2012年8月25日土曜日

暁焰の怪異万華鏡2 by 暁焰


<ベンチ>
Yさんが大学生の頃の話である。
進学することになったのは、隣の県にある国立大学で、自宅から通うには少し時間がかかる。そのために、Yさんは自宅を離れ、大学近くの街でアパートを借り、一人暮らしをすることになった。
実家を離れるのは、生まれて始めてのことで、見知らぬ街での生活に、最初は戸惑いはしたものの、活発で明るい性格のYさんは、すぐに大学での生活に馴染み、サークルにも加入して、友人もできた。
一学期目が終わる頃、やはりサークル活動を通して、恋人が出来た。相手は、同じサークルの一つ上の先輩であり、Yさんも少なからず好意を抱いていたので、告白されて、すぐに付き合うことになった。
最初は学校で一緒に時間を過ごしているだけだったが、そのうちに、休日、どこかにデートに出かけよう、と誘われた。繁華街のある隣町で、食事をして、映画を見て…と、プランを立てていることを、仲の良い友人に話すと、友人は自分のことのように喜んでくれたものの、一つだけ、不思議な忠告をしてくれた。
「S公園あるでしょ?あそこ、恋人同士では行かないほうがいいらしいよ?特に、夕方とか、夜とかは」
S公園はデートをする予定の隣街にある市民公園で、海が見えることから、デートで訪れるカップルも多いと、Yさんは聞いていた。どうして、行かないほうがいいのかを尋ねても、友人も理由までは知らないようだった。
「うーん、なんでかはわからないんだけど…。行かない方がいいんだって。あれじゃない?ほら、恋人同士で行くと、別れる、とかそんなジンクスっぽいの」
理由まではわからなかったものの、とりあえず、自分のことを心配しての言葉でもあり、Yさんは、そっか、じゃ、気をつける、と返事を返しておいた。
デート当日の日曜日、彼が選んでくれていたお店でランチを食べた後、Yさんが見たかった映画を見た。映画館を出たのが午後3時半頃。そこから、近くの喫茶店に入り、夕方になるまで、二人で他愛もない話をして過ごした。
日が傾きかけた頃に、彼の方から、この後、帰る前に、店を出て、少し歩かないかと、誘われた。ぶらぶらと手を繋いで歩いているうちに、彼の足取りがS公園の方に向いていることに気が付き、Yさんは友人の言葉を思い出した。
とはいえ、初デートで、確たる理由もない話を持ち出して、雰囲気が壊れるもいやだったし、何より、彼ともう少し一緒にいたい気持ちが強かったので、結局、彼の手に引かれるようにしてS公園に入った。公園内を歩くと、自分達の他にもちらほらと恋人同士らしい男女の姿があり、Yさんは安心した。
初夏の夕暮れ時が迫り、徐々に茜色が濃くなっていくのを感じながら、歩くうちに、二人は小高い丘の上にある遊歩道に出た。そこからは、海が良く見えたため、遊歩道沿いに置かれていたベンチに二人で、並んで座った。ベンチのすぐ後ろには大きな木が立っていて大降りの枝が張り出している。これなら真夏でも、木陰が心地よいだろう、と思えた。ベンチに座り、きれいだね、などといいながら、夕日が海に消えていく光景を見ているうちに、隣に座った彼の挙動が、少しおかしいことに気がついた。
最初、ベンチの背にもたれていたのだが、時折、頭の後ろに手をやり、背後を振り返るような仕草をする。何度か、そんな仕草をした後に、ベンチから背を離して、膝の上で組んだ手に顎を乗せた姿勢を取った。それでも、背後が気になるのか、時折、後ろを振り返っている。
つられてYさんも彼の視線を追ってみるのだが、背後には木が立っているだけで、他に何もない。
さすがに気になったYさんが、どうしたの?後ろに何かあるの?と問いかけたところ、彼は困ったような、戸惑った表情を浮かべて、答えた。
「いや…。気のせいだとは思うんだけど…。最初は、何かが頭に当たってるみたいな感じがしてさ…。こつこつって、硬いものでつつかれてるような…。もたれないようにしたら、当たらなくなったんだけど…そしたら、今度は」
背後で、何かがきしむような音が聞こえた、と彼は言った。
「なんか…ギシギシって。気にしなきゃいいんだろうけど、木に何かが当たって、擦れてるのかな…とかって思ってさ」
それで、幾度も木の方を見上げていたのだと言う。
「ふーん、そうだったの。でも…」
そんな音は聞こえなかったけどな、風で木の葉が擦れたとかじゃない?と、Yさんが言うと、彼の方も、きっと、そうだよね、初デートなのに、変なこと言って、ごめん、としきりに謝ってくれた。
気にしないで、と笑顔で応じながらも、彼の言葉が気になり、もう一度、彼の視線が向けられていた方へと目を向けた瞬間、Yさんは思わず小さな悲鳴を上げた。
背後に立つ木から、ベンチの丁度上の方に突き出した大降りの枝。その根元に黒い、小さな人の姿をしたものが座っていた。残照が葉の一枚一枚までも、赤く染める光景の中、その黒い小さな人影が、すっと、左手をYさんに向かって差し出した。影の左手には擦り切れた縄が握られ、その先端は輪になって、小さく揺れていた。
「どうか、した?」
気がつくと彼氏が、不審な表情でYさんを覗き込んでいた。
「あ、あれ…」
と震えながら、自分が見たものの方を指差すと、そこにはもう何も見えず、彼氏も訝しげな顔をするだけだった。結局、Yさんは、ちょっと気分が悪くて…とごまかして、その場をそそくさと後にした。
自分の見たものがなんだったのか、どうしても気になったYさんは、後日、別の友人にS公園にデートに行ってはいけない理由を知らないか、と尋ねてみた。地元出身のその友人は次のように教えてくれた。
「恋人同士で行くのがいけないんじゃなくて……ホントはね、暗くなり始めたら、丘のベンチに座っちゃいけないって話なの。『出る』…っていうか、よく『出た』んだって、そこ。で……そのベンチって、すごく景色がいいから、カップルが座ることが多くて。でも…それって、私達のお母さんとかが学生の頃の話らしくて…。最近は、『出た』とか、そんな話聞かないから……だから……なのかな。恋人同士で行っちゃダメ、みたいな話だけが残ってるみたい」
驚くと同時に、納得したYさんの前で、友人は続けた。
「昔…その『出た』って話があった頃だけど……。ベンチに座ると、木に近い方に座った人の頭に何かが当たるんだって。で、振り返って、見たら、首を吊った男の人がぶらさがってて……。頭に当たってたのは、その男の人の靴の先だったって……。前は本当に、よくそこで首を吊った人がいたって、お母さんが言ってたけど…ね」
唖然としたYさんは、自分の経験を話したが、友人は、そんな話は聞いたことがない、と首を横に振った。
他にも、何人かに話を聞いたが、結局Yさんは自分が見たものがなんだったのか、未だにわからない。ただし、その後、YさんがS公園に行くことはなかった。彼氏との交際はその後も順調に続いて、大学卒業後数年で、結婚することになった。
「最初、友達が言ってたみたいな破局のジンクスではなかったらしいですけど」
それでも、なんであれ、あんなものは二度と見たくない、とYさんは、語っていた。

