫。
子がいても、仕事や各自の子育てに忙しく、毎日の付き添いや送り迎えができないのが現状だ。
患者に異変が生じたときには、この部屋に内線がかかる。
携帯電話がなくても不便を感じない人が多く、面会時間以外はここで休んでいる。
母とは年齢も近く、お互い状況が同じなので話し相手にもなる。
病院内のことを色々と教えてくれる人もおり、母にとってはさほど苦にならない場所のようだ。
たまには従姉が来てくれるという。
車で家に連れ帰ってくれるので入浴や洗濯、そのほかの用事をすませることができる。
東京に戻った私は退職願を書いた。
両親のために孝行しよう、とは思ってもどこかに言い知れぬ心残りがある。
このまま親の面倒を見て自分も年老いて終わってしまうのだろうか。
収入の道を閉ざされて、親の年金で細々と切りつめて暮らしていかなければいけないのか。
旅行も趣味も何もかもできなくなる……。
薄情なほど自分のことばかり考えていた。
これが私の人生、と弱った心を慰めたら、涙腺が壊れてしまったのかと思うほど勝手に涙がポタポタと
落ちた。
書き終えた用紙に水滴の跡がつき文字が乱れ、何回も書きなおさなければいけなかった。
自分の気持ちを追い込まないと先に進めない。
早く提出してしまわないと気が変わりそうだった。
月に1度は休暇を利用して実家に帰り母を休ませ、交代に病院に通った。
時には一緒に出かけたりもした。
父は集中治療室に3週間ほどいて、10日近くは麻酔で眠らされていたが、ようやく一般病棟に移ることが
できた。
母は家族控室に泊まり込み、面会時間に地下と病室のある3階を往復する日々を1ヶ月ほど続けていた。
一般病棟に移っても 頼めば宿泊できるのに、他の急患の家族がきて場所がないと悪いからと母は自宅から
通い始めていた。
一般病棟、といってもナースステーションに近い、まだ手のかかる患者の入る四人部屋に移動した父に初め
て会う。
自分の口から食事はできず鼻からの流動食、タンの吸引やおむつの取り換えなど、看護師にやってもらうこ
とばかりだ。
「とうさん、おはよう」
声をかけると、かすかに絞り出すように「おはよ」と聞こえる程度に返事ができた。
相変わらず目は見えていない。
元々遠かった耳は、耳元で話すか大きな声なら聞こえているようだ。
この状態は今だけで次期に車椅子で動けると思っていたので、私はいつも通り明るく振る舞っていた。
話しかけるのは病人にとって刺激になる。
父は見えない目をキョロキョロ動かした。
言っていることは理解できるのだ。
「仕事を辞めてうちに帰ってくるよ。かあさんは大丈夫だから心配しなくていいよ。またみんなで温泉いこ
うね」
「あ〜」とも「う〜」とも聞こえるような声がした。
何か言いたくて、だけども思うように話すことができずじれったいようだ。
きっと返事だったのだろう。
目じりに涙の粒があふれていた。
泣くなよ、男だろ、と言いながら自分の手を動かして拭けない父の代わりに、ハンカチで父の目じりを
押さえた。
サイドテーブルにはティシュやビニール手袋の箱、薬や体温計などが置かれている。
ふと見ると、そこにカードがある。
「吉田さん、お誕生日おめでとうございます。我慢強い吉田さん、いつも看護しやすくしてくれてありがとう」
父の担当看護師からだった。
いつもにこにこ笑いかけてくれ、タンが絡んで苦しそうだと呼びに行くと嫌な顔もせずかけつけてくれる
優しい看護師さんだ。
家族に向けても書いてくれたのだろう。
父と同じように寝たきりの状態でも吸引の時に管を噛み、唇をきつく閉じて開けない人もいるのだそうだ。
父はいくら苦しくても、口をあけてください、というと素直に従ういい患者だという。
3月5日。
父は病床で85歳を迎えた。
ああ、あまりにも突然ではないか。
誕生日の2日前にその報せはきた。
最近の連絡手段は携帯やメールが主で、固定電話にかかってくるのは家族か親戚、そして胡散臭い勧誘の
ためにあるくらいで活躍の場が少なくなっていた。
その電話が、うす暗くなった窓外に街灯がつき、カーテンを引き始めた刻に鳴った。
2月8日のことだった。
受話器から、徒歩5分ほどの距離に住んでいる姉の声が聞こえてきた。
「とうさんが倒れて病院にいるんだって。かあさんが動転してて、かわりに先生がかけてきた。
心臓大動脈瘤破裂で、すぐに手術をすれば助かる可能性もあるって……」
思いがけない電話の内容に、目の前のすべての時と色をなくした。
耳にあてた受話器を持つ手に力が入り、押し付けられた耳に痛さを伴った。
「しなければ助からないということ?」
歩いていた道の途中でマンホールを踏み、突然、蓋がはずれて暗闇に落ちていくような恐怖に襲われた。
「手術をするには家族の同意が必要で、かあさんは私たちに聞かないとわからないと言ってるからって」
足先から徐々に虫が這い上ってくるような、ざわざわとした震えがきた。
「手術、お願いしたからね」
「うん……」
「朝一の新幹線に乗るから準備しといて。喪服持って行ったほうがいいよね、一応」
「……」
「職場の人に連絡しなさいよ」
互いの最寄り駅、恵比寿駅で待ち合わせることにして電話を切った。
三つ違いの姉は長女らしく、しっかりとてきぱきしている。
動揺してはいるのだろうが、感情を露わにしないのは昔からだ。
喪服。
その言葉を聞いたらどっと悲しくなった。
父が死んでしまうかもしれないという現実が涙になった。
震えは全身に回り、軽いめまいを覚え立っているのもおぼつかない。
カバンに詰める荷物など考えられず、しばらく茫然としていた。
そういえば、正月に晩酌をした後ゴロゴロ横になっていたのは飲みすぎたせいではなかったのだ。
なにか不調だったのだろう。
それを気にもかけず、酔っぱらって、じゃまだと言わんばかりに「布団で寝たら」と冷たく言ってしまった。
父は自然治癒派で、通院したのは歯医者と化膿させすぎた水虫の治療くらいだった。
きっとあの時も息苦しく、具合が悪いのに我慢していたのだろう。
そういえば、電話口ではいつも「とうさんは元気だよ」と言っていたのに、いつかは
「とうさん最近、足が悪くなって」と弱音を吐かれた。
それなのに私は「無理しないでよ」と言ったきりで親身になることはなかった。
今にしてみると、そういえば、そういえばと思い当たる節は他にもたくさんある。
あれもこれもと回想し、発信していた危険信号に気付かなかったことを後悔ばかりして、
横にはなってみても眠りは浅かった。
秋田新幹線こまちは都会の街並みを置きざりにし、いくつものトンネルを抜けながら明と暗を繰り返す。
まるで妄想のトンネル。
最悪と最良のはざまを揺り動かし、それぞれの行く末を脳裏に浮かばせては消し去っていく。
また景色が途切れ、黒くなった窓ガラスが鏡のようにクマの浮き出た不安顔の自分を映しだす。
線路の脇に白い綿帽子をかぶった田畑が増え、山は遠くに水墨画の世界を作り出す。
民家がまばらに見えはじめてきた。
そろそろ終点の目的地、秋田。
駅からタクシーに乗り、昼少し前に入院先の病院に着いた。
雪道でスピードの出せない運転に、車中で気ばかりが焦った。
曲がりくねった長い廊下を急ぎ足でエレベーターに向かう。
3階、心臓血管外科病棟。
手術室前の長椅子にダウンコートを毛布代わりにした従姉が仮眠していた。
その横に浅く腰かけ両肘を膝に乗せ、祈るように組んだ手の甲を、額に押し当て背中を丸くしている
母の姿があった。
「かあさん……」
声をかけると、母は顔を上げた。
一睡もできずにいたその顔は、はれぼったく憔悴しきっていた。
従姉も気配を感じて起き上った。
母は私たちの顔を見ると、張り詰めていた緊張と不安の糸が解れたのか、ほっと安堵の表情になった。
従姉がいてくれてはいるものの、血を分けた肉親ではない。
やはり心細かったに違いない。
深夜から始まったという手術は朝方にも及び、いまは集中治療室で術後の処置中である、
と従姉が看護師の言葉を伝えた。
「とうさんな、晩ご飯のとき味噌汁ひとくち飲んで、ああうめな、って言ってテーブルさ椀をこうやって
おでな……」
母は両手で飲むしぐさと置くしぐさをした。
「したっけ、あっ背中、いで! とおっきい声出して後ろさ倒れてよ。最初は、なにふざけて、て思った
けど、なかなか起きてこねから変だと思って。側さいったけ息してねべ、顔色ねくなってや……」
母はせきを切ったように話した。
「こえだば大変だ、こんな時は胸を叩くってテレビでやってたから、見よう見まねで叩だっけ、ふうーっ、
と息したんだ。そのあと無我夢中で覚えてねけど、救急車に電話してた……」
一人であたふたしたであろう母の姿を想像した。
私たちは母の両隣に座った。
「大変だったね、大丈夫だよ」
私は気のきいた言葉など見いだせず、ただ母の手をにぎった。
しばらくして「面会できますよ」と看護師が迎えにきた。
私たちは彼女の案内にしたがい、白衣の痩せた肩幅の狭い背中を見逃さないようについていく。
大学病院の廊下は、かつては公共建築物に使用されていた、天然素材で抗菌性が高いリノリウム床材が
敷かれていた。
父の元までは短い距離なのに果てしもなく長く感じられる古い廊下だった。
集中治療室前のコーナーにある除菌剤で手を洗い、床にある自動ドア開閉ボタンをつま先で踏み、
恐る恐る中に入る。
ナースステーションで雑菌を飛ばさないようにマスクと紙エプロンを受け取り身につけた。
以外に広いスペースには数人の患者がいた。
いずれも術後の人たち。
