2011年6月26日日曜日

ギターマン by k.m.joe

編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の執筆陣達が挑戦しました。第1回目のお題は「中国・船・ギター」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。
今回は、k.m.joeさんの掌編をお楽しみください。

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


ちいさな国があつまった、ちいさな世界のお話。


みんな仲良くしていましたが、ひとつの国だけがヘソ曲がり。まわりの言うことに耳を貸さず、好き勝手に行動していました。


みんなが田畑で育てた作物を奪っていきます。魚を取ろうとすると、大きな船でジャマをします。


そもそも、この人たちは、昔から、少し離れた島に追いやられていました。最近では、島から大きな船が姿をあらわすと、すぐに世界中に連絡がゆき届くようになりました。


そういったやり方は、国の代表者たちが集まる“世界議会”で決められます。議会には委員長がいます。レディ・マドンナという女性が選ばれたばかりです。


マドンナ委員長は、これまでと考え方が違っていました。なんとか離れ島の住民たちと仲良くなろうとしていたのです。


そんな折り、秘書のシンヤ・マヒルがある人物の話を持ってきました。ギターマンと呼ばれるその男は、名前のとおりギターの演奏がとても上手な人です。いちど音色を聴いた者は、とても幸せな気分になるそうです。幸福感は消え去ることなく、残りつづけるそうです。


レディ・マドンナは、離れ島の住民に彼の演奏を聴かせて平和な気持ちになってほしいと思ったのです。


ふたりは、ギターマンが住む音楽の森へとやって来ました。鳥のさえずり、動物の鳴き声、子供たちの笑い声、すべてが音楽のようでした。


「これはきっとうまくいく」気持ちもしぜんと前向きになり、ギターマンの家の扉をノックする動作まで、トトント・トン、とリズムを刻んでしまいました。


すぐにニコニコ顔のギターマンが扉を開けてくれました。


とても細い体の若者で、とんがり帽子をかぶっていました。笑顔を絶やさず、話を聞きながらもポロンポロンと、ギターをつまびいていました。


家全体がギターのような木目調で統一され、まるでギターの中に入っているような錯覚を覚えました。とても気持ちのよい錯覚でした。


レディ・マドンナの思いは伝わり、ギターマンはシンヤと共に、問題の離れ島をめざすことになりました。
島まで連れていってくれる船頭さんが、なかなかいなかったのですが、おだてに乗りやすくプライドの高いジガ爺さんが舟を出してくれました。


島が近づくにつれ、シンヤ秘書は緊張してきました。でもギターマンは、音楽の森の自分の家にいる時と変わらないようすで、ニコニコしながらギターをひいていました。


やがて島に着くとすぐに、5、6人の男性が彼らを取りかこみました。怒りや警戒というより、ロボットのように無表情でした。


みんな、彼らの姿を見るのは初めてです。ふと、シンヤ秘書が、気づきました。「こ、この人たちには耳がない・・・」たしかに、ほんらい耳のある場所がツルンとしていました。彼らは「聞く耳を持たない」のではなく、耳自体を持たなかったのです。


ジガ爺さんがつぶやきました。「ワシは聞いたおぼえがある。ヤツらの耳の代わりをしているのは鼻の穴じゃ」ジガ爺さんはこんな時でもちょっと得意そうです。


それを聞いたギターマンが、何を思ったか彼らに近づき、地べたに寝そべりました。そして得意のギターをポロリポロリ。


すると不思議です。表情のなかった男たちが、満面の笑みを浮かべはじめたのです。


ギターマンは少しずつ立ち上がっていきました。男たちは彼の動きに合わせ、首を後ろにそらせていきます。まさに、彼の演奏を鼻で聴こうとしていたのです。
シンヤ秘書は思いました。「われわれはわれわれで彼らには話が通じないと決めつけていて、彼らは彼らでイコジになっていたんだろうなあ・・・」


演奏が終わったギターマンと男たちは、旧友のように抱き合っていました。


「よーし、シンヤ、やるぞ!今からコンサートツアーだ!」ギターマンもことのほか嬉しそうです。


「ハッピーバード、手伝ってくれ!」ギターマンは空に向かって叫びました。名前からして、さぞかし美しい鳥が飛んでくるんだろうと期待していると、すごいスピードで、大きな黒い物体が飛んできました。


