ああ、あまりにも突然ではないか。
誕生日の2日前にその報せはきた。
最近の連絡手段は携帯やメールが主で、固定電話にかかってくるのは家族か親戚、そして胡散臭い勧誘の
ためにあるくらいで活躍の場が少なくなっていた。
その電話が、うす暗くなった窓外に街灯がつき、カーテンを引き始めた刻に鳴った。
2月8日のことだった。
受話器から、徒歩5分ほどの距離に住んでいる姉の声が聞こえてきた。
「とうさんが倒れて病院にいるんだって。かあさんが動転してて、かわりに先生がかけてきた。
心臓大動脈瘤破裂で、すぐに手術をすれば助かる可能性もあるって……」
思いがけない電話の内容に、目の前のすべての時と色をなくした。
耳にあてた受話器を持つ手に力が入り、押し付けられた耳に痛さを伴った。
「しなければ助からないということ?」
歩いていた道の途中でマンホールを踏み、突然、蓋がはずれて暗闇に落ちていくような恐怖に襲われた。
「手術をするには家族の同意が必要で、かあさんは私たちに聞かないとわからないと言ってるからって」
足先から徐々に虫が這い上ってくるような、ざわざわとした震えがきた。
「手術、お願いしたからね」
「うん……」
「朝一の新幹線に乗るから準備しといて。喪服持って行ったほうがいいよね、一応」
「……」
「職場の人に連絡しなさいよ」
互いの最寄り駅、恵比寿駅で待ち合わせることにして電話を切った。
三つ違いの姉は長女らしく、しっかりとてきぱきしている。
動揺してはいるのだろうが、感情を露わにしないのは昔からだ。
喪服。
その言葉を聞いたらどっと悲しくなった。
父が死んでしまうかもしれないという現実が涙になった。
震えは全身に回り、軽いめまいを覚え立っているのもおぼつかない。
カバンに詰める荷物など考えられず、しばらく茫然としていた。
そういえば、正月に晩酌をした後ゴロゴロ横になっていたのは飲みすぎたせいではなかったのだ。
なにか不調だったのだろう。
それを気にもかけず、酔っぱらって、じゃまだと言わんばかりに「布団で寝たら」と冷たく言ってしまった。
父は自然治癒派で、通院したのは歯医者と化膿させすぎた水虫の治療くらいだった。
きっとあの時も息苦しく、具合が悪いのに我慢していたのだろう。
そういえば、電話口ではいつも「とうさんは元気だよ」と言っていたのに、いつかは
「とうさん最近、足が悪くなって」と弱音を吐かれた。
それなのに私は「無理しないでよ」と言ったきりで親身になることはなかった。
今にしてみると、そういえば、そういえばと思い当たる節は他にもたくさんある。
あれもこれもと回想し、発信していた危険信号に気付かなかったことを後悔ばかりして、
横にはなってみても眠りは浅かった。
秋田新幹線こまちは都会の街並みを置きざりにし、いくつものトンネルを抜けながら明と暗を繰り返す。
まるで妄想のトンネル。
最悪と最良のはざまを揺り動かし、それぞれの行く末を脳裏に浮かばせては消し去っていく。
また景色が途切れ、黒くなった窓ガラスが鏡のようにクマの浮き出た不安顔の自分を映しだす。
線路の脇に白い綿帽子をかぶった田畑が増え、山は遠くに水墨画の世界を作り出す。
民家がまばらに見えはじめてきた。
そろそろ終点の目的地、秋田。
駅からタクシーに乗り、昼少し前に入院先の病院に着いた。
雪道でスピードの出せない運転に、車中で気ばかりが焦った。
曲がりくねった長い廊下を急ぎ足でエレベーターに向かう。
3階、心臓血管外科病棟。
手術室前の長椅子にダウンコートを毛布代わりにした従姉が仮眠していた。
その横に浅く腰かけ両肘を膝に乗せ、祈るように組んだ手の甲を、額に押し当て背中を丸くしている
母の姿があった。
「かあさん……」
声をかけると、母は顔を上げた。
一睡もできずにいたその顔は、はれぼったく憔悴しきっていた。