ここで麻酔が覚めるのを待ち、その日のうちに一般病棟に移る軽症の人もいる。
父はナースステーションの正面の位置にいた。
まだ麻酔からさめていない。
幾本ものチューブを身体からベッドの脇に垂らし、器械に囲まれ、酸素マスクをしたままビクともせずに
目を閉じている。
とうさん、とつぶやき母が足早に駆け寄った。
私たちも後に続いた。
「手術は成功しました」
経過を見ていた恰幅のいい四十半ばの担当医師がやさしく言ってくれた。
「ありがとうございます」
母は頭を下げた。私たちも会釈した。
「弁を取り換えてこの部分に人工血管を入れました。破裂を引き起こした瘤が血管の中に残っていて、
それが出血を最小限に止めていたのですね。それがなければ難しかったかもしれません。大手術でしたけど、
よく頑張りましたよ」
医師は心臓の絵が印刷されている用紙に線を描きながら説明してくれた。
切れた血管を人工血管に入れ換える人工血管置換術と人工弁設置を施したそうだ。
「ただ、まだ予断は許せません。今夜が山です……落ち着くまで当分は様子を見ないといけません……」
そう言い残し医師は他の患者のもとに去った。
手術が成功したと聞いて、ほっとしたが、大手を振って喜ぶ気分でも状態でもない。
「いまは麻酔で寝ていますから、一度お宅に帰って休まれるか、地下に家族控室がありますのでそちらで
休んでください。あと、必要な物がありますので用意してください。あ、連絡はとれるようにしておいて
くださいね」
看護師から入院手続きに関する概要と準備品リストを受け取り、携帯電話の番号を所定の用紙に記入し
病室を後にした。
従姉はそのまま帰宅したが、私たちはまだ病院を離れる気にはなれなかった。
地下1階にある家族控室に行ってみるが、旅館の大広間のようで、すでに数人が陣地を確保している。
貸し布団を敷いて寝るだけのスペースで、プライバシー保護も浴室もなく、テレビと小さな洗面台が
あるのみだ。
休憩目的以外でここに宿泊できるのは病院が許可、または病院側が依頼した患者の家族一人。
つまり、危篤患者やいつ急変してもおかしくない入院患者の身内に限られている。
聞けば数日も滞在しているという部屋の主らしき夫人が集中治療室での面会時間は原則として、
朝昼晩の1日に3回だと教えてくれた。
母は昨夜から風呂はもちろん、顔も洗わず、睡眠も食事もとっていない。
周囲に気を使って過ごさなければいけないこの場所より、どこか他で休んだほうがいい。
こんな場合でも私のお腹は鳴る。
食事はちゃんととったほうがいい。
食べたくないという母を栄養はつけなければいけないと宥めすかし、とりあえず院内食堂に足を運んだ。
空腹なのに、いざ食べ始めると味覚を感じない。
みんなもただ箸を動かしているだけのようだ。
3個の丼の中に其々半分以上もうどんを残して食事はすんだ。
集中治療室にいる間は私たちができることはないのだから、近場のホテルに泊まろう、と提案した。
だが母は、少しでも父を一人にするのは嫌だと車で10分ほどなのに行こうとしない。
妥協案として、一人は病院に残り、交互にホテルで仮眠をとることにした。
最初に姉が残ることにし、私と母が移動した。
ずっと病院にいると言い張っていた母は、湯につかり客室のベッドに横になってすぐに寝息をたてた。
吐く息と吸う息。
寝返りさえ打たずに掛け布団だけが上下する。
心労の大きさが伝わってくる。
私は父の容体のことや、その間ひとりになる母の今後のことを考えて眠れないでいた。
もやもやとした気分が涙腺を弱くしていた。
両親という土壌に根をはり、私という我儘な樹はぬくぬくと安心して立っていた。
いまそこには、どうしようもない病魔という突風が吹き荒れ、静かに立っていたいと願ってもどうする
こともできない時期にきていた。
一夜明けての早朝、まだ面会時間には早いが居ても立っても居られない母と私はホテルを後にした。
緊急連絡がなかったのだから異変はなかったはずなのに気が気ではない。
控室に泊まった姉と合流し、時間を待って父のもとに行く。
数値をチェックしていた看護師が、ベッド脇の棚にあるマスクとエプロンの在りかを教えてくれた。
これからはその都度使用し、決まった医療用ゴミ箱に捨てて行くようにと。
父は昨日と同じく目を閉じたままだが、どうやら峠は越えたらしい。
だが、まだ麻酔は効いている。
起きている父を想像していたので少し気が抜けた。
「麻酔はいつごろ覚めるのですか」
看護師に聞いた。
「傷口が落ち着くまでは、しばらく……」
それはそうだ、切り傷ではない大手術だったのだ。
胸帯を取り換える際、看護師が傷口を見せてくれた。
20センチほどの縦に流れる赤く盛り上がった線に、傷口が開かないよう等間隔に横に小さな十字を切
って赤黒い縫い目がある。
その生々しさにショックを隠しきれないでいた。
この糸はいずれ傷口をふさぎ融けてなくなるという。
「拭いてあげますか」
と、看護師が温かいおしぼりを手渡してくれた。
脂の付いた父の目の周りを母が愛おしそうに拭き始めた。
気管に挿されたチューブに気をつけながら、私たちも額や首筋を軽くふいた。
血なのか消毒液のヨードチンキなのか、おしぼりが赤く汚れた。
面会時間に私たちができる、ただ一つの行為だった。
「連絡がつけば病院に泊まる必要はないですよ」
足腰の弱い母の様子と、心配疲れが伝わったのだろうか。
看護師長が声をかけてくれた。
心配だが病院に任せる以外何もできない。
とりあえず一つの峠は越えたのだ。
後ろ髪を引かれる思いではあるが家に戻ることにした。
入院に必要な品々も揃えてこなければいけない。
「よろしくお願いします」
あなたたちが頼りです、と救いを込めて母は深々とお辞儀をした。
藁にもすがる思いだったかもしれない。
私たちもつられて挨拶し、病室を後にした。
家の中は週初めのオフィスビルのように、ひんやりとしていた。
居間に入ると倒れた父を運ぶため救急隊員により隅に追いやられた卓袱台の上に、一昨日の夕餉が
乗ったままだった。
母は、ここでこうして味噌汁飲んで……、と悪夢を思い出したように再び話しだす。
ストーブに点火し、私たちは相槌を打ちながら片づけ始めた。
とうさん大丈夫かな。
頑張ったね。
大丈夫だよね。
生命力が強いから大丈夫だよ。
入院は長くなるかな。
退院したら車椅子かもしれない。
そうなったらフローリングにしたほうがいいね。
大丈夫だよね……。
見る気もないテレビをつけたまま、しばらくのあいだ誰彼となく同じことばかり口にしていた。
毎日夕方に一人で囲碁を打ち、一行だけでも日記をつけていた父の手帳が碁盤の上にあった。
開いてみると新聞の切り抜きが挟んである。
家族葬についての記事だった。
母に告げると、時々そんな話をしていた、という。
やはり迫る危機感があったのだろう。
読書家であり勉強家だった父の書庫には、漢字検定に関する本や歴史もの、園芸ものの本が数多く
ならんでいる。
歴史上の人物や漢字の読みなどは、聞けばすぐ答えが返ってきた。
その中に「老いの教訓」とか「老いに挫けぬ男たち」といった類の本が数冊増えていた。
「ねえねえ、こんな本もあるよ」
姉が指さす先にある本の背表紙は「笑って大往生」。
「とうさんらしいね」
やろうとしている自分の動きに、思うようにできない肉体の老いがギャップを作るのは仕方のないことだ。
父はそれを自覚し精神的には明るく楽しく生活しようと心がけていたのだ。
年老いても前向きに生きていこうと努力していた。
その思いに心が和んだ。
棚をかたづけていた母が、3年前の男鹿温泉郷に行った時の写真を見つけた。
「とうさん、よく写真みで家族旅行ってえなあ、て言ってた。よっぽど楽しかったんでね」
「退院したらまた行こうよ」
そう信じて言うしかなかった。
部屋も暖まり少し気持ちも落ち着ついて明日の準備と就寝の支度を始める気になった。
「タオルはこれでいいかな」
姉が大小のタオル数枚と洗面器やせっけん、ハブラシなどリストに書かれていた品々を持ってきた。
紙おむつとか家にない足りないものは明日買えばいいね、と。
今日は疲れているからと早い時間に床につくことにした。
しかし誰もが眠れずに、それぞれに異なる感情を抱えながら悶々としていた。
母は、娘たちが東京に帰ったら自分ひとりでどうしたらいいのだろうか。
万が一の事態になったら葬儀を取り仕切ることになる、できるだろうか。
決まった寺の檀家にはなっていず、岩手の山林に埋骨する契約をしている樹木葬のカタログはどこにやった
んだろう、葬祭ベルコのカタログはどこにしまったのか、と最悪ばかり考えていた。
ああひとりになってしまうのだ……。
誰か帰ってきてはくれないだろうか。
でも娘の人生、無理を言いたくはない、私が頑張ればいいのだ、と己を奮い立たせていた。
姉は、長女の自分が戻らなければいけないだろうか、もうすぐ定年だから、せめてそれまでは働いていたい。趣味のダイビングもまだやりたいし、行きたいところも沢山ある。自分の時間は自由に使いたい。でも、とうさんの看病をかあさん一人でしなければいけなくなる、心配だ。どうしたら最善なのだろうか。自分が働く方が給料は多い。少しは援助もできる。そう提案しよう。妹が帰ってくれればいいのに、と。
私は、戻るべきか、戻った方がいいのではないか、と傷心した母の姿を思い出しては決めかねていた。
バブルの絶頂期には広告代理店で働き悠々自適な生活をしていたが、水もの業界は浮き沈みが激しく、
ほどなく会社とともに破綻し、バイト生活になっていた。