その姿にまたビックリ!カラスに似てまっ黒なのですが、何十倍も大きいのです。上下のクチバシは黄色く、エックス字形に交差しています。目つきも鋭くて、こわいのですが、ギターマンの説明を静かに聞いていました。


ギターマンは、口をあんぐり開けたままのジガ爺さんから長いロープを借りて、ハッピーバードの、木の幹のようなごつい足にくくりつけ、片方で、自分の両方の足首をジガ爺さんに結んでもらいました。


「よし、出発だ!シンヤ、また後で!」


ハッピーバードが、大きく羽ばたき、飛びはじめると、ギターマンは逆さづりの状態になりました。そしてそのままギターを抱えて、演奏と歌をはじめたのです。


♪音楽は耳で聴くんじゃないさ♪言葉は耳で聴くんじゃないよ♪


♪伝えようという気持ちがあれば♪聴こうという気持ちさえあれば♪


♪相手の気持ちは自分の気持ち♪自分の気持ちは相手の気持ち♪


即興の歌詞をつけ足して、地面すれすれに移動しながら歌うギターマンに、島の人たちは心奪われました。もっと聴きたいという思いから、ギターマンの後をたくさんの人がついて行きました。


シンヤ秘書とジガ爺さんは、港で出会った男性の車に乗せてもらい、後を追いかけていたのですが、あまりの人だかりの多さに思うように進めない状態でした。
逆さまになって街じゅうをねり歩くという、ふしぎなコンサートツアーは大盛況に終わりました。


さすがに、頭に血がのぼり過ぎて具合いが悪くなったギターマンは、港で出会った男性の家のベッドで休ませてもらっていました。


そこへ、この国の大統領が突然あらわれました。彼は微笑みのような苦笑いのような表情で言いました。


「ギターマン、キミは素晴らしい演奏を聴かせてくれただけでなく、われわれに貴重なメッセージをくれた。他人の喜びのために、自分の身体を犠牲にする精神。目が覚めたよ。どうもありがとう」次に、シンヤ秘書の方を向き、続けた。


「キミがレディ・マドンナの秘書だね。委員長に伝えてくれ。われわれはどんな罰でも受けると。言い訳ではないが、われわれは小さい頃から他の国と対立するように教えこまれてきた。何の疑問も感じずにいたんだ。許してくれ」
深々と頭を下げる大統領に、シンヤ秘書は、胸の中に熱いものがこみ上げてきて、返す言葉もなく、ただただ同じように頭を下げるばかりでした。


「ところで、ギターマン。もう一度演奏してくれないか?今度はわれわれがキミや他の国の人たちのために身体を張る。つごうの良い日にちと時間を教えてくれ」


ギターマンは、ひときわ嬉しそうに「今からだって大丈夫ですよ!」と元気に応えた。


2時間後、中央広場と呼ばれる、だだっ広い場所に、国中の人が集まりにぎわっていました。


高い位置にステージがあり、脇にはギターマンが控えていました。進行役がまず進み出て、元気よく右手を上げました。


それを合図に全員が逆立ちをはじめました。老人や子どもには身体を支える台が支給されていました。


国中が逆立ち。


シンヤやジガ爺さんが驚く中、ギターマンはステージに飛び出し、力いっぱいジャンプすると、思いを込めて、最初のコードをかき鳴らしました。それは今まで聴いたことのないような強さと深みを持った音になりました。


広場だけではなく世界中に聴こえたそうです。それは平和のはじまりを知らせる音でもあったのです。


(おわり)


えっ?何ですって?お題が一つ足りない?そんなバカな!


