2012年5月25日金曜日

時は流れて5…by Any Key(あにき)

<DCブランド狂想曲>
父は大正の最終年生まれで、長兄とは17歳年が離れていた。したがって、私と従姉妹ともかなりの年齢差があった。伯父の家を訪ねた小学生の頃、従姉妹四人はすでに大学生か会社勤めをしていた。完全に“お姉さまたち”であった。両親と伯父夫婦が世間話に夢中のとき、暇を持て余した私はガラステーブルの上にある、写真集みたいなものをペラペラめくっていた。非日常的な、それは華やかで、時に奇抜な洋服を着ている女性たちが写っていた。男兄弟の私には全くわからない雑誌(写真集?)だったが、妙に気になる“存在”でもあった。それ以降も、伯父夫婦を訪ねた際は、一人でその雑誌を手にしていた。

やがて、1980年代を迎える。DCブランドのブームが本格化した時代だ。私は大学生となり、バイト全開、収入の殆どは洋服代へと消えた。新進気鋭のデザイナーたちは、大量生産型のアパレル企業と対極にある「差異化、少数派」の個性的なデザインを次々と発信。POPEYEやananといった雑誌も強力に流行の後押しをした。全国にDCブランド旋風が吹き荒れた。カラス族と揶揄され、ハウスマヌカンなる言葉も生まれた。バーゲンともなればそれはそれはすごかった。行列に行列が重なる。開店と同時にお目当てのブランドに突進。それがニュースで放映される。テレビに出演するタレントたちもDCブランドを身に纏う。だれそれが○○ブランドを着ているという話が仲間内で話題になったりもした。

当時280円で毎週金曜発売のananを大学卒業まで買い続けた。モデルは甲田益也子さん、くればやし美子さんが中心だったと記憶(林マヤさんもいたような)。イラストレーターの大橋歩さんのコーナーもあったな。で、なんでananを買い続けたか?それは、単純に綺麗で面白かったから。男性雑誌に無い香りがあった。コーディネート、色使いは断然女性ファッションが参考になった。じゃあ、何がきっかけで手にしたのか? たぶんそれは、冒頭の私のお姉さまたちの雑誌がananだったからなのか・・・と今になって思う(確証はないけど)。

DCブランドにハマった学生時代が懐かしい。個人的には、川久保玲の COMME des
GARÇONS HOMME が好きだった。定番のセーターは、今でもあの時代の象徴としてタンスの奥で眠っている。

2012年5月18日金曜日

パリのカフェ物語3 by Miruba


<Chapitre Ⅲ ミラーボール>

シャンゼリゼ大通りをちょっとはいったところに、コーヒーも出すダンスサロンがある。

 黒い縁の格子とガラスの壁面に黒い扉、見落としてしまいそうな看板だが、中はミラーボールがいくつもひかり、狭いフロアーは人で一杯だった。

 場所柄なのか、いかにも高級そうなスーツを着て蝶ネクタイの恰幅のいい紳士や、ブランドで身を固めた金髪のご婦人が軽やかに踊っていた。

 サルサの曲が流行り、若い人たちもたくさん踊っていた。フロアーの一角はバーカウンターがあり、バーテンダーはみなハンサムだった。

 綺麗にお化粧をして年齢を一つでも若くしたいご婦人の肩に手をやって、優しく微笑む年の離れた若いジゴロが、止まり木に半ば腰掛けるようにして寄りかかっている。

その隣には、モデルのように美しく若い女性が、葉巻をくゆらす年配の男性の頬にキスをしている。

半円形になったソファーが、フロアーを囲んでいくつも並んでいた。それさえ満杯で席に座れない人は、物欲しげでなくさりげなく、さりとて自己PRの笑みを絶やさず、踊る相手を探して、テーブルの周りを行き来している。