恋人も人の夫で、すでに茶飲み友達の領域に入っている。
どうせ相談したにしろ「俺に何を期待しているの」と言うにきまっている。
長引いたからといって、私の面倒をみてくれるわけでも一緒に生活できるわけでもない。
ましてや身辺を整理してここに来ることなど考えられない。
小さな諍いで彼の部屋着を何度捨てたことだろうか。
諦めるのにはちょうどいタイミングだ。
まだ働いて自由にしていたいという未練に、必死で帰ろうと言い含めていた。
ずっと離れて暮らしてきたのだから、これからは一緒に生活してあげたい、東京の生活や仕事に踏ん切りを
つけて実家に帰ろう。
よし、帰ろう! と決めた途端、無性に悲しくなった。
実家より東京での生活が長くなっていた。
田舎で過ごすことへの抵抗、友人たちとの別れや手放さなければいけない色々な事柄への想いが渦を巻いて
駆け巡る。
エビのように身体を丸めた嗚咽が止まらない。
これまでの人生で最大の決断を下した日になった。
この状況を何も知らない友人からのメールだけが誕生日を祝ってくれた。
私はひっそりと年を重ねた。
眠れぬ一夜が三晩も続いていた。
昨夜の就寝は早かったのに皆眠そうで疲れた顔は変わらない。
起きがけのコーヒーを飲みながら、下した決断を二人に告げた。
「帰ってくるわ、私」
言葉にすることで自分の考えを整理し、再度確認した。
もう後には引けない。
「そうしてければ一番えども……」
母は遠慮がちに応えたが、明るい顔になった。
「かあさんも私もそうしてくれたら安心。あんたが帰るほうが運転もできるしいいよね……」
多少の良心の疼きを感じたようだが、ペーパードライバーの姉は自己弁護も兼ねて言った。
「でも、すぐには仕事を辞められないよ……」
戻ってくるとわかっていればいつでもいい、と母が言う。
「その間は1ヶ月に1回くらい交互に帰ってくるから……ねっ」
姉は私に問いかけた。
「うん、そうしよう。しばらくひとりになるけど大丈夫だよね」
迷惑かけるね、と母は頷いた。
誰もが口に出したくとも出せないでいた胸の内を飽和する私の一言に、其々の思惑のつかえがとれたようだ。
「あ、昨日誕生日でねがたが。それどこじゃねがったからな……」
気付いた母が悪びれて言った。
父はまだ集中治療室にいる。
私たちは一週間ほど休みをとっていた。
この滞在中に一度、麻酔から覚めた日があった。
とうさん、と呼ぶと声のするほうに目は動く。
が、目は開いているのだが見えていないようだった。
看護師は、麻酔から覚めたばかりだから、と言った。
次の日、父はまた麻酔をかけられていた。
チューブを取ろうと動いて危ないので、もうしばらく傷と容体が安定するまで、とのことだった。
こんなに長く麻酔漬けでいいのだろうか。
他に悪影響はないのだろうか……。
しかし動く、ということは元気になりつつあるのだ、と小さな喜びもあった。
チューブや器械は時折増え、そのたびに私たちはどきどきした。
しかし、それも短い期間で、減ってきたときは良くなってきたのだと安心した。
東京に戻る日がきた。
私たちは仕事に戻らなければいけない。
運転できない母は、私がいなくなると電車とバスで病院に通わなければいけなくなる。
公共機関を使うと片道一時間半ほどかかる。
それも大変だからと控室に泊まることにした。
そのほうが行き帰りの移動や、夜ひとりになることを考えると安心だ。
ここを利用している多くは高齢者で、なおかつ交通の便の悪い地域に住んでいる遠方の人だ。
入院しているのは大方が自身の夫。
子がいても、仕事や各自の子育てに忙しく、毎日の付き添いや送り迎えができないのが現状だ。
患者に異変が生じたときには、この部屋に内線がかかる。
携帯電話がなくても不便を感じない人が多く、面会時間以外はここで休んでいる。
母とは年齢も近く、お互い状況が同じなので話し相手にもなる。
病院内のことを色々と教えてくれる人もおり、母にとってはさほど苦にならない場所のようだ。
たまには従姉が来てくれるという。
車で家に連れ帰ってくれるので入浴や洗濯、そのほかの用事をすませることができる。
東京に戻った私は退職願を書いた。
両親のために孝行しよう、とは思ってもどこかに言い知れぬ心残りがある。
このまま親の面倒を見て自分も年老いて終わってしまうのだろうか。
収入の道を閉ざされて、親の年金で細々と切りつめて暮らしていかなければいけないのか。
旅行も趣味も何もかもできなくなる……。
薄情なほど自分のことばかり考えていた。
これが私の人生、と弱った心を慰めたら、涙腺が壊れてしまったのかと思うほど勝手に涙がポタポタと
落ちた。
書き終えた用紙に水滴の跡がつき文字が乱れ、何回も書きなおさなければいけなかった。
自分の気持ちを追い込まないと先に進めない。
早く提出してしまわないと気が変わりそうだった。
月に1度は休暇を利用して実家に帰り母を休ませ、交代に病院に通った。
時には一緒に出かけたりもした。
父は集中治療室に3週間ほどいて、10日近くは麻酔で眠らされていたが、ようやく一般病棟に移ることが
できた。
母は家族控室に泊まり込み、面会時間に地下と病室のある3階を往復する日々を1ヶ月ほど続けていた。
一般病棟に移っても 頼めば宿泊できるのに、他の急患の家族がきて場所がないと悪いからと母は自宅から
通い始めていた。
一般病棟、といってもナースステーションに近い、まだ手のかかる患者の入る四人部屋に移動した父に初め
て会う。
自分の口から食事はできず鼻からの流動食、タンの吸引やおむつの取り換えなど、看護師にやってもらうこ
とばかりだ。
「とうさん、おはよう」
声をかけると、かすかに絞り出すように「おはよ」と聞こえる程度に返事ができた。
相変わらず目は見えていない。
元々遠かった耳は、耳元で話すか大きな声なら聞こえているようだ。
この状態は今だけで次期に車椅子で動けると思っていたので、私はいつも通り明るく振る舞っていた。
話しかけるのは病人にとって刺激になる。
父は見えない目をキョロキョロ動かした。
言っていることは理解できるのだ。
「仕事を辞めてうちに帰ってくるよ。かあさんは大丈夫だから心配しなくていいよ。またみんなで温泉いこ
うね」
「あ〜」とも「う〜」とも聞こえるような声がした。
何か言いたくて、だけども思うように話すことができずじれったいようだ。
きっと返事だったのだろう。
目じりに涙の粒があふれていた。
泣くなよ、男だろ、と言いながら自分の手を動かして拭けない父の代わりに、ハンカチで父の目じりを
押さえた。
サイドテーブルにはティシュやビニール手袋の箱、薬や体温計などが置かれている。
ふと見ると、そこにカードがある。
「吉田さん、お誕生日おめでとうございます。我慢強い吉田さん、いつも看護しやすくしてくれてありがとう」
父の担当看護師からだった。
いつもにこにこ笑いかけてくれ、タンが絡んで苦しそうだと呼びに行くと嫌な顔もせずかけつけてくれる
優しい看護師さんだ。
家族に向けても書いてくれたのだろう。
父と同じように寝たきりの状態でも吸引の時に管を噛み、唇をきつく閉じて開けない人もいるのだそうだ。
父はいくら苦しくても、口をあけてください、というと素直に従ういい患者だという。
3月5日。
父は病床で85歳を迎えた。
2012年8月5日日曜日
東京NAMAHAGE物語•10 by 勇智イソジーン真澄
<頼ってばかりいてもね>
ああ、いまどの辺だろう?
駅弁とビールを体内に詰め込み、座席が揺りかごと化し熟睡していたわたしは、切り離しの振動で目が覚めた。
東京駅から併結した東北新幹線「はやて」に押されて走る、下りのミニ新幹線「こまち」の車両は、盛岡駅で切り離され、自力では新幹線の半分弱しか出ない時速で在来線の線路を走り始めた。
目的地の終着駅までは、中間地点。
まだ、ここまでと同じく二時間以上かかる。
ずり落ち気味の尻を背もたれ付近の元の位置に戻し、大きく伸びをした。
無理な姿勢で固まっていた身体が、ポキポキと息を吹き返した。
読書にも飽き、窓外を眺めると景色が後方から流れてくる。
そうか、もう大曲(おおまがり)駅を過ぎたのか。
あと三十分もすれば到着だ。
通称ミニ新幹線、実名は在来線特急「こまち」は大曲でスイッチバックをする。
線路形態の都合上、そうするしかないらしい。
下りでは押され、上りでは引っ張られ、しばらくは後ろ向きに進むこの列車は、いつも何がしかの
手助けを必要とする。
のんびりと歩み、一人で生きているようで自立できていない、わたしの生きかたのようだと思う。
秋田駅に降り立つと夕方にもかかわらず、もわーっとした熱気が襲い掛かってきた。
なんだ、この暑さは。
八月の旧盆であるこの時期は涼しいはずなのに、これではなんら東京と変わらない。
避暑地に出向く感覚の、いつもの里帰りとは明らかに違う。
不快な汗を洋服にしみ込ませてホームをあとにし、レンタカーで実家に向かった。
いつもなら窓を開け放していると風が通り抜ける家の中も、熱気がこもっていた。
吹き出る汗を拭きすぎて顔や首筋が痛い。
タオルを首に巻いていても、すぐにグショグショになる。
わたしの寝る二階部分は、夜になっても昼の暑さが住み着いている。
窓を開けていても、これではとても寝られやしない。
車を走らせ閉店間際の電気屋を数件回ったが、目当ての扇風機は売り切れだった。
やっと見つけたのは、オモチャのようなプラスティック製の四角いもの。
それでもないよりマシかと買い求めた。
確かにないよりマシで、わずかな涼を与えてくれた。
