2014年8月30日土曜日

携帯がなった   chapter 1 by Miruba

携帯の音にビクッとした。
マナーモードにしてはあるのだが、テーブルの上におかれた携帯は、思いのほか大きな音でその存在を主張する。

「おい幸恵、ムラカミタカヒコって知っているか?」

受話器の向こうから音が漏れそうなほど大きな声で、兄の慶介が聞いてきた。
私は周りの仕事仲間の迷惑になら無い様、椅子から離れ廊下に出る。
今にも降りそうな灰色の雲が非常階段の窓から見えた。

「うん、同じ人かどうかわからないけれど一人知っているわ」

「そうか、何でもお前を探しているらしい。」

私はネットで酷い目に遭ったことがあり今は一切インターネットはやらないが、兄が仕事関係でも使っている本名登録のF&BというSNSサイトで、あるメッセージを受け取ったというのだ。

_こんにちは、突然失礼します。
あなた様のフルネームとプロフィールのお写真が似ていることから、探し人のお尋ねです。
慶介さんには、幸恵さんという妹さんかお姉さんはいらっしゃいませんか。
幸恵さんに、KEISUKEさんという名前の男兄弟がいると昔聞いたことがあるのです。

僕は幸恵さんと学生の頃フランス、ニース大学で同じクラスだった邑上孝彦といいます。
現在イタリアのジェノバに住んでいます。僕の名前を伝えて、幸恵さんが知らないと言ったら、この事は忘れてください。
もし、連絡が付くようなら、一度お話がしたいのです。僕の自宅電話番号は○○○○・・・です_


慣れない外国暮らしで、同じ日本人同士助け合ってきた友人の一人だった、懐かしくないわけが無い。
だが、確実に本人かどうかまだわからない。それに、本当に私はムラカミタカヒコに会いたいのだろうか・・・

それでも兄に連絡係をしてもらい、1週間後日本へ一時帰国するという孝彦と、兄を伴なって会ってみることにした。



横浜に住む兄と合流して品川の駅ビルの中にある待ち合わせ場所のジャズバーへ入った。
この店ではミニライブがあり、料理も美味しく値段も手ごろなのが嬉しい。

黒服のウエイターの背後から顔を出した孝彦は、センスの良いイタリアンなスーツで現れた。
いつもヨレヨレのジーンズにダウンのベストを着ていたあの彼が、こうも変身するものか。
今は日本人向けのイタリア語の先生をしているという。何でフランスの大学に行ってイタリア語?
_巻き舌が得意だったから_という理由で大学に入りなおしたという。「昔から変わっていたからね」と言うと「お互い様」と、答えが返ってきた。

ひとしきり弾んだ話が落ち着いたころ、孝彦が妙に沈んだ声で「今、尋ねてもいいかな?」と、きりだした。



「実はね、ジャンに、幸恵を探してくれないかと頼まれたんだ。嫌ならもちろん、会ったことは言わないよ」

先ほどから、私たちの話にあまり入れず所在無げだった兄に向かって言った。

「兄さん、ジャンはね。私の大切な人だったの」


孝彦を昔の私の恋人と勘違いしていたらしい兄は、少し驚いた顔をした。



「ジャンは病気でね、もう長くないそうだ。」孝彦が続ける。



兄には話さなかったが、私はニース大学在学中、ジャンという男と一緒に暮らしていたことがある。
孝彦に会おうと思ったのは、もちろん学生時代の思い出が懐かしいということはあるが、ジャンの噂話が少しは出るかもという期待がどこかにあったのだと思う。



photo by TAKAO
ニース大学では、外国人向けの語学クラスがあった。
ここで試験が通らないとディプロマがもらえず、何のために留学しているかわからないので三年の私はあせっていた。
とにかくフランス語を言葉にしようと学生はと見るとやたら話しかけていた。

次年度担当の先生だと知らず、構内を歩いていたジャンにも親しげに話しかけた。
それが彼との出会いだった。
私達が先生と生徒の境を越え親しくなるのに時間はかからなかった。
彼の部屋は広かったので私はボストンバックひとつで転がり込んだ。


