2011年7月23日土曜日

キングコング・アローン by  寿月

編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の執筆陣達が挑戦しました。第2回目のお題は「トマト、ぬいぐるみ、朝寝坊」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。今回は、寿月さんの大作をお楽しみください。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

彼女がカーテンを開く。強い日差しが室内のいたるところに命を吹き込み、止まっていた時間が動き出すのを感じる。
朝が来た。いや、朝ではないかもしれない。
実際の時間が何時だろうと、僕にはまったく関係ない。大切なのは彼女にとっての朝は、今だということだ。
彼女がカーテンを開けなければ僕には朝が来ない。
そしておそらく彼女にも、同じことが言えるのだろう。

「さあさあ朝ですよ。あなたったらもう、手の掛かる困った人ね。起きてくださいな」
僕の眠るベッドの横に立つ彼女の顔は、ちっとも困っているように見えない。むしろ生き生きと輝いている。
彼女は首の下に腕を差込み僕を抱き起こすと、ベッドの端に座位をとらせ、支えるように背中に手を廻す。
今日の調子はどう?どこか痛いところはありません?お腹はすいたかしら?
幼い子供をあやすように、僕の背中をとんとんとリズミカルに叩きながら、彼女は矢継ぎ早に質問をしてくる。
「さ、これに乗ってお食事に行きましょうね。皆さんもう、始めてらっしゃるかもしれないわ」
かいがいしく僕を車椅子に乗せて「足をブラブラさせないで」とお小言をつけながらも、足置きに僕の足を一つずつ乗せてくれる。その手つきはとても優しく、こわれものを扱うように繊細だ。
「ねえ、あなた、二人で行こうって言ってた旅行の約束、覚えてます?うふふ、楽しみだわあ。早く元気になって、連れてってくださいな」
旅行の事を持ち出す時の彼女はいたって機嫌が良い。いい一日になりそうだ、僕はそう思った。

リノリウムの床にタイヤの軋む音が響く。ぎゅうともぎいとも聴こえるその音に合わせて彼女は鼻歌を歌いだし、それに合いの手を入れるように、ペタペタと吸い付くような、彼女の足音が重なる。
食堂には彼女の言うように、すでにたくさんの人間がいた。食事を始めている人もいれば、おしゃべりに夢中な人もいる。食器の擦れ合う音と人声で大変な騒がしさだ。
「朝、見かけなかったけど、寝坊?もうお昼よ」
入り口付近で一人の女性が話しかけてきた。嫌味な言い方だ。何か値踏みするような目付きで、僕たちを上から下まで嘗め回すように見る。
「何言ってるの。今が、朝よ」
彼女がぴしゃりと返した。女性は一瞬ぽかんとした後「規則は知ってるでしょ。集団生活を乱すような行為は、私が許しませんよ」とムキになって叫んでいる。確かこの女性は、元教師だと聞いたことがある。
叫ぶ女性をその場に置き去りにしたまま、彼女は僕の車椅子を押して、いつもの決まったテーブルに到着した。
「おかしな人がいるものね」
言いながら自分の椅子の左側に僕の車椅子をセットすると、自分も腰を降ろした。
目の前のテーブルには、すでに食事がアルミの盆に載せられ準備されている。
今日は冷やし中華だ。錦糸卵の黄色ときゅうりの緑、ハムの桃色が美しくあるべきところに配置されている。そして薄めに切られたトマトが二きれ、申し訳程度に皿の横に添えてある。
「あらいやだ、朝から中華なんて・・」
彼女が心底落胆したような声をだす。
「別のものお願いできないか、厨房に頼んでこようかしら」
彼女が立ち上がりかけた。僕は慌てて車椅子を揺らしてみる。実際は揺らしたつもりになっているだけだが、必死にやると何故か伝わることが多いのだ。
「そう、そうね。あなたが気にしないなら私はそれでいいの。だって栄養を取って、元気にならなければいけないのは、あなたですものね」
彼女は僕を見て何かを感じ、思いとどまってくれたようだ。以心伝心とはこういうことを指すのだろうか。何はともあれトラブルはなるべく避けたほうがいい。
「では、いただきます」
背筋を伸ばして目を閉じ、彼女は手を合わせる。そしてゆっくりと目を開けると横にいる僕の両腕をつかみ、丸っこい手のひらを合わせるように動かし、僕の代わりに「いただきます」と言った。彼女の息が身体にかかり体毛がくすぐられる。