「中国」がない?いやいや、ありますあります。よく読んで下さい。最後の広場の場面で国中の人が逆立ちしたって書いてあるでしょう?「国中が逆立ち」ですよ。「国中」が逆さま・・・ふふふふふ。まあ、世界平和に免じて許して下さい。

2011年6月22日水曜日

釜山貯蓄銀行事件~金融監督院と持ちつ持たれつ~ by 御美子

2011年6月はじめ、TVニュースで釜山貯蓄銀行の営業停止を知った時
「ああ、高度成長だと言われている韓国でも日本同様、放漫経営の銀行は潰れるんだな」
ぐらいにしか思わなかった。

韓国には第一銀行と第二銀行というのがあり第一銀行群は日本で言うところの都市銀行で第二銀行群は貯蓄銀行と呼ばれ利子が高いという特徴がある。

所謂日本の地方銀行に当たるものは私が知る限り、済州(ちぇじゅ)銀行と大邸(てぐ)銀行ぐらいだろうか。

話を釜山貯蓄銀行のニュースに戻す。

2011年6月12日付の朝鮮日報コラムによると釜山貯蓄銀行グループ傘下にある貯蓄銀行5行のうち4行の監事が金融監督院OBだ。

釜山貯蓄銀行グループはここ数年の間に120社ものダミー会社を立ち上げ、市民が預けた預金の70%に当たる5兆ウオン(約3800億円)を使い果たしたそうだ。

金融監督院は2001年から何度も監査を行ったそうだがそれを見逃すだけでなく別機関である監査院の監査を事前に銀行に知らせもしたと言われている。


当然のことながら預金者達の保護が気になるが少なからぬ人々がレポーターに不満を述べたりデモに参加したことから判断して決して満足のいくものではなかったと推察する。

ところが、話はそんな単純なものではなかった。事前に情報を得た国会議員や高額預金者等だけは営業停止直前に預金を全額引き出していたことが発覚したからだ。

少し補足しておかなければならない。
銀行を始め金融機関の営業停止を決めるのは金融監督院という韓国独自の機関である。
政官との癒着を避けるため民間企業ということになっているが株式を公開しているわけでもなくその運営資金の90%が銀行協会から残りの10%は政府予算で賄われている。

想像に難くないが、金融監督院のOBの多くは自分達が監督していた金融機関の重要ポストに納まる。

当然、先輩の就職先には厳しい判断が下しにくい。実際に保険会社の不祥事に対してOBがいる会社とそうでない会社では処分が変わった例もある。

今回の釜山貯蓄銀行の場合、営業停止の具体的な日程が事前に漏れた件と金融監督官の親戚が高額融資を受けていたり賄賂を贈られていた疑いに関し本人が拘束されて検察の取調べを受け金融監督院長も国会で答弁をさせられたりしている。

話が本筋から反れるが、世間一般では金融監督院は公務員という認識だ。先の朝鮮日報社説を書いた記者も今回の事件は公務員の汚職と言い切っている。

しかしながら、実務を担当する金融監督官達は自分達を公務員とは思っていない。
ある程度以上の責任を負った監督官達ともなると連日の残業や休日出勤も当たり前、仕事の性格上、国会開催期間中は特に忙しくなると聞いた。

しかしながら、必要経費の一部を政府予算から賄っているため残業や休日出勤の全てを申告できるわけでもなく冷暖房の温度なども厳し過ぎるほど管理されているという。
それでは公務員扱いそのものではないかと問い訊ねても、彼らは頑なに自分達は公務員ではないと主張する。

あくまでも私見だが政府は金融監督院を自分達の都合のいいように変幻自在に利用しているのではないかと推察する。似たような機関に監査院というのがあるがこちらは国の機関で監査院長と金融監督院長は兼任だ。

今回の事件は釜山貯蓄銀行の問題だけにとどまらず、韓国の金融機関全体を根本から揺るがす大事件に発展する様相を呈しているが、地道に働いてこつこつ貯金をした一般庶民が犠牲になったり真面目に働く監督官達の立場が悪くならないことを願って止まない。

同時にわが国に2001年から存在する金融庁にも目を光らせておく必要があるだろう。

2011年6月18日土曜日

最後の電話 by Miruba


どこからか私の好きな曲が流れてきた。
《ノスタルジージャポン》という日本人向けのラジオ番組からだろう。


「ママン、ほら、おじさんよ」
「おねえちゃん、ほら、ママンが目を開けているわ。解るんだわ」

娘達が動くことの出来ない私の頭と枕を加減し携帯を当ててくれているようだ。
携帯の冷たい感触が耳の存在に気づかせてくれた。
「もしもし、僕だよ、今やっとシャルル・ド・ゴール空港に着いたよ。すぐに、すぐに行くから、待っていておくれよ・・・」