2012年8月18日土曜日

暁焰の怪異万華鏡1 by 暁焰

<子盗り鬼>
友人のTさん夫妻から聞いた話である。

Tさんの家庭では、ネットでの海外TV番組配信サービスに加入している。夫婦揃って、日本のTV番組よりも、海外の番組、特にアクションドラマが好きなためだ。PCで受信した映像を、ケーブルで繋いだテレビに映しているのだという。
その日は、休日で、夕食を終えた後、ソファに並んで座り、お気に入りのタイトルを視聴していた。
番組は、一人の刑事を主人公にしたクライムアクションで、何話分かのエピソードを見ているうちに、深夜近くになった。もう一話見て、終わりにしよう、と話して、見始めたエピソードは、幼い子供を含めた一家が惨殺される、という内容だった。
ドラマのストーリーが終わりに近づき、犯行がどのように行われたか、犯人が回想するシーンがモノクロの映像で流れ始めた。両親が銃で撃たれ、子供達も順番に撃ち殺されていく。最後に残った赤ん坊に向かって、まさに引き金が引かれようとした瞬間、映像が止まった。
テレビのネット配信では、途中で映像が止まることは珍しいことではない。放っておけばすぐに映像データが読み込まれて、動き始めることが殆どだし、どうしても動かなければ、ページをリロードしたり、最悪PCを再起動すれば、続きの映像が流れる。だから、この時もTさんは最初は何とも思わず、しばらく待っても映像が流れる気配がないために、PCやネットをいじり始めた。
異変に気付いたのは、その直後からだった。
再度、流れ始めたドラマは、止まっていた場面からほんの少しだけ撒き戻った場面から始まった。子ども部屋に踏み込む犯人、あどけない赤ん坊の寝顔、向けられる銃口、そして、引き金が引かれようとする。
何度、ページをリロードしても、一度、ブラウザを落として立ち上げなおしても、その短い15秒ほどのシーンだけが繰り返し、繰り返し、流れる。
ドラマとは言え、場面が場面だけに、余り気分のよいものではない。配信されている番組の中から、別のものを選んで、視聴しようとしても、やはり同じシーンが流れ続けている。
TさんがPCやネットの設定を調べても、異常は見当たらず、結局配信サービス会社のサーバーか、プロバイダ側に何か問題があるのだろう、と結論づけた。時刻も遅かったので、次の日に、双方のカスタマーサービスにでも電話しよう、とPCの電源を落とした。
「ちょっと!早く、電源切ってよ!」
TVの画面ではなく、PCのモニターを見ながら終了させていたTさんに奥さんが少し怒った調子で声をかけた。その言葉に少しむっとして「もう切ってる」と言いかけながら、顔を上げたTさんは目を疑った。
PCの電源が落ちているにも関わらず、やはりテレビに同じ映像が流れ続けているのだ。子供部屋に踏み込む犯人、あどけない赤ん坊の寝顔、銃口が向けられ、引き金が…。
「な、なんだ…これ…」
思わず息を呑んだTさんが、テレビのリモコンに手を伸ばし、テレビの電源をオフにしようとしても、なぜか作動せず、同じ映像が流れ続ける。リモコンではなく、テレビ側の主電源スイッチをオフにしても、映像は途切れない。
「なんなの!どうなってるの!」
背後で上がった奥さんの声を聞きながら、Tさんは慌ててテレビのコンセントを引き抜いた。
ぷつり、と映像が途切れて、リビングにようやっと静寂が訪れた。夫婦二人で、顔を見合わせた瞬間、ベランダの方から音が聞こえた。
ガラスのサッシが微かに揺れている。風で揺れているというよりは、何かが押しているように聞こえた。
立ち上がって、サッシを隠しているカーテンを開けたTさんは、思わず声をあげそうになった。サッシにはめ込まれたガラス一面に、無数の小さな手形が付いていた。丁度、赤ん坊の手のような。
次の瞬間、ごうっと音を立てて、強い風が吹き、サッシが音を立てて揺れた。同時に、背後にいる奥さんが悲鳴を上げるのが聞こえた。ガラスに付いた手形を見てしまったのかと思いながら、Tさんが振り返ると、奥さんは何も映っていない真っ暗なTVの画面を血の気の引いた顔で見つめていた。
強い風が吹きぬけた一瞬、テレビが着き、映像が映った。白い背景の中に、赤い服を着た女が口を開けて笑っていた。スピーカーからは、げらげらと大声で笑う声が聞こえた。女性のものとは到底思えないような太い声の背後には、たくさんの赤ん坊の泣き声が響いていた、と今にも倒れそうな様子で、声を震わせながら、奥さんは語った。
震える奥さんをなだめ、落ち着かせてから、恐る恐る、Tさんがカーテンを開けても、窓にはもう何も見えなかった見えなかった。
Tさんは、風の音しか聞いていない。逆に、奥さんは、Tさんが見たという窓に付いた手形は見ていない。