ここは病院だ。歩いている人もいれば、僕のように車椅子に乗っている人もいる。病室から出られない状態の人も多いようだ。
「まずはお野菜から食べましょう。あなたご存知?食事の時、お野菜から口にすると、消化吸収がとっても良くなるんですって。高橋先生が教えてくださったの」
彼女はいつもと同じ台詞を口にすると、皿から薄っぺらいトマトを指でつまみ、「あーんして」と言いながら僕の口元に近づける。
まるで口というのはこうやって開けるのよ、と体現するように、自らも口を大きく開けた状態で僕の様子を伺う彼女を見ながら、僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「どうしたの、ほら。お口を開けてくださいな」
少し困った顔をした彼女を、僕はただ見つめ返すことしかできない。彼女は、ふぅとため息をつくと、トマトを一度お皿の上に戻した。
こうして彼女を落胆させてしまう僕が、ここにいる意味などあるのだろうか、毎度毎度、そんな疑問が湧き上がってくる。
「少しでも食べなくちゃ元気になれないわ。ねえ、わかって、あなた。あなたをもう一度元気にすることが、私の使命だと思っているの。だからお願い、お願いよ」
懇願するように彼女はつぶやき、意を決したような表情で再びトマトをつまむと、僕の口元に運び、そのまま唇にトマトを押し付けた。塗りたくるようにぐりぐりぐりと左右に動かすと、果肉がつぶれて口元を濡らし、顎をつたって胸まで滴った。
「えらいわ。そうよ、その調子で頑張りましょう」
彼女は泣き出しそうな顔で僕を励まし、今度は錦糸卵を指でつまむ。そしてそれをまた僕の口に運ぶと、指に力を込めて押し付ける。卵はぬちゃっと潰れてちぎれ、ぼたぼたと落下する。
麺やきゅうりやハムが僕の顔や身体を汚し、その横で彼女はその様子を満足そうに眺めながら自分も麺を啜っている。
彼女の強い気持ちが伝わってきてとても苦しい。その気持ちに僕が答えられているかどうかが気がかりだけど、それを確認するすべを僕は知らない。
「安藤さーん。しっかり食べてますかあ」
先ほどとは別の女性が、僕たちの目の前に立っている。案山子のように片足で立ち、折り曲げたほうの足を腕で抱えるように持ちながら、にっこりと微笑んでいる。ちらりと見える足の裏は汚れてすすけたような色をしていた。
「ええ、おかげさまで。今日はほら、随分と食べてくれたんですよ」
僕の横で彼女が、嬉しそうに皿を傾けて女性に見せる。
「それは良かったですねえ。食べると元気も出てきますから、もう少しですよ。一緒に頑張りましょうね」
そう言いながらも女性は、自分の足の裏の何かが気になるらしく、視線はすでに僕たちから離れ、足の裏の何かを引っかき取ることに意識を集中しているようだ。
「はい。ありがとうございます。お世話になります」
それに気付いていないのか彼女は、女性に向かって丁寧に頭を下げると、僕の後頭部に優しく手を添え、少し前に押すようにして僕の頭を下げさせた。

