2011年8月26日金曜日

とある休日4 by やぐちけいこ

とある休日シリーズの第4作目です。前作はそれぞれ以下のところにあります。
<とある休日> <とある休日2> <とある休日3>(当ページ7月22日掲載/右下の「記事一覧」から探すか、本文最後にあるラベル:やぐちけいこをクリックしてください)

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

「何か思い出したの?」
あれからその言葉が頭から離れない。
いつもなよなよと女言葉を話しているのに一瞬その時だけは表情が素になっていた。少しだけ思い出した事がある。

あいつはもともと女言葉など使ってはいなかった。ただ漠然とだが確信が持てる。だったらいつからだ?その事を考えると頭に靄がかかったようにはっきりしない。おまけに気分まで悪くなる。私には一部記憶があやふやな所がある。
以前医者に無理に思い出す必要は無いと言われたのを鵜呑みにして思い出す作業をしていない。ただあいつがその記憶のカギを握っているような気がする。

そんな事をもやもやとした気分の中考えていたからだろう。いつの間にかベッドで寝てしまったようだ。夢の中には子どもの頃の私が出てきた。

初めてあいつと会ったのは病院のベッドの上だった。
10歳くらいの私は病院のベッドに一人座っていた。きっと何らかの理由で入院していたのだろう。
突然あいつが部屋にやってきたのだ。
「だれ?」そう聞いた私に一瞬目を大きくし悲しそうな顔をした。
「初めましてかなあ。僕は牧田薫って言うんだ。よろしくね、かすみちゃん」そう言って手を出してきた。
出された手の意味が分からず戸惑っていると、ん、とまた手が伸びてきた。恐る恐る自分も手を出すと思いっきり上下に振り「これからも仲良くしてね」と言ってきたのだ。私にとってその時は突然現れた男の子の行動にどうしていいか付いていけずただただ手を振られているだけだった。
それから薫と名乗った少年は毎日のように学校が終わってから病室に現れた。
その日学校であった話を面白おかしく話しては帰って行った。

表情がころころと変わる薫に対して私は人形のようにただそこにいるだけだった。泣く事も笑う事も怒ることも一切出来なくなっていた。
その原因は両親を目の前で無くしたショックだ。幼い子どもの心には負担が大きすぎたのだろう。薫はそんな事情も知っていたに違いない。

場面がまた薫が面会に来ていた病室になる。
いつものように薫がその日あった友人との事を私に報告している。会話が急に鮮明になる。
「もうひどいと思わない?何で私ばっかりそんな目に会うのよ」とわざと女言葉を使って話している。夢は突然そこで終わった。
目が覚めて断片的に記憶に残っている夢をもう一度反芻する。入院していた私を毎日見舞ってくれていたのか。
あの頃のあいつはまだ12歳前後だったろう。入院していたのはおそらくあいつの父親の病院だ。パズルのピースを嵌めていくように記憶を繋ぎ合わせる。薫が女言葉を話し始めたのはきっとこの頃からだろう。それをいまだに続けている理由がまったく私には理解出来んが。今じゃ好きで使っているようにしか見えんな。

時間が気になり時計を見ると午前11時を指していた。いい加減ベッドから抜け出して休日を堪能しないと勿体ない。
そう思い顔を洗いに洗面所へ向かう。
さっぱりとしたところで軽く何か食べようと冷蔵庫を開けた途端、ピンポ~ンピンポ~ンピンポンピンポンピンポ~ン♪
あぁ、また今回も自分の時間を楽しむという究極の幸せを邪魔する悪魔の訪問だ。
仕方なく玄関を開ける。
「何の用だ。私はこれからすることがあるので帰ってくれ」となるべくそっけなく言う。
「そんな冷たい事言わないで入れてよ~。ねえ?お腹すかない?サンドイッチ一緒に食べましょうよ。ここのは美味しいのよ~」と魅惑的な言葉を聞いてすんなりと家に入れてしまう私はつくづく何なんだ?と自分を叱責するが、空腹には勝てないので考えるのは後回しにしよう。
さっき見た夢の話を聞いて貰おうと今日くらいは一緒に過ごしても良いかもしれないと少しだけ思った。

