2012年12月31日月曜日

日本人が知らない韓国の常識•13〜ハングル使用はどれくらい?〜by 御美子

ハングルは李氏朝鮮第4代世宗(セジョン)(在位1418~1450)が発明したとされ、1446年に同王によって公布された。(日本では『ハングル文字』と呼ぶことがあるが『ハングル』が正しい)
現在韓国内で使用されている文字の殆んどがハングルである。たまに漢字を目にする機会と言えば、名刺の氏名部分か看板、冠婚葬祭の花飾りに「祝・華・謹・忌」等を見かけるくらいである。
ハングルは考案時点から、漢文を使用していた両班(ヤンバン)という特権階級層に「~唯蒙古・西夏・女眞・日本・西蕃之類、各有其字、是皆夷狄事耳、無足道者」(~モンゴル・西夏・女真・日本・チベット等は固有の文字を持つが、未開人のなすことで、取るに足りない。)と反発されたうえ、中国の威光を盾にハングル使用を阻止しようとする勢力もある中での公布だった。
「刊経都監」(1461)が設置され、仏教経典が次々とハングル翻訳されるなど、李朝初期にはハングルを使用した文献が多いが、その後、燕山君(在位1494~1506)によりハングル使用者処刑等の弾圧があり、その後継者中宗(在位1506~1544)も公式な場でのハングル使用を禁じた為、公文書にハングルは無くなったが、漢字使用者以外の層へのハングルは確実に浸透していった。
近代のハングル転換点は、民族意識高揚を背景に、朝鮮初の近代新聞(官報)『漢城周報』(1886年創刊)が漢文の他にハングルのみによる朝鮮文を採用した時と言われるが、正式に公文書でハングルを使用するようになったのは、1894年11月に公布された勅令一号公文式からになる。
文字はハングルだけになりつつあるが、朝鮮語にはいくつかの語源がある。主なものは中国語由来・日本語由来・純ハングルの3つだ。現在も日本語由来の朝鮮語が結構残っているようで、韓国内の外国人向け韓国語講座でのことだが「チェソはヤチェ(野菜)とも言えますか?」と尋ねたところ「ヤチェは日本語由来なので使いません」と冷たく言い放たれドキリとした。更なる民族意識の高まりと純ハングル増加を予感した出来事だった。

2012年12月24日月曜日

★クリスマス・イヴの物語★ by Miruba

彼から逢いたいと連絡があったのは昨年の暮れだった。
もうすっかり断ち切ったはずなのに、お茶くらいなら、と思ったのは、どこかお互い寂しさを感じていたからかもしれなかった。

久しぶりに会った彼はロマンスグレーの素敵な人になっていた。それでも、「仕事仕事で結局いまだに一人さ」と笑った顔が、昔の人懐こいイメージを思い出させた。
よくデートした銀座に足を運ぶ。
驚いたことに、あのとき通ったピアノバーがまだ営業していた。
2人で久しぶりにカクテルで乾杯した。
思い出話は時を忘れさせる。

明日は、また機上の人となるという。

「ね、昔なんで来てくれなかったの?航空券送ったでしょう?ずっと待っていたんだよ」

酔っていたのかもしれない。無性に腹が立ってきた。
「行けるわけなかったでしょう!母が倒れて介護しなくちゃいけなかったし、店はあるし・・それに・・・」

「それに、僕の子供が出来たから?」

私は驚いた。
「何で知っているの?調べたの?」

「ごめん、だって君に僕と同じ名前の子供がいるって知って。お兄さんに聞いたんだ」

誰にも言わなかったのに、兄は薄々気がついていたのかもしれない。

「おまけに年齢を聞いて確信したんだ。何で知らせてくれなかったんだ」

「何を言っているのよ、子供が出来たらどうする?って聞いたら、あなたは言ったじゃない。『今はほしくない。仕事に専念したい。自分の実力を試したいから』って、私に相談も無くフィンランド行きを決めたのはあなたでしょう!だから、一人で産むことにしたんじゃない。」


言った言わないの口げんかのようになって、その夜また私達はしこりを残したまま、別れることになったのだった。
一生逢うまいと思っていたので、息子にも父親と同じ名前をつけてしまったが、失敗だったかな。未練だったのよね。
次の日息子の孝に父親のことをどう言おうかと考えたが、二日酔いの頭では良い案も浮かばなかった。大体子供のときから父親の話はタブーだったので、息子の孝がどう思っているのか知らないですごしてしまった。

携帯に彼からの電話やメールが入っていたが、無視していたらいつの間にか音沙汰もなくなっていた。
これでいいのだ、私は忘れることにした。



浅草に用があったので、ついでに羽子板市に足を運んだ。東京都の伝統工芸品に指定されている「江戸押絵羽子板」は、魔除け厄払いに、また女の子が丈夫に育つよう、初正月に羽子板を贈る習慣から江戸末期頃、歌舞伎役者を貼りつけたことから女性に人気を集め、更に羽子板の商人が増えて「羽子板市」として定着したという。

実家の酒屋に飾るのだからと少し大きめなものを頼んだら、縁起が良いというので三本締めのおまけがついた。
ちょっとくすぐったいような、誇らしいような変な気持ちになる。

総武線沿線で小さな酒屋とコンビニをやっているのは兄夫婦だ。
羽子板を持っていくと義姉が満面の笑顔で迎えてくれた。

「いっつもすまないねぇ喜美ちゃん。これで商売繁盛間違いないよ」
「義姉さん、羽子板は厄払いでしょう?縁起物ではあるけどね。商売繁盛には関係ないんじゃない?」
「いいんだよぉ。なんだってさ。早速お供えしなくちゃぁね」ちゃきちゃきの東京弁で気持ちがいい。
「私もお線香あげなくちゃ」

