弘子は【小料理 ひろ】と藍で染め抜かれた暖簾を仕舞った。
後片付けを終えた従業員たちが「お疲れ様でした、楽しんできてくださいね」と口々にいって帰って行く。普段着の彼女らは、制服としている作務衣を脱ぎ、まとめた髪をおろすと、ぐっと若々しくなる。その若さがうらやましくなる一瞬だ。
明日から数日みんなに店を任せて親友真琴の結婚式に参列するのだ。
彼女もその相手も弘子と同じ高校時代の仲間だ。
東京住まいなのに、わざわざ京都の平安神宮で結婚式を挙げるので是非参列してほしいとのことだった。
弘子自身大阪には親戚や友人もいるので数年ごとに寄る土地ではあったが、隣の古都には高校の修学旅行の時に行ったきりだから旅行気分でもある。
真琴は結婚が3度目であり、少人数を呼ぶのにちょうど良いとのことだったし、確かに参列者は親戚友人含めても20人のこじんまりとしたものだったが、平安神宮本殿での儀式は厳かで、後の祝宴の料理も満足のいくものだった。親友の涙に微かな嫉妬と、幸せのおすそ分けをもらい、弘子もほろりとした。
2回のハネムーンをアメリカにしたのがよくなかったとの真琴の理論で、オーストラリアに新婚旅行に行くという二人を関西空港まで見送った。
親戚や友人達それぞれにねぎらいとお別れの言葉を交わしながら、ターミナルビルの中を三々五々離れていく。
「神戸や京都の街を歩いてみないか。紅葉の季節になどなかなか来られないだろう?」
「そうね」
弘子は結婚式で、昔の恋人新井と再会していた。
新井もまた弘子と真琴の同窓生であった。偶然の出会いなどではなく、どうせ真琴の策略だろうが、再会した二人に不思議とわだかまりはなく、昔話に花が咲いた。話しても話しても言葉が尽きない。弘子は久しぶりに心が浮きたつ自分に気がついた。
新井は営業という仕事柄人にもまれてきたのか、若いときとは違い人間に深みが出ていた。
また新井からみた弘子は、客商売によってか、上手に年齢を重ねているように見えた。話をしていても知識が豊富で飽きないのだ。
電車で30分もあれば神戸に着く。
震災後、復興の証として始まったイルミネーションのイベント「ルミナリエ」を見に行ったのだ。
日曜日だということもあったが大変な人だった。道路は車の通行が止められて何列にもつながる光の芸術を見るための人々であふれている。延々と歩かされている間も、新井と弘子は飽きることなく話をつないだ。何もかも真から解り合える気がする。
「俺達、昔、何で別れたんだっけ?こんなに楽しいのにな」
「さぁ、なぜだったのかしら?若かったから?」
子供だったあの頃は、お互いの良さが理解できなかったのかもしれない、と弘子は思った。ルミナリエの美しい輝きが、二人を祝福しているようだ。
いつしか、二人は手をつないで神戸の街を歩いていた。
ポートタワーで交わす、ワイングラスでの乾杯。
その夜、二人は長い年月を経て、再び結ばれたのだった。
子供は生んでいないが、年をとり醜くなった体を昔の恋人に見せるのは恥ずかしかった。
だが、お互いが同じように年齢を重ねていることへの安堵もまたあったのだ。
次の日は、京都へ向かった。
夜遅い新幹線で帰れば、明日からの仕事にも間に合うだろうと、新井と弘子は要領よく名所を回れる観光バスに乗った。
晩秋の快晴、ブルーの空に映える流線型の屋根が美しい二条城、日本の歴史の重みを感じさせる金閣寺や銀閣寺、神社仏閣またその庭園などの見事なことを改めて感じた。
前日真琴の結婚式で来た平安神宮を横に見て、八坂神社に向かう。意外に強い太陽の日差しに目を細めながら、紅葉の中の木漏れ日を味わい、階段の前に着いたときだ。
「ここで記念写真を撮ります。後で販売しますので、ご入用のかたはお知らせください」
有無を言わさない感じだが、「いらないから」と否定するのも大人気ないと思い弘子は言われたところに立った。40人ほどの団体なので立ち居地に存外に時間が掛かった。
弘子は出来た写真をみて、ほんの少し嫌な気がした。
カメラマンに言われた最前列に立った弘子は後ろに新井がいると思い込んでいたのだ。
写真の彼は、遠く離れた場所に、人の陰に隠れるように立っていた。
「そんなもの買うのか?」
「ええ、そんなもの誰も買わないわ。だから買うのよ」
観光バスに乗り合わせた人たちと撮った写真を買い求める人など今はほとんどいない。
現に弘子のほかに2人が買っただけだった。
知り合いではない偶然な団体の写真に納まるだけのことに、誰かの目を気にする新井は、弘子との関係を誰にも知られたくないと考えている証拠だ、と思ったのだ。
「誰にも見られるはずのない写真に過剰反応して、あなたは一緒にバスに乗っていた観光客に私達が普通の関係でないことを態度でしゃべったことになるわ。手を繋いで歩くほど親しそうな二人が離れて写真に収まれば、まわりは変だと思うに違いないわ。あなたは私に恥をかかせたのよ」
声を荒げるでもなく、目をそらして小さくつぶやく弘子に、新井は戸惑った。
新井にしてみれば、むしろ弘子に迷惑をかけたくないと思ったのだったが、言われてみれば行きずりの写真など、積極的に自分が持っていなければ、身近な人間の手に入るほうが難しいだろう。心のどこかに子供達に写真を見られたら困る、という気持ちが働かなかったと言えば嘘になる。そこを見透かされた気がして、反論できない自分がいた。
帰りの新幹線では、席こそ隣同士で座ったが、二人ともほとんど言葉を交わさなかった。
弘子の毎日がまた始まっていた。
【小料理 ひろ】は、弘子の亡くなった叔母が始めた店だ。叔母の名前も漢字こそ違うが「ひろこ」というなまえだった。
忙しいときに店を手伝っていた弘子は、店の板さんと結婚し叔母の店を継いだ。だが、夫は2年もすると従業員の一人とどこかに行ってしまった。離婚届はどこかの引き出しに入ったままだ。「あれ、きちんとしようかな」弘子は思った。
店先にあるイチョウの葉が冷たい風にハラハラと落ちてくる。
弘子は黄色のじゅうたんを掃き集めながら、ふっと、ため息をついた。
今日は日曜日だ。息子も娘も恋人とデートだといってそれぞれに出かけていった。
新井は一人になると、弘子のことが頭を離れない。
ピアノの上に飾ってある妻の写真がこちらを見て微笑んでいるように見えた。
電話をしてみよう。
新井は、庭にあるイチョウの木から、寒い風に揺れた黄色の葉っぱがパラパラと落ちているのを窓越しに眺めながら、携帯をとった。
写真:テクノフォト高尾 高尾清延