分岐点
(1)
夕雅浜は、近くの「御津岩(みついわ)」と並び、朝日や夕日の撮影スポットとして有名である。大晦日から元旦にかけて、出かける人も多いくらいだ。旅館の類は、近くには無く、元見晴か「美晴台(みはるだい)」の別荘やらリゾート、あるいは「中(なか)通り」という、島の東部で宿を探さなくてはいけない。それほど、何もない場所である。三年ほど前に公衆トイレが出来たくらいだ。道路は起伏が多いし、片道一車線で、退避所が所々に設けてあるような、そんな所だった。
車は、絶好スポットからやや外れた、土埃がまみれる空き地に止まった。浜口は、先の自販機を出てから、缶を少し飲んでいたが、ここに到着してすぐ「グイグイと」やり始めた。案の定、酔っ払った勢いで鼾(いびき)をかき始める。彼が最期に言った言葉は「それじゃは、きれいは朝日ほ……」であった。一応、ヤツの身体を揺すってみたが、気持ちよく鼾をかいていて起きる様子もない。
周囲を見渡し、車の流れを観察すると、三〜四十分くらいに一台という割合だ。ちなみに伊豆海岸交通(株)と、(株)初島リゾートが交互に運営する路線バスは、午後7時に運行を終了している。
そうやってしきりに、車の流れを見極めた後、一度トイレに行き(実は、ここにも洗面台付近に防犯カメラが在った)、中通り方面に向かう車が通過したのを確認して、山田はドアを開けた。風だけが、やけに落ち着いていた。
(2)
このような撮影行では、一眼レフなんかの荷物をもって来ている。三脚や換えのレンズを含めると、相当重い。それらは、藍色のバッグに入れられていた。山田も撮影機材だとは知っていたが、それが凶器になるとは、思っていなかったろう。
運転席で気持ち良く眠る浜口をズルズルと(引きずり)下ろし、機材を一式運び出して、ドアを静かに閉める。彼が飲んだら起きないというのは知っているし、そうなのだが、これからする事が山田を慎重にさせていた。そうして、鍵をポケットから弄(まさぐ)って、車のキーを盗んでから、空き地の反対側へ道路を跨ぎ、引きずり続けた。これでも起きないとは、今日はどれだけ飲んでいたのだろう。まぁ、山田自身も人のことなど言えないが。
その反対側は、小高い林に囲まれた場所で、奥は崖になっている。注意の看板と縄も張ってあるが、かなり年月が経過していた。崖下は六メートルほど有りそうな感じだった。
(3)
ごくっと喉を鳴らし、唾を飲みこみ、食道に降りる前に山田は、ヤツに凶器を食らわし続けた。どこに当てたのか、どのくらいの強さだったのか判らない。ヤツが色々な角度に変化しながら、汚物と血を吐き出し、呻(うめ)いていった。動かなくなったのを確かめて、かつて人間だったのと一緒に、凶器のバッグも、そこに棄てた。
それらが下に届く前に、ガサッとした音を立てて、木立が揺れた。
山田は時刻を確認する余裕すらないが、時間は七月八日午後十一時十六分のことであった。
所有者が不在となった車は、土を巻き上げ、どこかへと猛スピードで走り去っていった。
発見
(1)
次の日。七月九日午前五時四十分。現場の近くを、一人の老人が犬を連れて、朝の散歩に出ていた。この辺りは、景色が素晴らしいので、散歩に出ていても気持ちが良かった。
犬が血の匂いとわずかな異変に気づいたのだろう。飼い主とは別の方向に、わんわんと鳴き、注意を促しはじめた。「ワン、やめなさい!」
吠えるのより早く、老人は、彼の年齢に相応しくない力で、ワン(犬の名前だ)を引き戻した。それでも何とか、首を振ったりなどして、遺体の方に行こうとしたが、とうとう、老人の側まで引き寄せられてしまった。その犬は、言う事を普段から聞かなかった為、飼い主が特段の注意を払う事も、充分なコミュニケーションをとる事も無かったのだろう。もしも老人が、今までと違った接し方をワンにしていれば、あるいはこの時、死体が見つかったかもしれない。飼い主と犬は、次第に小さくなってしまった。ワンが、遺体の方向へ向けて、首と身体で訴えたような……気がした。
この時点で、夕雅浜の死体には誰も気づかなかった.