従姉も気配を感じて起き上った。
母は私たちの顔を見ると、張り詰めていた緊張と不安の糸が解れたのか、ほっと安堵の表情になった。
従姉がいてくれてはいるものの、血を分けた肉親ではない。
やはり心細かったに違いない。
深夜から始まったという手術は朝方にも及び、いまは集中治療室で術後の処置中である、
と従姉が看護師の言葉を伝えた。
「とうさんな、晩ご飯のとき味噌汁ひとくち飲んで、ああうめな、って言ってテーブルさ椀をこうやって
おでな……」
母は両手で飲むしぐさと置くしぐさをした。
「したっけ、あっ背中、いで! とおっきい声出して後ろさ倒れてよ。最初は、なにふざけて、て思った
けど、なかなか起きてこねから変だと思って。側さいったけ息してねべ、顔色ねくなってや……」
母はせきを切ったように話した。
「こえだば大変だ、こんな時は胸を叩くってテレビでやってたから、見よう見まねで叩だっけ、ふうーっ、
と息したんだ。そのあと無我夢中で覚えてねけど、救急車に電話してた……」
一人であたふたしたであろう母の姿を想像した。
私たちは母の両隣に座った。
「大変だったね、大丈夫だよ」
私は気のきいた言葉など見いだせず、ただ母の手をにぎった。
しばらくして「面会できますよ」と看護師が迎えにきた。
私たちは彼女の案内にしたがい、白衣の痩せた肩幅の狭い背中を見逃さないようについていく。
大学病院の廊下は、かつては公共建築物に使用されていた、天然素材で抗菌性が高いリノリウム床材が
敷かれていた。
父の元までは短い距離なのに果てしもなく長く感じられる古い廊下だった。
集中治療室前のコーナーにある除菌剤で手を洗い、床にある自動ドア開閉ボタンをつま先で踏み、
恐る恐る中に入る。
ナースステーションで雑菌を飛ばさないようにマスクと紙エプロンを受け取り身につけた。
以外に広いスペースには数人の患者がいた。
いずれも術後の人たち。
ここで麻酔が覚めるのを待ち、その日のうちに一般病棟に移る軽症の人もいる。
父はナースステーションの正面の位置にいた。
まだ麻酔からさめていない。
幾本ものチューブを身体からベッドの脇に垂らし、器械に囲まれ、酸素マスクをしたままビクともせずに
目を閉じている。
とうさん、とつぶやき母が足早に駆け寄った。
私たちも後に続いた。
「手術は成功しました」
経過を見ていた恰幅のいい四十半ばの担当医師がやさしく言ってくれた。
「ありがとうございます」
母は頭を下げた。私たちも会釈した。
「弁を取り換えてこの部分に人工血管を入れました。破裂を引き起こした瘤が血管の中に残っていて、
それが出血を最小限に止めていたのですね。それがなければ難しかったかもしれません。大手術でしたけど、
よく頑張りましたよ」
医師は心臓の絵が印刷されている用紙に線を描きながら説明してくれた。
切れた血管を人工血管に入れ換える人工血管置換術と人工弁設置を施したそうだ。
「ただ、まだ予断は許せません。今夜が山です……落ち着くまで当分は様子を見ないといけません……」
そう言い残し医師は他の患者のもとに去った。
手術が成功したと聞いて、ほっとしたが、大手を振って喜ぶ気分でも状態でもない。
「いまは麻酔で寝ていますから、一度お宅に帰って休まれるか、地下に家族控室がありますのでそちらで
休んでください。あと、必要な物がありますので用意してください。あ、連絡はとれるようにしておいて
くださいね」
看護師から入院手続きに関する概要と準備品リストを受け取り、携帯電話の番号を所定の用紙に記入し
病室を後にした。
従姉はそのまま帰宅したが、私たちはまだ病院を離れる気にはなれなかった。
地下1階にある家族控室に行ってみるが、旅館の大広間のようで、すでに数人が陣地を確保している。
貸し布団を敷いて寝るだけのスペースで、プライバシー保護も浴室もなく、テレビと小さな洗面台が