ジャンはやさしかったし、そして同時にどこか冷めた雰囲気も持ち合わせていた。
時に一人になりたがる私には、個々を尊重する彼が魅力的だった。
一緒に食事を作り、交代で掃除や洗濯をする。
夕方には必ずニースの海岸を散歩して二人の時間を楽しんだ。
夏には、カキ氷のようなクラッシュした氷にシロップをかけたフローズンアイスを二人で食べたり、冬には、マロンショーという焼き栗を買って食べたりしながら海岸沿いのアベニューデザングレを散歩した。

そして、一方でお互い何日も話さないでいられるほど自由な時間も沢山あり、それが二人の関係を不動にしていた。



週末にはクラスの仲間を呼んでパーティーをした。ジャンも時には参加してくれた。
またジャンの仲間のパーティーにも、出来ないフランス語を必死で使って何とか付き合ったものだ。

観光地ニースでは週末になると花火が上がる。
孝彦やベルギー人のヘンリ、スペイン人のカルロスなど親しくしていた仲間達とワインで乾杯だ。
日本人とアメリカ人のハーフだという2つ年下のマリアはことのほか私を慕ってくれた。


半年ほどたったころだろうか。
マリアの様子に少しだけ変化を感じるようになった。
頻繁に電話をかけてくるようになったのだ。話は他愛もない世間話。
最初はジャンに用があるのかと思ったくらいだ。

ジャンが長電話を嫌がるので、インターネットのメッセンジャーで話すことにしたのだが、それも日に日に長い時間拘束される様になった。

今にして思う。

なぜ断れなかったのか。
どうして、ずるずると時間を引き延ばしたのか。
思いやりか。親切な感情か。客観性に欠けていたのか。
若さゆえ避けるすべを知らかったからか。

いや、たとえ今であっても断りきれない気がする。



マリアは私を愛しているというのだ。
もう恋人だわ、と決め付ける。
その思いは幻想であり勘違いだといっても言うことを聞かず、私がなにかと優しくしたことは、マリアへの愛だったと彼女は言い張る。

同じ仲間として接しただけで、恋というのではない、と答えると。
自分をその気にさせたのはいったい誰だと私を責める。
メールで好きだといったじゃないかと迫る。


確かに友人として好きだとは書いたが、それはマリアが自分を好きか嫌いか?と質問してきたからその返事をしただけで、もちろん「恋人」という意味ではない。
言った言わないの応酬が永遠とむなしく続く。

私の愛が得られないのなら自殺するという。もうめちゃくちゃだった。

メッセンジャーの向こうで、今薬を飲んだとか、酒を浴びるほど飲んだとか、手首を切ってみたとか言い出し始めて、私はますます追い込まれていた。

話を止めたら死なれてしまう。
私は彼女の自殺を止めるのに必死だった。


私のせいだと、書置きをして死んでやる。と脅迫してきたこともある。
もし死なれたりしたら、こんな後味の悪いことがあるだろうか。
だから、マリアの心が落ち着くまで、いつまでも話を繋ぐしかなかったのだ。

1時間2時間5時間7時間と、パソコンの前に縛り付けられた。
何日もそんなことが続き、疲れ果て、落ち込み、苦悩する私。

流石にジャンはそんな私の異常に気がつき、パソコンを取り上げてしまった。


マリアはどうしただろうか。
私が無視をしていると思っただろうか。
気がきではなかったが、ジャンの怒りが嫌で、パソコンには触れないでいた。

いや・・・
いや、そうじゃない。
ジャンの怒りだけが私をネットから遠ざけた理由ではない。
学校にもすっかり出てこなくなったマリアの呪縛から逃れられて、心底ほっとしていただけなのだ。


だが、事態は私の知らないところで少しずつ悪いほうに進んでいた。



孝彦が講義の後私を呼んで言った。

「幸恵、君ってレズなんだって?」


私はグラグラめまいがするほど血の気が引いた。

ジャンの顔が浮かんで消えた。

<つづく>