「私たちもそろそろ戻りましょうか」
食事を終えた人たちが行きかうのを眺めながら彼女はそう言うと、食器を手にし下膳所に向かった。
たくさんの足音の中でも、僕は彼女の足音を聞き分けることができる。床を踏みしめるのが申し訳ないとでもいうような、ちょこまかとした遠慮がちな音だからだ。ペタンペタンでもヒタヒタでもなくペタペタ。その音に耳を傾けながら僕は、まだここに来たばかりの頃を思い出していた。
その頃僕は、この足の裏と床が吸い付いては離れする音が、気になって仕方がなかった。昼といい夜といいひっきりなしに誰かがたてるビタビタベタベタした音が、なんとももの悲しく、耳を塞ぎたくなるほど切なかった。
安全上などの事情から靴やスリッパが厳禁になっているらしいが、なんだか人間らしい生活からは遠くかけ離れているような気がした。野生の生き物が捕らえられて収監されている、そんなイメージが頭に浮かんで僕を苦しめた。
もちろん今では、その音も、たいして気にならないほどに僕はここの生活に慣れてはいたが、やっぱり、スリッパくらい履いても問題はないのでは、と思ってしまう。
「お待たせ、あなた。さ、行きましょう。あらあら、たくさんこぼしちゃったから洗面所に行ってきれいにしましょうね」
戻ってきた彼女に誘導されて僕は食堂の出口に向かう。
「安藤さーん。お食事終わったんですかあ。今日はしっかり食べましたかあ」
出口のところで先ほどの女性がまた声をかけてきた。あの案山子の女性だ。
「ええ。おかげさまで。今日は随分と食べてくれたんですよ」
彼女も先ほどと同じように答える。
「それは良かったですねえ。食べると元気が出てきますから、もう少しですよ。一緒に頑張りましょうね」
「はい。ありがとうございます。お世話になります」
まったく同じ会話が繰り返されていることに、当の二人は気がついていないようだ。
「それでは」
と彼女は女性に会釈をし、女性がまた食堂の奥に戻っていくのを見届ける。ペタンペタンと踊るように歩くあの女性は、長年、看護婦をしていたらしい。きっと患者思いの優しい看護婦さんだったに違いない。
洗面所につくと彼女は大きな全身鏡の前に僕の車椅子を止めた。
「さあ、きれいにしてあげますからね。少し待っていてくださいな」
彼女は鏡にうつる僕に声をかけると、車椅子にかけてあるタオルを手に取り、洗面所の奥にある給湯室に向かった。僕はホットタオルの気持ち良さを思い、うっとりとする。彼女は僕を拭きながらいつも、「早く元気になあれ。早く元気になあれ」と呪文のようにささやく。その声が、僕はとても好きだった。
鏡の中の僕の身体は、食べかすだらけだし、汁を吸った毛が束になりてらてらと光っているし、膝のあたりや肘、足の裏などから綿が飛び出しているしで、あちこちかなり傷んでいるが、それでも厳つく、自分で言うのもなんだが、強そうに見える。
でもまあ、そのせいで僕は捨てられたのだから、強そうに見えるのはあまり喜ばしいことではないのかもしれない。
僕と対面した時の女の子の泣き声が、今でも耳にこびりついている。僕は仲良くしたかったのに。いいお友達になりたかったのに。きっとあの子は、僕みたいに巨大でリアルな物じゃなく、もっとかわいい感じのゴリラのぬいぐるみが欲しかったのだろう。
ゴミとして出され、焼却施設に送られ、もう少しで焼かれるという時に、ある人が僕を訪ねてきた。
そして僕は焼却施設から運び出された。身体を洗ってもらい、毛を梳いてもらい、ほつれをかがってもらった。
僕を救ってくれた男の人の家にはたくさんのぬいぐるみがあった。どれもこれも僕と同じように捨てられていたのだと彼は説明した。
彼は僕たち、一つ一つをとても大切にしてくれ、毎日あれやこれやと世話を焼きながら色々な話しを聞かせてくれた。
「君たちのように、ただ存在し続ける、ということが人間は苦手でね」
彼はそう語った。
僕たちでもわかりやすい例をたくさんあげて、人間がいかに繊細で弱く、脆い生き物かを説明する。
「自分の存在する意味みたいなものをね、いつも、いくつになっても確認していたい、誰かに必要とされたいんだ。役割、とでもいうのかな、そういうものがないと不安なんだろう」
彼は苦渋を浮かべて話し続ける。
「しかしその役割っていうのがやっかいでね。それがあるうちはいいんだが、なくなったとたん、人間てのは壊れてしまうんだよ。突然、足元から地面がなくなってしまったみたいに感じるんだろうな」
不安が人を壊してしまう、彼はそう考えているようだった。
そして、そうやって壊れてしまった人がたくさん、たくさんいるのだ、と彼は言った。
「だから君たちが必要だと、私は考えているんだよ」
話の最後に、彼はいつもそう言って僕たち一つ一つを撫でて回る。
彼の話はもともと命を持たない僕には理解できないことも多かったけれど、必要とされることの素晴らしさは、なんとなくわかる気がしていた。現に僕は、彼からこの話を聞かされるたびに、焼却施設で焼かれなかったことを幸せに思うようになっていたのだから。

ある日、彼が僕のところにやってきて「さあ、君の出番だぞ」と言った。
僕は車に乗せられ、これから僕が行くべきところ、やるべきことの説明を受けた。
ある病院に入院している女性が僕を必要としているらしい。
病院に向かう道すがら、一緒に来てくれた彼がその女性の詳しい事情を話してくれた。
それはとても複雑な話だったけれど、所々の単語を集めて、僕は女性が長年連れ添ったご主人を亡くして、壊れてしまったことを理解した。
ご主人が病に倒れた時、女性は当然自分が世話をするのだと思っていた。それを望んでもいた。けれどそれが叶わなかった。世話どころか看取ることも許されなかったらしい。
「人間てのは愛や情が絡むと、また複雑でね」
彼は悲しそうに話した。だから僕は、それが悲しいことなのだと知った。
女性は葬儀で喪主を立派に務めあげた後、自ら命を絶とうとしたそうだ。
幸い命は取り留めたが、心は戻らなかった。
病院に入院してからも、そこが病院だという認識はあるが、自分が患者だという認識はないらしい。死の病に冒されたご主人につきっきりで看病をしている、と女性は思い込んでいる。なのにご主人が見あたらないわけだから、女性は混乱しパニックに陥り、自分も他人も傷つけかねない状態だという。
そんな彼女が、僕の写真を見て反応を示したというのだ。
本当にそんなことがあるのだろうか。
「君が亡くなったご主人に似ているとか似ていないとか、そういうことは関係ない。彼女がそう思い込んでいる、信じている、ということが大切なんだ」
彼は続けた。
「こういうことをするのは、別に君が初めてという訳じゃない。これから君がやるようなことを、すでにたくさんのぬいぐるみたちが行っているんだよ。日本中のあちこちで、仲間たちがたくさん活躍しているんだ」
でも僕は何も出来ない。自分で動けもしないのに、女性の大切なご主人になりきるなんて、無理だよ、僕は声にならない声で訴えてみる。
「何も特別なことをする必要はないのさ。ただ彼女のそばにいるだけでいい」
不安な気持ちでいっぱいの僕に彼は優しくささやいた。
そうして僕はこの病院で、彼女との生活をスタートさせたのだ。

