<行雲流水>
ああ、きれいだな。
なんてきれいなんだろう。
冬に向かう季節の真直ぐな道、その突き当りに見える稜線に湧き立つ雲に向かって走っている。
両脇はビルなどない民家と空き地ばかりの、補修されていないアスファルトのでこぼこ道。
雨上がりの紺碧な無限大のスクリーンに薄墨の青い山並み、真っ白な無数の雲が思い思いの形を成している。
空はこんなにも広くて大きかったのか。
このまま愛車マーチを走らせ続ければ、あの山頂の雲に乗れるだろうか。
あののびやかな雲にたどり着けるだろうか。
秋田県内人口三万二千人ほどの実家のある市に移り住んでからは、いつも下ばかり見ていた。
空を見上げる余裕なんかなかった。
2年前の父の他界へ至るまでの付添は病院で、外の景色の見えない緊急性を要する患者、つまりいつ心臓が止まるか分からない患者用の個室だった。
1年前の母のペースメーカー植え込み術も同病院。
父の亡くなった病院で本当は嫌だったが地元に大きな病院はここしかなく、冴えない気分でお願いした。
術後三か月ほど入院して、母は自宅で生活できるほどに回復し私とふたりの生活が始まった。
先生に命をもらったと執刀医に感謝をしていた母だが、あれから1年永らえて2011年9月16日、享年85歳で旅立ってしまった。
母が腰が痛いと言い始めたのは8月半ば過ぎ。
食が細くなり、時折吐くようになり、貧血気味で横になる時間が多くなっていた。
ちょうどその頃、私も働きはじめたばかりで病院に連れて行くための休みが思うようにとれないでもいた。
仕事のない土曜日に急患として病院に行きもしたが、当直医師の処方は吐き気止め薬だけ。
これでいいのか、と疑問に思いながら、それを口に出せずに帰ってきたこともある。
一向に快方に向かわず、平日の診察も受けた。
症状を伝えたにもかかわらず、医師の判断で定期検診に腹部レントゲンが1枚追加されただけだった。
「この白いのがベンなんですよ」と担当医師が出来上がった写真をみて説明してくれた。
「普通こんな後ろにまでたまらないんだけどなあ。とりあえずベンを出しましょう」と、こんどは下剤の処方だった。
なあんだ、便秘だったのか。
「便秘だってよ」と母をからかって、そう信じて戻ってきてしまった。
いま思えば、いつもなら冗談に付き合う母が、あの時は笑いもしなかった。
母だけは己の身が尋常じゃないとわかっていたんだ。
数日たってもなんだか様子が悪い。
薬を飲んでも良くならない……。
とうとう救急搬送で入院に至った。
病院にいるから安心とほっとした翌日の昼、緊急連絡がきて慌てて病院に向かった。
人工呼吸器が取り付けられ意識のない母が狭い個室に移されていた。
気が付いたら息をしていなかったと看護師さんがいう。
父の時もそうだった。
気が付いたら、と。
いったい気が付いたのがいつなのか、どれ程の時間が経過していたのだろうか。
そこまでに何か変化があったのではないか。
苦しがっていたのではないだろうか……。
入院した翌日に母は逝ってしまった。
担当医師曰く「自分で心臓を止めちゃったんですよね」と。
そして、「眠いので寝かせてもらいます」と立ち去ってしまった。
その時は、信じられない思いと焦心で言葉の意味や死因の疑問や、
何がどうなってどうしてしまったのかなんて考えられなかった。
死ぬほど悪かったの? 一緒にいてそれを見過ごしていたんだ、と自責の念で一杯だった。
なぜ、もっと早くに別の病院でも診察してもらわなかったのだろう。
なぜ強く医師に詳しい診察を願わなかったのだろう。
なぜ、診断能力の高い医師を探さなかったのだろう。
事は重大と思わなかったから母の死期を早めてしまった。
私があの時、私がもっと早く……と後悔ばかりしていた。
急を聞き駆けつけてくれた親族も去り、初七日を終え、本当に一人になって一か月程は家の広さに寂しさを感じ、なにもする気が起きなかった。
布団に入ると、様々な生前の母の言動が思い起こされ浅い眠りの日々が続いた。
あの時のあれが、あの症状が、あんなにもシグナルを点滅させていたのに気付かなかった。
いや、気付かないふりをしていたのかもしれない。
短期雇用ではあるが休んでばかりいられないと、職を手放すのが怖くて診察を先延ばしにしてしまった。