あるのみだ。
休憩目的以外でここに宿泊できるのは病院が許可、または病院側が依頼した患者の家族一人。
つまり、危篤患者やいつ急変してもおかしくない入院患者の身内に限られている。
聞けば数日も滞在しているという部屋の主らしき夫人が集中治療室での面会時間は原則として、
朝昼晩の1日に3回だと教えてくれた。
母は昨夜から風呂はもちろん、顔も洗わず、睡眠も食事もとっていない。
周囲に気を使って過ごさなければいけないこの場所より、どこか他で休んだほうがいい。
こんな場合でも私のお腹は鳴る。
食事はちゃんととったほうがいい。
食べたくないという母を栄養はつけなければいけないと宥めすかし、とりあえず院内食堂に足を運んだ。
空腹なのに、いざ食べ始めると味覚を感じない。
みんなもただ箸を動かしているだけのようだ。
3個の丼の中に其々半分以上もうどんを残して食事はすんだ。
集中治療室にいる間は私たちができることはないのだから、近場のホテルに泊まろう、と提案した。
だが母は、少しでも父を一人にするのは嫌だと車で10分ほどなのに行こうとしない。
妥協案として、一人は病院に残り、交互にホテルで仮眠をとることにした。
最初に姉が残ることにし、私と母が移動した。
ずっと病院にいると言い張っていた母は、湯につかり客室のベッドに横になってすぐに寝息をたてた。
吐く息と吸う息。
寝返りさえ打たずに掛け布団だけが上下する。
心労の大きさが伝わってくる。
私は父の容体のことや、その間ひとりになる母の今後のことを考えて眠れないでいた。
もやもやとした気分が涙腺を弱くしていた。
両親という土壌に根をはり、私という我儘な樹はぬくぬくと安心して立っていた。
いまそこには、どうしようもない病魔という突風が吹き荒れ、静かに立っていたいと願ってもどうする
こともできない時期にきていた。
一夜明けての早朝、まだ面会時間には早いが居ても立っても居られない母と私はホテルを後にした。
緊急連絡がなかったのだから異変はなかったはずなのに気が気ではない。
控室に泊まった姉と合流し、時間を待って父のもとに行く。
数値をチェックしていた看護師が、ベッド脇の棚にあるマスクとエプロンの在りかを教えてくれた。
これからはその都度使用し、決まった医療用ゴミ箱に捨てて行くようにと。
父は昨日と同じく目を閉じたままだが、どうやら峠は越えたらしい。
だが、まだ麻酔は効いている。
起きている父を想像していたので少し気が抜けた。
「麻酔はいつごろ覚めるのですか」
看護師に聞いた。
「傷口が落ち着くまでは、しばらく……」
それはそうだ、切り傷ではない大手術だったのだ。
胸帯を取り換える際、看護師が傷口を見せてくれた。
20センチほどの縦に流れる赤く盛り上がった線に、傷口が開かないよう等間隔に横に小さな十字を切
って赤黒い縫い目がある。
その生々しさにショックを隠しきれないでいた。
この糸はいずれ傷口をふさぎ融けてなくなるという。
「拭いてあげますか」
と、看護師が温かいおしぼりを手渡してくれた。
脂の付いた父の目の周りを母が愛おしそうに拭き始めた。
気管に挿されたチューブに気をつけながら、私たちも額や首筋を軽くふいた。
血なのか消毒液のヨードチンキなのか、おしぼりが赤く汚れた。
面会時間に私たちができる、ただ一つの行為だった。
「連絡がつけば病院に泊まる必要はないですよ」
足腰の弱い母の様子と、心配疲れが伝わったのだろうか。
看護師長が声をかけてくれた。
心配だが病院に任せる以外何もできない。
とりあえず一つの峠は越えたのだ。
後ろ髪を引かれる思いではあるが家に戻ることにした。
入院に必要な品々も揃えてこなければいけない。
「よろしくお願いします」
あなたたちが頼りです、と救いを込めて母は深々とお辞儀をした。
藁にもすがる思いだったかもしれない。
