2012年9月22日土曜日

東京NAMAHAGE物語•最終回 by 勇智イソジーン真澄

<行雲流水>
ああ、きれいだな。
なんてきれいなんだろう。
冬に向かう季節の真直ぐな道、その突き当りに見える稜線に湧き立つ雲に向かって走っている。
両脇はビルなどない民家と空き地ばかりの、補修されていないアスファルトのでこぼこ道。
雨上がりの紺碧な無限大のスクリーンに薄墨の青い山並み、真っ白な無数の雲が思い思いの形を成している。
空はこんなにも広くて大きかったのか。

このまま愛車マーチを走らせ続ければ、あの山頂の雲に乗れるだろうか。
あののびやかな雲にたどり着けるだろうか。

秋田県内人口三万二千人ほどの実家のある市に移り住んでからは、いつも下ばかり見ていた。
空を見上げる余裕なんかなかった。
2年前の父の他界へ至るまでの付添は病院で、外の景色の見えない緊急性を要する患者、つまりいつ心臓が止まるか分からない患者用の個室だった。
1年前の母のペースメーカー植え込み術も同病院。
父の亡くなった病院で本当は嫌だったが地元に大きな病院はここしかなく、冴えない気分でお願いした。
術後三か月ほど入院して、母は自宅で生活できるほどに回復し私とふたりの生活が始まった。
先生に命をもらったと執刀医に感謝をしていた母だが、あれから1年永らえて2011年9月16日、享年85歳で旅立ってしまった。

母が腰が痛いと言い始めたのは8月半ば過ぎ。
食が細くなり、時折吐くようになり、貧血気味で横になる時間が多くなっていた。
ちょうどその頃、私も働きはじめたばかりで病院に連れて行くための休みが思うようにとれないでもいた。
仕事のない土曜日に急患として病院に行きもしたが、当直医師の処方は吐き気止め薬だけ。
これでいいのか、と疑問に思いながら、それを口に出せずに帰ってきたこともある。

一向に快方に向かわず、平日の診察も受けた。
症状を伝えたにもかかわらず、医師の判断で定期検診に腹部レントゲンが1枚追加されただけだった。
「この白いのがベンなんですよ」と担当医師が出来上がった写真をみて説明してくれた。
「普通こんな後ろにまでたまらないんだけどなあ。とりあえずベンを出しましょう」と、こんどは下剤の処方だった。
なあんだ、便秘だったのか。
「便秘だってよ」と母をからかって、そう信じて戻ってきてしまった。
いま思えば、いつもなら冗談に付き合う母が、あの時は笑いもしなかった。
母だけは己の身が尋常じゃないとわかっていたんだ。

数日たってもなんだか様子が悪い。
薬を飲んでも良くならない……。
とうとう救急搬送で入院に至った。
病院にいるから安心とほっとした翌日の昼、緊急連絡がきて慌てて病院に向かった。
人工呼吸器が取り付けられ意識のない母が狭い個室に移されていた。
気が付いたら息をしていなかったと看護師さんがいう。
父の時もそうだった。
気が付いたら、と。
いったい気が付いたのがいつなのか、どれ程の時間が経過していたのだろうか。
そこまでに何か変化があったのではないか。
苦しがっていたのではないだろうか……。

入院した翌日に母は逝ってしまった。
担当医師曰く「自分で心臓を止めちゃったんですよね」と。
そして、「眠いので寝かせてもらいます」と立ち去ってしまった。

その時は、信じられない思いと焦心で言葉の意味や死因の疑問や、
何がどうなってどうしてしまったのかなんて考えられなかった。
死ぬほど悪かったの? 一緒にいてそれを見過ごしていたんだ、と自責の念で一杯だった。
なぜ、もっと早くに別の病院でも診察してもらわなかったのだろう。
なぜ強く医師に詳しい診察を願わなかったのだろう。
なぜ、診断能力の高い医師を探さなかったのだろう。
事は重大と思わなかったから母の死期を早めてしまった。
私があの時、私がもっと早く……と後悔ばかりしていた。

急を聞き駆けつけてくれた親族も去り、初七日を終え、本当に一人になって一か月程は家の広さに寂しさを感じ、なにもする気が起きなかった。
布団に入ると、様々な生前の母の言動が思い起こされ浅い眠りの日々が続いた。
あの時のあれが、あの症状が、あんなにもシグナルを点滅させていたのに気付かなかった。
いや、気付かないふりをしていたのかもしれない。
短期雇用ではあるが休んでばかりいられないと、職を手放すのが怖くて診察を先延ばしにしてしまった。
その代償に母を手放すことになってしまったのか。
それならあまりにも大きな代償ではないか。