その代償に母を手放すことになってしまったのか。
それならあまりにも大きな代償ではないか。
腰痛と便秘と思い続けたために、母の訴えを真摯に受け止めなかった。
助けを求めていたであろうに応えられなかった、愚かな娘だった。
いったい母のお腹の中でなにが起きていたのか。
後日紐解いた文献によると腹水が溜まっていたようにも思えるし、長期服用していた薬の副作用のようにも思える。
いづれにしても、いまとなっては手遅れだ。
生と死の間際には、もっと生きたいと望んだのではないだろうか。
私が悪いな、悪いのは私なんだ、と悔やんでも悔やみきれない苦悩という名の犬にまとわりつかれていた。
母が逝去して2か月が過ぎ、心の乱れもだいぶ落ち着いてきた。
常々、長患いはしたくない、人の手を煩わせたくないと言っていた母。
自らの衰えた姿を見られたくないとプライドの高かった母。
娘にまで遠慮し泣き言も言わず我慢強かった母。
自分のことより、私たち娘の心配ばかりしていた母。
あなたにだけ難儀をかけるね、と私に気遣いをしていた、かあさん……。
思い起こせば数多くの称賛を残していた。
この最期は母の望むところだったかもしれない。
誰しにも早かれ遅かれ、いつかは終わりが来る。
己のために娘に看病の重荷を背負わせたくないと、苦しみを最小限にとどめたに過ぎない。
まことにあっぱれな終焉だ。
つつがない人生を生きて、見事に雲散したのだ。
母らしい締めくくりだ。
見上げてみれば、父と母が居を構えた天空がある。
その天空の屋根の下に、34年前の新築当時には吉田御殿と呼ばれたことのある、自慢の木造家屋を残してくれた。
そうして私は一国一城の主になった。
これから先、ここが終の棲家になるのだろう。
両親が描いた人生は、子供に家を残すことだった。
彼らはそれを全うした。
私が思い描いた人生はどんなことだろう? 両親の宝だったこの城を守っていくことだろうか。
空行く雲や流れる水のように、自然の成り行きに任せて生きていければ、いつか答えが見つかるだろう。
二人の偉大さは、この空に似ている。
いつも私の上にあり、どこからか優しく見つめていてくれる。
いままでも、そしてこれからも。
悲しくなんかない、淋しくなんかない。
そう言い聞かせながら、次の十字路で右折した。
ご両親の夢は真澄さん達に家を残すことだったのですね。
返信削除先に逝かれたお父様、そしてお母様も最期まで自分達より
子供達のことを考えられていたというのが切ないです。
東京での生活をエンジョイした後でも偉大なご両親の精神を
受け継がれていることが真澄さんを特徴付けているものだと
改めて分かったような気がします。
しかしながら、ご両親は真澄さんをその家に縛り付けることを
望んだのではなかったような気がします。
残された家をベースに真澄さんが幸福になることこそ
ご両親が望まれたことだったのではないかと考えます。
御美子さま。
削除ありがとうございます。
東京で生活していた時に楽しく過ごせていたのは
ここ、この場所があったからだと思います。
いざとなったら帰ればいいや、と、ゆとりのような
気持ちがありました。
それが良かったのか、悪かったのか……
こんな暢気?な私になってしまいました。
実際住んでみると、当初こそ田舎で何もなくて嫌だと
思いましたが、住めば都。
少しずつ馴染んできました。
家も徐徐に片づけ、快適な空間になりつつあります。
御美子さんのおっしゃるとおり、家をベースに、と
考えて残してくれたのだと思います。
両親には感謝です。
コメントが遅くなってごめんなさい。
返信削除いいわけだけれど、ずっとここは開いていなかったのよ。
とても素直な心情をつづったお話でした。
当然実話ですから、どっしりときました。
不思議なんですけど、
行雲流水って、私もよく使うのよ。びっくりしました。
そう、わたしも行雲流水で、生きているのよ。
何とかなる。
そうおもっているわ。
あなたも、もちろん、寂しいでしょうが、
明日を楽しみましょうね。
素敵な出会いがありますように。
みるねぇ、ありがとうございます。
削除先日三回忌もすみ、一区切りがついた感じです。
これからまた書き始めたいな、と思っていますので
よろしくお願いしますね。
ありがと!