「あら、安藤さんは?ってあんたに聞いてもね。まだ汚らしいあんたがここにあるってことは・・給湯室か」
あまり望ましくない人が突然洗面所に入ってきた。女性は僕を素通りして、給湯室に向かう。
「ああ、いたいた。安藤さん、あのねお薬飲んでないでしょう。一度食堂にもどりましょうね」
その人は何をそんなに急いでいるのか、いいから早く早くと、せっかちな声で彼女に話しかけている。僕は知っている。患者仲間の間でこの人は、強引で患者のことなんてちっとも考えない看護師として有名だということを。
「いやってことないでしょうが。薬飲まないとどうなるの?悲しくなるんだよね、辛くなるんだよね、わかってるんならほら、来てちょうだい。朝も起きてこないからもう、困っちゃうのよねえ、ほんと」
その後も、ああだこうだと彼女を急かす、看護師さんの声だけが響いてくる。きっと彼女は、僕をきれいにするために一生懸命抵抗しているのだろう。
少しは待てよ。僕が代わりに言ってやりたい。そんなに急かさなくたって、僕のお世話がひと段落したら、彼女をナースステーションに導いてみせるからさ。そう言えたらどんなにいいだろう。
ほどなくして彼女は、せっかちな看護師さんに手を引かれて給湯室から出てきた。手には僕を拭くためのタオルを握りしめている。先ほどまでの生き生きとした表情は消え、目も虚ろで、まるで違う世界に入り込んでしまったように心細い顔をしている。
「あなた、ごめんなさい。この人がどうしても来て欲しいって・・。なんだかよくわからないんだけど、ごめんなさい、すぐ戻りますから」
消え入りそうな声でそう言うと、彼女は僕の方を振り返り振り返りしながら手を引かれて行ってしまった。
せっかちな看護師さんのキュッキュッというナースシューズが床をこする音と、ペタペタという遠慮がちな彼女の足音が徐々に遠ざかっていく。
「やだぁ、安藤さん、おもらしおもらし」
遠くから看護師さんの大声が響いてきた。
もっと彼女のペースで、彼女の役割を尊重して接してくれれば、不穏になることも減るし、おもらしだってなくなるかもしれないし、生活のリズムだってきっとついてくるはずだ。
確かに彼女に薬は欠かせないし、ひとたび不穏状態に陥ったら落ち着かせるのは大変なことだ。
でもだからこそ僕はここにいて、こうして彼女と過ごしているんじゃないのか。
しかしその事を理解してくれる看護師とそうじゃない看護師がいるのも現実だ。今来た人は、もちろん後者で、僕の存在などまったく認めていない。むしろばかばかしいと思っているのだろう。

ぬいぐるみに何ができるのだ、と。

一歩も動けない歯がゆさに押しつぶされそうになった僕は、鏡の中の自分を睨みつける。毛むくじゃらで、飛び出した綿以外は真っ黒。
でかい図体を車椅子に投げ出すように座っている。
「君は、キングコングじゃないか」
ふと、僕を焼却施設から救い出してくれた彼の第一声を思い出す。キングコングってのはな、強くて逞しくて優しいんだぞ。彼はまるで自分のことのように誇らしげだった。
正直、僕がいることで彼女が幸せなのか、わからない。僕は、本物のキングコングのように強くて逞しくて、優しくできているだろうか。
僕だけじゃなく、僕たちぬいぐるみが、人間に役割を与え、必要とされていると感じさせ、生かすことに一役買っているなんて、本当だろうかと今でも思う。
けれどそんなことを実際に検証したり、研究したりするすは、また別の人間にまかせればいい。
それに看護師さんたちから、彼女が落ち着いてきただの、明るくなっただのと言われると、やっぱり少し嬉しくなる。
僕は彼女が、少しでも長い時間、穏やかで人間らしく生きられれば、それでいい。
彼女が僕を必要としている間は、僕は身体が不自由で朝寝坊の、世話の焼ける夫になりきってみせる。
それこそが命のない僕の存在意義だから。

鏡の前で僕は彼女を待ち続ける。
「こんなところで何やってたの?心配しましたよ」
きっと彼女は僕を見つけてホッとした笑顔を見せてくれるだろう。薬を飲み忘れたことも、おもらししたことも、僕をここに置き去りにしたことも、すべて忘れて。

2011年7月22日金曜日

とある休日3 by やぐちけいこ

編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の執筆陣達が挑戦しました。第2回目のお題は「トマト、ぬいぐるみ、朝寝坊」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。今回は、やぐちけいこさんの小説をお楽しみください。
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今自分は夢の中にいる。そんな自覚のある夢をたびたび見る。
広大な芝が敷き詰められた向こう側に背の高い二本の木が見える。
日に日にその木に近づいているように思う。気のせいかもしれない。