このあたりではクーラーを取り付けている家は少ない。
特に取り付ける必要がなかったのだ。
いまさら取り付けを頼むのも無駄だし時間がかかる、と一時しのぎの扇風機を求めるのは何処もみな同じだったようだ。
しかし今年はクーラーに頼りたかった。
つけすぎは身体に悪いけれど、こう暑くても体調を崩す。
文明の利器を、ありがたいと恋しく思った。
観測史上四十年以来という異常気象もさることながら、今年の里帰りにはもう一つの変化もあった。
これまでなら別荘に来た気分で、起きたい時に起きて寝たいときに寝る。
出かけたいときに出かけて、あとは本を読む。
なんて自由気ままな里帰りだったのだけれど、どうも今回は勝手が違う。
母の両親、私にとっては祖父母にあたる故人の法事がおこなわれることになっていたのだ。
祖父の五十回忌、祖母の二十七回忌を合わせての行事だ。
親の五十回忌を、こどもたちが生きている間に行うのは、なかなか難しいと聞く。
なぜなら、亡くなった当時の親の年齢にもよるのだろうけれど、それから五十年もたつと、こども
たちも高齢になり一同が揃わなくなることが多いからだ。
母方の兄弟は上から順序良く、おんな三人、おとこ三人の六人。
あいにく三女は八年前に他界してしまったが、残りの五人は健在で全員集まった。
東京組みは次男夫婦と三男の三人。
地元組は長女、長男夫婦、次女であるわたしの母と父。
そして地元にいるそれぞれの娘や婿、孫たちとにぎやかな集まりだった。
はっきりした人数は確認しなかったけれど、おおよそ十七八人というところだったろうか。
子供たちとはほとんど初対面だった。
里帰りした翌日から、わたしの忙しい日々が始まった。
まず、東京から来る親戚を空港まで迎えに行く。
よりにも寄って、朝一番の飛行機だという。
暑くて睡眠不足なのに早起きし、車で一時間かかる秋田空港に走った。
叔父夫婦と会うのは何十年ぶりだろうか。
見つけられるかな、と心配していたがすぐにわかった。
昔と変わらない。
いや、変わっている。
叔父は軽く左足を引きずり、杖をついていた。
数年前に脳梗塞を起こし、辛いリハビリをがんばり、日常生活に支障のない程度に回復したそうだ。
その成果があり、足以外は実に達者だ。
連れ合いの叔母も相変わらずのおしゃべりで、機関銃口撃。
車内では後部シートから身を乗り出して家につく着くまで、ほとんど一人で何か話していた。
もう一人の叔父は電車でやってきた。
実家はローカルな男鹿(おが)線脇本(わきもと)駅から徒歩三分なので、迷うことはない。
これなら手がかからなくて実に楽だ。
長男の家での法事も無事に終わり、食事をしながらの近況報告はにぎやかだった。
それぞれが高齢なのだから、皆どこか身体に支障をきたしている。
私はここが悪い、いやいや僕なんてもっとすごい。
それよりも俺なんて……と、病気自慢合戦が始まる。
五十代の私たちでさえ、足腰が痛いだの、視力が弱くなった、歯が脆くなったなどとあらゆるところに故障がでてくる。
母達の年齢で何もないほうが可笑しいのだ。
あまり深刻にならずに、病気は友達だと長い付き合いをしている我が一族だった。
たまには上げ膳据え膳しましょう、と叔父夫婦が温泉一泊ご招待をしてくれることになった。
我が家に何泊もするのに気が引けたのか、気を使うことに疲れたのか。
そして、わたしたちも疲れているだろうと察してくれてのことだったのかもしれない。
男鹿温泉郷へは車で三十分弱。
古い温泉だが源泉の宿を選んだ。
失敗した。
客室は二階、食事は一階、風呂は一度下に降りて廊下を進み、今度は上らなければいけない。
エレベーターなどという気の利いたものはない。
年齢が増すごとに階段はきつくなる。
たまには四足動物になりながら移動した。
湯は良かったのだが、足腰の弱った団体には不向きだった。
でも、みんなで温泉に入った。
なんだかんだ言ったって、せっかく温泉にきたのだから移動は大変だけど入らない手はない。
洋服を着ていても肉付きの良さを窺わせていた叔母は、脱いだらもっとすごかった。
わたしは負けた! いや、勝った? と思ったね。
あまりにも食欲が旺盛なので心配したら、脂肪を溶かす薬を飲んでいるし、普段は毎朝一時間歩いているから大丈夫なのよ、との返事が返ってきた。
叔母は中性脂肪が多く、フィブラート系薬を処方してもらい頼りにしているらしい。
だけど、叔父の分まで食べてしまう食欲は、薬をのんで溶かしているはずの脂肪をいまだお腹にくっつけたままだ。
これを飲んでいるからいいの、と見せてくれた頼りのピンクの錠剤はどこに消えたのだろう……。
服用しながらの旺盛な食欲に、錠剤も圧倒され本来の力がだせないのだろうか。
どうやら威力を発揮できないままに、それも肥やしになっしまったようだ。
2012年7月21日土曜日
日本人が知らない韓国の常識11 ハングル世界化プロジェクト~公式文字にハングルを採用したチアチア族~by 御美子
2009年8月、インドネシア少数民族チアチア族が、公式文字としてハングルを採用したことが、嬉しいニュースとして韓国で話題になった。ハングルは「大きい・正しい・一つ」という複数の意味を持ち、韓国語の文字そのものを表すので「ハングル語」とか「ハングル文字」という言葉は厳密に言えば正しくない。「ハングル」は近年考え出された言葉で、それ以前は「訓民正音」と呼ばれていた。チアチア族がハングルを公式文字に採用したきっかけは、訓民正音学会からの働きかけが大きかった。背景には「ハングル世界化プロジェクト」があり、ソウル市長やソウル大学言語学科教授の思惑ともぴったり合ったようで、2008年7月にはチアチア族教師らを韓国に招き、ハングル教科書編集作業が始まっていた。途中、寒さとホームシックで帰国しようとするチアチア族教師達を何度も説得し、ようやく教科書が出来上がったようだ。しかしその後、多額の経済援助をちらつかせていたソウル市長が任期途中で辞職したり、インドネシア政府も難色を示したため、プロジェクトは中断の危機に晒されていたようだ。そんなチアチア族の皆さんの話題を久しぶりにネットニュースで見かけたのが、今年2012年の6月21日(ハングルの日)だった。チアチア族の教師達が自主的にハングルの研修に来たようなタイトルだったが、勿論韓国側の招待だ。興味深いのは研修がインドネシア語でされたことだ。当然のことながら、チアチア族はハングルを採用しただけで韓国語は全く話せない。更に面白いのは、チアチア族教師達が発音の特訓を受けさせられたことだ。韓国人の中には「ハングルであらゆる国の言語が表記できる」と真面目に信じている人が居るが、その理論を持ってすれば、インドネシア語を現地の人が話す発音に表記でき、チアチア族が発音で困るはずは無いはずだ。昨今の韓流ブームで来日する韓流スター達の発音を聞けば、音の種類が少ない日本語であの程度なのだから仕方がないとも言えるのだが。
2012年7月13日金曜日
パリのカフェ物語6 by Miruba
Chapitre Ⅵ 「オーヴェルニュ人の君の歌」
アールヌーヴォーの建築の写真を撮り、小論文にまとめる宿題があるというので、娘と一緒に出かけました。
論文のテーマは、その昔「低所得者」が入り込めない「ブルジョワ」の壁のようなもの、相互理解できない部分を、一枚の画像でも表現するよう先生に言われたらしいのです。難解です。
ま、彼女の宿題の話をすると、数時間かかるので割愛することにして^^
16区(高級住宅街)にあるアールヌーボー建築をいくつか見て周ったあと、学生街のあるサンジェルマンまでメトロで移動し、パリで一番最初にできたカフェ・プロコープの店先まで行きました。
なぜフランス最古のカフェかというと、当時は貴族や文化人といわれる人たちが政治討議や、文化について語り合うところであり、庶民が入れるカフェではなかった時代だからです。
当時ブルジョワの集まっただろうカフェの前に、庶民の絵を書いた紙を道路に貼り付けて、写真を撮りました。
カフェと歩道に張った絵の間に車がとおり、それが両者を隔てる「壁」のイメージにした、というわけです。
フランスの歴史的には、カフェより、お酒を出すキャバレーが先にできたそうです。
階下はお酒をだし娼婦もいるバーであり二階はホテルになっていて文化人や兵士や貴族が利用したいわゆるお茶屋のようなところで、あまり環境は良くなかったようです。
17世紀後半、そのキャバレーでコーヒーを出すようになるのですが、それまでの薄暗い店内を鏡張りにし明るくして、政治論を戦わせたりするのに集まれるような形にしたのがカフェプロコープでした。
カフェの前身がキャバレーから発したものが多かったので、フランスのカフェは、カクテルも出すカウンターバーの様子をしているのですね。
カフェプロコープは今はレストランです。
中には入らず、宿題用の写真だけ撮り、店内より歩道に広げたテラスのほうが広い、近くの小さなカフェにはいりました。
娘はアイスコーヒー、私は生ビールにしました。
ギャルソンに「ね、ピーナッツとかないの?」ときくと「 Ca depend サ・デパン=場合による」というのです。
つまり、お客さんによってピーナッツがサービスになったりならなかったりするのです^^
最近あまり見かけませんが、一時はガチャポンみたいに、一回分のピーナッツが出てくる機械を置いてあるカフェもあったのですが、
やはり、顧客との会話を大切にするカフェでは、話し合いで?サービスしたりしなかったりする駆け引きを楽しむのがいいのでしょうか?
