2012年3月24日土曜日

東京NAMAHAGE物語•6 by勇智イソジーン真澄


<我が家の金さん銀さん> 

ああ、どうしよう。
そろそろ連休が近づいてきた。

地方に実家のある人は里帰りしようか、それともどこか他へ旅しようかと考える頃だ。
私は迷うことなく前者を選んだ。

高校を卒業し東京に出てきて、すでに30数年。
毎年少なくても5月の連休、お盆、年末年始の3回は両親の元に帰っている。
今年もそれを変えたくはないし、変えられない。

特に大型連休の旅行は割高で、混んでもいるから避けたいところでもある。
秋田新幹線「こまち」に乗り、秋田に向かうだけでも旅気分を味わえる。
ビルの立ち並ぶ関東地方を過ぎ、いくつかのトンネルを潜り抜けると窓外の景色は、一変し民家が多くなる。
さらに進むと新幹線の停車駅近辺以外は、田畑の中に家が点在してくる。
その静かな景色を追い越しながら「こまち」は終着駅の秋田に着く。

かつて、帰省は楽しかった。
ただ何をするでもなく気ままに寝起きして過ごしていた。
家事はすべて母まかせ、庭にある風呂と室内風呂の掃除と沸かすのは父。
起きると食事ができていて、露天風呂もいつでも入浴できる状態にあった。
自らが動かずとも上げ膳据え膳の客扱いだった。

我が家で露天風呂と呼んでいるものは30年ほど前に建て替えた、以前の家で使っていた鉄製の丸い風呂、俗に言う五右衛門風呂のこと。
一時は山菜を茹でるために裏庭で使っていたのだが、これを父が移動させ今の場所、池の見える、ほぼ庭の真ん中に落ち着いた。

父は凝り性である。
が、飽きっぽい。
私が覚えている父の趣味は、薔薇の栽培、その次はタイ北西部に住む首長族のように、花を支えるために輪が施されていた大輪菊の栽培。
そして盆栽。
その他、家庭菜園や庭園作り等など園芸ものが多かった。
しかし、どれも5年は続かなかったと思う。

そんな父の、もっとも長続きしたものは錦鯉だ。
新婚当初、父は母の手助けの元、穴を掘り、地下水を汲み上げるためにポンプを設置し、水の循環を促す排水溝も作った。

父は旧国鉄職員であり、機械区を皮切りに、秋田管理局で定年を迎えた。
このような作業や仕組みを作ることは、いとも簡単だったようだ。
いまだに父の自慢の一つである。

当時の国鉄職員はどこへ行くにもフリーパスで行けたものだから、わざわざ錦鯉の産地、新潟県小千谷(おぢや)市まで買い付けに通っていた。
池には多いときで40匹以上の錦鯉と、ときおり金魚が泳いでいた。
金魚は飼われる場所の大きさと周囲の鯉にに馴染むのか、はたまた勘違いしてなのか、どんどん鯉に近い大きさになろうとしていた。

ところがこの数年、帰省するたびに鯉の数が減り始め、正比例するように両親の体力が衰えてきていた。
父がこまめに行ってきた池の掃除、鱗(うろこ)や鰓(えら)についた虫の駆除などが頻繁にできなくなり、弱いものから順に腹を上にして水面に浮くようになった。

母は足腰が弱くなり、長時間台所に立っていることが苦痛になっていた。
立ってはすぐ座る。
手の込んだ料理は少なくなってきた。

そこで娘の私が、と勢いはあるのだが、なにせレパートリーが少ない。
サラダぐらいならどうにかなるが、煮物、揚げ物になると母の助言が必要となる。
口で言うのがもどかしいのか、母はすぐに立ち上がってくる。
そしてまた座る。
母の味をだせるようになるのは、いつのことになるのやら。

もともと手先が器用だった母は、座りながらできること、私たちの古着や祖母の形見の着物などを再利用し、大小さまざまなパッチワークを作り始めた。
ただ置いておくだけではもったいない、こうしておけば何かに使えるし片付くのだという。
新作を見る度に、見覚えのある洋服や着物の柄がある。
あの当時に着ていたワンピースだ、おばあちゃんの着物だ、と懐かしさに話が弾む。