(2)
七月九日午前六時二十分。元見晴の合宿所にも、朝が訪れた。いつもの二人なら、七時ぐらいにはここに戻って来るというのが、パターンであったので、残った三人組も別に不思議に思っていなかった。いつものように、管理人海沢うめの用意した朝食を一階で食べ、ご飯をお代わりしたり、焼き海苔とかハムエッグをリクエストしながら、のんびりとした時間を楽しんだ。今日は『そよ風荘』の名にぴったりな、爽やかな青空と雲だった。
時刻は午前七時。二人は戻ってこない。午前六時五十五分あたりになると、寮の横に有る駐車場から、車の出入りを示すジャリジャリした音が聞こえるのだが、今日は、それすらも無かった。食事が終わったのち、金田二(きんだに)が「お土産」が気になったのか、浜口の携帯にかけた。繋がらない。次に山田の携帯にもかけたが、こちらは留守番電話になっている。何回かけても、同じであった。金田二が、二階の部屋に上がって、彼ら(林、井原)に事の次第を話すと、彼らも同様に、電話をかけてみたが、やはり、繋がる気配は無かった。「これは、何か、絶対に、おかしい!」
金田二が、探偵のように、あるいはミステリー作家の文体のように、言葉を区切りながら、皆に言った。
そして、一階に踵(きびす)を返し、管理人室に向かって行った。
悪い予感も何もなく、井原は「ビールとツマミ、それに競馬新聞ある?」と、林にせがんだ。林はツマミのミックスナッツ・チーズがけピスタチオ入りをかざしながら、「ビールが少々とコレなら有るよ」と笑顔になった。まだ、緊張感や事件の欠片(かけら)も無かった。
(3)
金田二が管理人室に辿り着き、奥のおばちゃんに「電話を貸してくれ!」と言った。「そんなに怖い顔をして。いいけど、持ってったら、ちゃんと返しておくれよ」と、海沢もまだ、深刻には考えず、彼らの食べたお茶碗を洗っていた。 金田二は、それに構わず、警視庁に電話をかけた。
「あの。金田二 初(はじめ)と言いますけど。昨夜から、友人二人が戻って来ないんです。おかしいので、急いで捜索して下さい」
「うん。今どちらからおかけになってます……?」
固定回線だし、逆探知も出来るんだから、着信番号から(発信した)住所くらい判るだろ! と、もどかしく思いながら、
「東京都、初島郡、原島村、美晴台……いや違った、元見晴906」
「ええと。東京都、初島郡の美晴台、がどうかしましたか?」
慌てているので、微妙なところで間違える。今度は、語気を強めて、焦りから早口で言った。
「東京都!初島郡!元見晴の906。『そよ風荘』から、かけています。番号は……」
「調べてみます。お待ち下さい」
ああ、じれったい。二人に何かあったら(もう、何かが起きているのだが)どうするんだ!