行きつけのカフェを持たないと面倒くさいですが、それもまた、パリのカフェらしいといえるのでしょうか。
「じゃ、娘にポテトフライを一皿お願い」とたのむと、私にはピーナッツとオリーブのおつまみがついてきました。
おつまみをサービスされたら一杯というわけにはゆかず2杯3杯と飲むでしょうから、そのほうが店としては得だと思うのですけれどね。
オリーブがビールにぴったり。ついつい飲んでしまいます。
娘も私も本を持っていたので、二人それぞれに読んでいました。
道路を行き交う人を眺めながら、春風の中ビールを飲む贅沢。
散々歩いた後なので、更に美味しいのですね。
隣で、オーナーらしき老人が立っていて、常連らしいお客さんと話しをしていました。
お客さんもご年配の、でも洒落たジャケットを着た紳士です。
「Ah bon。そう、じゃあこの店どうするの?」
「跡を継いでくれる子供もいないし、身内もいなくてね。親代々の店なのに、手放していきます」
「オーベルニュに行くのか。昔はカフェのオーナーといえば、オーベルニュの人間だったな」
「そうですね、一時は80%がオーベルニュから来た仲間だったんですよ。いまじゃどこもシノア(中国)・・」
ここまで来て、私たちのほうをちらりと見ました。
「失礼、聴いたわけじゃなくて、耳に入ったの。私、日本人です」というと、オーナーさんは、にやりとしました。
現在カフェの多くは、債権をアジアの優秀な国の人たちに譲り、跡取りの無い退職者が、南仏へ流れているといいます。
終の棲家を考えたとき、パリの人も田舎を求めるのでしょうか。
カフェのオーナーは、お客さんと話を続けました。
娘は、論文の下書きに夢中ですし、私という観客がいるので、オーナーの声は滑らかになり、昔話が始まったのです。
続きは、次回に。A suivre
歌 Chanson pour l'auvergnat オーヴェルニュ人に捧げる歌
2012年7月7日土曜日
東京NAMAHAGE物語9 by 勇智イソジーン真澄
<稼ぐに追い抜く貧乏神より来訪神>
「わぁあ〜」
「きゃあ〜」
子どもたちのにぎやかな、悲鳴にも似た声が聞こえる。
仕事の手を休め、その甲高い声に耳を傾ける。
コンピューター画面で予約状況を見ては、後方の棚から予約者に各当する患者のカルテを準備する。この繰り返しで一日の業務が終わる。
主に日本に住む外国人対象の自由診療クリニックで働き数年が経つ。
最近、仕事をしていても意欲がわいてこない。
このままでいいのだろうか、と疑問に思い始めている。私以外のスタッフは帰国子女や留学経験者で、語学堪能。海外生活を経験した人の多くは自己主張が強く、働くにあたり自身に有利な交渉事ができると感じる。そんな中に臆病者で消極的な私がいる。
患者やドクターと話すことのない立場で、ただ黙々とデスクと棚との間を動くだけだ。
日本語以外での会話が出来ない私は、周囲の人たちより給料が低い。
何の資格も能力もなく事務的雑務しかできないのだから、当たり前だ。
年齢的なことを考えれば、働かせてもらえるだけでありがたいことなのだ。
けれど、家賃を支払い、その他ライフラインを確保すれば、自由に使える金額はスズメの涙となる。働いても働いても、切りつめても切りつめても貧乏神が追いかけてくる。
毎日職場と自宅の往復。ネットの無料動画を見るのが唯一の楽しみになっている独り身の私。
はまってしまった韓流ドラマは必ず主人公の女性一人を二人の男性が慕い愛し奪い合うという恋愛もの。そんなことあるの? と思うほどの偶然性や歯の浮くようなセリフのオンパレード。私の人生には絶対に起こり得ないであろう場面の数々なのだが、つい見いってしまう。
そして主役の女性にため息をつく。あなたはスタイルもよく綺麗だからいいわよね、って。
虚しい日々が長くなりすぎて、外から聞こえる声に郷愁を覚えた。
毎年、大晦日の晩、紅白歌合戦の放映中にやってきたナマハゲ。ちょうど夕飯時。
ご馳走を前に戸外の様子を覗い、そわそわと落ち着かない食事をしていた。
「ウオーッ。ウオー」と奇声を張り上げながら雪道を歩くナマハゲの声が聞こえると、食事途中でもあらかじめ決めていた場所に急いで隠れる。隠れ場所は主に浴室だった。
扮装の中は近隣の人とわかっていても怖かった。
怖いのだけれどドアの隙間から様子を覗っていた。ナマハゲは隠れている場所を知っても、探すふりをしてあちこち歩き回る。高校生になっても逃げ隠れしていた。
このころは怖いというより、中身が知人という照れもあったのかも知れない。
昭和53年に「男鹿のナマハゲ」の名称で国重要無形民俗文化財に指定されたナマハゲ行事。
他都道府県の方々の大半は秋田県内どこでも行われていると思っているようだが、この行事は男鹿半島のほぼ全域のみで行われているものだ。
赤鬼と青鬼に扮した若者の二匹で一組。そして「先立(さきだち)」という役目をする人達が一グループとなり各家庭を練り歩く。「先立」が先頭になり、玄関で入っていいかどうかの確認をし、了解を得たらナマハゲがウオー!と吠えながら乱入する。
むやみやたらに入るのではない。
その年に不幸や出産があった家には入れない仕来たりがあるからだ。
あらかた家の中を動き回った一行はご祝儀を受け取り、再び奇声を上げながら隣の家に向か
う。隣家から逃げ惑う子どもたちの叫び声や鳴き声が聞こえた。
言うことを聞かない子や我儘な子、勉強しないで遊んでいる子はナマハゲに連れて行かれ、懲らしめられるという迷信がある。
小学生以下の子を持つ親は、怖がる我が子を、わざとナマハゲに近づける。
これはのちに、言うことを聞かず悪さをした時「ナマハゲを呼ぶ」と言うと、いい子になるからだそうだ。
ナマハゲの衣装ケデから落ちた藁は、頭が良くなるとか風邪をひかないなどの御利益があるというので枕の下に入れて寝たものだ。
ナマハゲは地元で「お山」と呼ばれている本山・真山に鎮座する神々の使者と信じられていて、年に一度各家庭を巡り、悪事に訓戒を与え、厄災を祓い、豊作・豊漁・吉事をもたらす来訪神だという。
そのナマハゲの問いかける決まり文句を思い出した。
「怠け者はいねが」
います、います。私です。楽な方楽な方へと流されてばかりいる。
「泣く子はいねが」
ああ、私だ。いい恋をしていないと嘆いている。
「親のいうこと良く聞いてるが」
聞いてこなかった。何か資格を取りなさい、と口をすっぱくして助言していた母の言葉を聞く耳がなかった。
いくら精を出して一生懸命に働いても、貧乏から抜け出すことができず、稼ぐ速さより追いつき追い抜く貧乏神の方が速いなんて意味がない。
第二の人生を考えるいい時期かもしれない。
両親も老いてきた。何十年も二人だけの生活をさせてしまった。
そろそろ共に暮らすことも選択肢としてある。
ランチタイムにビルの外に出た。道を挟んだ東京タワー正門前の広場で、猿回しの芸が催されていた。さっきから聞こえていた声は、猿が芸をするたびにはしゃぐ見物の子供や大人たちのものだった。
貧乏神より、厄を祓い吉事をもたらしてくれる来訪神の方がいいに決まっている。
生まれ育った土地の風に身を委ねてみるのもいいかもしれないな、と猿を操る手もとの紐を見ながらそう思い始めていた。
2012年7月1日日曜日
パリのカフェ物語5 by Miruba
パリにいると「普段の食事はフランス料理ばかりですか?」と聴かれることがある。
まさかぁ。ほぼ日本風洋食か日本食ですよ。
世界中の人がそうだろうと思うけど、外国に住む人は例え本来の材料がなくとも、有り合わせでなんとか自国の懐かしい味を食べているものなのだ。
材料も大体は、スーパーで買えるし、今はグローバルの時代。お金さえ出せば、ごぼうや納豆だって日本食料品店に行けば何でもある。
ってんで、こんにゃくや日本のお米はさすがに近所のスーパーにはないので、メトロ一本15分ほどかかる「オペラ駅」の近くにある日本食料品店に買い物に行った。
さて帰ろうと思ったが、喉が渇いたので、カフェに寄ることにした。
街路樹のマロニエが高い穂状の花を咲かせている。日差しが暑くさえ感じるのだが、葉が生い茂りカフェのテラスの日陰になっている部分はだがまだ少し寒そうだ。
私は店内に入ることにした。片面はオープンカフェになっているので少し段差がある。
買い物のキャリーにこれでもかと詰め込んであるので、重くて上げられない。
ギャルソンに頼もうと思ったら、椅子に座っていた8歳くらいの女の子が急いで降りて来て「madame 、je vous aideマダム手伝うわ」とキャリーの下のほうを持ってくれた。
こういうところは本当にフランス人って教育が行き届いていると思う。
日本人の子供なら、まず手伝ってくれる子はいないだろう。
その思いはあっても、恥ずかしくて口が出せないに違いない。
「merci mademoiselle c'est gentil ご親切にありがとう」
私はお礼を言って、近くのテーブルに座った。
桜が散ったあとすっかり寒くなって冬に戻りそうだと思ったのに、昨日から突然暖かくなりはじめた。
来る日も来る日も曇りだった空が真っ青な空になり、花が咲き始め、鳥がさえずり、パリの一番良い季節を迎えたことが実感として目に入ってくる。
通りにはひっきりなしに車が通り、人も行き来が激しい。
それでもカフェに座っていると、どこかヨーロッパ独特のゆったりとした時間を感じさせるのだ。
ちょうどお茶の時間だ。私はタルトタタンというリンゴパイとダージリンのテ・オー・レを頼んだ。*The au lait (ミルクティー)
先ほどの女の子が私をじっと見ているのに気がついたので、声をかけた。
「あなた一人なの?」
「ううん、今パパはタバコを吸いに行ったの」
「カフェでタバコも吸えないなんて、ジャン・ギャバンが聞いたら泣くわね」
「だぁれ?その人」
「ああ、あなたが知るわけもないわね。昔の世界的に有名なフランス人の俳優よ」
「へーー、マダムは何処の国からきたの?」
「ジャポン(日本)よ」
「そうか、パパのコピンヌ(恋人)はシノア(中国)なの。ジャポンと近い?」
「まあね、でも全然違うけど」
「パパが中国に行っていたから、パパに会うの2ヶ月ぶりなの」
「そう、楽しかった?」
「うん、すっごく。ディズニーランドも行ったよ」
「それは良かった」