そしてまた同じ夢を今も見ている。ただ今までと違うのは遠くにあった木が目の前にある事だ。
近くで見る二本の木は何だか懐かしさを覚える。
幼い頃を思い出すような感覚。
木に両手を広げ抱きついた。安心感に満たされ目を瞑った。

突然目の前が真っ赤に染まった。昼間だと思っていた景色は一変し夕方になっていた。
顔に射しこんでくる夕日。真っ赤に熟れたトマトの様な大きな夕日だ。
気付けば二本の木はまた遠くにある。

小さな男の子がどこからか走って来た。自分の前で立ち止まりじっと私の顔を見上げている。
何で泣いてるの?そう聞かれて初めて自分は泣いているのだと気付いた。
黙って横に首を振る事しかできなかった。
ハイッと手渡された小さなくまのぬいぐるみ。
「これね、ボクの宝物なの。泣きたいときはこれを抱っこして我慢してるんだ」5歳くらいの子だろう。
こんなに小さな子にどんな悲しみがあるのか。
ありがとうと言う気持ちを笑いかける事で表した。この小さな子にどこかで会った事があっただろうか。

意識の遠くで目覚まし時計の鳴っている音が聞こえた。
そろそろ起きなければと思いながらももう少しここにいたい。この子の傍に居たいと思う。
今日くらい朝寝坊したって良いじゃないか。
心が和む時間をもう少し共有したい。

そんな思いをつんざく様な音で破られた。
ピンポ~ンピンポ~ンピンポンピンポンピンポ~ン♪
がばっと飛び起きてずかずかと不機嫌丸出しで玄関のドアを開けた。
「おはよ~。あら、まだ寝てたの?お寝坊さんねえ」
目の前の人物の顔をぶしつけに眺めた。
夢の中で会った子どもと同じ瞳を持った顔がそこにあった。
「子どもの頃に会った事があったのか?」そう聞くと少し目を大きくし驚いた顔をしたがすぐにいつもの笑顔になり「何か思い出した?」と聞かれた。
一体私は何を忘れているのか。
とりあえずこの事を考えるのは今はよそう。
こいつにまた休日をつぶされるのだけは阻止しなければと心の中で思うのだった。

2011年7月16日土曜日

ラフ・ライダース(荒くれカウボーイ) by 御美子

編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の執筆陣達が挑戦しました。第2回目のお題は「トマト、ぬいぐるみ、朝寝坊」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。今回は、御美子さんの小説をお楽しみください。
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「大佐、俺はもうだめだ。敵と闘う前に妙な病気になっちまうなんて。ここは西部とは勝手が違い過ぎますぜ」

「すまん。私の馬だけをやっと輸送できるなんて、大きな誤算だった。国に帰れるよう大統領に手紙を書いた。もう少しの辛抱だ。元気を出せ」

「お袋のポークビーンズが食いてえです。あれさえ食べりゃあ、何時だって、たちまち元気になるんですよ」

「ポークビーンズか。暫くご無沙汰してるな。私は面倒臭くてケチャップで味付けしたが、お前の家の味の決め手は何だい?」

「そういや、お袋とそんなに話もしなかったなあ」

「西部の女なら、トマトソースから手作りだろう」

「お袋・・・」

「ビル、しっかりしろ!死ぬんじゃない。ビル、ビル!」




「あなた、あなた、どうなさったの?」

「・・・。夢を見ていたようだ」

「悪い夢を見たのね」

「ああ、キューバ戦線の時のことを思い出してたようだ」

「それなら、あなたにとって人生最良の日だったんじゃありません?」

「同時に、曇った時間でもあったんだよ。兵の帰還を要請する大統領への手紙が、新聞社にリークさえしなければ、名誉勲章が確実だったのに」

「あらあら、ノーベル平和賞だけじゃ足りませんの?」

「ところで、今何時だ?もう、起きる時間じゃないのか?」

「昨夜のカーネギー財団の方達との会食でお疲れでしょう?もう少しお休みになったら?ここはホワイトハウスじゃないんですから」

「そんな訳にはいかない。昨夜は私達一行のアフリカン・サファリ資金援助の確約が出来たんだ。早速準備に取り掛からなくてはならない。直ぐに支度をしてくれ」

「はい、はい。公職を退いても、相変わらず忙しいのね。少しは朝寝坊が出来るかと期待していたのに」



1909年、セオドア・ルーズベルトは2期の大統領職を終え、彼の意思を受け継ぐ長年の友人を後継者を指名したこともあり、政治の表舞台からは退こうと考えていました。子供の頃からの趣味だった狩猟に出掛け、自ら仕留めた動物の剥製を博物館に寄附することを余生の楽しみにしようとしていたのです。
セオドアの愛称テディが、愛らしいくまのぬいぐるみの商品名になったことは有名ですが、実際のセオドア・ルーズベルトの印象とはかなり違っていたようです。
ところが、旅行から戻ってみると、後継者のウイリアムHタフト大統領と自分の政策の間に大きな溝があることが分かり、自らの政党である共和党からの出馬を諦め、1912年と1916年の大統領戦に革新党の公認候補として出馬しますが、何れも民主党に敗れることになってしまいました。


