2016年4月7日木曜日

逆さ傘か坂の女(ひと)by Miruba

暖かいと思うと寒さが戻り、昨日外したスカーフをまた首に巻きました。
玄関を出ると雨でした。
まだ人影はないようでしたが、サッと門の前を自転車が通り行き、ビニールの雨合羽が翻がえりました。
薄暗い早朝に音も無く忍び寄る霧のような雨でしたので、家の外に出るまで気がつかなかったのです。
傘にするか、フード付きのコートにするか一瞬迷いましたが、着替えている時間は無いので傘にしました。
駅への坂道を降りていきます。
たとえ傘を差したところで霧雨は軽い風にあおられて容易に傘の中に滑り込んでくるのでした。
時に顔にかかる水滴を睫毛にまで感じながら、軽く手で水気を抑えながら、なんとなく化粧が気になるのでした。


坂の上にある自宅から駅までの路の両側に並ぶ家には桜の木を植えたところが多く、街路樹のように連なっています。
先週の暖かさが桜便りを運び、このあたりもぼちぼち咲き始めたのですが、
この雨が花冷えを誘い3分咲きの桜は蕾をまた閉じてしまったように見えます。

それでも生垣のベニカナメモチの赤い若葉と桜の白っぽいピンクとのコントラストが灰色だった景色を明るく彩ります。

ふと、すたすたと私を追い越していく女性に、目を奪われました。
景色を味わっていた私はいつもより歩調がゆっくりでしたから、
別段追い越されて不思議はありませんが、その女性の所作に異様を感じたのでした。

傘を広げてはいるのですが濡れないように差すのではなく、まるで雨を溜めるように傘を逆さにしているのです。

_そうか、下から雨が舞い込むから坂の下から噴き上がって来る雨粒を避けているのよね_
私は自分に納得させる為にその行為に理由をつけました。
それにしては傘の中に溜まった水をまるでこぼさないようにするような坂を下りる逆さ傘。
彼女自身には吹き上げる霧雨にも天からの雨からも遮る物が無いといえるでしょう。
何の為の傘でしょう。

顔はすでに通り過ぎたのでわかりませんでしたが、後姿の美しさに魅了されます。

桜絵をちりばめたウメネズ色の着物が季節をあらわし洒落ていて、襟足も美しくすっきりと結い上げた髪が少しほつれ風になびくのです。
衣擦れの音がこの湿り気の中でも聞こえるほどでした。
けだしが翻るほどに急ぐので草履がまどろっこしくなったのか、片足ずつまるで天気を占うように、ポーンとほうりました。
片方は晴れ、片方は雨でした。
_あたり_などと思いましたが、流石に少しだけ気味が悪くて立ち止まる私でした。

それもほんの一時でした。坂が終わりかけていたので、女性が角を曲がってしまうと、また景色は静寂です。
夢でも見ていたのでしょうか。転がった草履が雨に濡れているのを見ても、現実感がありませんでした。
_桜の精が悪戯をしたのかもしれない。_私は軽く頭を振って先を急ぎました。早番の仕事に遅れそうです。


夕方になっても雨は止むことなく続いていました。
気温が上がってきて桜も生き生きと見えます。反対にこちらは疲れ切った状態です。
それでなくとも一日の終わり、買い物をしたので登りの坂道は少しきついのです。
重くなったスーパーの袋を持ち直し、そぼ降る雨から濡れないよう、肩の上で傘を移動させていると、声を掛けられました。

有無を言わさぬ印籠のような警察手帳を見せながら、二人の屈強そうな男たちが私の行く手を阻むように立つのです。
「済みませんが、お話を聞かせていただけませんか、お時間は取らせません」
あまりすまなそうでも無いその言い方に_時間が無いので_と断りたかったのですが、次の言葉にはっとしたのでした。
「いつもこの坂をお使いになるのですよね。今日も朝早くに通ったのでしょうか?何か見ませんでしたか?」

見なかった事にしたかったのですが、私は結局今朝見た逆さ傘の坂の女の話をしました。
事件があって自首してきた女の話を裏付けるものを探していたと言うのです。
「ただ、草履はどこにもありませんでした」

出頭するときに持っていた傘に被害者の血が着いていたのだそうです。
ああ、そうか、と思いました、血液が雨によって流されるのを防ごうと逆さ傘だったのだわ。
「自分は間違いなく犯人だ。逃げるときに女の人とすれ違ったから探してほしいと、容疑者の女が言いましてね」
といった女の話もまた奇妙なニオイがしました。
私に印象を残す為の芝居だったのではないのかしらと感じました。
草履は高価そうでしたから、誰かが持っていったのかもしれません。



その女は坂の上にある恋人の家に通ってきていたのだそうです。
で、事件は起こったのでしょう。夫がその女の恋人を殺してしまったので、罪の意識から夫を庇った、とか。
子供がいて、母親の恋人が気に入らなくて・・・それを庇ったとか。

色々想像しましたけれど、本当はどういう理由だったのか、詳しくは警察も教えてくれないし、新聞にも出ませんでした。


今朝も霧のような雨でした。
すでに桜は満開を過ぎて、桜の花びらが地面いっぱいに落ちていました。
玄関の中でフードつきのコートを羽織っていたら、通りをサッとビニールの雨合羽を羽織った人が行過ぎました。
デジャヴュ
そうでした。あの逆さ傘か坂の女を見かけたとき、その少し前、自転車の男を見かけたのでした。
ビニールの半透明の自転車用雨合羽にピンクの模様が入っているように見えたのは、アレはもしかしたら、返り血を浴びていたからなのかもしれません。
面倒ですが、ちょっと交番に寄って行こうかしら、と考えました。

桜の景色の似合う寂しげな後姿のあのひとは、これからどうして生きていくのでしょうね。

桜たちは毎日色々なドラマを見ているのだろうな、なんて思ったりしました。
_おどろおどろしいのは嫌だけれど、どうせなら私にも、少しはドラマチックな話が無いかしら_とつぶやきながら、潔く散った桜の花びらを踏み、早番の仕事に向かうのでした。