「でも、もうパパとお別れしなくちゃ、もうすぐママンが迎えに来る」
「そうか、でも、ずっとパパに会えない子より、たまに会えるのならあなたは幸せね」
「うん、クラスのルイなんかもう何年も会ってないんだって、だから私は幸せよね」
「そう思うわ」
彼女の携帯が鳴った。どうやらママンからのようで楽しそうに話している。
私はケーキを食べはじめた。美味しい。
田舎風のこのタルトタタンは、旅館業をやっていたタタン姉妹が、忙しさのあまりにうっかりパイを反対にしてしまった為にそのまま焼いたという失敗作成功のお菓子なのだ。
「ママン、うん、今パパはタバコ吸いに行っている。うん、わかった」
と言っているそばから、ママンがカフェに入ってきた。
女の子はママンとキスをした。
そこに、パパも戻ってきた。パパとママも抱擁しあい、キスをした。とても儀礼的だったけれど。
ママンが座って、パパはカフェを出て行った。
突然女の子はパパの後を追った。
交差点の前でパパにしがみつく。
パパは泣きそうな歪んだ顔をして女の子を抱きかかえた。
女の子の目を見て必死に何か語りかけている。
それはまるで、昔見た映画のワンシーンのようだった。
女の子はトボトボとカフェに戻ってきて、ママンの膝に顔をうずめ声を上げずに泣いている。
ママンは、そこが禁煙だというのに、タバコを出して吸い始めた。
煙が目に染みるのだろう。
涙を一筋流して。
カフェのギャルソンも、禁煙です、とは言わずにママンの前にコーヒーだけ置いていった。
春の空も気まぐれだ、先ほどまでの青空は灰色になり、雨がぱらついて、太陽が隠れた分だけ寒くなった。
嫌になっちゃう、荷物があるのに。
私は、マロニエの花を見上げながら、少し冷めかけた紅茶を飲み干した。
♪【Marie Laforet - Viens, Viens 】
歌:マリーラフォーレ<ヴィアン・ヴィアン>
太陽がいっぱいでアランドロンの相手役をやって有名になります。
今はスイス国籍だそうで、女優、シャンソン歌手です。
2012年6月23日土曜日
日本人が知らない韓国の常識10~昔話の悪役が現代社会の模範~ by 御美子
日本人観光客にも人気のあるプデチゲ専門の チェーンレストラン「ノルブブテチゲ」 |
ノルブが兄でフンブが弟なのだが、あらすじはこうだ。
兄ノルブが富裕な家の財産を全部受け継ぎ、弟フンブ家族を同じ敷地内に使用人として住まわせる。
ところが、ノルブの妻の「何故フンブ一家の面倒を見る必要があるのよ」という言葉をきっかけにフンブ一家は屋敷から追い出されてしまう。
子沢山のフンブは食べるのにも事欠き兄に助けを求めるものの、ノルブの妻に無碍に断られた上暴力まで振るわれる羽目に。
そんなフンブの家に怪我をした渡り鳥が舞い込み、心優しいフンブは手厚く看病し鳥は無事に旅立った。
翌年、鳥はフンブに恩返しをし、フンブは急に金持ちになる。
兄ノルブは弟フンブが羨ましくなり、鳥の足をわざと折って見返りを期待するが逆に落ちぶれることに。
その後兄フンブが恥を忍んで弟ソルブに助けを請うとソルブは快く兄家族を迎え入れ、兄弟仲良く暮らしましたとさ。という話である。
韓国で人気のレストランチェーンに「ノルブプデチゲ」というのがある。
「ソンブとノルブ」の兄の名前なのだが、日本人の感覚では、何故悪人ノルブの名前を使うのか不思議に思い、何人かの韓国人に尋ねたものの満足できる答えにはなかなか行き当たらなかった。
信頼できる韓国人友人から聞いた話によると、現代の一般的韓国人の感覚では、弟のソルブは「独立心が無く兄を当てにし貧乏子沢山で性格が卑屈である」
反面ノルブは「向上心があり着る物や食べ物にこだわる趣味人で好ましい」ということになるらしい。
現代の韓国人の価値観を象徴しているようで非常に興味深かった。
2012年6月16日土曜日
東京NAMAHAGE物語•8 by 勇智イソジーン真澄
<愛犬散歩で見たもの>
私にはずっと片思いの男性がいた。
彼に始めて会ったのは、共通の友人たちとの食事会だった。
誰かの誕生日、というとそれを口実にワイワイ集まり、楽しく飲み食いをする。
当初は10人近くいた仲間だが、年々減り始め、ここ数年は5人で集まることが定番になってきた。
照明器具販売の会社を経営している彼、カメラマンのカップル、スタイリストの人妻、そして私の5人だ。
私も彼も独身。
彼は私より一つ年下だ。
一つくらいの年の差なんか誰も気にしないだろう、彼も気にかけないだろうと思っていた。
ことわざにも「一つ姉は買うて持て」とある。
一つ上の姉さん女房は所帯のやりくりが上手なので、買ってでも妻にするとよいとのこと。
ほうらね、昔の人はいいことを言う。
まるで私のためにあるような言葉だ。
彼は藤井フミヤに感じも体型も似ていて、女を惹きつける魅力がある。
小柄な私は、小柄な男性も好きだ。
しかし、小柄な男性は自らにコンプレックスがあるせいなのか、なぜかスタイルのいい女性を好む。
それも若ければ、もっといいらしい。
人数が減った分、もちろん誕生日も少なくなった。
同じ月や近い月の誕生日は一緒に祝うので、食事会は年に3回程度に減少した。
それでも彼に会えるのが嬉しくて、私は誰かの誕生日が近づくと気持ちがウキウキしてくる。
ましてや自分の誕生日となったら大変だ。
自分がいくつになったかなんて、そんなこと考えていられない。
ただ彼と会えることが楽しみでしょうがないのだ。
いつまでたっても、この時ばかりは乙女心になってしまう。
何を着るかで悩み、美容院で髪をセットする。
くまのある疲れた顔はみせたくないので、前日には十分な睡眠をとる。
少しでも綺麗にみえるように、パックも怠らない。
なのに、彼は私のことなど恋愛対象としては眼中にないのだった。
それでも私は、気のあるそぶりを発散している。
しかしそれは、うるさいコバエのように、彼のどこ吹く風に追いはらわれてしまう。
けなげな私の心情は、蝿たたきで潰されたハエのようにペチャンコになる。
友人としての枠からはみださない、彼の付き合い方にも慣れてきた。
でも、私は友人以上になりたいと熱望しているので、何かことあるごとにメールをしてみる。
好きな人に相談を持ちかけるのは、会うきっかけを作りたいからだ。
律儀な彼は、すぐ返事をくれる。
が、その返信は他人事としての意見だけで、その度に私の期待は崩れてガッカリする。
しかし、なにか繋がっていたくてまたメールをしてみる。
仕事を探していた私は、その悩みを打ち明けてみた。
行き過ぎた年齢がじゃまをして、採用してくれる会社がない。
もしかしたら、彼の会社で働かせてくれないかな、と淡い哀願をこめてみた。
返事は「人生何とかなるでしょう、頑張って」だ。
定収入もないのに、今度は住んでいる賃貸マンションの立ち退き要請が襲いかかってきた。
にっちもさっちもいかなくなって、それも相談してみた。
彼は広尾ガーデンヒルズに住んでいる。
一人では広すぎる、余っている部屋があるはずだ。
僕のところに来れば、と言って欲しかったのに「ヒトには乗り越えられない試練はやってきません。
なぜなら全部自分が選んでいるからです。という事は楽しんでそれに向かいましょう!必ずなんとかなります」と励ましのお言葉のみ。
グループで集まる以外には、私と会う気はないらしい。
わかっちゃいるけど諦めきれない私の女心。
ヘビ年の私は、しつこさもトグロを巻いているようだ。
彼と一番仲の良いカメラマンの彼女が、彼と私がうまくいけばいいとなにかと情報を伝えてくれる。
彼女達に会うのも食事会のときくらいだから、時々メールを送ってくる。
会ったときには、さりげなく彼の近況を聞きだしてもくれる。
「旅行に連れて行きたいと思える、22歳の彼女ができた」と彼が言い出した集まりの日、私はショックを隠しつつ味のわからない食事をした。
いつもなら冗談を言っている私の口は、ワインばかり飲み込んでいる。
おかげで帰りは足元がふらつき、助けの手が欲しいところだったが、気丈に頑張った。
醜態を見せるわけには行かない。
でも、こんな無理に頑張るところも、彼の気にいらない私の一部なのかもしれない。
数日後、カメラマンの彼女から、あの子とは別れたらしいよ、とメールがきた。
やっぱり若い子は駄目よね、とコメントまで付いている。
そうすると、無理だと感じてはいても私の士気は高まる。
老いてからの恋は、十代に戻ったように加速する。
なにせ、先が短いのだから。
彼はマラソンに凝っていて、早朝、自宅界隈を走っているという。
レースにも参加するが、国内ではなく海外でだけ。
それもハワイ近郊で行われるレースかオーストラリアで開催されるもののようだ。
暖かく、走っている時に景色のいい場所が好きだからという。
だから、出張以外に、少なくとも年4回は渡航していることになる。
白いTシャツの似合う、彼の浅黒い肌の理由がわかる。
食事会のときには、レース時の写真を持参してくる。
私は彼の姿や景色を楽しく見ているが、もう一人の私は他の女性が写っていないかを確かめている。
そうして、女性が写っていないことで私は安心する。
そんな写真は除いてきたのかもしれないなどとは考えないし、彼ひとりの写真を誰が撮ったのかも問題にしない。
臭いものにはふたをしてしまうのが私の性癖だ。
私は毎年1度、マウイ島に行くのが恒例になっていた。
姉と一緒というのが寂しいが、同伴する男性がいないのだからしょうがない。
2年前、マウイマラソンに彼が参加すると聞き、私は姉を説き伏せ旅行日程をこの日に合わせた。
私たちは一週間マウイ島滞在、彼はレース前後の3日のみマウイ島で後半はオアフ島に滞在するのだという。
レース前日は体調を整えるためとかで私たちと会う時間はなかったが、レースの後に会う約束まではこぎつけた。
レース当日、ゴールに応援出迎えに行った。
早朝5時スタートなので、早起きの苦手な私は見送りには間に合わなかったのだ。
私が寝ている間に彼は走っていた。
そして、4時間50秒代でゴールに帰ってきた。
クタクタの彼に駆け寄り、回復するまで2人で芝生に座っていた。
ランニングシャツの胸が大きく揺れ、汗で光る筋肉質の腕は力を無くしていた。
持参したスポーツタオルをうなだれた彼の首にかけた。
会話をしなくても通じ合える、信頼し合ったカップルのように見えていたかもしれない。