腰痛と便秘と思い続けたために、母の訴えを真摯に受け止めなかった。
助けを求めていたであろうに応えられなかった、愚かな娘だった。
いったい母のお腹の中でなにが起きていたのか。
後日紐解いた文献によると腹水が溜まっていたようにも思えるし、長期服用していた薬の副作用のようにも思える。
いづれにしても、いまとなっては手遅れだ。

生と死の間際には、もっと生きたいと望んだのではないだろうか。
私が悪いな、悪いのは私なんだ、と悔やんでも悔やみきれない苦悩という名の犬にまとわりつかれていた。

母が逝去して2か月が過ぎ、心の乱れもだいぶ落ち着いてきた。
常々、長患いはしたくない、人の手を煩わせたくないと言っていた母。
自らの衰えた姿を見られたくないとプライドの高かった母。
娘にまで遠慮し泣き言も言わず我慢強かった母。
自分のことより、私たち娘の心配ばかりしていた母。
あなたにだけ難儀をかけるね、と私に気遣いをしていた、かあさん……。
思い起こせば数多くの称賛を残していた。

この最期は母の望むところだったかもしれない。
誰しにも早かれ遅かれ、いつかは終わりが来る。
己のために娘に看病の重荷を背負わせたくないと、苦しみを最小限にとどめたに過ぎない。
まことにあっぱれな終焉だ。
つつがない人生を生きて、見事に雲散したのだ。
母らしい締めくくりだ。

見上げてみれば、父と母が居を構えた天空がある。
その天空の屋根の下に、34年前の新築当時には吉田御殿と呼ばれたことのある、自慢の木造家屋を残してくれた。
そうして私は一国一城の主になった。
これから先、ここが終の棲家になるのだろう。

両親が描いた人生は、子供に家を残すことだった。
彼らはそれを全うした。
私が思い描いた人生はどんなことだろう? 両親の宝だったこの城を守っていくことだろうか。
空行く雲や流れる水のように、自然の成り行きに任せて生きていければ、いつか答えが見つかるだろう。
二人の偉大さは、この空に似ている。
いつも私の上にあり、どこからか優しく見つめていてくれる。
いままでも、そしてこれからも。
悲しくなんかない、淋しくなんかない。
そう言い聞かせながら、次の十字路で右折した。

2012年9月15日土曜日

東京NAMAHAGE物語•12 by 勇智イソジーン真澄


<こんな夢を…>
ああ、消えた意識の中で夢を見ていた。
束の間の酔いの眠りだった。

するべきことを終えた二人はベッドに横になっていた。
くの字になった背中に、くの字のお腹がくっついている。
その下の尻には突起物が触れている。
興奮から冷めた無防備なものは柔らかいゴム製のおしゃぶりのようで気持ちいい。
後ろ手に触ってみる。
大きくならなくても硬くなくてもいい、私はこの手触りが好き。

子供の頃、母の二の腕や耳たぶをいじりながら寝たことを思い出す。
柔らかい温もりはなんて気持ちのいいものだろう。
肌と肌の触れ合いがこんなにも安らぐものだなんて。

私は温もりが欲しいのだ。
やさしさに飢えているのだ。
あ〜いいな、気持ちいいな。
夫でも彼でもない誰かの腕枕から寝返りをうとうとした。
背中が痛い。

戻りつつある意識がまぶたを押し上げた。
はめ込みの照明器具が目に入る。
見覚えのない景色。
どこ? あたりを見回してみて気がついた。
ここはレストランのトイレだ。

私はドアの前で床に仰向けに寝ていた、いや倒れていたのだ。
はっとして起き上がり、めくれたスカートを直す。
さっき小用を済ませた後に目眩がした。
個室の便座に座ったまま少し休んでから手洗い場に出て、手を洗った。
そこまでは良かった。
そこまでの記憶はあった。

しかしドアを開けようとしてその場で失神してしまったようだ。
どのくらいの時間だったのだろうか。
倒れている間に誰も入って来なかったのだから、たぶん一瞬のことだったのだろう。
もしドアを開けて人が倒れていたとなったら大騒ぎになるところだった。
フロアに出たらトイレに向かう女性とすれ違った。
危機一髪、発見されなくて良かった。

うねる海原を歩いているように、ふわふわと席を目指した。
実際海の上なんか歩いたことはないけど、歩けたとしたらウオーターベッドを踏んだ
こんな感じなのではないかと思う。
モーゼなら自ずと道を切り開くのだろうが、私はただ酔いの波に身を任せていた。