わからないんですよねえ、とこの話を語り終えたTさんは首を傾げていた。
「赤ん坊の幽霊が何かを訴えにきたとかって話だけなら、まだ、なんとなく分るんですけどね」
奥さんが見たものと、笑い声がわからない。自分としては、そっちの存在の方が怖い気がする。それでも、
「カミさんが見たもんは女性にしか見えないんじゃないかって。そんな気がするんですよ」
ただの勘ですけどね、とTさんは語っていた。

2012年8月11日土曜日

東京NAMAHAGE物語•11 by 勇智イソジーン真澄

<風樹の嘆>

ああ、あまりにも突然ではないか。
誕生日の2日前にその報せはきた。

最近の連絡手段は携帯やメールが主で、固定電話にかかってくるのは家族か親戚、そして胡散臭い勧誘の
ためにあるくらいで活躍の場が少なくなっていた。
その電話が、うす暗くなった窓外に街灯がつき、カーテンを引き始めた刻に鳴った。
2月8日のことだった。

受話器から、徒歩5分ほどの距離に住んでいる姉の声が聞こえてきた。
「とうさんが倒れて病院にいるんだって。かあさんが動転してて、かわりに先生がかけてきた。
心臓大動脈瘤破裂で、すぐに手術をすれば助かる可能性もあるって……」
思いがけない電話の内容に、目の前のすべての時と色をなくした。

耳にあてた受話器を持つ手に力が入り、押し付けられた耳に痛さを伴った。
「しなければ助からないということ?」
歩いていた道の途中でマンホールを踏み、突然、蓋がはずれて暗闇に落ちていくような恐怖に襲われた。
「手術をするには家族の同意が必要で、かあさんは私たちに聞かないとわからないと言ってるからって」
足先から徐々に虫が這い上ってくるような、ざわざわとした震えがきた。

「手術、お願いしたからね」
「うん……」
「朝一の新幹線に乗るから準備しといて。喪服持って行ったほうがいいよね、一応」
「……」
「職場の人に連絡しなさいよ」
互いの最寄り駅、恵比寿駅で待ち合わせることにして電話を切った。
三つ違いの姉は長女らしく、しっかりとてきぱきしている。
動揺してはいるのだろうが、感情を露わにしないのは昔からだ。

喪服。
その言葉を聞いたらどっと悲しくなった。
父が死んでしまうかもしれないという現実が涙になった。
震えは全身に回り、軽いめまいを覚え立っているのもおぼつかない。
カバンに詰める荷物など考えられず、しばらく茫然としていた。

そういえば、正月に晩酌をした後ゴロゴロ横になっていたのは飲みすぎたせいではなかったのだ。
なにか不調だったのだろう。
それを気にもかけず、酔っぱらって、じゃまだと言わんばかりに「布団で寝たら」と冷たく言ってしまった。
父は自然治癒派で、通院したのは歯医者と化膿させすぎた水虫の治療くらいだった。
きっとあの時も息苦しく、具合が悪いのに我慢していたのだろう。

そういえば、電話口ではいつも「とうさんは元気だよ」と言っていたのに、いつかは
「とうさん最近、足が悪くなって」と弱音を吐かれた。
それなのに私は「無理しないでよ」と言ったきりで親身になることはなかった。

今にしてみると、そういえば、そういえばと思い当たる節は他にもたくさんある。
あれもこれもと回想し、発信していた危険信号に気付かなかったことを後悔ばかりして、
横にはなってみても眠りは浅かった。

秋田新幹線こまちは都会の街並みを置きざりにし、いくつものトンネルを抜けながら明と暗を繰り返す。
まるで妄想のトンネル。
最悪と最良のはざまを揺り動かし、それぞれの行く末を脳裏に浮かばせては消し去っていく。

また景色が途切れ、黒くなった窓ガラスが鏡のようにクマの浮き出た不安顔の自分を映しだす。
線路の脇に白い綿帽子をかぶった田畑が増え、山は遠くに水墨画の世界を作り出す。
民家がまばらに見えはじめてきた。

そろそろ終点の目的地、秋田。
駅からタクシーに乗り、昼少し前に入院先の病院に着いた。
雪道でスピードの出せない運転に、車中で気ばかりが焦った。
曲がりくねった長い廊下を急ぎ足でエレベーターに向かう。