私たちもつられて挨拶し、病室を後にした。
家の中は週初めのオフィスビルのように、ひんやりとしていた。
居間に入ると倒れた父を運ぶため救急隊員により隅に追いやられた卓袱台の上に、一昨日の夕餉が
乗ったままだった。
母は、ここでこうして味噌汁飲んで……、と悪夢を思い出したように再び話しだす。
ストーブに点火し、私たちは相槌を打ちながら片づけ始めた。
とうさん大丈夫かな。
頑張ったね。
大丈夫だよね。
生命力が強いから大丈夫だよ。
入院は長くなるかな。
退院したら車椅子かもしれない。
そうなったらフローリングにしたほうがいいね。
大丈夫だよね……。
見る気もないテレビをつけたまま、しばらくのあいだ誰彼となく同じことばかり口にしていた。
毎日夕方に一人で囲碁を打ち、一行だけでも日記をつけていた父の手帳が碁盤の上にあった。
開いてみると新聞の切り抜きが挟んである。
家族葬についての記事だった。
母に告げると、時々そんな話をしていた、という。
やはり迫る危機感があったのだろう。
読書家であり勉強家だった父の書庫には、漢字検定に関する本や歴史もの、園芸ものの本が数多く
ならんでいる。
歴史上の人物や漢字の読みなどは、聞けばすぐ答えが返ってきた。
その中に「老いの教訓」とか「老いに挫けぬ男たち」といった類の本が数冊増えていた。
「ねえねえ、こんな本もあるよ」
姉が指さす先にある本の背表紙は「笑って大往生」。
「とうさんらしいね」
やろうとしている自分の動きに、思うようにできない肉体の老いがギャップを作るのは仕方のないことだ。
父はそれを自覚し精神的には明るく楽しく生活しようと心がけていたのだ。
年老いても前向きに生きていこうと努力していた。
その思いに心が和んだ。
棚をかたづけていた母が、3年前の男鹿温泉郷に行った時の写真を見つけた。
「とうさん、よく写真みで家族旅行ってえなあ、て言ってた。よっぽど楽しかったんでね」
「退院したらまた行こうよ」
そう信じて言うしかなかった。
部屋も暖まり少し気持ちも落ち着ついて明日の準備と就寝の支度を始める気になった。
「タオルはこれでいいかな」
姉が大小のタオル数枚と洗面器やせっけん、ハブラシなどリストに書かれていた品々を持ってきた。
紙おむつとか家にない足りないものは明日買えばいいね、と。
今日は疲れているからと早い時間に床につくことにした。
しかし誰もが眠れずに、それぞれに異なる感情を抱えながら悶々としていた。
母は、娘たちが東京に帰ったら自分ひとりでどうしたらいいのだろうか。
万が一の事態になったら葬儀を取り仕切ることになる、できるだろうか。
決まった寺の檀家にはなっていず、岩手の山林に埋骨する契約をしている樹木葬のカタログはどこにやった
んだろう、葬祭ベルコのカタログはどこにしまったのか、と最悪ばかり考えていた。
ああひとりになってしまうのだ……。
誰か帰ってきてはくれないだろうか。
でも娘の人生、無理を言いたくはない、私が頑張ればいいのだ、と己を奮い立たせていた。
姉は、長女の自分が戻らなければいけないだろうか、もうすぐ定年だから、せめてそれまでは働いていたい。趣味のダイビングもまだやりたいし、行きたいところも沢山ある。自分の時間は自由に使いたい。でも、とうさんの看病をかあさん一人でしなければいけなくなる、心配だ。どうしたら最善なのだろうか。自分が働く方が給料は多い。少しは援助もできる。そう提案しよう。妹が帰ってくれればいいのに、と。
私は、戻るべきか、戻った方がいいのではないか、と傷心した母の姿を思い出しては決めかねていた。
バブルの絶頂期には広告代理店で働き悠々自適な生活をしていたが、水もの業界は浮き沈みが激しく、
ほどなく会社とともに破綻し、バイト生活になっていた。
恋人も人の夫で、すでに茶飲み友達の領域に入っている。