途中、再び立ちくらみがして、落下するジェットコースターのようにスーッとしゃがみこんでしまった。
お客様大丈夫ですか、と店員が来て支えてくれた。
席に戻ると、いらいらした友人がいた。
灰皿に長いまま何本も潰された煙草の吸殻が彼女の気分を物語っている。

蒼白な顔色の私をみても「なにしてたの」と身体を気遣うでもない。
それを無視して、いまね、と倒れたことを話そうとすると「帰ろう」と、聞く気のない返事ともつかない言葉が飛び出してきた。
後悔が沸いてくる。
来なければ良かった。

微熱があるのを押してきたのに来るんじゃなかった。
熱っぽいからキンキンに冷やした白ワインを頼んだ。
からからの咽喉に琥珀色の液体が染み渡る。
レ・カイユレのシャルドネは美味しい。
いい気になってごくごく飲んだ。
二人で一本だから大した量じゃなかったはずだ。
なのに今日に限って体調が崩れた。
無理をして出てきたから具合が悪くなったのだ。

成り立たない会話、すれ違う心はいつからか生まれていた。
たまに食事をしたり旅に出たり、たわいない話をして楽しんでいたのはいつ頃までのことだったろう。
そうか、彼女に恋人ができた時期までだ。
仲良しだった二人の関係も、異性の登場で変わってしまった。

独身者同士フットワーク軽く、気楽に食事や旅行を楽しんでいた。
互いに彼がいなくても十分日々を満喫していた時期もあった。
しかし彼女に相手ができたあたりから、この関係が崩れた。
恋した女性に生じる、なによりも彼氏優先、が彼女にも襲ってきた。

仕事の悩みや今後の暮らし方などを相談したくても、聞く耳が面倒くさがっている。
私の話など、取るに足りないことなのだ。
俗に言う、二人でいることの寂しさってこういうことなのだろうか。

友人でも、恋人でも夫婦でも、興味の対象が変わってしまうと会話が少なくなる。
言葉にならない言葉が胸に残り、重い石が詰まった感じだ。
それなのに、大事な日に誘う相手のいない私は、性懲りも無く彼女に声をかけた。
根っから冷たいわけではない彼女は、かわいそうに思って付き合ってくれた。
ただし、あとで彼の家に行くから長い時間は無理ね、と。
はいはい、わかったわよ! どうせ私より彼が大事なのは。

他愛も無い話をして美味しい食事にワインを楽しむだけの、心を許せる相手がいなくなった。
身内にも見放された気分だ。
「遅咲きの恋は先が短いから激しいのよ」という恋路を邪魔する気はさらさらない。
長い間待っていた恋なのだから、大輪の花になって欲しい。
応援もしているが、少し嫉妬心もあるのが本心だ。
嫁ぐ子供の親になった悲しさみたいだ。

そろそろ私も本気になって相手を探さなければ。
くだらない話を一緒に楽しめ、苦にならないのは異性の存在だ。
互いを許しあえ尊重できるのは、たぶん三年くらいだろう。
早く誰かを捕まえなければ、その三年もまっとうできるかどうかわからない年になる。
やばいぞ。

彼女と別れ、レストランに程近い天現寺交差点からタクシーに乗った。
失神した時に打った後頭部が、ずきずき痛み始めた。
髪の毛をかき分け、左手で触ってみたら小石くらいの硬いこぶになっていた。
夢の中でだけで安らげた、冴えない誕生日だった。

2012年9月8日土曜日

日本人が知らない韓国の常識12「初恋」違い~by 御美子

韓国映画『建築学概論』のポスター。
キャッチフレーズは
私たちは皆誰かの初恋だった」
水曜日恒例、韓国人主婦4人の皆さんへの日本語クラスでのこと。
「初デートの場所はどこでしたか?」の質問に「チャングムの誓い」の主人公のような物腰のギョンヒさんがいつものようにおっとりと
「私の初恋は、勿論今の夫ではなく~・・・」
と話し始めたので
「いえいえ、そりゃそうでしょうけど初恋ではなく、初めてデートした人と行った場所ですよ」
と言った途端、主婦の皆さんの目が一斉に私に向けられたので
「えっ?私、今何か間違ったこと言いました?」
と、こちらの方が逆に驚いてしまった。