ああ、懐かしい。
愛しいあなたの、声がする。



「ママン、おじさんを迎えに行ってくるわ」
「すぐに戻るからね、あとでね」



まって!まって、私の愛する娘達。
もう何も見えないのよ。
あなたたちの顔をもう一度見せて。
お願い、byebyeを言わせて。

なのに、私にはもう口を開く力さえないのだ。
二人の娘は交代で私の頬にキスをし、やせ細っただろう私の肩を抱き、手を優しくさすって・・・
私の宝物達が病室を出て行ってしまった。adieu mes cheries アデュー・メ・シェリー







走馬灯のように、私は昔を想い描く。

私の生まれた日本は美しい国だった。
海のそばで子供の頃を過ごした。
小さいときに母は病気で亡くなり、継母に育てられた。
厳しい継母だったが、私を愛してくれたのだと思う。

だがその心は時々の反発を溜め込み、私は高校を卒業すると、止める継母を振り払いフランスに渡った。誰も知らない外国で暮らしてみたかった。

語学学校で知り合ったイタリア人クリスと恋をした。
頼りになる真面目な男だった。
だが、大酒飲みでもあった。
何度喧嘩をしただろう。

ドーヴィルという海のそばにあるフランスの地方で、若い私達はふたりひっそりと暮らした。
今にして思えば、あの頃が一番幸せだったのかもしれない。
いつもお金が無くて、若い私たちのいさかいは絶えなかった。
喜怒哀楽が激しく、どこまでもオプティミストのクリスと、心配性のペシミストの私では、思いがすれ違うことも多かった。それでも、二人で海辺を散歩する夕暮れ時は、それぞれの国を偲び、ノスタルジーに苦しくなる寂寥を、互いにいだきあうことで、慰めあい、許しあえたものだ。


だが、その幸せな時代も長くは続かなかった。
二人目の子供がもうすぐ産まれる、と言う時に、酔っ払って事故に遭い、酔っ払っていたが故に出血が酷く、私と子供達を残し、飲んだくれのイタリア男クリスは下の子を抱くことも無く帰らぬ人となった。

相談に乗ってくれる人の誰もいないこの国で、二人の子供を抱え、私は一生懸命に働いた。







日本に帰りたくなかったわけではない。
でも、そんな余裕は無かった。
子供達は私を助けてくれ、3人で肩を寄せ合って生きてきた。
病気がちだった上の子。夜中に何度も病院の門をくぐった。
働く私のために下の子が初めて編んでくれたマフラー。
彼女たちと笑いあった日々。子供たちが私の支えだった。
しかしその「楽しい月日」は、あっという間に遥かかなたに去っていった。

独り立ちした娘達が、それぞれに恋人を見つけて私の元から旅立つと、
私はお酒でしか、一人ぼっちの時間を埋めるすべを知らなかった。
少しずつアルコールの量は増えていく。


夏のヴァカンスに外国にいけるわけもなく、ひとりドーヴィルの海岸で本を読みながら飲んでいた。この地はもともと避暑地だ。海岸に沿って長く連なる板張りのデッキで、波打ち際に寄せられた魚の大群のように、日がな一日その体をこんがり焼いているヨーロッパ人たちのリゾート地なのだ。





そのときも私は本を読みながら飲んでいた。

そして、彼に出会ったのだ。

「日本のかたですか?」
同国人と見るとつい尋ねてしまう言葉で笑っちゃうのだが、そのお決まりの台詞で私の隣に座った。

私は大きなつば広の帽子にサングラスをしているのだ、ちょっと見には、日本人だとは解らないだろうが、日本語の本を読んでいるのに気がついたのだろう。

だが、話しかけておいて、彼はそれきり何も言わない。
私たちは、特別な話などしなかったように思う。
ただ隣に座っていつまでもグラスを合わせた。
それでも居心地のよさを感じる存在となった。