どうせ相談したにしろ「俺に何を期待しているの」と言うにきまっている。
長引いたからといって、私の面倒をみてくれるわけでも一緒に生活できるわけでもない。
ましてや身辺を整理してここに来ることなど考えられない。
小さな諍いで彼の部屋着を何度捨てたことだろうか。
諦めるのにはちょうどいタイミングだ。
まだ働いて自由にしていたいという未練に、必死で帰ろうと言い含めていた。
ずっと離れて暮らしてきたのだから、これからは一緒に生活してあげたい、東京の生活や仕事に踏ん切りを
つけて実家に帰ろう。
よし、帰ろう! と決めた途端、無性に悲しくなった。
実家より東京での生活が長くなっていた。
田舎で過ごすことへの抵抗、友人たちとの別れや手放さなければいけない色々な事柄への想いが渦を巻いて
駆け巡る。
エビのように身体を丸めた嗚咽が止まらない。
これまでの人生で最大の決断を下した日になった。
この状況を何も知らない友人からのメールだけが誕生日を祝ってくれた。
私はひっそりと年を重ねた。
眠れぬ一夜が三晩も続いていた。
昨夜の就寝は早かったのに皆眠そうで疲れた顔は変わらない。
起きがけのコーヒーを飲みながら、下した決断を二人に告げた。
「帰ってくるわ、私」
言葉にすることで自分の考えを整理し、再度確認した。
もう後には引けない。
「そうしてければ一番えども……」
母は遠慮がちに応えたが、明るい顔になった。
「かあさんも私もそうしてくれたら安心。あんたが帰るほうが運転もできるしいいよね……」
多少の良心の疼きを感じたようだが、ペーパードライバーの姉は自己弁護も兼ねて言った。
「でも、すぐには仕事を辞められないよ……」
戻ってくるとわかっていればいつでもいい、と母が言う。
「その間は1ヶ月に1回くらい交互に帰ってくるから……ねっ」
姉は私に問いかけた。
「うん、そうしよう。しばらくひとりになるけど大丈夫だよね」
迷惑かけるね、と母は頷いた。
誰もが口に出したくとも出せないでいた胸の内を飽和する私の一言に、其々の思惑のつかえがとれたようだ。
「あ、昨日誕生日でねがたが。それどこじゃねがったからな……」
気付いた母が悪びれて言った。
父はまだ集中治療室にいる。
私たちは一週間ほど休みをとっていた。
この滞在中に一度、麻酔から覚めた日があった。
とうさん、と呼ぶと声のするほうに目は動く。
が、目は開いているのだが見えていないようだった。
看護師は、麻酔から覚めたばかりだから、と言った。
次の日、父はまた麻酔をかけられていた。
チューブを取ろうと動いて危ないので、もうしばらく傷と容体が安定するまで、とのことだった。
こんなに長く麻酔漬けでいいのだろうか。
他に悪影響はないのだろうか……。
しかし動く、ということは元気になりつつあるのだ、と小さな喜びもあった。
チューブや器械は時折増え、そのたびに私たちはどきどきした。
しかし、それも短い期間で、減ってきたときは良くなってきたのだと安心した。
東京に戻る日がきた。
私たちは仕事に戻らなければいけない。
運転できない母は、私がいなくなると電車とバスで病院に通わなければいけなくなる。
公共機関を使うと片道一時間半ほどかかる。
それも大変だからと控室に泊まることにした。
そのほうが行き帰りの移動や、夜ひとりになることを考えると安心だ。
ここを利用している多くは高齢者で、なおかつ交通の便の悪い地域に住んでいる遠方の人だ。
入院しているのは大方が自身の夫。
子がいても、仕事や各自の子育てに忙しく、毎日の付き添いや送り迎えができないのが現状だ。
患者に異変が生じたときには、この部屋に内線がかかる。
携帯電話がなくても不便を感じない人が多く、面会時間以外はここで休んでいる。
母とは年齢も近く、お互い状況が同じなので話し相手にもなる。