そんな思いで、数分が経った。警視庁は千代田区らしいので、初島郡の原ヶ島駐在所まで転送するという。
(4)
一旦通話が切れて、再び、繋がった。
「もすもす。今、本庁のセンターから電話があったがね? 友人二人が、戻らんつーのは、ホントかね?」
島で、唯(ただ)一つの駐在所、大石虎吉巡査の声がした。標準語と比べ、少しなまりがあった。
「ええ、本当です。いつもならば、朝の七時に戻って来るんですが……」
金田二は、山田と浜口の二人の日常と、昨夜彼らが合宿所を出てから今朝までの相違点を、巡査に話して聞かせた。勿論、彼らと一緒ではないので、夕雅浜の出来事までは、金田二にも判らない。
「ふーむ。ま、調べてみなければ解らんがね。ええと。出ていった車ってのは、判るかぃ?」
「ちょっと待って下さい」
「あぃよ。あまり待てねぇだよ」
語尾の「てねぇだよ」を聞かないうちに、金田二は階段を駆け上った。案の定、階段を一段、踏み抜いてしまったが、落下する事は避けられた。
ビールとツマミでご機嫌な二人(いつ、仕事とかしてるんだ?)のうち、林から消えた車のナンバーを聞き出せた。
「すみません、お待たせしました」上ったり下りたりで、金田二の息は弾んでいた。少し、裏返った声で「ナンバーは、『原ヶ島502、「や」の104-68』です。白いオープンの『かふぇらて』」
「ええ……白いオープンで……」
警察官が、電話口の向こうで確認した情報は、金田二が発したのと同じものだった。
「じゃあ、見つかったら、連絡するべさよ。ま。この島なら、一周四十分くらいだから、すぐに見つかると思うべな」
大石巡査は、そう言って、電話を切った。おばちゃんが大袈裟なという顔で、次に踏み抜いた階段の修理をどうしようかと、電話帳を手に、二階に上がる金田二を困った様子で見ていた。
合宿所の、本体の上にベルの頂(いただき)を乗せた時計は、七月九日午前七時十四分を示していた。
(5)
それから、大石巡査は、同僚数人に頼んで駐在所に来てもらい、一人を駐在所に残して、後の二人を乗せ、(株)S自動車の『るーと』を改造したパトカーで、時計周りに島を一周しようと考えた。駐在所は、島の東部、中通りに在り、夕雅浜へは通常十分から十五分で着く。
しかし、不振な点が無いかどうか捜索しながらなので、時間がかかる。
途中で、顔など車中から確認できない人物は、停車して、確認したが、大方はこの島の(見知った)住人だった。
やはりデマというか、いたずらの類ではないかと、大石巡査が思ったとき、件(くだん)の「注意」の看板と、雑木林が目に入った。それらの直前で、パトカーを停車させる。
同僚の二人が注意深く、観察すると、雑木林と反対側に何かを引きずったような跡が見つかった。この辺は、風が強いのだが、幸いにも、その痕跡までを消し去る事は出来なかったようだ。
大石巡査は、道路の反対側にも注意深く渡っていく。やはり、例の跡が深い林の下あたりまで続いている。警官独特の「何か」が働いた。
(6)
「写真は?」
「今、撮っています」
鑑識の代わりに、デジタルカメラを取り出して、同僚の一人が撮影を始める。もう片方は、黄色いKEEPOUTの帯と朱色のコーン(工場現場などに使うアレだ)をパトカーのトランクから探し始めた。
「何だ?!」
大石巡査が、雑木林の窪みを差して、叫ぶ。撮影していた同僚は手を止め、もう一人は、急いでトランクを閉めて(パトカーの施錠をつい忘れたようだ)、大石巡査の元に駆け寄った。差した方向には、不自然なハンモックのような、赤黒い物が、茂みの向こうに横たわっていた。下り傾斜の地面には、枝に引っかかったと見られる藍色の箱(中身はカメラ本体やレンズ等だ)があり、他には細かい布状の物や、キラキラした破片などが目につく。大石巡査の足元から崖下まで、血の跡が太く、次第に細く続いている。動脈を切った訳では無いらしく、飛沫状に辺り一面に飛び散るという現場ではなかった。
大石巡査は、唸った。殺人事件というのは、駐在所で扱った事が無かったからだ。本庁に掛け合うしか無いだろう。しかし、一体、都心からここまでにどれ程かかるのだろうか。現場が荒らされはしないか、野次馬だって押し寄せてくるだろうな……。
同僚の二人に、現場の撮影と封鎖を任せておいて、パトカーの中で、不安を覚えつつ、大石巡査は衛星電話で本庁と連絡を取った。
七月九日午前七時四十一分のことだった。
(つづく)