楽しかったはずの帰省は、知能と肉体労働に変わってきた。
まず父が家の中のことを伝授する。
例えば、我が家は地下水をポンプで汲み上げ水道水として使用しているのだが、そのポンプの仕組みを覚えておけ、という。
池の排水もそうだ。
家の中の電気系統も教え込まれる。

母は、よく箪笥やソファーなどの家具を一人で動かし、帰るたびに部屋の様子が替わって
いたほど模様替えが好きだった。
今では私が帰るのを待ちかねていて、家具の動かす先を考えている。

稀に父の記憶は行きつ戻りつして、思い出の順序だてがうまくできないときがある。
母は、何があってもいいように、と預金や保険証などの在り処を教えてくれる。
身につまされる現実を垣間見なければいけない瞬間だ。

だが互いに悲観しているわけではない。
これから先起こりえることは避けられないことである。
それがいつ訪れても慌てないように、腹をくくり始めているのだ。

たまに里帰りをしても学生時代の友人に会いに出かけることは、めっきり少なくなった。
小一時間かけて秋田市内まで出かけるのが億劫になってしまった。
それよりも、父や母の、幼少時代からこれまでの話を聞くことが楽しい。
知らなかった学生時代のことや仕事のこと、はたまた父の浮気のこと。
母いわく、私には義理の兄がいるらしいのだが、どうもこれは眉唾物と踏んでいる。

いま池の中には、黄色に近いオレンジとグレーがかった白色の二匹の鯉が、のんびりと泳いでいる。
元々は赤黒白の鯉の王道の三色だったのだが、いつのまにか単色に変わっていた。
最初に父が池に放った鯉たちだから、優に30年以上はたっている。
土手の桜が散り始め、風に運ばれた花びらが浮かぶ水面に光があたり、悠々と泳ぐ最後の二匹はゆらゆらと金色と銀色に見える。

そんな風景を茶の間で仲良く、ちんまりと座って見ている二人がいる。
よく磨かれた、つるつる頭の父と綺麗に手入れされた白髪の母。
大きな窓から差し込む光が二人を金色と銀色に輝かせている。

まだ若かりし、身体も心も自由に動いていた頃の思い出をつまみながらお茶を飲み、
いつでも娘の帰りを待っていてくれる、私の両親だ。

6 件のコメント:

  1. miruba3/25/2012

    ああ、今すでにご存命でないことを存じているので・・・なんとなく、涙がでてきた。

    誰にも歴史がある。
    誰もが老いる。
    二人で、金と銀で、寄り添っている後姿。
    想像するだけで心があつくなる。
    良いお話を、ありがとう。

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    1. イソジーン真澄3/25/2012

      mirubaさま。
      こちらこそ、ありがとうございます。

      私も老いてきました。
      そして私の後ろ姿を見る人のいない現実が
      ひしひしと身につまされてきました……^^

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  2. 御美子3/26/2012

    ご両親はこのように歳を重ねていけたらいいなあという
    お手本のような老後を過ごされたのですね。
    金と銀というキーワードはご両親を指すものだと読み始め
    途中で錦鯉のことだったんだと分かったかと思いきや
    やはりご両親のことだったという展開が印象的でした。^^

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    1. イソジーン真澄3/26/2012

      御美子さま。

      なんだかんだいいながらも仲良しの夫婦でした。
      今も二人仲良く並んでます^^。
      読んでいただき、ありがとうございました。

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  3. masumiさん

    今から子どもを願うのは現実味がありませんが、良き伴侶わを見つけることならできるかもしれませんよ。若い時に選んだ伴侶は間違いだったと感じている人も多いことでしょうし、死に別れ、生き別れをしている男性も多いことでしょう。
    これからできる異性の友だちは、生涯の友となるのではないでしょうか。

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    1. イソジーン真澄4/15/2012

      raitoさま。
      おっしゃるとうりです!

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