義姉の後を追って仏壇の前に座った。
祖父母と両親、そして兄夫婦の娘の写真を眺めて、私はお線香に火をともした。
そもそも、羽子板市に行きだしたのは、病気で3歳のときに亡くなった兄夫婦の一人娘、私の姪っ子へのプレゼントが始まりだったのだ。
それから毎年、欠かさず買うようになって20数年の今に至る。

義姉がお茶を入れてくれている間に、兄が店から母屋にはいってきた。
「やれやれ、ようやく交代のアルバイトが来た。これで愛酒試飲同好会にいけるな」
居間のソファーに兄が座り込んだ。

「兄さん邪魔しているわよ」と私が声をかける。
「おお、来てたのか。孝はまだアフリカから帰ってこないのか?危ないことやめて、うちの店そろそろ継げって言っといてくれ。
アルバイトがコロコロ変わってまいってんだ。」

私の息子の孝はフリーのカメラマンだ。
もう30をいくつも過ぎたのに結婚もせず世界中を飛び回っている。
それでも、子供の頃一緒に住んで、酒屋の手伝いを中学生頃からしていたので、
兄としては要領のわかっている甥っ子の孝が頼りになるのだろう。

「コンビニ、忙しいのでしょう?ごめんね手伝えなくて」と私が言うと、
義姉が、お菓子とお茶を出しなが口を挟む。
「いいのよ。この人はみんな自分がやらなきゃ気がすまないから忙しいだけさ。
これだけ周りにどっさりコンビニがありゃぁ、そう忙しくも無いんだよぉ」

「死んだ親父が『酒屋は美味しい酒さえ売っていればお客さんはきっと付いてくださる。
コンビニなんぞやったって潰れちまうぞ』と説教するのを押し切って始めたけど、
親父の言っていたとおりだよ。今はむしろ昔ながらの酒屋として、ワインや日本酒の良い製品を入れることで店がやっていける」と、兄がつぶやくように言った。

「でも昔、お父さんがお客さんによく言ってたわよ。
『息子の言うことを聞いてコンビニ始めてよかった。
酒屋だけでは潰れていた』ってね」

「まぁな、向かい風の時代だったからな。それも今や逆転だ。商売なんてわからないもんだな。
ま、ゆっくりしていってくれ。
俺はこれから、愛酒会にいってくる。酒の売り込みに役立ってくれて助かるんだ。
そうだ、お前への手紙まとめてあるから、忘れずにもっていけよ」

兄はあわただしく出てった。
私は転勤が多いので、以前からの知り合いはみんなまだ実家に手紙を寄越すのだ。

手紙の宛名を一枚一枚ひっくり返しながら確かめる。
その束の中に、懐かしい名前を見た。
義姉が横から覗いて、
「あら、孝だって。え?ああ同名のヒトか、孝からの手紙と思って喜んで損した」
義姉も孝を自分の子供のように接してくれていたので、便りが無いかと首を長くしているのだ。

「孝のやつ、ハガキの一枚も寄越せって、叱ってやってくださいね、義姉さん」

そういって、私はみこしを上げた。商売の邪魔をしてはいけないのもあるが、手紙を早く見たい。
義姉が世話好きの好奇心から、興味を示しているのに気がついたからでもある。




アパートに帰ったのはもう夕方になっていた。
そろそろ孝も帰国するだろうし、用意をするかな。
私はクリスマスツリーを出した。
孝が子供の頃は沢山の飾りをつけたものだが、最近は一色だけのボール飾りにしている。
数年前は銀色だけのボールにしたが寒々しいので、昨年から赤い飾りだ。

ストーブでやっと部屋があったまった頃、私はボイルしたソーセージをつまみながらワインを飲み始めていた。
もったいぶっているわけじゃないが、ようやく「山井孝」と書かれた彼の手紙を開いた。
フィンランドからのエアーメールだ。

あのときから更に一年が過ぎようとしていた。

_今度こそ、こっちに来てくれるよね。心から待っている_

そう書かれてある。
エアーチケットも同封されていた。

日にちを見て驚いた。
「え!12月23日発?もうすぐじゃない。まったく相変わらずね」

そう思ったとき、携帯が鳴った。
息子の孝からだった。
「あ、おふくろ?オレ孝。さっき、同名の親父に会った」
「え?アフリカじゃなかったの?」
「帰りにヘルシンキに寄ったんだ。空港に迎えに来てた親父を見かけて、すぐに判った。
親父もオレってすぐに判ったって。思わず抱き合っちゃってさ。涙のご対面よ。おふくろにも見せたかった。残念だったな。自分で自分を撮影して、YOUTUBEにでもUPしたら大反響だったぜ。」

_会えて良かった_と30男と思えないほどはしゃぐ声を複雑な思いで聞いていた。

あの再会の後、息子には父親の存在を話してはあった。
複雑な思いはあっただろうが、自分自身の中で折り合いをつけていたのだろうか・・・
そのわざとはしゃぐ言い草に、私への優しさをむしろ感じた。



だが、私が一人で子供を育てるのにどれほど大変だったか・・・
もっとも、孝が生まれた頃は両親もまだ健在だったし、
兄夫婦も一緒に住んでいたから、まったくの一人で育てていたわけではないが。
それにしても、一瞬にして息子を味方にしてしまうなんて、
あなたってずるい」エアーメールに同封されたフィンランドの広大な景色をバックにした彼の写真につぶやいた。




フィンランドか・・
クリスマスをサンタの国でW孝と過ごすのも悪くないかな、と思った。