2011年8月19日金曜日

カペル橋での回想 by Miruba


サンモリッツから出るスイスアルプスを走る山岳観光鉄道氷河急行Glacier-Expressグレイシアエクスプレスに、ブリ-クから乗ってツェルマットに入ったスイスへの旅はその景色の壮大さに、緑の夏も雪の冬も忘れがたい。
2006年にグレイシアエクスプレスは新型車両「プレミアム」に置き換えられたという。


また、フランス語圏の ジュネーブを行くのも好きだ。仏領モンブランでのスキーや、夏、南仏コートダジュールへ行くときの経由地だし、私にとっては、なんと言ってもドイツ語圏と違い言葉が通じやすいくレマン湖の畔でのゆったりとした時間は貴重だった。


13世紀初頭にハウスブルグ家に対抗するため作られた3州が、後に13州となり16世紀にローマ帝国からの独立を果たしたといわれるこの国はしかし、いまだに自国語が存在せず、公用語はドイツ語フランス語イタリア語と、わずかに話されるロマンシュ語の4ヶ国語である。


欧州の歴史に風見鶏のように順応しながら生き延びてきた、賢くしたたかなスイスの国の人々。国連欧州本部、国際赤十字委員会など200もの国際機関の集まる永世中立国、正式国名Confoederatio Helvetica コンフェデラティオ ヘルベティカ、通称<スイス>。


スイス中央にある都市、【ルツェルン】も、もう一度訪れたい場所だ。世界一の急勾配を登る登山電車ピラトゥス・クルムは龍の気分で乗りたいし、歴史遺産や美術館などが立ち並ぶ旧市街はほんの半日も回れば良いくらいの範囲にあり、こじんまりとした美しい街だ。


ヨーロッパのどこにもあると思わせるピカソ美術館もあり、瀕死のライオンも見たい。
さらにロイス川に1333年建造されたヨーロッパ最古の木造の橋といわれる屋根つきの【カペル橋】の姿が思い出される。ルツェルンの歴史が描かれた111もの板絵がかけてあるのだ。1993年にその三分の二が焼け落ちたが一年後の1994年に再建された。




花で飾られたカペル橋を渡り終えようとしたときだ。杖を持っていた老人が何かバランスを失ったらしく倒れた。観光客は驚いた様子はしても、助けようとしない。私が走りよってその老紳士の腕を取ろうとしたとき、反対の腕を支えた東洋人がいた。



***

私に語学の才能がないのは、とっくに気がついていた。それでも生活しようと思えば、少しは覚えないわけにはいかない。3度目の巴里滞在のときに短期のフランス語講座を取った。カルチェラタンに近いその学校には日本人も多く学んでいたが、私のクラスに日本人は一人もいなかった。同国人と思って声をかけた若者は、エベレストのチョモランマでシェルパ山岳ガイドをしていたというネパール人の男性だった。


父親が日本人の女性と再婚し今日本で床屋をやっているという。彼とはすぐに友達になれた。もう一人、ロシア人の大人しいイケメン男性とアルメニア人の女性と4人でいつも一緒にいて、講習の後は、近くのカフェで話をした。


イタリア人やアラブ人、アメリカ人などの、自己・自国主張強調派組には到底かなわず、先生に「あなた達もっと意見を言いなさい。」と諭されても「機関銃のようなあの人たちのおしゃべりで、授業の間中反論さえする暇ないよね」とお互い慰めあったものだった。


試験が終わって、夏のグランドヴァカンスがすぐ其処まで来ていた。
サンジェルマンデプレ教会の前でジャグリングをしている白い夏服の青年を眺めながら、私たちはカフェ・ド・マゴのテラスに座り、いっぱいのコーヒーでいつまでも粘って話をしていた。


「もう、山はこりごりなんだ」
何故生まれ故郷を離れたのか問うた私に、彼が言った。
「なんにん登山者を天国に見送ったかわからない」と顔をゆがめる。


フランスに渡ったきっかけも、日本人のパーティーと共に登ったエベレストで7人が遭難し亡くなった事故のせいだった。ガイドの彼もやっとの思いで助かったのだという。
「もう、死人を見たくないんだ」苦しげにそう言った。