病院内のことを色々と教えてくれる人もおり、母にとってはさほど苦にならない場所のようだ。
たまには従姉が来てくれるという。
車で家に連れ帰ってくれるので入浴や洗濯、そのほかの用事をすませることができる。
東京に戻った私は退職願を書いた。
両親のために孝行しよう、とは思ってもどこかに言い知れぬ心残りがある。
このまま親の面倒を見て自分も年老いて終わってしまうのだろうか。
収入の道を閉ざされて、親の年金で細々と切りつめて暮らしていかなければいけないのか。
旅行も趣味も何もかもできなくなる……。
薄情なほど自分のことばかり考えていた。
これが私の人生、と弱った心を慰めたら、涙腺が壊れてしまったのかと思うほど勝手に涙がポタポタと
落ちた。
書き終えた用紙に水滴の跡がつき文字が乱れ、何回も書きなおさなければいけなかった。
自分の気持ちを追い込まないと先に進めない。
早く提出してしまわないと気が変わりそうだった。
月に1度は休暇を利用して実家に帰り母を休ませ、交代に病院に通った。
時には一緒に出かけたりもした。
父は集中治療室に3週間ほどいて、10日近くは麻酔で眠らされていたが、ようやく一般病棟に移ることが
できた。
母は家族控室に泊まり込み、面会時間に地下と病室のある3階を往復する日々を1ヶ月ほど続けていた。
一般病棟に移っても 頼めば宿泊できるのに、他の急患の家族がきて場所がないと悪いからと母は自宅から
通い始めていた。
一般病棟、といってもナースステーションに近い、まだ手のかかる患者の入る四人部屋に移動した父に初め
て会う。
自分の口から食事はできず鼻からの流動食、タンの吸引やおむつの取り換えなど、看護師にやってもらうこ
とばかりだ。
「とうさん、おはよう」
声をかけると、かすかに絞り出すように「おはよ」と聞こえる程度に返事ができた。
相変わらず目は見えていない。
元々遠かった耳は、耳元で話すか大きな声なら聞こえているようだ。
この状態は今だけで次期に車椅子で動けると思っていたので、私はいつも通り明るく振る舞っていた。
話しかけるのは病人にとって刺激になる。
父は見えない目をキョロキョロ動かした。
言っていることは理解できるのだ。
「仕事を辞めてうちに帰ってくるよ。かあさんは大丈夫だから心配しなくていいよ。またみんなで温泉いこ
うね」
「あ〜」とも「う〜」とも聞こえるような声がした。
何か言いたくて、だけども思うように話すことができずじれったいようだ。
きっと返事だったのだろう。
目じりに涙の粒があふれていた。
泣くなよ、男だろ、と言いながら自分の手を動かして拭けない父の代わりに、ハンカチで父の目じりを
押さえた。
サイドテーブルにはティシュやビニール手袋の箱、薬や体温計などが置かれている。
ふと見ると、そこにカードがある。
「吉田さん、お誕生日おめでとうございます。我慢強い吉田さん、いつも看護しやすくしてくれてありがとう」
父の担当看護師からだった。
いつもにこにこ笑いかけてくれ、タンが絡んで苦しそうだと呼びに行くと嫌な顔もせずかけつけてくれる
優しい看護師さんだ。
家族に向けても書いてくれたのだろう。
父と同じように寝たきりの状態でも吸引の時に管を噛み、唇をきつく閉じて開けない人もいるのだそうだ。
父はいくら苦しくても、口をあけてください、というと素直に従ういい患者だという。
3月5日。
父は病床で85歳を迎えた。
こんな大作を見逃していて申し訳ありませんでした。
返信削除お父様が倒れ、その後のご自身やご家族の心情が
手に取るように分かりました。
大変な出来事ではあったのですが、真澄さんご家族の団結力が
羨ましいような気がしました。
御美子さま。
返信削除ありがとうございます。
長文になのに…… お疲れ様でした。
両親を忘れないことと共に
記する事で自分の気持ちを整理しました。
いつも読んでいただき感謝です。