3階、心臓血管外科病棟。
手術室前の長椅子にダウンコートを毛布代わりにした従姉が仮眠していた。
その横に浅く腰かけ両肘を膝に乗せ、祈るように組んだ手の甲を、額に押し当て背中を丸くしている
母の姿があった。
「かあさん……」
声をかけると、母は顔を上げた。
一睡もできずにいたその顔は、はれぼったく憔悴しきっていた。
従姉も気配を感じて起き上った。

母は私たちの顔を見ると、張り詰めていた緊張と不安の糸が解れたのか、ほっと安堵の表情になった。
従姉がいてくれてはいるものの、血を分けた肉親ではない。
やはり心細かったに違いない。

深夜から始まったという手術は朝方にも及び、いまは集中治療室で術後の処置中である、
と従姉が看護師の言葉を伝えた。
「とうさんな、晩ご飯のとき味噌汁ひとくち飲んで、ああうめな、って言ってテーブルさ椀をこうやって
おでな……」
母は両手で飲むしぐさと置くしぐさをした。
「したっけ、あっ背中、いで! とおっきい声出して後ろさ倒れてよ。最初は、なにふざけて、て思った
けど、なかなか起きてこねから変だと思って。側さいったけ息してねべ、顔色ねくなってや……」
母はせきを切ったように話した。
「こえだば大変だ、こんな時は胸を叩くってテレビでやってたから、見よう見まねで叩だっけ、ふうーっ、
と息したんだ。そのあと無我夢中で覚えてねけど、救急車に電話してた……」
一人であたふたしたであろう母の姿を想像した。

私たちは母の両隣に座った。
「大変だったね、大丈夫だよ」
私は気のきいた言葉など見いだせず、ただ母の手をにぎった。

しばらくして「面会できますよ」と看護師が迎えにきた。
私たちは彼女の案内にしたがい、白衣の痩せた肩幅の狭い背中を見逃さないようについていく。
大学病院の廊下は、かつては公共建築物に使用されていた、天然素材で抗菌性が高いリノリウム床材が
敷かれていた。
父の元までは短い距離なのに果てしもなく長く感じられる古い廊下だった。

集中治療室前のコーナーにある除菌剤で手を洗い、床にある自動ドア開閉ボタンをつま先で踏み、
恐る恐る中に入る。
ナースステーションで雑菌を飛ばさないようにマスクと紙エプロンを受け取り身につけた。
以外に広いスペースには数人の患者がいた。
いずれも術後の人たち。
ここで麻酔が覚めるのを待ち、その日のうちに一般病棟に移る軽症の人もいる。
父はナースステーションの正面の位置にいた。
まだ麻酔からさめていない。
幾本ものチューブを身体からベッドの脇に垂らし、器械に囲まれ、酸素マスクをしたままビクともせずに
目を閉じている。

とうさん、とつぶやき母が足早に駆け寄った。
私たちも後に続いた。
「手術は成功しました」
経過を見ていた恰幅のいい四十半ばの担当医師がやさしく言ってくれた。
「ありがとうございます」
母は頭を下げた。私たちも会釈した。

「弁を取り換えてこの部分に人工血管を入れました。破裂を引き起こした瘤が血管の中に残っていて、
それが出血を最小限に止めていたのですね。それがなければ難しかったかもしれません。大手術でしたけど、
よく頑張りましたよ」
医師は心臓の絵が印刷されている用紙に線を描きながら説明してくれた。
切れた血管を人工血管に入れ換える人工血管置換術と人工弁設置を施したそうだ。

「ただ、まだ予断は許せません。今夜が山です……落ち着くまで当分は様子を見ないといけません……」
そう言い残し医師は他の患者のもとに去った。
手術が成功したと聞いて、ほっとしたが、大手を振って喜ぶ気分でも状態でもない。

「いまは麻酔で寝ていますから、一度お宅に帰って休まれるか、地下に家族控室がありますのでそちらで
休んでください。あと、必要な物がありますので用意してください。あ、連絡はとれるようにしておいて
くださいね」
看護師から入院手続きに関する概要と準備品リストを受け取り、携帯電話の番号を所定の用紙に記入し
病室を後にした。

従姉はそのまま帰宅したが、私たちはまだ病院を離れる気にはなれなかった。
地下1階にある家族控室に行ってみるが、旅館の大広間のようで、すでに数人が陣地を確保している。
貸し布団を敷いて寝るだけのスペースで、プライバシー保護も浴室もなく、テレビと小さな洗面台が
あるのみだ。
休憩目的以外でここに宿泊できるのは病院が許可、または病院側が依頼した患者の家族一人。
つまり、危篤患者やいつ急変してもおかしくない入院患者の身内に限られている。

聞けば数日も滞在しているという部屋の主らしき夫人が集中治療室での面会時間は原則として、
朝昼晩の1日に3回だと教えてくれた。
母は昨夜から風呂はもちろん、顔も洗わず、睡眠も食事もとっていない。
周囲に気を使って過ごさなければいけないこの場所より、どこか他で休んだほうがいい。

こんな場合でも私のお腹は鳴る。
食事はちゃんととったほうがいい。
食べたくないという母を栄養はつけなければいけないと宥めすかし、とりあえず院内食堂に足を運んだ。
空腹なのに、いざ食べ始めると味覚を感じない。
みんなもただ箸を動かしているだけのようだ。
3個の丼の中に其々半分以上もうどんを残して食事はすんだ。
集中治療室にいる間は私たちができることはないのだから、近場のホテルに泊まろう、と提案した。
だが母は、少しでも父を一人にするのは嫌だと車で10分ほどなのに行こうとしない。
妥協案として、一人は病院に残り、交互にホテルで仮眠をとることにした。
最初に姉が残ることにし、私と母が移動した。