ちょっとだけ恋人の気分を味わった。
その日のディナー、次の日の乗馬は姉も交え3人で行動した。
楽しかった。
彼もそうだったはずだ。
一人での食事はつまらないし、乗馬も友と一緒なら後で想い出を語れる。
遠く、それも海外まで応援に行ったのだから、私の気持ちを汲んでくれるんじゃないかと心待ちにしていた。
東京に戻ったら、なにかアクションがあるだろうと思っていた。
が、いつもと同じ、グループで会うことだけで他には何もなかった。
いい感じだと思っていたのは、私だけだった。
彼は愛犬の運動に、午前と午後の二回、広尾の有栖川宮記念公園を散歩しているという。
いまの時期は新緑がきれいだと聞いたので、森林浴にかこつけて行ってみた。
公園に初めて足を踏み入れた私は、その大きさと緑の多さに感動した。
入ってすぐに池があり魚釣りをしている人、ノンビリ浮かんでいるカモ、甲羅干し中の亀、悠々と泳ぐ鯉などが目に入る。
松の木に絡まるヘビを見つけたりも出来る。
近くに住んでいながら、なぜもっと早くにここに来なかったのだろう、と後悔した。
この公園は、いい具合にベンチがおいてある。
つかず離れず、それぞれがじゃまをしない配置だ。
そこに腰掛け、サラサラと鳴る枝の音や、流れる水の音を聞きながらの読書は実に気持ちのいいものだ。
彼と偶然会えたらいいと、下心ありありの行動だったが、そんなことはひととき忘れてしまっていた。
彼の愛犬はゴールデンリトリバー、名前はミックス。
ここは実に、この品種犬の散歩が多い。
大型犬を飼えるのは、それなりの大きさの家を所有しているということなのだろう。
平日なのに、働き盛りの人が犬の散歩をしている。
彼もそうだが、自分の自由になる時間を自分で決められる地位にいる人が多いのかな。
私が平日いられるのは、雇ってくれる職場がないからなのに、彼らとは雲泥の差だ。
何度目かの公園訪問をする時に、広尾橋交差点かどの神戸屋キッチンで1ピースのピザを買った。
彼が、とても美味しいと言っていたからだ。
聞いていたとおり温めてもらい、三軒先のマクドナルドでコーラも買った。
天気のいい日で、公園でのランチには絶好の日だった。
今日はどこのベンチで食べようか考えながら、ピザとコーラの入った紙袋を持ち公園に向かった。
あっ、彼! 前方に見覚えのある後姿があった。
ドキッとした。
もちろんミックスも一緒だ。
偶然会えたらラッキーだと思っていたのに、こんなにすぐ正夢になるなんて嘘みたいだ。
だが、いざ見かけるとすぐには声をかけられない。
高鳴る鼓動を抑え、息を整え、話しかける言葉を捜していた。
えっ、女性と一緒? 私の足は歩くことを止め、わなわな震えていた。
彼が振り向きそうで、私は思わず自動販売機の陰に隠れた。
悪いことをしているわけでもないのに、なぜかこそこそしてしまう。
偶然といえない下心があるからだろうか。
相手に伝わらない、自分の気持ちが重すぎるからだろうか。
本当に2人連れなのか、もしかしたら歩道が狭いので、たまたま並んで歩いている他人同士かもしれない。
後者であって欲しいと願いつつ、私は物陰から2人と1匹を見ていた。
2人と1匹は、同時にナショナルスーパーマーケットの前に立ち止まった。
やっぱり一緒だったのだ。
胸からスーッと寂しさが落ちていき、息が一瞬止まった。
息をつめたまま彼らを凝視している私の顔は、食べ残されて時間がたった刺身のように変色していたに違いない。
彼らはテイクアウトのコーヒーを買っている。
それも1つだ。
ということは、一つを二人で飲むのよね。
普通の関係じゃないんだ……。
私は温めてもらったピザが冷めるのもかまわず、公園に入っていく2人と1匹をただじっと見つ
めていた。
彼と偶然に会い、そこから運命を切り開くという私の野望は、幻に終わった。
相手のことを考えもせず、自分の思い込みのまま行動し、物陰から覗き見してるなんてなんだかストーカーな気分だ。
この日私は、彼の彼女とストーカーになりえる自分の姿を見てしまった。
このまま、ここにいては自分が惨めになるだけだ。
私は踵を返し、公園に背を向けた。
(了)
2012年6月9日土曜日
新作噺「キツネのムコ入り」 by k.m.Joe
コンコンコココン、コンコココン、コココンコココン、コココンコン・・・
えー、毎度バカバカしいお噺を一席。
昔から、キツネやタヌキは化けて人をダマすてな事を言います。
それでも、タヌキは体も丸っこく、顔も愛嬌がありますから、ダマされてもイタズラされたみたいな感じですかな。一方キツネの方はツンとしたすまし顔ですから、ダマされた後味が良くない感じも致しますな。まぁ、実際はどうなんでしょうか。
もっとも、キツネだろうが、タヌキだろうが、人間の化けっぷりやダマし合いに比べたら可愛いらしいもんですがね。
ある街に、里山と呼ばれる小さな山がありまして。人間たちは知りませんでしたが、ここにキツネの一族が住んでおりました。
キツネの世界では、人間に化ける事が出来て初めて「一人前」だそうです。正確にはキツネだから「一匹前」かも知れませんが。
化け方を教える学校まであるそうですな。そこを無事に卒業すると、麓の街や少し離れた街に「留学」する事も出来るそうで、実はそのまま戻って来ないで人間として一生を終えるものもおるそうです。麓の街での油揚げの消費量が全国的に見て高い理由を、分かってないのは人間たちばかりなんですな。
キツネが人間界に混じっても、決してトラブルを起こしません。人間相手に感情を高ぶらせると、元のキツネに戻ってしまうからなんです。しかも、一度戻ると二度と化けられなくなる。
「化けないキツネはただのキツネだ!」と罵られ、群れから追いやられてしまうんですな。ですから、誰も留学中には無茶な事をせず、仕事や勉強を熱心に務め上げるってえ寸法です。
さて、忠八(ちゅうはち)という名前の若いキツネが居りまして、今度初めて留学する事になりました。実は忠八には秘かに想いを寄せる女狐が居りました。紅子(べにこ)という歳上の女ですが、紅子は忠八の気持ちなど知らず、一年前から麓の街で働いて居ります。
働いていると言えば、人間に化けたキツネ族には共通点があります。「コン」という言葉に敏感なんですな。自分たちの鳴き声を連想して落ち着くんでしょうかな。働き場所も「コン」の付く所を好みます。
紅子は結コン式場に勤めております。他の仲間たちはと言いますと、コンパニオンにコンサルタント、コンダクターやコントラバス奏者、ゼネコン関係・生コン関係、コンニャク農家に大コン農家、ボディコン・ミスコン、うっはうは(笑)・・・あ、こいつぁ失礼しました(汗)。
ま、とにかく山を降りた忠八は、紅子がいます結婚式場へ向かいました。街の様子は話には聞いていたものの、驚きの連続です。あちらこちらとヨソ見して歩くもんですから、とうとう女性にぶつかってしまいました。
「あ、どうもすいません」ペコペコ謝る忠八を、女性はニコニコしながら見続けております。まぁ、愛しの女性に気が付かないのも情けない話ですが・・・。
「何だい、忠八。アタシがわかんないのかい?」「あッ、紅子姐さん!」人間に姿を変えているとはいえ、キツネ一族同士は直ぐに分かるもんです。忠八、よほど舞い上がっておったんでしょうな。
キツネの中でも美キツネで通っておりました紅子、人間に化けてもなかなかのものです。切れ長の一重まぶた、キレイに通った鼻筋、尖ったようにスラリとしたアゴ、小麦色の肌、正に理想的なキツネ美人であります。
忠八は取り敢えず、紅子と同じ結婚式場に勤める事になりました。甥という名目です。根はマジメなもんですから、よく働き、職場の信頼も得ていきました。
それでも、忠八の内心は毎日ドキドキしております。原因は紅子ですな。一緒のマンションに住み、あれこれ世話を焼いてくれる姿や、無防備にリラックスした様子からスヤスヤ寝顔まで見るにつけ、恋心は燃えるばかりでございます。今日こそは気持ちを伝えよう伝えようと思う内、日にちは過ぎるばかりです。
そんなある日、仕事が終わって、紅子が運転する車で家路を辿っている時の事でございます。カーラジオから「コンドミニアム」という言葉が聞こえてきました。その他の部分は聞こえなかったのですが「コン」が付く言葉は記憶に残ります。
「紅子姐さん、コンドミニアムって何です?」
「エッ?コンドミニアム?そりゃあ、お前あれだよ。どう説明したらいいかねぇ。あのー、そのー」
結局、紅子も知らないんですがね(笑)
「まだ若い内からそんな事は知らなくていいよ!」
と、妙な言い訳をしたちょうどその時、左の歩道からスケートボードを履いた若者が飛び出して来ました。ぶつかりはしませんでしたが、若者はバランスを崩し膝を着いてしまいました。しかし、どうもわざとらしい。連れらしい男たちが3人ほど、ニタニタしながら近づいてきます。どうも、あまり素行の良さそうな連中ではございません。
紅子も察したものの、人間界でのトラブルは御法度です。何とか収めようと、大丈夫ですか?と低姿勢で話しかけていきました。
「ちょっと、オバチャン。ヒロシが痛がってるよ。どうしてくれるの?」
そう言った男は紅子の手を思いっきり引っ張ったもんですから、紅子はバランスを崩し、歩道に転がってしまいます。からかうように男達は倒れた紅子を足で小突いたりし始めました。
さあ、忠八は堪りません。最初に手を引っ張った男に飛び掛り、首を絞め始めました。不良どもは突然のことで動きが止まったのですが、さらに忠八の形相を見て固まりました。狐に戻りかけているようで、顔は徐々に尖り、唸り声を発し始めています。おまけに目は白眼を剥き始めています。
紅子は驚き、「あんた達、逃げなさい!」と若者達に言うやいなや忠八を男から引き離し、車へ急いで連れ戻り、猛然と走らせました。部屋に着くと、まだ唸り声を上げる忠八を抱え上げベッドに寝かせます。ズボンのお尻の部分も膨らみ始めました。尻尾が生え始めているようです。紅子はこういう場合の処置も習ってはいるのですが、慌てて何も思い出せません。ここで忠八が狐に戻る事は死に等しいのです。
紅子はひたすら、忠八の口先とお尻を両手で押さえ込み、「忠八、忠八・・・戻るな、戻っちゃダメ!」と耳元で怒鳴るばかりです。涙をボロボロ流しながら声が枯れるまで忠八の名を呼び続けました。
