小学校の通学路に毎朝欠かさず黄色い旗を持って子ども達の登校時間に立っていたおばさんがいた。
みんなで緑のおばさんと呼んでいた。誰が名付けたかは分からないけれど高学年の子がそう呼んでいるので自然と自分達もそう呼ぶようになった。
それこそ雨が降っても雪が降りそうな凍てついた朝でも必ず学校がある日は同じ場所に立って子ども達の登校を見送ってくれていた。
私達は毎朝、緑のおばさんに「おはようございます」と挨拶をしたものだった。
そうすると「はい。おはようございます。気を付けて行ってらっしゃい」とにこやかに答えてくれた。挨拶しかしたことがないおばさんだったけれどみんなこのおばさんが大好きだった。同時にそこにいるのが当たり前だった。いつもニコニコと笑って黄色い旗を軽く振ってくれていた事を覚えている。
ただそこに居るだけで安心出来た。
月日が流れ卒業する子もいれば入学する子もいる。中学校へ進学してもこの道を通って学校へ行く中学生達もいた。やっぱりニコニコと見送ってくれていた。
いったい何人の子ども達を見送ったのだろう。
ある日、緑のおばさんが病気で入院した。その事を知った子ども達は早く良くなってくれるようにみんなで千羽鶴を折った。
たくさんの子ども達で気持ちをこめて千羽鶴を折った。
いびつな鶴もいれば綺麗な鶴もいる。いろんな色の鶴が仕上がった。
代表者の子ども数人が出来上がった千羽鶴を緑のおばさんが入院している病院に行き手渡した。緑のおばさんは涙を流して喜んでくれたらしい。大事にするとも言ってくれた。ベッドのそばに看護師さんに手伝ってもらいながら千羽鶴を吊るしていつでも眺めて貰えるようにしたと聞いた。
渡した子ども達も早く退院して欲しい事を伝え病院を後にする。
その数日後、緑のおばさんは急死した。病名は誰も知らない。子どもの自分が知らなかっただけかも知れなかったけれど、葬式の話が子ども達の間で話題になった。子どもが世話になったと数人の保護者も葬式に参列した。
柩の中には子ども達が贈った千羽鶴もご家族の手で入れられた。
緑のおばさんは火葬され荼毘にふされた。
骨になった緑のおばさんを見て親族や数人の保護者は息をのんだ。
燃えて無くなるはずの千羽鶴が入れたままの姿で残っていたからだ。
その後の千羽鶴の行方は誰にも知らされることは無かった。その当時私はあまりにも子どもだったため知る事が出来なかっただけかもしれない。
何故一緒に千羽鶴を持って逝ってくれなかったのだろう。
今となっては知る由もない。
やはり自分がまだ両手でもあまる年齢だったから分からない事が多かったのだろう。
緑のおばさんの立っていた空間は色濃くそこにあるのに寂しい場所になってしまった。
ただ「行ってらっしゃい」と言う緑のおばさんの笑顔だけは心に残っている。
恵子さん
返信削除緑のおばさんという名の名物おばさんは、私の町にもいましたよ。
それが、婦人警官のような服をいつも着ていたので、初めは本当の警察官だとばかり思っていました。
とっても恐くて厳しいおばさんだったけど、それは交通ルールに対して厳しかっただけなんですね。
10年以上緑のおばさんをやっていて、警察から感謝状とかももらっていたけど、いつも厳しい顔をしていました。
そんな緑のおばさんが、とうとう役目を降りる時がきた。
小学校から感謝状が渡された時、緑のおばさんは初めて涙をみせた。
引っ越しでもしたのか、その後はどこでも見かけなくなった。
あの緑のおばさんは、お子さんを交通事故でなくされてたそうよ、という噂が聞こえてきたのは、それからしばらくしてからだった。
とっても恐くて厳しくて、優しいおばさんだった。
毎日同じ時間同じ場所に立つ、と言う事がどれだけ大変だったのか今更ながらに思います。
削除最近はあまり見かけませんね。
ご自分の悲しみを繰り返したくない思い出厳しかったんでしょうね。
それが子どもの頃は分からなくてただ怖いおばちゃんと思っていた子も多かったかも。
でも自分が親になった時にその厳しさが実は優しさだったと気付くものなのかもしれません。
私には無理なことだと実感します。
何度読んでも不思議なお話です。
返信削除千羽鶴は燃えずに残って何をしたかったのかが気になります。
千羽鶴が何を物語りたかったのかは現在生きている人達が感じ取るしかないんでしょうね。
削除私個人的には一緒に持って行って欲しかったかなと思います。
ホント不思議です。
緑のおばさん、いましたね。
返信削除毎日見かけるので、毎日挨拶するので、なんとなく気がつかないのだけれど、いないと、其の存在が突然大きくなります。
緑のおばさん、最後に素敵なプレゼントをもらって余程嬉しかったのだろうな~
パリにもいるんですよ、学校の前のほんのちょっとの横断歩道で、いつも子供達を車から守ってくれていました。5月のメーデーのときはすずらんを、クリスマスには花束を、沢山子供達からもらっていました。私も日本のお土産や当時パリには売っていなかった『ホカロン』を冬にあげましたね。
交通整理もしますので、背が大きくて迫力のある人で、車のおっさん達には、怒鳴っていましたが、子供達には優しいおばさんでした。やはり長く勤めてくれたというので、感謝状が贈られたと聞いています。
定年のとき小学校と幼稚園合同でお別れ会があり、みんなでケーキや食事を持ち寄りましたっけ。今は南仏に移り住んでいると聞いています。