ずっと病院にいると言い張っていた母は、湯につかり客室のベッドに横になってすぐに寝息をたてた。
吐く息と吸う息。
寝返りさえ打たずに掛け布団だけが上下する。
心労の大きさが伝わってくる。
私は父の容体のことや、その間ひとりになる母の今後のことを考えて眠れないでいた。
もやもやとした気分が涙腺を弱くしていた。
両親という土壌に根をはり、私という我儘な樹はぬくぬくと安心して立っていた。
いまそこには、どうしようもない病魔という突風が吹き荒れ、静かに立っていたいと願ってもどうする
こともできない時期にきていた。
 
一夜明けての早朝、まだ面会時間には早いが居ても立っても居られない母と私はホテルを後にした。
緊急連絡がなかったのだから異変はなかったはずなのに気が気ではない。
控室に泊まった姉と合流し、時間を待って父のもとに行く。

数値をチェックしていた看護師が、ベッド脇の棚にあるマスクとエプロンの在りかを教えてくれた。
これからはその都度使用し、決まった医療用ゴミ箱に捨てて行くようにと。
父は昨日と同じく目を閉じたままだが、どうやら峠は越えたらしい。
だが、まだ麻酔は効いている。
起きている父を想像していたので少し気が抜けた。

「麻酔はいつごろ覚めるのですか」
看護師に聞いた。
「傷口が落ち着くまでは、しばらく……」
それはそうだ、切り傷ではない大手術だったのだ。
胸帯を取り換える際、看護師が傷口を見せてくれた。
20センチほどの縦に流れる赤く盛り上がった線に、傷口が開かないよう等間隔に横に小さな十字を切
って赤黒い縫い目がある。
その生々しさにショックを隠しきれないでいた。
この糸はいずれ傷口をふさぎ融けてなくなるという。

「拭いてあげますか」
と、看護師が温かいおしぼりを手渡してくれた。
脂の付いた父の目の周りを母が愛おしそうに拭き始めた。
気管に挿されたチューブに気をつけながら、私たちも額や首筋を軽くふいた。
血なのか消毒液のヨードチンキなのか、おしぼりが赤く汚れた。
面会時間に私たちができる、ただ一つの行為だった。

「連絡がつけば病院に泊まる必要はないですよ」
足腰の弱い母の様子と、心配疲れが伝わったのだろうか。
看護師長が声をかけてくれた。
心配だが病院に任せる以外何もできない。

とりあえず一つの峠は越えたのだ。
後ろ髪を引かれる思いではあるが家に戻ることにした。
入院に必要な品々も揃えてこなければいけない。
「よろしくお願いします」
あなたたちが頼りです、と救いを込めて母は深々とお辞儀をした。
藁にもすがる思いだったかもしれない。
私たちもつられて挨拶し、病室を後にした。

家の中は週初めのオフィスビルのように、ひんやりとしていた。
居間に入ると倒れた父を運ぶため救急隊員により隅に追いやられた卓袱台の上に、一昨日の夕餉が
乗ったままだった。
母は、ここでこうして味噌汁飲んで……、と悪夢を思い出したように再び話しだす。
ストーブに点火し、私たちは相槌を打ちながら片づけ始めた。

とうさん大丈夫かな。
頑張ったね。
大丈夫だよね。
生命力が強いから大丈夫だよ。
入院は長くなるかな。
退院したら車椅子かもしれない。
そうなったらフローリングにしたほうがいいね。
大丈夫だよね……。

見る気もないテレビをつけたまま、しばらくのあいだ誰彼となく同じことばかり口にしていた。
毎日夕方に一人で囲碁を打ち、一行だけでも日記をつけていた父の手帳が碁盤の上にあった。
開いてみると新聞の切り抜きが挟んである。
家族葬についての記事だった。
母に告げると、時々そんな話をしていた、という。
やはり迫る危機感があったのだろう。

読書家であり勉強家だった父の書庫には、漢字検定に関する本や歴史もの、園芸ものの本が数多く
ならんでいる。
歴史上の人物や漢字の読みなどは、聞けばすぐ答えが返ってきた。
その中に「老いの教訓」とか「老いに挫けぬ男たち」といった類の本が数冊増えていた。
「ねえねえ、こんな本もあるよ」
姉が指さす先にある本の背表紙は「笑って大往生」。
「とうさんらしいね」
やろうとしている自分の動きに、思うようにできない肉体の老いがギャップを作るのは仕方のないことだ。
父はそれを自覚し精神的には明るく楽しく生活しようと心がけていたのだ。
年老いても前向きに生きていこうと努力していた。
その思いに心が和んだ。

棚をかたづけていた母が、3年前の男鹿温泉郷に行った時の写真を見つけた。
「とうさん、よく写真みで家族旅行ってえなあ、て言ってた。よっぽど楽しかったんでね」
「退院したらまた行こうよ」
そう信じて言うしかなかった。

部屋も暖まり少し気持ちも落ち着ついて明日の準備と就寝の支度を始める気になった。
「タオルはこれでいいかな」
姉が大小のタオル数枚と洗面器やせっけん、ハブラシなどリストに書かれていた品々を持ってきた。
紙おむつとか家にない足りないものは明日買えばいいね、と。
今日は疲れているからと早い時間に床につくことにした。