そこのサロンの指定の足型で踊る時は、全員参加をして、フロアーは笑いに満ちた。

私は、一緒に行った恋人と散々踊って汗をかき、席に戻る。扇子を取り出し、顔を扇ぐ。さっき注文したジントニックの氷が解けて生ぬるくなっていたけれど一気に飲み干した。

「まず~い」そう言って、彼と高揚した笑いを交わした。



溢れる音楽に、体は何時までもダンスを求めた。


「マダム、お一人ですか?この年寄りと踊ってはもらえませんかね」

その声に、私は「はっ」とした。



今まで見ていたのは、過去の幻想か? まだ氷も解けていないジントニックを、一気に飲み干したために、酔いが一度に回ったのだろうか。

一緒に頼んであったコーヒーを流し込んだ。

真っ黒のエクスプレス。

そのまずい苦さに顔を思わずしかめる。


アルゼンチンタンゴの切ない曲が耳に入ってきた。私は、優しそうなその年配の紳士に手を預け、立ち上がった。 踊る人が少ないから、狭いホールがやたら広く感じる。ミラーボールが、角の破けた皮のソファーを白々しく照らす。バンドがいた「お立ち台」も、ガランとして、間が抜けた空間になっていた。

十年ぶりにふらりと覗いてみたダンスサロンだった。

 受付の女性も、そのとき若かったバーテンダーも、踊っている紳士淑女も、タイムスリップをし・・・・そこにいた。

 時の流れの残酷を見た気がする。それはまるで、場末のダンスホールだった。


あの華やかな時代に毎晩踊り明かした恋人とほんの数時間前、別れたばかりだった私は、驚く紳士の肩を借りて、涙を流しながら時間の流れをステップにたどった。




Jane Birkin - Je t'aime moi non plus - 1969

 ♪「ジュテーム モワノンプリュ 」歌ジェーンバーキン

前歯がすきっぱで片言のフランス語が可愛い女性です。

題がまずセンセーショナルでした。本当は、「je t'aime,moi aussiジュテームモワオゥシー」という言い方なのです。フランス語の先生は認めませんでしたね。私は愛していない、と言ったとき、「Je ne T'aime pas ,moi non plus 愛していないわ、わたしもよ」といえるのですが。

私は愛しているといいながら、否定している。でも、これって、日本人ならその気持ちも言い方もなんとなくわかりますよね。

ジェーンバーキンの夫セルジュ・ゲンズブールの曲なのですが、彼はそれ以前にB.B.ブリジットバルドーと同じ曲を吹き込んでいました。退廃的だと、ヨーロッパ中で非難ごうごうだった曲ですが、でも、愛の歌ですからね、ひきつけられてしまうのです。




2012年5月11日金曜日

春夏秋冬 廻りゆく命 by やぐちけいこ


それは一通の封書が私宛に届いた事から始まった物語。差出人の名はどこにも書かれていなかった。
普段ならそのままゴミ箱行きなのだが、開封しようと思ったのは、あまりにも自分の名が綺麗な文字で書かれていたからだろう。
伸び伸びとして流れるようにしたためられている文字。
こんな綺麗な字を書ける人はいったいどんな人物なのか興味が湧いたから。それは奇妙な内容だった。


この世に生を受け、愛情を知る。
自分の世界が全てで他の世界などどこにも無いと思っていたのではないだろうか。
何の悩みも無く、ただただ生きる事だけを使命としていた。暖かい愛情を与えられながら。
これからいったいどんな人生を歩むのか無限の可能性を秘め幸せを感じていた。


初めて好きな人が出来た。人の気持ちの難しさや切なさを知った。いろいろな悩みもあった。
自分の周りにはたくさんの友人や肉親がいるのにも関わらず何故か孤独感と戦っていた。
誰も自分の事を分かってくれない。他人が羨ましいと思ったりもした。
その時は気付けなかった。自分が相手を理解しようと努力していなかった事を。
自分の狭い世界が全てだと驕っていた。

ある日、大好きな友達と大喧嘩した。本音をぶつけ合った。しばらく口も利かなかった。
そんな時素直になれず、独り涙を流した。
改めて友達のありがたみや大切さを知った。
いろいろなモノに守られながら人生を謳歌していた思春期だった。