電気も点け忘れた室内がすっかり暗くなった頃、忠八は身体に重みを感じ、目が覚めました。紅子が自分の顔に顔を重ねているのに気がつくとビックリし、起き上がると同時に紅子の両肩を揺さぶりました。「紅子姐さん、紅子姐さん」。すっかりくたびれ果てた紅子でしたが、人間の姿になっている忠八を見ると、「ちゅうはちー」と喜びの余り抱きしめました。
忠八の記憶も徐々に戻りました。自分が狐に戻ろうとするのを紅子が必死に引き戻してくれた事も状況から察しました。「紅子姐さん。すみませんでした」抱きついたままの紅子の耳元に、彼は遂に思いのたけを告げました。「紅子姐さん、俺と結婚してくれませんか?」。
叱られるか笑われるかと思いきや、「いいよ」と素直に返す紅子でした。紅子には忠八の気持ちが十分判ったし、自分が忠八を思う気持ちにも気づかされたんですな。
さてさて、愛のムードが高まってきた二人ですから、当然そういう事になっても良いわけですからそういう事になりました。
「ところで、忠八、お前、アレは持ってるんだろうね。私はできちゃったコンなんて嫌だよ」
純朴な忠八、ピンときません。「アレ、ですか?」
「コンで始まるヤツだよ」「コン・・・」「ああ、じれったいね。女のアタシに言わせるのかい。コ・ン・ド」「コンド」忠八、やっと解りました。「アッ、コンドミニアム!」
「バカーー!」
いやいや、夫婦になっても力関係は恐らく変わりませんな、この二人。それでも、その夜の内にムコ入りは無事済ませたようでございます。
まあ、とりあえず、コン!グラッチュレイション!ってとこですかな・・・お後が宜しいようで。
コンコンコココン、コンコココン、コココンコココン、コココンコン・・・
2012年6月2日土曜日
パリのカフェ物語4 by Miruba
<Chapitre Ⅳ ギャルソン>
桜が終るとマロニエの花が咲く、落葉樹ばかりのパリの街路樹に、あっという間に若葉が茂る。ニセアカシアの花が空に舞う。パリの一番美しくなる季節だ。
夏のような太陽が照りつけるなか、私は道を急いでいた。語学の交換レッスンの約束をしているのに、メトロがポイント故障で止まってしまった。すぐに動くようなことを言うので、無駄に待ってしまったのだ。
3駅ほどの距離だったので、他の線に乗り換えるより歩いたほうが早い。遅れることを電話をしたくとも、運の悪いことに携帯の電源が切れていた。携帯電話の普及で公衆電話を見つけるのは至難の業で、連絡のとりようがない。
とにかく友人宅へ急いだ。やっとたどり着いた友人宅の玄関先で、出かける様子の彼女とかちあった。遅れた詫びをする私に、友人も急用で出かけなくてはいけない、と謝る。電話をかけたけれど、でなかったという。そりゃそうだ、携帯は不通だったのだから。
私は、メトロに急ぐ友人を見送って、かえってほっとしていた。もう一時間近く遅れていたのだから。友人のアパートの前にカフェがあった。
赤いテントに南仏の町の名前が書かれてある。
小さな店内の倍くらいの広さで歩道にテーブルと椅子が並んでいる。
そうだった、携帯が無くたって途中のカフェに寄って、電話をかけたらよかったのだ。
携帯に頼っているから、他のことが浮かばない自分に「ばかだな」と自分を笑う。便利になった弊害だな。
気持ちのよい風が吹いてきたので、テラスに座った。
蝶ネクタイとベスト姿も決まった中年のギャルソンが注文を取りに来る。
走ったので喉が渇いていた。
「Un demi s.v.p 生ビールをください。」私は一気に飲んだ。
「あ~最高!」散々歩いた後の、こういうビールが一番美味しい。
「Monsieur,un autre s.v.p ムッシューおかわりください」
立て続けだもの、驚くのは無理も無い。言っておくけれど、私はアル中じゃないわよ。
ギャルソンの視線を感じたので、言い訳がましく、仕上げのコーヒーを頼む。
見ると、なにか問いかけたそうにしている。
「Madame、ニースの〇〇〇レジデンスにいませんでしたか?」
「・・・ええ、もう十年にはなるけれど、・・・あ、あなたは・・・」
なんと、レジデンス内にあったカフェのギャルソンだったのだ。
塀に囲まれた10棟ほどのリゾートマンションの一室を所有していて、毎年夏には一週間から数週間ニースで過ごした時期がある。そこのレジデンスにあったプールの脇にカフェがあったのだ。
ニースの海は砂ではなく砂利だ。波も荒く真夏でも海水温度は低いために、海のそばにいながら、泳ぐのはもっぱらプールだ。朝はレジデンスの住民のためにパンも売っていたので、そのカフェには毎日通っていた。
すっかりロマンスグレーになってはいたが、確かに、この人だ。
「お元気でしたか?」
お互いに懐かしく、抱き合って頬にキスをしあった。
若いときは都会で暮らし、年をとったら南仏に住むのがフランス人の普遍的な夢だ。
なのに逆に、ニースからパリに来ている人とは珍しい。
「いえね、ここのカフェのオーナーに引き抜かれたんですよ」
ああ、それで、カフェの名前も南仏の町の名前なのか・・・
だがそれも、今年で辞めるのだという。
「私はやはり、Midiミディ(南仏)の人間なんですよ。パリは息苦しくてね。またニースに帰ります」
南仏訛りの残る人懐こいギャルソンは、パリの空を仰ぎならがそういった。
彼はポケットから携帯電話を取り出した。
「Madame、携帯の番号は、一生変えないつもりです。いつか、ニースにきたら、絶対電話してください。また、どこかのカフェに勤めるつもりです。ビールを奢らせてくれませんか?」
彼の携帯番号を記録しようとして、自分の携帯の電源が切れていること思い出した。
手帳を取り出し、電話帳に彼の携帯番号を記入した。結局これが一番安心だ。
何処からか、するはずのない南仏の、ラベンダーの香りがした。
【ジョェ ル タクシィ 】 歌 ヴァネッサ・パラディ
Joe le taxi Vanessa Paradis
1987年Joe Le Taxiで歌手デビュー,11週連続でナンバー1となる大ヒットを記録。当時フランスではおとなの歌手しかほとんど売れず、ヴァネッサのような、日本的アイドルは本当に珍しく、舌足らずな歌声で人気をえました。
2012年5月25日金曜日
時は流れて5…by Any Key(あにき)
父は大正の最終年生まれで、長兄とは17歳年が離れていた。したがって、私と従姉妹ともかなりの年齢差があった。伯父の家を訪ねた小学生の頃、従姉妹四人はすでに大学生か会社勤めをしていた。完全に“お姉さまたち”であった。両親と伯父夫婦が世間話に夢中のとき、暇を持て余した私はガラステーブルの上にある、写真集みたいなものをペラペラめくっていた。非日常的な、それは華やかで、時に奇抜な洋服を着ている女性たちが写っていた。男兄弟の私には全くわからない雑誌(写真集?)だったが、妙に気になる“存在”でもあった。それ以降も、伯父夫婦を訪ねた際は、一人でその雑誌を手にしていた。
やがて、1980年代を迎える。DCブランドのブームが本格化した時代だ。私は大学生となり、バイト全開、収入の殆どは洋服代へと消えた。新進気鋭のデザイナーたちは、大量生産型のアパレル企業と対極にある「差異化、少数派」の個性的なデザインを次々と発信。POPEYEやananといった雑誌も強力に流行の後押しをした。全国にDCブランド旋風が吹き荒れた。カラス族と揶揄され、ハウスマヌカンなる言葉も生まれた。バーゲンともなればそれはそれはすごかった。行列に行列が重なる。開店と同時にお目当てのブランドに突進。それがニュースで放映される。テレビに出演するタレントたちもDCブランドを身に纏う。だれそれが○○ブランドを着ているという話が仲間内で話題になったりもした。
当時280円で毎週金曜発売のananを大学卒業まで買い続けた。モデルは甲田益也子さん、くればやし美子さんが中心だったと記憶(林マヤさんもいたような)。イラストレーターの大橋歩さんのコーナーもあったな。で、なんでananを買い続けたか?それは、単純に綺麗で面白かったから。男性雑誌に無い香りがあった。コーディネート、色使いは断然女性ファッションが参考になった。じゃあ、何がきっかけで手にしたのか? たぶんそれは、冒頭の私のお姉さまたちの雑誌がananだったからなのか・・・と今になって思う(確証はないけど)。
DCブランドにハマった学生時代が懐かしい。個人的には、川久保玲の COMME des
GARÇONS HOMME が好きだった。定番のセーターは、今でもあの時代の象徴としてタンスの奥で眠っている。
やがて、1980年代を迎える。DCブランドのブームが本格化した時代だ。私は大学生となり、バイト全開、収入の殆どは洋服代へと消えた。新進気鋭のデザイナーたちは、大量生産型のアパレル企業と対極にある「差異化、少数派」の個性的なデザインを次々と発信。POPEYEやananといった雑誌も強力に流行の後押しをした。全国にDCブランド旋風が吹き荒れた。カラス族と揶揄され、ハウスマヌカンなる言葉も生まれた。バーゲンともなればそれはそれはすごかった。行列に行列が重なる。開店と同時にお目当てのブランドに突進。それがニュースで放映される。テレビに出演するタレントたちもDCブランドを身に纏う。だれそれが○○ブランドを着ているという話が仲間内で話題になったりもした。
当時280円で毎週金曜発売のananを大学卒業まで買い続けた。モデルは甲田益也子さん、くればやし美子さんが中心だったと記憶(林マヤさんもいたような)。イラストレーターの大橋歩さんのコーナーもあったな。で、なんでananを買い続けたか?それは、単純に綺麗で面白かったから。男性雑誌に無い香りがあった。コーディネート、色使いは断然女性ファッションが参考になった。じゃあ、何がきっかけで手にしたのか? たぶんそれは、冒頭の私のお姉さまたちの雑誌がananだったからなのか・・・と今になって思う(確証はないけど)。
DCブランドにハマった学生時代が懐かしい。個人的には、川久保玲の COMME des
GARÇONS HOMME が好きだった。定番のセーターは、今でもあの時代の象徴としてタンスの奥で眠っている。
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