しかし誰もが眠れずに、それぞれに異なる感情を抱えながら悶々としていた。
母は、娘たちが東京に帰ったら自分ひとりでどうしたらいいのだろうか。
万が一の事態になったら葬儀を取り仕切ることになる、できるだろうか。
決まった寺の檀家にはなっていず、岩手の山林に埋骨する契約をしている樹木葬のカタログはどこにやった
んだろう、葬祭ベルコのカタログはどこにしまったのか、と最悪ばかり考えていた。
ああひとりになってしまうのだ……。
誰か帰ってきてはくれないだろうか。
でも娘の人生、無理を言いたくはない、私が頑張ればいいのだ、と己を奮い立たせていた。

姉は、長女の自分が戻らなければいけないだろうか、もうすぐ定年だから、せめてそれまでは働いていたい。趣味のダイビングもまだやりたいし、行きたいところも沢山ある。自分の時間は自由に使いたい。でも、とうさんの看病をかあさん一人でしなければいけなくなる、心配だ。どうしたら最善なのだろうか。自分が働く方が給料は多い。少しは援助もできる。そう提案しよう。妹が帰ってくれればいいのに、と。
私は、戻るべきか、戻った方がいいのではないか、と傷心した母の姿を思い出しては決めかねていた。
バブルの絶頂期には広告代理店で働き悠々自適な生活をしていたが、水もの業界は浮き沈みが激しく、
ほどなく会社とともに破綻し、バイト生活になっていた。
恋人も人の夫で、すでに茶飲み友達の領域に入っている。
どうせ相談したにしろ「俺に何を期待しているの」と言うにきまっている。
長引いたからといって、私の面倒をみてくれるわけでも一緒に生活できるわけでもない。

ましてや身辺を整理してここに来ることなど考えられない。
小さな諍いで彼の部屋着を何度捨てたことだろうか。
諦めるのにはちょうどいタイミングだ。
まだ働いて自由にしていたいという未練に、必死で帰ろうと言い含めていた。
ずっと離れて暮らしてきたのだから、これからは一緒に生活してあげたい、東京の生活や仕事に踏ん切りを
つけて実家に帰ろう。
よし、帰ろう! と決めた途端、無性に悲しくなった。

実家より東京での生活が長くなっていた。
田舎で過ごすことへの抵抗、友人たちとの別れや手放さなければいけない色々な事柄への想いが渦を巻いて
駆け巡る。
エビのように身体を丸めた嗚咽が止まらない。
これまでの人生で最大の決断を下した日になった。
この状況を何も知らない友人からのメールだけが誕生日を祝ってくれた。
私はひっそりと年を重ねた。

眠れぬ一夜が三晩も続いていた。
昨夜の就寝は早かったのに皆眠そうで疲れた顔は変わらない。
起きがけのコーヒーを飲みながら、下した決断を二人に告げた。

「帰ってくるわ、私」
言葉にすることで自分の考えを整理し、再度確認した。
もう後には引けない。
「そうしてければ一番えども……」
母は遠慮がちに応えたが、明るい顔になった。

「かあさんも私もそうしてくれたら安心。あんたが帰るほうが運転もできるしいいよね……」
多少の良心の疼きを感じたようだが、ペーパードライバーの姉は自己弁護も兼ねて言った。

「でも、すぐには仕事を辞められないよ……」
戻ってくるとわかっていればいつでもいい、と母が言う。

「その間は1ヶ月に1回くらい交互に帰ってくるから……ねっ」
姉は私に問いかけた。
「うん、そうしよう。しばらくひとりになるけど大丈夫だよね」
迷惑かけるね、と母は頷いた。

誰もが口に出したくとも出せないでいた胸の内を飽和する私の一言に、其々の思惑のつかえがとれたようだ。
「あ、昨日誕生日でねがたが。それどこじゃねがったからな……」
気付いた母が悪びれて言った。

父はまだ集中治療室にいる。
私たちは一週間ほど休みをとっていた。
この滞在中に一度、麻酔から覚めた日があった。
とうさん、と呼ぶと声のするほうに目は動く。
が、目は開いているのだが見えていないようだった。
看護師は、麻酔から覚めたばかりだから、と言った。
次の日、父はまた麻酔をかけられていた。
チューブを取ろうと動いて危ないので、もうしばらく傷と容体が安定するまで、とのことだった。
こんなに長く麻酔漬けでいいのだろうか。
他に悪影響はないのだろうか……。
しかし動く、ということは元気になりつつあるのだ、と小さな喜びもあった。
チューブや器械は時折増え、そのたびに私たちはどきどきした。
しかし、それも短い期間で、減ってきたときは良くなってきたのだと安心した。

東京に戻る日がきた。
私たちは仕事に戻らなければいけない。
運転できない母は、私がいなくなると電車とバスで病院に通わなければいけなくなる。
公共機関を使うと片道一時間半ほどかかる。
それも大変だからと控室に泊まることにした。
そのほうが行き帰りの移動や、夜ひとりになることを考えると安心だ。

ここを利用している多くは高齢者で、なおかつ交通の便の悪い地域に住んでいる遠方の人だ。
入院しているのは大方が自身の夫。
子がいても、仕事や各自の子育てに忙しく、毎日の付き添いや送り迎えができないのが現状だ。
患者に異変が生じたときには、この部屋に内線がかかる。
携帯電話がなくても不便を感じない人が多く、面会時間以外はここで休んでいる。
母とは年齢も近く、お互い状況が同じなので話し相手にもなる。
病院内のことを色々と教えてくれる人もおり、母にとってはさほど苦にならない場所のようだ。
たまには従姉が来てくれるという。
車で家に連れ帰ってくれるので入浴や洗濯、そのほかの用事をすませることができる。