韓国に住み始めて5年目にして初めて「初恋」が「初めて付き合った人」だと知った瞬間だった。
同時に、改めて思い出した2つのエピソードがある。

私が日本語を教え始めてから出会った韓国人の中で、ベスト3に入る努力家のジンソプさん(男性)の初恋は、大学卒業後の兵役時代だったと聞いていた。
初恋にしては随分遅いなあとは思ったものの、小学校から家の農作業を手伝わされたり、大学でも講義以外は図書館に篭っていたそうだから、よほど奥手だったのだろうと勝手に納得していた。
時々「私の初恋は今でも鎮海(チンへ)に居るんです」
と遠い目をして言うので
「『初恋』じゃなくて『初恋の人』ですよ」
と何度訂正しても直らないままだった。

6月から個人授業が始まった製薬会社のイ副会長さんは、今年で60歳の誕生日を迎えられるが、24歳で結婚したとき3歳年下の奥様と
「お互い初恋ですね」という合意の下で結婚したそうだ。
副会長さんご本人の口から
「大学時代に何人かの女性に好意を寄せていた」
と聞いていたのもあり、よくもまあ、そんなバレバレな嘘が言えるものだなあ、と半ば呆れていた。

しかし「初恋」が「初めて付き合った人」なら、二人のエピソードが韓国では特例とは言えない訳だ。
更にこの理論を持ってすると、初恋までに幾多の失恋経験があったとしてもカウントされないというのも韓国人らしい。

個人的には「恋人」が韓国語では「愛人」「サービス満点の店」が「多情な店」に匹敵するくらいの衝撃だった。

2012年9月1日土曜日

暁焰の怪異万華鏡3 by 暁焰

<不思議の箱>
子どもの頃、秋の祭になると、近くの商店街に屋台が立ち並んだ。
ある年、まだ幼かった弟を連れて、雑踏の中を二人歩いていると、通りの中程にある小さな公園に見世物小屋が出ていた。
この見世物小屋は、毎年、祭になるとやってきていたのだが、出し物はいつも同じ。
それも、作り物としか思えないちゃちな木乃伊、二人羽織に少し毛が生えたようなろくろ首など、一目で子供騙しのぺてんと見破れるようなものばかりだったので、幼い頃はともかく、少し長じてからは興味をそそられることも無くなっていたのだが、まだ幼かった弟が仕切りに見たがった。
仕方なく、二人分の木戸銭を払って中に入ったのだが、子供騙しのぺてんも、弟にとってはそれなりに珍しかったようで、一つ一つの出し物に他愛もなく喜んでいた。
ひとしきり小屋の中を廻り、外に出ようとすると、出口のすぐ脇にも、出し物らしきものがあつらえてあった。
見ると、黒い衣装と仮面を身に着けた手品師のような人物が、前に小さな箱が乗ったテーブルを置き、その後ろに控えるようにして立っている。
弟と二人、立ち止まり、一体何の出し物かと伺うと、テーブルの後ろの黒ずくめの男——顔が隠れていたので、実際は性別などわからなかったのだが——が、おもむろに片手で卓上の箱を、もう片手で頭上の看板を指差す。
見上げると、看板には「不思議の小箱。見えるか見えぬか、覗いて御覧」の文字。
箱に目を移すと、確かに小さな覗き筒のようなものが箱の横から突き出ていて、どうやら看板に謳われている不思議の小箱とはこれのことらしい、とわかった。
筒を指差し、ここから覗くのかと問うと、男がうなづいたので、まず弟に先に覗かせてやると、何が見えたのか、声を上げながら熱心に覗いている。
少し興味を引かれ、交代して覗き込んで見たのだが、幾ら目を凝らしてみても、目に映るのは真っ暗な闇ばかり。
顔を上げ、何も見えない、と言うと、男はもう一度先のように頭上の看板を指差す。
書かれた文句を再度読んで、なるほど、何かからくりがあって、見えたり見えなかったりするのが売り物なのだ、と合点が行った。
おそらく、見える見えないのからくりは、男が操っているのだろうと思い、見せて欲しいと頼んだのだが、男は答えず、看板を指差すばかり。
どうでも、見せる気はないらしい、とあきらめ、そのまま弟の手を引いて、外に出、家路に着くことにした。
公園から再び通りへと戻るように歩くすがら、箱の中に何が見えたのか、と弟に聞くと、何も見えなかった、と意外な返事が返ってきた。
ならば、なぜずっと覗き込んでいたのか、と重ねて問うと、箱の中には何も見えなかったが、覗き込んでいる間、閉じているもう片方の目の裏に、おかしなものが幾つも浮かんで、不思議だった、と答えるのを聞いて、ひどく驚いた。
振り返ってみたが、出てきたばかりの出口は、遠目からは薄暗いばかりで、何の気配も伺えない。
翌年より後も、弟を連れて何度か見世物小屋に入ったが、不思議の小箱も、手品師のような男も、その年に見たきりで、二度と見る事は無かった。