クラスの最終日、4人でレストランに繰り出し、ディスコで踊った。
「上のクラスも一緒に行こうよ!約束だよ」そう言ったけれど、私は行かなかった。


 あの時次のクラスに行かなかったのは、彼の気持ちに気がついたからだった。「T’es jolieテジョリ=君はきれいだね」クラスで会う度にそう言ってくれていた彼、ネパールの言語の問題か「ジョリ」の間に息を吸い込む発音をする為、フランス語を覚えたての私には長いこと彼が何を言っているのか意味がわからなかったのだ。だが、ロシア人の友人が、耳打ちしてくれた。「彼はね、君が好きだから、フランスに住むことにしたらしいよ」


私には、学校が終わったら「スイスに住むお姉さんのところに行くんだ」と言っていたのだ。仕事もあると希望をにじませでいた。私などの為に予定を変更させるわけにはいかないじゃないか。


***


カペル橋近くのレストランで、彼と昼食を共にし、お土産屋でスイスの特産品ともいえるオルゴールをおそろいで買うことにした。曲は、定番の<エリーゼのために>


彼は、あれほど嫌がっていた山に、また登るという。今度はヨーロッパの山だ。
マッターホルンかモンブランか・・・
「いつか、日本の山に登ってみたいんだ」
父親の住む日本に会いに行くことがあるだろう。
そのときに、またきっと会おうよ。と約束をした。


今はもう、ぜんまいが壊れて鳴らなくなったオルゴールだが、さわやかな山男の彼を思い出させる<エリーゼのために>の曲は、その後スイスを通る度に、心に流れていくのだった。





2011年8月12日金曜日

日本人の知らない韓国の常識・その1 <イ・スンシン> by 御美子

「豊臣秀吉って知ってる?」
韓国に暮らし始めて間もなく、初対面の小中学生によく尋ねられた。
「戦国時代の出世頭ってイメージだけど、それがどうかした?」
なんて答えようなものなら、途端にガッカリした顔をされたものだ。

何回か聞かれるうちに、やっと気づいたのだが、彼らが期待していたのは、朝鮮半島を侵略しようと秀吉が軍隊を派遣したことを知っているかということと、そのリアクションを日本人から引き出そうということらしかった。

1592年からの文祿・慶長の役、いわゆる朝鮮出兵の頃は倭寇対策で名声を得た李成桂(イソング)が1392年に建国した李氏朝鮮時代前期だった。それまでは安定期と言われ、ハングル公布や計雨器・日時計・火薬・火砲の開発製造等、目覚ましい発展を遂げていたが、身分差別等が深刻になってきて、社会が不安定になりつつあった。

さて、秀吉とセットで覚えておいてもらいたいのが、その頃朝鮮水軍将軍になった韓国の国民的英雄、李舜臣(イスンシン)だ。

32歳で科挙に合格し、下士官として各地を転戦した李舜臣は、幼馴染みで副首相だった柳成龍(ユソンヨン)の口添えで、1591年、文禄の役の1年前に朝鮮半島南西部の水軍を率いることになった。

当時の朝鮮朝廷は、日本からの侵略があるかないかで二派に分かれていたが、李舜臣は日本が戦争を仕掛けてくることを想定し、結果1年の準備期間を設けることが出来た。まず母親を安全な場所に移し、日本船を研究して弱点を見つけ、それに対抗出来る亀甲船を作らせていた。

予想通り日本軍が来ると、地元の利点を活かして、潮流の激しい海峡に日本船を誘い込み、時には仕掛けを駆使して日本軍を上陸させない作戦が、ことごとく成功した。

慶長の役の直前には、朝鮮朝廷が事前に入手した情報により、李舜臣に出陣命令を出したところ、日本軍の罠だと従わなかった罪で拷問された上、死罪を宣告されたこともあったが、一兵卒として軍に留まることで赦された。

1597年、慶長の役が始まってみると、後任で宿敵であった元均(ウォンギュン)を始め数名の将軍が戦死し、朝鮮水軍は殆んど壊滅してしまったので、李舜臣が更に広範囲の将軍として返り咲いた。その時残された戦船は12隻しかなかったそうだが、逆に「12隻もあります」と前向きな発言をしたそうだ。

