<Chapitre Ⅳ ギャルソン>
桜が終るとマロニエの花が咲く、落葉樹ばかりのパリの街路樹に、あっという間に若葉が茂る。ニセアカシアの花が空に舞う。パリの一番美しくなる季節だ。
夏のような太陽が照りつけるなか、私は道を急いでいた。語学の交換レッスンの約束をしているのに、メトロがポイント故障で止まってしまった。すぐに動くようなことを言うので、無駄に待ってしまったのだ。
3駅ほどの距離だったので、他の線に乗り換えるより歩いたほうが早い。遅れることを電話をしたくとも、運の悪いことに携帯の電源が切れていた。携帯電話の普及で公衆電話を見つけるのは至難の業で、連絡のとりようがない。
とにかく友人宅へ急いだ。やっとたどり着いた友人宅の玄関先で、出かける様子の彼女とかちあった。遅れた詫びをする私に、友人も急用で出かけなくてはいけない、と謝る。電話をかけたけれど、でなかったという。そりゃそうだ、携帯は不通だったのだから。
私は、メトロに急ぐ友人を見送って、かえってほっとしていた。もう一時間近く遅れていたのだから。友人のアパートの前にカフェがあった。
赤いテントに南仏の町の名前が書かれてある。
小さな店内の倍くらいの広さで歩道にテーブルと椅子が並んでいる。
そうだった、携帯が無くたって途中のカフェに寄って、電話をかけたらよかったのだ。
携帯に頼っているから、他のことが浮かばない自分に「ばかだな」と自分を笑う。便利になった弊害だな。
気持ちのよい風が吹いてきたので、テラスに座った。
蝶ネクタイとベスト姿も決まった中年のギャルソンが注文を取りに来る。
走ったので喉が渇いていた。
「Un demi s.v.p 生ビールをください。」私は一気に飲んだ。
「あ~最高!」散々歩いた後の、こういうビールが一番美味しい。
「Monsieur,un autre s.v.p ムッシューおかわりください」
立て続けだもの、驚くのは無理も無い。言っておくけれど、私はアル中じゃないわよ。
ギャルソンの視線を感じたので、言い訳がましく、仕上げのコーヒーを頼む。
見ると、なにか問いかけたそうにしている。
「Madame、ニースの〇〇〇レジデンスにいませんでしたか?」
「・・・ええ、もう十年にはなるけれど、・・・あ、あなたは・・・」
なんと、レジデンス内にあったカフェのギャルソンだったのだ。
塀に囲まれた10棟ほどのリゾートマンションの一室を所有していて、毎年夏には一週間から数週間ニースで過ごした時期がある。そこのレジデンスにあったプールの脇にカフェがあったのだ。
ニースの海は砂ではなく砂利だ。波も荒く真夏でも海水温度は低いために、海のそばにいながら、泳ぐのはもっぱらプールだ。朝はレジデンスの住民のためにパンも売っていたので、そのカフェには毎日通っていた。
すっかりロマンスグレーになってはいたが、確かに、この人だ。
「お元気でしたか?」
お互いに懐かしく、抱き合って頬にキスをしあった。
若いときは都会で暮らし、年をとったら南仏に住むのがフランス人の普遍的な夢だ。
なのに逆に、ニースからパリに来ている人とは珍しい。
「いえね、ここのカフェのオーナーに引き抜かれたんですよ」
ああ、それで、カフェの名前も南仏の町の名前なのか・・・
だがそれも、今年で辞めるのだという。
「私はやはり、Midiミディ(南仏)の人間なんですよ。パリは息苦しくてね。またニースに帰ります」
南仏訛りの残る人懐こいギャルソンは、パリの空を仰ぎならがそういった。
彼はポケットから携帯電話を取り出した。
「Madame、携帯の番号は、一生変えないつもりです。いつか、ニースにきたら、絶対電話してください。また、どこかのカフェに勤めるつもりです。ビールを奢らせてくれませんか?」
彼の携帯番号を記録しようとして、自分の携帯の電源が切れていること思い出した。
手帳を取り出し、電話帳に彼の携帯番号を記入した。結局これが一番安心だ。
何処からか、するはずのない南仏の、ラベンダーの香りがした。
【ジョェ ル タクシィ 】 歌 ヴァネッサ・パラディ
Joe le taxi Vanessa Paradis
1987年Joe Le Taxiで歌手デビュー,11週連続でナンバー1となる大ヒットを記録。当時フランスではおとなの歌手しかほとんど売れず、ヴァネッサのような、日本的アイドルは本当に珍しく、舌足らずな歌声で人気をえました。