2011年6月18日土曜日

最後の電話 by Miruba


どこからか私の好きな曲が流れてきた。
《ノスタルジージャポン》という日本人向けのラジオ番組からだろう。


「ママン、ほら、おじさんよ」
「おねえちゃん、ほら、ママンが目を開けているわ。解るんだわ」

娘達が動くことの出来ない私の頭と枕を加減し携帯を当ててくれているようだ。
携帯の冷たい感触が耳の存在に気づかせてくれた。
「もしもし、僕だよ、今やっとシャルル・ド・ゴール空港に着いたよ。すぐに、すぐに行くから、待っていておくれよ・・・」

ああ、懐かしい。
愛しいあなたの、声がする。



「ママン、おじさんを迎えに行ってくるわ」
「すぐに戻るからね、あとでね」



まって!まって、私の愛する娘達。
もう何も見えないのよ。
あなたたちの顔をもう一度見せて。
お願い、byebyeを言わせて。

なのに、私にはもう口を開く力さえないのだ。
二人の娘は交代で私の頬にキスをし、やせ細っただろう私の肩を抱き、手を優しくさすって・・・
私の宝物達が病室を出て行ってしまった。adieu mes cheries アデュー・メ・シェリー







走馬灯のように、私は昔を想い描く。

私の生まれた日本は美しい国だった。
海のそばで子供の頃を過ごした。
小さいときに母は病気で亡くなり、継母に育てられた。
厳しい継母だったが、私を愛してくれたのだと思う。

だがその心は時々の反発を溜め込み、私は高校を卒業すると、止める継母を振り払いフランスに渡った。誰も知らない外国で暮らしてみたかった。

語学学校で知り合ったイタリア人クリスと恋をした。
頼りになる真面目な男だった。
だが、大酒飲みでもあった。
何度喧嘩をしただろう。

ドーヴィルという海のそばにあるフランスの地方で、若い私達はふたりひっそりと暮らした。
今にして思えば、あの頃が一番幸せだったのかもしれない。
いつもお金が無くて、若い私たちのいさかいは絶えなかった。
喜怒哀楽が激しく、どこまでもオプティミストのクリスと、心配性のペシミストの私では、思いがすれ違うことも多かった。それでも、二人で海辺を散歩する夕暮れ時は、それぞれの国を偲び、ノスタルジーに苦しくなる寂寥を、互いにいだきあうことで、慰めあい、許しあえたものだ。


だが、その幸せな時代も長くは続かなかった。
二人目の子供がもうすぐ産まれる、と言う時に、酔っ払って事故に遭い、酔っ払っていたが故に出血が酷く、私と子供達を残し、飲んだくれのイタリア男クリスは下の子を抱くことも無く帰らぬ人となった。

相談に乗ってくれる人の誰もいないこの国で、二人の子供を抱え、私は一生懸命に働いた。







日本に帰りたくなかったわけではない。
でも、そんな余裕は無かった。
子供達は私を助けてくれ、3人で肩を寄せ合って生きてきた。
病気がちだった上の子。夜中に何度も病院の門をくぐった。
働く私のために下の子が初めて編んでくれたマフラー。
彼女たちと笑いあった日々。子供たちが私の支えだった。
しかしその「楽しい月日」は、あっという間に遥かかなたに去っていった。

独り立ちした娘達が、それぞれに恋人を見つけて私の元から旅立つと、
私はお酒でしか、一人ぼっちの時間を埋めるすべを知らなかった。
少しずつアルコールの量は増えていく。


夏のヴァカンスに外国にいけるわけもなく、ひとりドーヴィルの海岸で本を読みながら飲んでいた。この地はもともと避暑地だ。海岸に沿って長く連なる板張りのデッキで、波打ち際に寄せられた魚の大群のように、日がな一日その体をこんがり焼いているヨーロッパ人たちのリゾート地なのだ。