1598年、秀吉の死後、退却命令の出た小西行長軍の退路を塞いだ為、援軍である島津義弘軍と戦うことになり、李舜臣は混戦の最中流れ弾に当たって亡くなったという 説が有力だが、彼の最期について確かなことは分かっていない。

韓国大統領官邸が見える光化門広場には威風堂々とした李舜臣の銅像が建てられている。その他所縁の地にも数多くの銅像が立っているという。

2011年8月5日金曜日

メルトモ紀行 by Miruba



 「お先に失礼します。」
事務員さんたちが、慌しく帰っていく。子供たちを迎えに行かなくてはいけないのだろう。子供が出来ないことを理由に離婚してきた私に気を使って、彼女たちは子供の話をあまりしなかったが、そのくらいわかる。

汗まみれになり、少しくたびれた顔の従業員たちが、そこかしこの現場から戻ってきて、後片付けや明日の準備をしたあと、短いミーティングをしてから事務所に顔を出す。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」交替に顔を出し口々に私へ声をかけて出て行く。
「今日も暑かったですね。ご苦労様でした。」それぞれにねぎらいの言葉をかける。

私は、今日最後の報告書を書き上げて、涼を求め開けてある窓の外を見た。
6時を過ぎたというのに、夏の太陽にはまだ力がある。
傾いた日差しを遮って半分だけ下りている薄いブルーのブラインドが、木の葉の陰をまといながら、意外に涼しい海風に押されて、時折ガチャガチャガチャと細切れの音を立てる。

_さて、私も帰ろうかな_
片づけを始めたとき、個人用パソコンにメール受信のマークがでた。
またか。アンケートの案内だ。時間のあるときは、ポイント交換で商品券も得られるし、興味深いものもあるので参加するが、忙しいときはすぐに削除してしまう。
削除しようとして、同時に入ったメールに気がついた。
え?!うそ!
意外な人からのメールに驚いた。
胸がぎゅっと締め付けられる。
勘違いだろうか?いたずら?


私がパソコンをいじるようになったのは、学生のときだった。
観光に興味があった私は、レヴェニューマネージメントを学ぶ授業の中で必要だった。就職した会社でもエクセル・ワードと当然ながら必要不可欠になる。その後、観光とは関係のない父の会社を譲り受けたが、今ではパソコンは生活の一部だ。

初めて自分のパソコンを手にした頃は、操作の勉強は半分独学だった。自然に学ぶには「遊ぶこと」から入るほうが手っ取り早い。私は趣味のダンスサイトに入った。

だが、当時は遊ぶサイトも少なく、バーチャルで遊ぶ人も少なかった。
趣味のジャズダンスではなく、間違って入った社交ダンスのサイトで、彼と知り合った。チャット欄に、タイピングする。相手の声も姿も見えないから、踊りのステップの話になると、専門的な言葉を文字にする必要がある。スピンの名前など似ているものもあったのだが、どうも話がかみ合わない。ジャズダンスと社交ダンスではかみ合うわけも無かった。それが私たちを近づけた。


2年間の掲示板での意見交換の後、個人的なメール交換が始まった。「メルトモ」という言葉が聞かれ始めたころだった。学生結婚で、早くから家庭と勉強や仕事との両立をしていた私に、息抜きを与えてくれたのがメルトモだったのかもしれない。

バーチャルなのだから、何を書いても相手のことは自分にはわからない。相手にも自分は未知の人。だから男が女に、女が男になって嘘を書くこともあるし、意見の相違から掲示板で決定的な諍いに発展しやすく、幻想のネット宇宙空間であるがゆえ、言の葉が自分の思いとは別に勝手に行き過ぎてしまう危険がある。

そう力説する夫に、それではあなたのリアルなガールフレンドは問題ないわけ?と突っかかる私。小さな口論が澱のように重なっていった。「メルトモ」「ガールフレンド」は単なるきっかけの口実に過ぎず、結局はそれまでのすれ違いが、二人別々の道を選ばせることになった。

