2012年5月11日金曜日

春夏秋冬 廻りゆく命 by やぐちけいこ


それは一通の封書が私宛に届いた事から始まった物語。差出人の名はどこにも書かれていなかった。
普段ならそのままゴミ箱行きなのだが、開封しようと思ったのは、あまりにも自分の名が綺麗な文字で書かれていたからだろう。
伸び伸びとして流れるようにしたためられている文字。
こんな綺麗な字を書ける人はいったいどんな人物なのか興味が湧いたから。それは奇妙な内容だった。


この世に生を受け、愛情を知る。
自分の世界が全てで他の世界などどこにも無いと思っていたのではないだろうか。
何の悩みも無く、ただただ生きる事だけを使命としていた。暖かい愛情を与えられながら。
これからいったいどんな人生を歩むのか無限の可能性を秘め幸せを感じていた。


初めて好きな人が出来た。人の気持ちの難しさや切なさを知った。いろいろな悩みもあった。
自分の周りにはたくさんの友人や肉親がいるのにも関わらず何故か孤独感と戦っていた。
誰も自分の事を分かってくれない。他人が羨ましいと思ったりもした。
その時は気付けなかった。自分が相手を理解しようと努力していなかった事を。
自分の狭い世界が全てだと驕っていた。

ある日、大好きな友達と大喧嘩した。本音をぶつけ合った。しばらく口も利かなかった。
そんな時素直になれず、独り涙を流した。
改めて友達のありがたみや大切さを知った。
いろいろなモノに守られながら人生を謳歌していた思春期だった。


愛する人と巡り合い結ばれた。
小さな家族も増えた。無防備に愛情を求めてやまない小さな命の偉大さを知った。
無垢で穢れを知らない赤ん坊はどんなものよりも大きな存在だった。
この子のためなら自分をも犠牲にできるとも思った。
守ってあげたかった。ただ笑っていて欲しかった。
わが子の成長と共に自分も成長していった。
その度に今まで見えなかった事や気づきもせず通り過ぎていた些細な物事に気づかされた。

自分は独りで生きてきたのでは無い。

周りの愛情に気付けなかっただけだ。親の存在の大きさを知った。
何て自分は勝手気ままに過ごしていたのだろう。

子どもが自分のそぐわない事をするようになった時、思わず手をあげてしまった。
痛かった。手より心が痛かった。自分の情けなさを思い知る。
子どもの綺麗な瞳は有りのままの自分を映し出していた。


自分でも老いたなと思うようになった。
目も悪くなったし、所々身体の痛い場所も出てきた。
何より思い出せない事柄が多くなってきたように思う。
今まで大きな病気もせずここまで生きてこられたことは何よりも幸せなことだ。

あの時の小さな我が子はいつの間にか親になっている。自分にも孫ができたのだ。
あと何年 孫の成長を見る事が出来るだろう。
お宮参り、幼稚園入園、小学校卒業。どんどん孫は大きくなり自分はどんどん年老いた。
中学校へ通うようになり、あっという間に高校を卒業し立派な大人になった。
自分はそれを病室で見守ることになる。

あと何年、あと何カ月、あと何日生きていけるだろう。
最近夜眠るのが怖い。
もしかしたら朝目覚めないのではないかという恐怖感があるのだ。
まだ自分の人生にやり残したことがあるのかもしれない。
だから起きられない事が怖いのだ。こんなに長く生きてもまだ何をしたいのか自分では分からない。
幸せな一生だった。
平凡で何の変哲もないどこにでもある人生だったけれど、それが自分の生きた道だと誇れる。
いまさら新しく何かをしようとは思わない。なのに何が怖いのだろう。

もうすぐ自分は命が尽きる。その前にやり残したことがあるのだろうか。
毎朝目覚めた時に感じる安心感と疑問。自分の細くなりすぎた手をじっと見つめる。
何故か涙がこぼれた。
この手の中に自分の人生が詰まっているのだ。
誰にも渡せない自分だけの生きた標(しるし)。涙だけでは無い、目が霞んで見えなくなってきた。

誰かが自分を呼んでいる。それにはもう答える事が出来ない。
自分はとうとう旅立つ時を迎えたのだ。
ほらそこに手を差し伸べてくれる綺麗な女神が見える。

その女神が自分に問う。最期に伝えたい言葉はありますか?と。

あぁ、そうだ。自分はまだみんなに伝えていなかった。だから今伝えよう。
『ありがとう』と。そして『幸せだったよ』と。
きっと声にはならなかっただろう。それでもきっと伝わったに違いない。
心がこんなに晴れ晴れとしているのだから。
心からありがとう。この命が誰かに受け継がれる事を信じて。


手紙はそこで終わっていた。何と奇妙な内容なのだろう。
気づけば私は涙を流していた。とめどもなく流れ落ちる涙。
送り主はこれを私に読ませて何が言いたかったのだろう。それはいまだに分からない。
もしかしたら私が死ぬときに初めて理解できるのかもしれない。それならまだまだ先の話だ。
きっと分からないままでいいのかもしれない。相変わらず綺麗な字が並んでいる。
乱れることもなく淡々と綴られた文章。

それを封筒に丁寧に戻し、引き出しに閉まった。いつしかそれは私の心の宝物になった。
手紙の内容は理解出来ないままに。



4 件のコメント:

  1. miruba5/11/2012

    何もわからなくても良い
    何も答えられなくても良い
    そこにある言葉をそのままに咀嚼し味わってみたい
    そのときその時代に思いや感じ方が違うだろう

    こんな手紙を受け取ってみたい
    私にも送ってくれ~といいたくなった。

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  2. やぐちけいこ5/13/2012

    >mirubaさま

    感想ありがとうございます。
    手紙というものが本当に少なくなってしまいました。
    投函してから相手に届くまでのワクワク感とか返事を
    待つ楽しみとかそういった感覚が無くなってしまったように思います。

    今の時代このような手紙を貰うとさりげなく
    ホラーかもしれないなあと今気付きました(^^ゞ。
    理解出来ないけど何となく不気味さが…。

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  3. 御美子5/13/2012

    心当たりのない誰かから
    人生の春夏秋冬を綴った手紙を受け取るのは
    どう考えても不思議なのに
    自分名の宛名の美しさに惹かれて開封し
    書かれた内容に心打たれる私の反応に
    差出人と受取人の優しさが重なり
    何とも言えない柔らかな余韻が残りました。

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    1. やぐちけいこ5/14/2012

      御美子さま

      感想ありがとうございます。
      綺麗な文字というものに私自身憧れます。
      字体から何かを感じることが出来たら宛名が無くても
      封を切ってしまうかもしれません。
      一枚の紙が二人を結びつけた瞬間が伝わっていれば
      いいなあと思います。

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