ドーヴィルは保養地もあり、別荘地でもあるので、私自身は昔からの友人に、彼は仕事関係の知り合いにそれぞれ誘われて、時々ホームパーティーに出かけた。ダンスタイムになると、彼は花形になった。学生のころから、ダンスソシエッテ(社交ダンス)をやっているのだと言う。

踊りなど出来ない私は、普段は見ているだけだったが、彼が少しずつ教えてくれた。
日本企業のフランス支社へ駐在で来ていた彼は、パリに住んでいた。それでも週末には必ず6時間かけてドーヴィルまで来てくれた。

そのうち彼が「競技に出ようよ」、と言い出した。
え?この私が?ダンスの競技?
50も過ぎて始めたダンスだったが、「年の割には覚えがいいよ」などとおだてられて、ついその気になった。

なんと言っても、煌くスワロフスキーのたくさんついた美しいドレスを着て踊ることが出来るのは、結婚式にさえドレスを着なかった私には夢のようだった。燕尾服の似合う背の高い彼の踊る姿も、惚れ惚れとした。

私たちは、競技のためにあちこちを旅行した。
何度も優勝したり、賞をもらったりした。
不思議なことに、もうお酒は乾杯程度しか飲まなくなっていた。
それでも、長い間の疲れは、確実に蓄積されていたのかもしれなかった。


若い人は外国の駐在を嫌がると言うことで、彼は駐在期間を自分から延期をしてくれていたが、9年目に日本のご両親の面倒を見なくてはいけないというので、日本に帰っていった。

「結婚しよう」

そういってくれた彼。



彼のご両親が反対しているのを知っていた。
独立したとはいえ、子供たちをこの地に残し、私だけ日本に行けるのか?
それよりなにより、彼は私より15も若かった。

娘たちも私たちの結婚に賛成をしてくれたが、私はとうとう「うん」とはいえなかった。


それでよかったと思う。
私がガンだと宣告を受けてからも、彼は年に何度も逢いに来てくれたし、競技こそ出なくなったが、二人のダンスもレッスンは欠かさなかった。
再発し、抗がん剤治療をうけてきたが・・・
それも、このパリにあるホスピスに移ってからはすべての治療を断っていた。

もうだめなのかもしれないなぁ・・・
ああ、・・・花畑が向こうに見える。
まぶしい光の中に、マリアさまのように美しい影が浮かんでは消える。


私の命も今日限りだろう。
よく生きてきたと思う。
良く戦ってきたと自分を褒めよう。


だけれど、
もう一度、
もう一度だけでいい。

私の愛しいあなたと、踊りたかった。

睡魔のように薄れ行く音楽を、わたしはくちづさもうとした。
バイバイバイわたしのあなた
バイバイバイ わたしの こ こ ろ・・・・・




ーーーー
私の大切な友人 Madame SACHIYO へのオマージュとして
写真:Mr.TAKAO







2011年6月12日日曜日

釣れるか!よたろう by 網焼亭田楽

編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の執筆陣達が挑戦しました。第1回目のお題は「中国・船・ギター」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。
今回は、網焼亭田楽さんの新作落語をお楽しみください。