愛する人と巡り合い結ばれた。
小さな家族も増えた。無防備に愛情を求めてやまない小さな命の偉大さを知った。
無垢で穢れを知らない赤ん坊はどんなものよりも大きな存在だった。
この子のためなら自分をも犠牲にできるとも思った。
守ってあげたかった。ただ笑っていて欲しかった。
わが子の成長と共に自分も成長していった。
その度に今まで見えなかった事や気づきもせず通り過ぎていた些細な物事に気づかされた。

自分は独りで生きてきたのでは無い。

周りの愛情に気付けなかっただけだ。親の存在の大きさを知った。
何て自分は勝手気ままに過ごしていたのだろう。

子どもが自分のそぐわない事をするようになった時、思わず手をあげてしまった。
痛かった。手より心が痛かった。自分の情けなさを思い知る。
子どもの綺麗な瞳は有りのままの自分を映し出していた。


自分でも老いたなと思うようになった。
目も悪くなったし、所々身体の痛い場所も出てきた。
何より思い出せない事柄が多くなってきたように思う。
今まで大きな病気もせずここまで生きてこられたことは何よりも幸せなことだ。

あの時の小さな我が子はいつの間にか親になっている。自分にも孫ができたのだ。
あと何年 孫の成長を見る事が出来るだろう。
お宮参り、幼稚園入園、小学校卒業。どんどん孫は大きくなり自分はどんどん年老いた。
中学校へ通うようになり、あっという間に高校を卒業し立派な大人になった。
自分はそれを病室で見守ることになる。

あと何年、あと何カ月、あと何日生きていけるだろう。
最近夜眠るのが怖い。
もしかしたら朝目覚めないのではないかという恐怖感があるのだ。
まだ自分の人生にやり残したことがあるのかもしれない。
だから起きられない事が怖いのだ。こんなに長く生きてもまだ何をしたいのか自分では分からない。
幸せな一生だった。
平凡で何の変哲もないどこにでもある人生だったけれど、それが自分の生きた道だと誇れる。
いまさら新しく何かをしようとは思わない。なのに何が怖いのだろう。

もうすぐ自分は命が尽きる。その前にやり残したことがあるのだろうか。
毎朝目覚めた時に感じる安心感と疑問。自分の細くなりすぎた手をじっと見つめる。
何故か涙がこぼれた。
この手の中に自分の人生が詰まっているのだ。
誰にも渡せない自分だけの生きた標(しるし)。涙だけでは無い、目が霞んで見えなくなってきた。

誰かが自分を呼んでいる。それにはもう答える事が出来ない。
自分はとうとう旅立つ時を迎えたのだ。
ほらそこに手を差し伸べてくれる綺麗な女神が見える。

その女神が自分に問う。最期に伝えたい言葉はありますか?と。

あぁ、そうだ。自分はまだみんなに伝えていなかった。だから今伝えよう。
『ありがとう』と。そして『幸せだったよ』と。
きっと声にはならなかっただろう。それでもきっと伝わったに違いない。
心がこんなに晴れ晴れとしているのだから。
心からありがとう。この命が誰かに受け継がれる事を信じて。


手紙はそこで終わっていた。何と奇妙な内容なのだろう。
気づけば私は涙を流していた。とめどもなく流れ落ちる涙。
送り主はこれを私に読ませて何が言いたかったのだろう。それはいまだに分からない。
もしかしたら私が死ぬときに初めて理解できるのかもしれない。それならまだまだ先の話だ。
きっと分からないままでいいのかもしれない。相変わらず綺麗な字が並んでいる。
乱れることもなく淡々と綴られた文章。