「大佐、1920年の大統領戦に共和党公認で出馬してください。テディ人気は未だに健在ですから」

「何て下品なニックネームなんだ。一般大衆っていうのは激しく生意気だな」

「大佐、口を慎んでください。この話が外部に漏れたら、今まで築いてこられたものが全て水の泡です」

「分かっている。マスコミの怖さは、身をもって知ってるよ」

周囲の期待も空しく、セオドア・ルーズベルトは南米探検中にマラリアにかかり、徐々に健康が衰えていきました。そして、ニューヨーク市内の病院で2ヶ月半リウマチのために闘病生活を送ることになりました。

「ハニー、クエンティンを呼んでくれ」

「クエンティンは去年フランスで名誉の戦死を遂げたじゃありませんか」

「そうだったな。末っ子のあの子が先に逝くなんて」

「他に5人も子供達がいらっしゃるんですから、あなたはまだ良い方ですわ」

「数の問題じゃないんだよ」

「母親達はどの子も失いたくないのですよ。でも、あなたは常々アメリカの女なら、4人は子供を産まなければならないと仰ってたわ」

「ああ、クエンティン。あの子に代わる者など居ないのに・・・」



1919年1月16日、第26代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは就寝中に心臓発作に襲われ亡くなりました。

約80年後の2001年1月、米西戦争の際、自ら募った義勇兵ラフ・ライダースを率いて、2度の突撃をした功績でアメリカ兵士に贈られる名誉勲章を授与されたのでした。

2011年7月9日土曜日

春雨に泣く恋 by Miruba

編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の執筆陣達が挑戦しました。第2回目のお題は「トマト、ぬいぐるみ、朝寝坊」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。今回は、Mirubaさんの小説をお楽しみください。
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「みんな、帰りますよ。道具を綺麗にして仕舞ってね」
「はーい!」

元気のいい声が返ってくる。明日の午後くらいから雨が降りそうだった。午前中までにトマトの収穫を急がなくてはいけないだろう。
今日玉ねぎの収穫を急いでいてよかった。気持ちはあせっていたが、みんなに緊張を与えることになるから、せっつくわけにもいかないし、困ったものだ。

春は暖かくなるので、ドンドン作物が育つが、同時に雨も多いので、作業工程の順番が大切だ。

私はみんなを送迎バスに乗せて、施設に戻る。バスの中では、みんな賑やかだ。
後ろの席の久美さんが、私の肩を叩いた。
「康祐先生、ジャガイモ早く掘らないと、長雨になったらまずいんじゃないかな」

久美さんは、実家がもともと農家だ。何でも詳しく、また10年もこの施設に通っているので、
作業指導員としても頼りになる元入所者さんだった。
彼女の子供の頃を知っていて、その頃はいつもくまのぬいぐるみを抱えて私にまとわりつく可愛い女の子だった。

だが今は、専門分野が違う為に、農作業に関しては、
むしろ久美さんから、色々指導を受けているといってもいいくらいだった。

「久美さん『先生』と呼ぶのは勘弁してくれよ。うちの知的障害者授産施設サンライズでは、みんな働く仲間として、名前で呼ぶことにしているでしょう?」というと。

「だって、理事長さんも『先生』っていってるもの。いいんです先生は先生で、事務長の容子さんも『康祐先生』っていってたもん」
久美さんは、批判を受けたと勘違いしたのか、むっとした怒った顔で強く大きな声をだした。こうなると、逆らってはいけない。

「わかったよ。『先生』でもいいよ。それにしても、さすがだね。ジャガイモのことは後回しに考えていたよ。新ジャガだから皮の薄い小さいうちに、収穫終わらせたほうがいいんだよね?」

私は、ゆっくりと、話をそらせた。久美さんは、わが意を得たりとばかり、ニコニコ顔になって話し出した。


大叔母がこの施設を始めた頃手伝っていた私は、大学で勉強した臨床心理学がここでは時に当てはまらないことも多いと、社会福祉士や作業療法士などの資格などをとり、数年ぶりに再度就職しなおしていた。其れから更に5年は過ぎたが、慢性的に現場の人間が足りず、いまや何でも屋だった。

花や作物を育てていると、障害者といわれる彼らの心を落ち着かせる作用があることは明らかだったし、またここではお小遣い程度のお給料が出るのだ。それも、彼らの励みになっていた。久美さんのような軽度の障害者は、臨時雇用者として一般の人と変わらない職場になっているくらいだった。


私は仮眠を取るために部屋に戻った。
昨日も欠員が出て、今週はもう3日宿直をしたし、今日も当直だ。

少しまどろんだとき、ノックする音がした。
時計を見ると、少しどころではないすっかり寝坊した。朝寝坊だってしたことがないのに、まいった。
_事務長に怒られちゃうな_とあわてて飛び起きた。入ってきたのは、久美さんだった。