■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


昔からホラ吹きってえ奴はいるものでございます。
知ってて吹くのがホラならば、
知らずに吹く奴は妄想癖というのかもしれません。

「おい、よたろう」
「なんでございましょう、だんなさま」
「暇だなあ」
「あたいはそうでもありません」
「何言いってんだい。さっきから、ぼーっとしてるだけじゃないかい」
「そんなことはございません」
「じゃあ、何してんだい」
「釣りでございます」
困ったね、こいつ。暇すぎて妄想癖がでちまったよ。まあ、どうせ暇なんだ。よたろうの妄想癖に付き合ってやるとするか。
「で、どこで釣ってるんだい。海かい、川かい、湖かい」
「船でございます、だんな様」
こいつ、妄想のわりには設定が細かいね。
「船ってのは、手でこぐボートかい。それともモーターのついてるクルーザーのような船なのかい」
「いいえ、違います」
「じゃあ、何に乗ってんだい」
「宇宙船」
おいおい、こいつ大丈夫かい。
「宇宙船なんかに乗って、何釣ってんだい」
「国でございます」「そりゃあ無茶だな、さすがに国は釣れねえだろう」
「昨日は日本を釣り上げました」
「すげえな。今日は何狙ってんだい」
「中国」
「そりゃあ、大物だ。で、釣れそうなのかい」
「今、食いついたところでございます」
「ほんとかよ。そりゃあ、てえへんだ。あたしに何か手伝えることはないかい」
「歌でも歌って応援してください」
「そんなことならおやすいご用だ。ここにちょうどギターもある。さあ、ギター弾きながら歌ってやるよ」
「きたきたきたきた。あー、ダメだ」
「どうした、よたろう。あたし一人でも歌って応援してやるから。何とかお言いよ」
「そいつは、引きが足りねえ(弾き語りねえ)」

おあとがよろしいようで。

2011年6月10日金曜日

束の間の夢 by 御美子

編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の個性豊かな執筆陣達が挑戦しました。第1回目のお題は「中国・船・ギター」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。
今回は、御美子さんの新作落語をお楽しみください。


■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


おっ!熊、粋なもん抱えてんじゃねえか。
これか?八、さすがに目の付けどころがいいな。
そんな目立つもん抱えてりゃあ誰だって気づくだろうよ。
そうか?黒くて地味過ぎんじゃねえか?いげえだなあ。
そいつあ、まさかギターじゃねえだろうな。
なんだ、中身も分かっちまったのかい。つまんねえ。
分かるに決まってんだろ。まんまの形じゃねえか。
ま、分かっちまったんなら、しょうがねえ。
そん中におめえの商売道具の大工(でえく)道具なんざ入ってりゃあ笑えるけどよ。
八、おめえ、おもしれえこと考えやがるな。いっぺん、試してみっか。
止めとけ。肩に担げる大きさじゃねえだろ。大工(でえく)道具が中で偏って、バランス崩して怪我するのがおちだ。
それもそうだな。
ところで、いつからそんなハイカラなもん弾けるようになったんだ?
ここだけの話、実はまだ弾けねえんだよ。
じゃ、何で昼間っからそんなもん持ち歩いてんだ?
こんなもん伊達に持ち歩いてるわきゃねーだろ。今から弾き方あ習いに行くところよ。
へえ、こいつあ驚いた。音楽のおの字も知らねえおめえがねえ。
話せばなげえんだが、先月の寄り合いで、親父の代わりに出てた綺麗なネエちゃんがいてよ。
ふんふん、それで?
公民館でギターの小さいやつを教えてるって言うじゃねえか。なんでも、年に関係なく誰でも直ぐ簡単に弾けるとかでよ。
そんなに簡単でもねえような気もするけどな。
だろ?何でも発表会に出るのに人数が足りないとかで、他のやつらに追いつくように、ネエちゃんが個人授業してくれるって言うから、つい。
また、悪い癖出しやがって。
若い女に頼まれて、嫌って言えるかよ。
しかし、年金暮らしでよくそんなたけえもん買えたな。
それがよ。音楽狂いの孫が安く手に入る方法を知ってやがって。
へえーっ、どんな手え使ったんだ?
中国製の安いやつをネットで注文しやがったんだ。
中国製って、おめえ、でえ丈夫なのか?
それがよ、今どきギターの半分以上が中国製だっちゅうから驚きよ。
まあ、音さえちゃんと出りゃあ文句はねえんだろうけどな。
そいつあ、当の孫もしんぺえしてたんだが、音もまあまあだし、シリアルナンバーなんて、うまそうな番号まで付いてやがるんだ。
うまかねえけど、基本だろうよ。
孫が言うにゃあ、全部同じ番号かも知れねえんだと。大したもんだよな、中国は。
感心してんじゃねえよ。登録番号なんだから全部違ってなきゃいけねえだろ。
なんだ、八、おめえ物知ってんなあ。大工(でえく)にしとくにゃ、つくづく勿体ねえ。
呆れた野郎だな、おめえそれでよく今まで世間で通用してきたな。
おっと、いけねえ。初日から遅刻じゃ、洒落にならねえ。ちょっくら行ってくらあ。
若いネエちゃんっていうだけで、直ぐ舞い上がっちまうんだから。しかし、ギターとは、あいつもとうとうヤキが回っちまったな。(キセルを一服)