現実の人生が波風のように変化し過ぎていても、メルトモの彼とのメール交換は続いていた。そんな中、何度か会おうという話にはなるのだが、いつも約束の日に都合が悪くなる。国内外に赴任しているという話しの内容も本当のように聞こえないときがあり、そんなことが、小さな不審となって何もかもが疑わしく思えたこともあった。

だが、それも時間が経つにつれて薄れてしまう。逢えないからなのか、心の吐露をしてしまうからなのか、私たちはいつしか愛し合うようになっていたのだ。

会った事もない人を、愛することが出来るのか?住所だって、本名だって知らないのだ。「好きになるなど有り得ないわ」自分の心を見つめたときに即座に思うのだが、
「愛している」というメールをもらうと、心が震えるのを、止めようが無かった。

メール交換が4年目に入ったとき、漸く逢えることになった。彼が外国にある支社転勤から一年ぶりに帰ってくるとメールで言ってきたからだ。

私は成田の国際空港で待っていた。_外国の転勤って本当だったのね。_
JAL5963便の到着を知らせる電光掲示板の到着表がカチャカチャと動く。
私はこの音が好きだ。
道不案内な外国にいては、この電光掲示板だけが頼りになる。
カチャカチャカチャと数字の板が落ちていく音は妙にアナログっぽく嬉しい。

目印のスカーフを手首に巻いた。
逢うまで、画像の交換はしないでいよう。という彼の提案で、顔も知らなかった。
なんと危険な逢瀬。

さわさわと高ぶる心を、どのように顔に出したらいいだろう。
到着口から、大きなトランクをキャリーに載せた人々が、空の旅を経この地に到着した安堵と、久しぶりに出会える知人や家族たちに笑顔を見せて、散り散りに去っていく。
次か次かと、待ち焦がれる気持ちを抑えた。

だが、それらしい人は、いつまで待っても現れなかった。

やはり、私はだまされたのだ。
空港の広いターミナルビルを、涙を堪えながら歩いた。
自宅に帰り、それでもいつもの習慣でメールボックスを開くと、彼からの新着メールがあった。「ああ、なんだ、きっと都合で予定の飛行機に乗れなかったのだろう」と思った。

「お知らせします。父は、貴女の所には行けません。父は、今朝、心臓発作で死にました。ずっと親しくしてくださってありがとうございました。最後に貴女に会いたいと言っていました。さようなら」

なんということ!私はあまりのことに涙を忘れた。
うそであってほしいと思う一方、彼のメルアドから送られてきたメールに間違はなかった。そして返事を出そうとしたときには、もう、メールは通じることは無かった。
Un Knownの文字。
お葬式に行きたくとも、どこの誰だかわからないのだ。

バーチャルの別れは、ある日突然やってくるものだと、無機質なパソコンの四角い画面をいつまでも見つめていた。



あれから5年がたっていた。
パソコンの機種はすっかり変わっていたが、四角い画面に現れた懐かしいハンネとアドレスは一気に悲しさを呼び戻した。恐る恐るクリックをする。

「君のアドレスは生きていてくれるだろうか?」
と言う書き出しから始まっていた。

彼は生きていた。
危惧していたとおり飛行機に乗る日の朝、交通事故にあって、日本への帰国が出来なかったのだ。娘さんと二人暮らしだった彼は、メールを見られてしまい、激しい抵抗にあったという。

「娘は私の宝です。彼女が許してくれないのなら君を諦めなくてはいけないと自分に強く言い聞かせたんだよ。だが、忘れることは出来なかった。
先日結婚した娘が、悪いことをしたと謝ってくれた。いまさらなんだが、また、メルトモになってくれないかな」

今度はメールの下のほうに住所と名前も書いてある。添付で写真もついていた。口ひげの似合う素敵な人だった。

自分勝手な人。
そうは思ったが、生きていてくれたことが嬉しくて、バーチャルがリアルになったことにただ感激し、会う約束をした。

成田の北ウイング到着ロビーに、私は懲りもせずたたずんでいた。
手首にスカーフを巻いて。

人がだんだんまばらになってくる。

_北ではなく、南ウイングかな_
また来ないのかと不安になったとき、私の背中を抱く人がいた。
かすかなコロンの香りと共に「たくさんまたせたね」と、
ささやく声が、優しく耳に響いた。