東京に戻った私は退職願を書いた。
両親のために孝行しよう、とは思ってもどこかに言い知れぬ心残りがある。
このまま親の面倒を見て自分も年老いて終わってしまうのだろうか。
収入の道を閉ざされて、親の年金で細々と切りつめて暮らしていかなければいけないのか。
旅行も趣味も何もかもできなくなる……。
薄情なほど自分のことばかり考えていた。
これが私の人生、と弱った心を慰めたら、涙腺が壊れてしまったのかと思うほど勝手に涙がポタポタと
落ちた。
書き終えた用紙に水滴の跡がつき文字が乱れ、何回も書きなおさなければいけなかった。
自分の気持ちを追い込まないと先に進めない。
早く提出してしまわないと気が変わりそうだった。 

月に1度は休暇を利用して実家に帰り母を休ませ、交代に病院に通った。
時には一緒に出かけたりもした。
父は集中治療室に3週間ほどいて、10日近くは麻酔で眠らされていたが、ようやく一般病棟に移ることが
できた。

母は家族控室に泊まり込み、面会時間に地下と病室のある3階を往復する日々を1ヶ月ほど続けていた。
一般病棟に移っても 頼めば宿泊できるのに、他の急患の家族がきて場所がないと悪いからと母は自宅から
通い始めていた。

一般病棟、といってもナースステーションに近い、まだ手のかかる患者の入る四人部屋に移動した父に初め
て会う。
自分の口から食事はできず鼻からの流動食、タンの吸引やおむつの取り換えなど、看護師にやってもらうこ
とばかりだ。
「とうさん、おはよう」
声をかけると、かすかに絞り出すように「おはよ」と聞こえる程度に返事ができた。
相変わらず目は見えていない。
元々遠かった耳は、耳元で話すか大きな声なら聞こえているようだ。

この状態は今だけで次期に車椅子で動けると思っていたので、私はいつも通り明るく振る舞っていた。
話しかけるのは病人にとって刺激になる。
父は見えない目をキョロキョロ動かした。
言っていることは理解できるのだ。
「仕事を辞めてうちに帰ってくるよ。かあさんは大丈夫だから心配しなくていいよ。またみんなで温泉いこ
うね」
「あ〜」とも「う〜」とも聞こえるような声がした。
何か言いたくて、だけども思うように話すことができずじれったいようだ。
きっと返事だったのだろう。
目じりに涙の粒があふれていた。
泣くなよ、男だろ、と言いながら自分の手を動かして拭けない父の代わりに、ハンカチで父の目じりを
押さえた。

サイドテーブルにはティシュやビニール手袋の箱、薬や体温計などが置かれている。
ふと見ると、そこにカードがある。
「吉田さん、お誕生日おめでとうございます。我慢強い吉田さん、いつも看護しやすくしてくれてありがとう」
父の担当看護師からだった。
いつもにこにこ笑いかけてくれ、タンが絡んで苦しそうだと呼びに行くと嫌な顔もせずかけつけてくれる
優しい看護師さんだ。
家族に向けても書いてくれたのだろう。
父と同じように寝たきりの状態でも吸引の時に管を噛み、唇をきつく閉じて開けない人もいるのだそうだ。
父はいくら苦しくても、口をあけてください、というと素直に従ういい患者だという。

3月5日。
父は病床で85歳を迎えた。

2012年8月5日日曜日

東京NAMAHAGE物語•10 by 勇智イソジーン真澄


頼ってばかりいてもね

ああ、いまどの辺だろう? 
駅弁とビールを体内に詰め込み、座席が揺りかごと化し熟睡していたわたしは、切り離しの振動で目が覚めた。

東京駅から併結した東北新幹線「はやて」に押されて走る、下りのミニ新幹線「こまち」の車両は、盛岡駅で切り離され、自力では新幹線の半分弱しか出ない時速で在来線の線路を走り始めた。


目的地の終着駅までは、中間地点。
まだ、ここまでと同じく二時間以上かかる。
ずり落ち気味の尻を背もたれ付近の元の位置に戻し、大きく伸びをした。
無理な姿勢で固まっていた身体が、ポキポキと息を吹き返した。

読書にも飽き、窓外を眺めると景色が後方から流れてくる。
そうか、もう大曲(おおまがり)駅を過ぎたのか。
あと三十分もすれば到着だ。

通称ミニ新幹線、実名は在来線特急「こまち」は大曲でスイッチバックをする。
線路形態の都合上、そうするしかないらしい。
下りでは押され、上りでは引っ張られ、しばらくは後ろ向きに進むこの列車は、いつも何がしかの
手助けを必要とする。
のんびりと歩み、一人で生きているようで自立できていない、わたしの生きかたのようだと思う。

秋田駅に降り立つと夕方にもかかわらず、もわーっとした熱気が襲い掛かってきた。
なんだ、この暑さは。
八月の旧盆であるこの時期は涼しいはずなのに、これではなんら東京と変わらない。
避暑地に出向く感覚の、いつもの里帰りとは明らかに違う。

不快な汗を洋服にしみ込ませてホームをあとにし、レンタカーで実家に向かった。
いつもなら窓を開け放していると風が通り抜ける家の中も、熱気がこもっていた。
吹き出る汗を拭きすぎて顔や首筋が痛い。
タオルを首に巻いていても、すぐにグショグショになる。