おや、どうしたんでえ、熊、えらくはええな。ちったあ弾けるようになったか?
それがよ・・・。
どうしたんだ、浮かねえ顔して。言ってみろよ。
ギターじゃなくてウクレレってやつでよ。
呆れたやつだな。ギターとウクレレの区別も付かねえのかよ。
大の男が、あんな小せえもんじゃ示しがつかねえから、大きいのを買っちまえと思ってよ。
そういや、おめえ、ギターの小せえのとかぬかしてやがったな。
おまけに、習いに来てんのがバアさんばっかりでよ。発表会にゃあ揃いのムームー着るっ言うじゃねえか。こっ恥ずかしいたら、ありゃしねえ。
きょうび、バアさん達の間じゃあ、フラダンスも流行ってるからな。まあ、そうがっかりすんな。
そうだな。ここ1ヵ月ぐれえ、いい夢見たと思うことにすらあな。
何で1ヵ月なんだよ。
船便ってやつで、届くのにそんだけ掛かったってことよ。

お後がよろしいようで。

2011年6月4日土曜日

吉他船 by 響 次郎

編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の個性豊かな執筆陣達が挑戦しました。第1回目のお題は「中国・船・ギター」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。
今回は、響 次郎さんの短編をお楽しみください。

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■



「他の船が良ければ、ソッチに乗ってくれて良いアルよ?」
船頭が叫ぶ。
「……胡椒、シナモン、ピメント、丁字。略してコシナピチョね。
おっと、紅茶も積んでいるアルあったね。戦争中アルあいやー!」

俺は、世界を目指して、これから大海に出ようとしているんだが……
どうやら、この船頭さんは『コショウ戦争』から時が進んでないらしいw


「ふむ。俺の船は、凶他船だ。おだやかな航海よりも、
スリルの在る航海。やっぱ、海の男は命をかけなきゃ、な。
【むつ】じゃないけど、原子力で動いているのサっ! 乗るかい?」

・・・いや、止めておくよ。。


「やぁ、みんな! XXX(伏字)だよ!!
クッキーに著作権を表示しないとイケナイんだよ?
●を3つ、イラストに描かないと(僕と)約束する代わりに、
夢と魔法の国に、みんなを招待するよッ♪」

パレード中かよっ。日本のマイアミって処だろwww
誰よりも夢は在るんだけど、学生パスポートは買えない年齢だしなぁ。


どれも、乗るのは止めとこうか(苦笑)


で。
「吉他」はどこへ??
※吉他とは、中国語でギターの意味。





編集部より…イラストと本文は全く関連がありません
 

2011年6月1日水曜日

初恋 by miruba

編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の個性豊かな執筆陣達が挑戦しました。第1回目のお題は「中国・船・ギター」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。
今回は、mirubaさんの掌編をお楽しみください。

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


孝が生まれたのは、九州の熊本。両親の影響で色々なジャンルの音楽に触れる機会が多かったからか、子供の頃から音感に優れていた。物心ついた頃にはギターを欲しがったが、中学になるまではだめだと諭され、孝は自分でギターらしきものを作り、それを弾いて加山雄三の真似をして遊んだものだった。

また、家が海のそばということもあり、泳ぐことも大好きで、夏だけでなく、ツツジの終わる春ごろから、コスモスの花散る秋ごろまで、真っ黒になって泳いだ。水泳の地区大会ではいつも優勝をするほどだった。

地元の高校に入っても相変わらず水泳を好んだが、泳げない季節にはサッカーをやった。

孝のキックしたボールが外れて、少し離れたテニスコートに飛んでいく。ボールを拾ってそっと手渡してくれた少女・裕子の目を、孝はまともに見ることが出来ない。

裕子は孝の初恋の相手だったからだ。
彼女もはにかんだように、それでも孝の目を覗き込む。
互いに触れた手と手が、心臓を締め付ける。
告白できるわけもなく、また言葉が交わせないかと、わざと裕子のほうにボールを蹴ったりした。