それを封筒に丁寧に戻し、引き出しに閉まった。いつしかそれは私の心の宝物になった。
手紙の内容は理解出来ないままに。



2012年5月4日金曜日

パリのカフェ物語2 by Miruba

写真:テクノフォト高尾
<Chapitre  Ⅱ 傘>

PTT(郵便局)で、日本宛の手紙に、シャガールのデザインがほどこされた大振りの記念切手を貼って、エトランジェー(外国)の投稿口に、一通また一通と落とし込む。

「きっと喜んでくれるわ」独りよがりに、相手の喜ぶ顔を想像し、嬉しくなってニタニタしてしまう。

そんな気分も、あっという間に消えた。
さっき横に立て掛けて置いたはずの、買ったばかりの大ぶりの傘が無くなっているのだ。持ち手部分の木の肌触りが気持ちよく、とても気にいっていた。

_やられた_
誰かが持っていったのに違いない。周りを見回したが、それらしい人がいるわけも無かった。腹立たしい。
全くどういう国だろうね、人の物を勝手に持っていくなんて泥棒の国だよこりゃ。
などと嘆いたものだが、今にして思えば日本も大して違わない。
「忘れられている(ような)人の傘を持っていくことが何で悪いの?なんて、開き直る人がいる世の中だもの」

しかたがない、雨の中を歩くしかない。
外に出ると、霧雨になっていた。
高速道路の高架がすぐ横を走っているので、酸性雨が降り注いでいるのかもしれないが、頬にかかるちょっとヒヤッとした水滴が気持ちよく、霧雨の中をとぼとぼ歩きはじめた。

だが、直ぐに雨脚が強くなってきた・・・やばい。
駅外れにあるカフェに飛び込んだ。



エクスプレスをやめてノワゼットにした。(noisette ミルク入りエクスプレス )
 少しからだが冷えた気がしたからだ。

ふとみると、見たことがあるような傘がカウンターの端に立て掛けてある。
その横には若い男がタバコをくゆらしながら、コーヒーを飲んでいた。

ちょっとドキドキした。絶対あれ私の傘だよな・・・う~ん、違うかな。

男がトイレに行った。
その間に私もトイレに行くふりをして、傘を確認した。
やはり、私の傘だ。
私は、その傘を持って行こうとした。

「おいおい、マダム、人の傘を持っていっちゃいけないな」

席に座っていた年配の男性が、私に声をかけた。何とはなしに見ていたのだろう。

トイレから戻った男の視線とぶつかった。

私は、席に座っていた紳士に言った。
「さっき、この人にこの傘を貸したのです」

紳士が、怪訝そうな顔をして、男の返事を待つように、彼を見た。
男はめんどくさそうに答えた、「C'est ca  (そうだよ)」

紳士が吐き捨てるように、「レ・ミゼラブルか」といったので、私はカチンと来てしまった。

「ここに日本語で私の名前が書いてあります、先ほど郵便局で行方不明になりました。偶然ですが、私の傘は、ここに現れました」

男は何も言わず走り去るようにカフェを出て行った。

今度は紳士が、あわてた様子を見せた。
「なんてこった。<神父>はあなただったのか?」と、指先で頬をかいている。

私は思わず笑った。
「暴露しては<神父>ではないでしょう。貴方は間違っていませんでした。
私の行動は、不審を与えるに十分でしたもの」

紳士が、お詫びにコーヒーを奢らせてくれと言ってきかない。
雨にぬれたから寒いでしょう。とcafe au lait を頼んでくれた。

紳士とは少しの時間、「モラル」について話をした。
あったかいカフェ・オ・レは、心も暖かくするようだった。

その傘は、いったんは私の手元に戻ったが、再度、どこかで無くしてしまった。
縁の薄い傘だったのかもしれない。



♪シェルブールの雨傘  唄 ダニエル・リカーリ
Les Parapluies de Cherbourg    Danielle LICARI

1963年、シェルブールの雨傘でカトリーヌドヌーブの吹き替えを担当して知名度を上げました。カトリーヌの声はキンキンしてよくないし歌も歌えないからでした。

1970年に「ふたりの天使」で人気を決定付けますが、ポールモーリアの1971年のヒット曲「エーゲ海の真珠」 において、スキャットをダニエル・リカーリが謳ったことで、広く世界でも知られるようになりました。美しく澄んだ声が、人々を惹き付けました。