「先生、私の作ったトマトです。味見してください」トマトを持ってきたのだ。
ミニトマトが、5種類ある。この中から、久美さんの作ったトマトを当てるのだ。元来トマトの嫌いな私は、最初の頃何度も失敗して久美さんの作品ではない他のトマトを選んだ為に、
彼女のパニックを引き起こしたこともあるので、慎重に言葉を選んだ。

「うん、このトマトだね。少し酸味があって、本来のトマトの良さを失わないで、更に爽やかな甘みがある」

久美さんの顔色が変わった。

「違う!」

しまった。寝ぼけ眼だったこともあったが、疲れていたので、寝起きについチョコレートを口に放り込んでから彼女を、部屋に招きいれたことを忘れていた。


久美さんは持ってきたトマトを放り投げる。
私はあわてた。彼女が自分の髪をかきむしるので、その手を抑えた。
だが、抑えられた両腕はそのままに、頭を壁に打ちつけようとする。
私は、彼女を羽交い絞めにした。
体中の筋肉を総動員して押さえても男の私でさえまだはじき返される。こういうときは子供でも恐ろしいほどの力を出すのだ。
激しく息が切れたが、声はあくまで優しく低い声でささやく。
「いい子だから、お願いだよ。落ち着いて」
どれほどの時間だったのか。そこらじゅうを荒らしまわって、
ようやく、腕の中の久美さんはおとなしくなった。

放そうとして、今度は彼女がしがみついてくるのに気がついた。
「え?」
突然だった。
久美さんは自分で洋服を脱ぎ捨てて、抱きついてきたのだ。
「先生、好き、好き、好きなの」仮眠室のベットに倒れこんだ。

その時、事務長の容子さんが「康祐先生、いつまで休んでいるんですか?お夕飯ですよ」といって扉を開けた。

私たちは、固まってしまった。

容子さんの苦々しい顔が目に焼きついた。

それからのことは思い出したくもないが、どんなに言い訳しても、言葉が空回りするときはあるのだと。いや、むしろ潔白を証明しようとすればするほど、言葉だけが浮いていく。
何のための心理学だったのかと、その施設を立ち去ることになった私は、むなしく、臍をかんだ。


しばらくして市で行っているカウンセリング無料電話相談の職についた。
一緒に暮らす母は年金生活だし、独り者の私は贅沢をしなければ別に生活には困らない。
だが、相談者の相談に答えながら、自分自身の相談に、どのように答えるだろうかと、思った。自分のもてあます心さえカウンセリングできないものを、人の悩みにどのように対処できるというのだ。


事務長の容子さんから電話があったのは、施設を辞めてから半年経っていた。
『先生、久美ちゃんが事故に遭って、もうだめなんだそうです。康祐先生に会いたいって』
逡巡する私に、更に言った。
『あの時はごめんなさい。私の嫉妬が先生を追い込んだのです。久美ちゃんを許してあげてください』


病室を訪ねたが、もうすでに久美さんは亡くなっていた。
頭に包帯を巻いていたが、眠るように優しい顔をしていた。
手には、あの懐かしいぬいぐるみを抱いていた。

『娘は子供のときの誕生日に先生から頂いたくまのぬいぐるみを大切にしていました。先生が大好きだったのです。
ですが、先生には娘のことで、本当に申し訳ないことをいたしました。』
お母さんが、深々と頭を下げた。

くまのぬいぐるみを久美さんに送ったことは覚えていなかったが、彼女が子供の頃いつも抱えていたのは覚えていた。そうだったのか・・

久美さんから、あの事件の後、何か小包が届いていたが、返事を出す気分に無く、開けてみてもいなった。
一人の人格として認めていながら、どこか私に相手は知的障害者だという不遜な思いがあったのかも知れない。

彼女の可愛らしい丸っこい字が便箋の上で踊っていた。
『先生、ごめんなさい。久美は先生が大好きです・・・』
そして、冬中をかけて編んだという、春には全く季節はずれの毛糸のマフラーが入っていた。


程なくして復職していた私が、作業の後施設に戻ったら、理事長に呼ばれた。

「先生、作業指導ご苦労様です。やりましたよ、当施設のトマト!優勝ですって。理事の集まりで、鼻が高かったですよ、みんな康祐先生のお陰です。」
全国にある施設間の交流をはかる、ということで、「花の大会」、「野菜の大会」、「運動会」、「ダンス大会」と施設持ち回りで優勝施設を表彰するという財団の催しが盛んにおこなわれていた。
野菜のほうはNPOや地元農協の支援もあり、市からは補助も出ていて、施設の作業から優れた野菜を生み出すまでになっていた。


_久美さん、君が作り上げた新種のミニトマト、優勝したよ、よかったね。_


大喜びの理事長とわかれて、ちょっと寒い春雨の中を、久美さんの編んでくれたマフラーをして、私は彼女の愛した農園のほうへ歩いていった。


2011年7月3日日曜日

寝起きのトマトは何処へ行く? by 響 次郎

編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の執筆陣達が挑戦しました。第2回目のお題は「トマト、ぬいぐるみ、朝寝坊」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。今回は、響次郎さんのミステリーをお楽しみください。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