だがそれもすぐに別れは来た。
孝の両親が広島に住むことになったのだ。

「いつかきっとまた逢いに来てね」
「いつかきっと結婚しよう」
別れの時がむしろ二人を大胆にさせ、五月雨のなか切なく別れを惜しみ、涙した。

専門学校に進学したが、友人のいない広島で、孝は寂しさに耐えられず、ギターを抱えて路上ライブをはじめた。曲は裕子に聴かせたいと思ってつくった自作の歌ばかりだった。

音楽好きが高じて楽器販売の会社に就職した孝は、来る日も来る日もピアノの調律をした。耳が良かったので、その調律には定評があり、「音が良くなるので次回もお願い」と調律の予約が半年先まで埋るほどだった。

250本のピアノ線を一本一本音を合わせていく地味な作業だ。それでも、興味が尽きなかったのは、調律し終えた時の達成感がたまらなかったこともあったが、そのピアノの所有者家族に、たくさんのドラマが隠されていたからだった。それがまた、弾き語りをする孝の人生の勉強になったのかもしれなかった。

路上ライブが少しずつ有名になってきて、孝は地元中国地方の放送局でDJをすることになった。孝の甘い声は、リスナーの心を癒した。

ある日、ラジオ番組の中で読み上げるリクエスト葉書の中に、「裕子」という名前を見つけた。
ーリクエストは「一目ぼれ」をお願いします。ー
孝は、裕子の葉書に書かれてあった住所に手紙を出した。
「逢えませんか」
しばらく手紙のやり取りがあったが、DJなどをしているくせに、孝は裕子に臆病だった。
裕子からのリクエストがあると、心が浮き立ち、切ない思いを歌に出来るのに、なかなか積極的に逢いにいけないのだった。

それでもいくつか季節を越え、孝は、中国地方の広島港から、船で松山へ向かった。
裕子がそこに移り住んだと聞いたからだった。

松山行きフェリーは嵐で揺れた。

やっとたどり着いた港に待っていたのは、手紙ではわからない、裕子の姿だった。
長い髪をまとめて、左胸のほうへたらし、ベージュのコートと同系色のスカーフが洒落ていた。
すっかり魅力的になった裕子。孝は嬉しさに震えた。
裕子もまた、孝を気に入った様子にみえる。時々の手紙のやり取りが、長い付き合いのようで、違和感もない。二人は空白の時間を埋めるように語り合った。
そのままずっと二人でいたかった。時間が止ればいいと思った。

だが、帰りの船に乗る孝に、裕子が逡巡するように言った。

「私、婚約したの」

孝は、恥ずかしさで渡しそびれ、ポケットに入れたままだった指輪を、海に投げ捨てた。

その後もずっと中国地方のラジオ番組で自作の曲をギターで弾き語りしていた孝は30近くになってスカウトをされ、ヒット曲にも恵まれて、テレビにも出るようになった。
ライブ公演のチケットは瞬く間に完売する。順風満帆のようにみえたが、ある日ステージで倒れた。

孝は遠くから人の呼ぶ声を聴いた。
眠いのだが、その声には聴き覚えがあり、寝てはいけない、起きて返事をしなくてはいけない、と感じ、やっとの思いで目を開けた。

そこには、20年前にあの松山へ渡った船から見た、裕子がいた。
偶然にも、彼女の働く病院に担ぎ込まれていたのだった。

「そうか、君は看護師さんだったね」

「頑張って孝君、病気に負けちゃだめよ」優しく微笑む裕子の白衣が眩しかった。

「君は離婚したんだってね。噂に聞いたよ。

もう遅いかもしれないが・・・・

今度は僕と一緒になってくれないかな。高校生のときに、約束したじゃないか」


裕子は、涙を浮かべ、深くうなずいた。


ーーーーーーーー
この物語はフィクションです。
が、物語のモデルはいます。

1999年6月24日、高血圧性脳内出血で天に召された村下孝蔵さんをしのんで。