わたしの寝る二階部分は、夜になっても昼の暑さが住み着いている。
窓を開けていても、これではとても寝られやしない。
車を走らせ閉店間際の電気屋を数件回ったが、目当ての扇風機は売り切れだった。
やっと見つけたのは、オモチャのようなプラスティック製の四角いもの。
それでもないよりマシかと買い求めた。
確かにないよりマシで、わずかな涼を与えてくれた。

このあたりではクーラーを取り付けている家は少ない。
特に取り付ける必要がなかったのだ。
いまさら取り付けを頼むのも無駄だし時間がかかる、と一時しのぎの扇風機を求めるのは何処もみな同じだったようだ。
しかし今年はクーラーに頼りたかった。
つけすぎは身体に悪いけれど、こう暑くても体調を崩す。
文明の利器を、ありがたいと恋しく思った。

観測史上四十年以来という異常気象もさることながら、今年の里帰りにはもう一つの変化もあった。
これまでなら別荘に来た気分で、起きたい時に起きて寝たいときに寝る。
出かけたいときに出かけて、あとは本を読む。
なんて自由気ままな里帰りだったのだけれど、どうも今回は勝手が違う。

母の両親、私にとっては祖父母にあたる故人の法事がおこなわれることになっていたのだ。
祖父の五十回忌、祖母の二十七回忌を合わせての行事だ。
親の五十回忌を、こどもたちが生きている間に行うのは、なかなか難しいと聞く。
なぜなら、亡くなった当時の親の年齢にもよるのだろうけれど、それから五十年もたつと、こども
たちも高齢になり一同が揃わなくなることが多いからだ。

母方の兄弟は上から順序良く、おんな三人、おとこ三人の六人。
あいにく三女は八年前に他界してしまったが、残りの五人は健在で全員集まった。

東京組みは次男夫婦と三男の三人。
地元組は長女、長男夫婦、次女であるわたしの母と父。
そして地元にいるそれぞれの娘や婿、孫たちとにぎやかな集まりだった。
はっきりした人数は確認しなかったけれど、おおよそ十七八人というところだったろうか。
子供たちとはほとんど初対面だった。

里帰りした翌日から、わたしの忙しい日々が始まった。
まず、東京から来る親戚を空港まで迎えに行く。
よりにも寄って、朝一番の飛行機だという。
暑くて睡眠不足なのに早起きし、車で一時間かかる秋田空港に走った。

叔父夫婦と会うのは何十年ぶりだろうか。
見つけられるかな、と心配していたがすぐにわかった。
昔と変わらない。
いや、変わっている。
叔父は軽く左足を引きずり、杖をついていた。
数年前に脳梗塞を起こし、辛いリハビリをがんばり、日常生活に支障のない程度に回復したそうだ。
その成果があり、足以外は実に達者だ。

連れ合いの叔母も相変わらずのおしゃべりで、機関銃口撃。
車内では後部シートから身を乗り出して家につく着くまで、ほとんど一人で何か話していた。

もう一人の叔父は電車でやってきた。
実家はローカルな男鹿(おが)線脇本(わきもと)駅から徒歩三分なので、迷うことはない。
これなら手がかからなくて実に楽だ。

長男の家での法事も無事に終わり、食事をしながらの近況報告はにぎやかだった。
それぞれが高齢なのだから、皆どこか身体に支障をきたしている。
私はここが悪い、いやいや僕なんてもっとすごい。
それよりも俺なんて……と、病気自慢合戦が始まる。
五十代の私たちでさえ、足腰が痛いだの、視力が弱くなった、歯が脆くなったなどとあらゆるところに故障がでてくる。
母達の年齢で何もないほうが可笑しいのだ。
あまり深刻にならずに、病気は友達だと長い付き合いをしている我が一族だった。

たまには上げ膳据え膳しましょう、と叔父夫婦が温泉一泊ご招待をしてくれることになった。
我が家に何泊もするのに気が引けたのか、気を使うことに疲れたのか。
そして、わたしたちも疲れているだろうと察してくれてのことだったのかもしれない。
男鹿温泉郷へは車で三十分弱。
古い温泉だが源泉の宿を選んだ。
失敗した。

客室は二階、食事は一階、風呂は一度下に降りて廊下を進み、今度は上らなければいけない。
エレベーターなどという気の利いたものはない。
年齢が増すごとに階段はきつくなる。
たまには四足動物になりながら移動した。
湯は良かったのだが、足腰の弱った団体には不向きだった。

でも、みんなで温泉に入った。
なんだかんだ言ったって、せっかく温泉にきたのだから移動は大変だけど入らない手はない。
洋服を着ていても肉付きの良さを窺わせていた叔母は、脱いだらもっとすごかった。
わたしは負けた! いや、勝った? と思ったね。

あまりにも食欲が旺盛なので心配したら、脂肪を溶かす薬を飲んでいるし、普段は毎朝一時間歩いているから大丈夫なのよ、との返事が返ってきた。
叔母は中性脂肪が多く、フィブラート系薬を処方してもらい頼りにしているらしい。

だけど、叔父の分まで食べてしまう食欲は、薬をのんで溶かしているはずの脂肪をいまだお腹にくっつけたままだ。
これを飲んでいるからいいの、と見せてくれた頼りのピンクの錠剤はどこに消えたのだろう……。
服用しながらの旺盛な食欲に、錠剤も圧倒され本来の力がだせないのだろうか。
どうやら威力を発揮できないままに、それも肥やしになっしまったようだ。