そのときも私は本を読みながら飲んでいた。

そして、彼に出会ったのだ。

「日本のかたですか?」
同国人と見るとつい尋ねてしまう言葉で笑っちゃうのだが、そのお決まりの台詞で私の隣に座った。

私は大きなつば広の帽子にサングラスをしているのだ、ちょっと見には、日本人だとは解らないだろうが、日本語の本を読んでいるのに気がついたのだろう。

だが、話しかけておいて、彼はそれきり何も言わない。
私たちは、特別な話などしなかったように思う。
ただ隣に座っていつまでもグラスを合わせた。
それでも居心地のよさを感じる存在となった。

ドーヴィルは保養地もあり、別荘地でもあるので、私自身は昔からの友人に、彼は仕事関係の知り合いにそれぞれ誘われて、時々ホームパーティーに出かけた。ダンスタイムになると、彼は花形になった。学生のころから、ダンスソシエッテ(社交ダンス)をやっているのだと言う。

踊りなど出来ない私は、普段は見ているだけだったが、彼が少しずつ教えてくれた。
日本企業のフランス支社へ駐在で来ていた彼は、パリに住んでいた。それでも週末には必ず6時間かけてドーヴィルまで来てくれた。

そのうち彼が「競技に出ようよ」、と言い出した。
え?この私が?ダンスの競技?
50も過ぎて始めたダンスだったが、「年の割には覚えがいいよ」などとおだてられて、ついその気になった。

なんと言っても、煌くスワロフスキーのたくさんついた美しいドレスを着て踊ることが出来るのは、結婚式にさえドレスを着なかった私には夢のようだった。燕尾服の似合う背の高い彼の踊る姿も、惚れ惚れとした。

私たちは、競技のためにあちこちを旅行した。
何度も優勝したり、賞をもらったりした。
不思議なことに、もうお酒は乾杯程度しか飲まなくなっていた。
それでも、長い間の疲れは、確実に蓄積されていたのかもしれなかった。


若い人は外国の駐在を嫌がると言うことで、彼は駐在期間を自分から延期をしてくれていたが、9年目に日本のご両親の面倒を見なくてはいけないというので、日本に帰っていった。

「結婚しよう」

そういってくれた彼。



彼のご両親が反対しているのを知っていた。
独立したとはいえ、子供たちをこの地に残し、私だけ日本に行けるのか?
それよりなにより、彼は私より15も若かった。

娘たちも私たちの結婚に賛成をしてくれたが、私はとうとう「うん」とはいえなかった。


それでよかったと思う。
私がガンだと宣告を受けてからも、彼は年に何度も逢いに来てくれたし、競技こそ出なくなったが、二人のダンスもレッスンは欠かさなかった。
再発し、抗がん剤治療をうけてきたが・・・
それも、このパリにあるホスピスに移ってからはすべての治療を断っていた。

もうだめなのかもしれないなぁ・・・
ああ、・・・花畑が向こうに見える。
まぶしい光の中に、マリアさまのように美しい影が浮かんでは消える。


私の命も今日限りだろう。
よく生きてきたと思う。
良く戦ってきたと自分を褒めよう。


だけれど、
もう一度、
もう一度だけでいい。

私の愛しいあなたと、踊りたかった。

睡魔のように薄れ行く音楽を、わたしはくちづさもうとした。
バイバイバイわたしのあなた
バイバイバイ わたしの こ こ ろ・・・・・




ーーーー
私の大切な友人 Madame SACHIYO へのオマージュとして
写真:Mr.TAKAO







2 件のコメント:

  1. 御美子6/19/2011

    読み終わった後、もう少し長い物語を読みたかったなと思ったのですが、美しい写真を見ながら、詩のように凝縮された言葉を味わうべき作品だなと思い直しました。何度も読み返したい作品です。
    余談ですが、髪の毛が多くて谷村しんじだと気付かず、曲を聴いてしまってガッカリしてしまいました。全部ではないのですが、彼の作る?詩が嫌いで。

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  2. 御美子さま

    ご感想を、ありがとうございました。
    励みになります。

    この歌の歌詞がお嫌いで、残念です。

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