「脅迫状が、送られて来たって?」
アスナロ署の花咲署長は、いぶかしげに部屋の入口を見た。
『そうなんですが……』と、ドアを開けつつ、多寡先[たかさき]警部補。
続いて「まず、こちらを御覧下さい」と多井刑事が紙を見せる。

【朝寝坊のトマトは・・・ぬいぐるみの様だ・・・】

なんだね、これは! と、花咲が怒鳴る。脅迫状の書式を満たして
いない。いや、脅迫以前の問題だ。こんな意味不明な物など相手に
してはいられない、といった感じだ。今にも、ビリビリに破かれそうだ。

確かに、アスナロ署を含めた地区は、800字強化月間と重なっていて、
(余計な)セリフを言う事は許されなかった。
『しかし、後にかかって来た男の声が不気味でして』と多寡先。
「本当なのかね?」の声に「はい。機械の様な声でして」と多井。

署長も件(くだん)の録音を確認してから、時間が無い、すぐにでも捜査に
入りたまえ! と、多コンビは目的のマンションへと急行した。


『ここの何処かに時限装置が仕掛けられている筈です』と多寡先が言った。
「油断は禁物だぞ。くれぐれも気をつけてな」と無線の向こうで花咲。
「了解」「りょーかい」と多コンビ。無線に(爆弾が)反応するかもしれない
ので、念の為にそれらの電源を切った。

少し進んで右を見ると、かすれた字で「都魔斗マンション11号棟」と在る。
ここで間違いはなさそうだ。が、何処に隠してあるのだろうか??
「こういう時は、右か左のどちらかに手を当てて、進んでいけば良いんです」
と多井がアドヴァイス。
端折(はしょ)るのも惜しいのだが、暫くして、時限装置と対面した。

『トマトはいいとしても、ぬいぐるみと朝寝坊が引っかかるな』
慎重に、装置を解体しながら多寡先が呟く。「それを今、考えてるんですが……」
と多井もポツリ。

『朝寝坊。寝起き、寝ていた状態から起きる…………』
「ぬいぐるみ。形状から平べったいという事でしょうか?」
『時限爆弾を解除すると、マンションもろとも、ぺしゃんこにでもなる、と?
でも。膨らんでいるぬいぐるみだって、在るじゃないか……』
「そう、ですよねぇ」
それぞれが、自分に納得させるかの様な口ぶりであった。

静寂が辺りを、世界を包む。
本部の花咲も(熊のように)ノシノシと、ただただ、歩きまわっていた。


とにかく解体出来るとこまでしようと、信管が剥き出しになる処までになった。
通常の赤や青のコードの他に、白と黒まで在る。
何故、区別できたのかと言えば、それらが他よりも太かったからである。

『どれを切るか! パオ! ヒッヒ~♪』
ムーンウォークなどして、4本全部切りそうである(危)
「マイケル・ジャクソンが亡くなったのは、6月25日でしたね?」
『そうだな。だから、白と黒のコードも在るのか』と舌打ちをして多寡先。
「青のコードに、青! とかパオ! というメモが張ってありますが」
『ミスリードだろう。犯人は誤った方向に導こうとしているんだ』
「私も、そう思います」と多井も同意した。
詳しく調べた処、タイマーの数値はダミーだと判明した。
心理的に時間が少ないと焦らせて、判断を誤らせるのは良くある手段である。

『普通の時限爆弾は、どんなんだっけ?』と多寡先。
「普通がどういう状態か分かり兼ねますが、赤と青がポピュラーだと思います」
と多井。『とするとだな。白と黒は考慮に入れなくていいな』「はい」

『問題は・・・コイツだよな』と多寡先。
「はい。良くあるシチュエーションです」と多井も多寡先の手元を見る。
で。どっちなんだ? と、目で多井に回答を求める。
多井は、視線を宙に彷徨わせた後、
「……どちらかって言えば、赤は目立つけど危険というイメージが在ります」
と、やや確信を込めて言った。
『そうだな。それで?』
「青は知性やビジネスを表したり、青い街灯は犯罪防止の効果も在ります」

一区切り置いてから、『だから、青を切れと言う事かね?』
「いや。警部補に任せますよ」と多井は、逃げ腰だった。

一か八かだっ
『覚悟はいいなッ! 赤を切るぞ! 赤だッッ』

ちゅど~~~ん!

……というのは、時限装置から流れた効果音だけだった。
時限爆弾は、爆発せずに済み、無事に解除が出来たのだった。

帰りのパトカーの車中で。
「何故、警部補は、赤に決めたんですか?」と運転席に投げかけると、
『ああ。あの脅迫状には「知性」が無かったからね(笑)』
と多寡先は言った。「それだけですか?」と多井が聞くと、
『それと。普通の人は怖くて、赤は切らないだろうからね』と笑った。

【完】