「ああ、すっかり遅くなっちまった」
幸蔵は、車のスピードを上げたくなるのをこらえて、黄昏時の橋を渡った。
太陽が橋の真ん中に落ちてきて、海を蒼くみせている。
橋を渡りきったところにあるコンビニでいつものように小さな袋のチョコを買う。
海岸沿いを走り、やっと目的地に着く。
幸蔵はエレベーターを待つのももどかしく階段をのぼった。
3階まで来たときには息が切れて暫く手すりにつかまって息を落ち着かせなくてはならなかった。
「芳さん、来たよ」ベットに横たわる妻に笑顔を見せる。
「幸蔵さん、遅いよ」少しふくれっつらになる。
「悪かったね、仕事が終わらなかったんだよ。おわびにチョコを買ってきたよ」
妻の顔がすこしほころぶ。その顔を見ると、幸蔵は癒されるのだった。
妻の認知症がわかってから5年、徘徊するようになりどうにもならなくなって施設に入れ始めたのが2年前だ。
子供のいない二人にはほかに頼る人もいない。
誤嚥から肺炎を起こして病院に入院した後、3か月交代で施設と病院を行ったり来たりの生活が続ている。
入院したとたん足腰が弱ってほとんど歩かなくなっていた。
横に垂らした髪の毛を三つ編みにしてやりゴムで止める。
自分ではろくに磨かないだろう口の中を「ほら、アーンして」と掃除してやり、
ヘルパーさんがお風呂上りにバケツに入れてくれた洗濯物を袋に詰め込んでいると、面会時間の終わりを告げるチャイムが小さく聴こえた。
「芳さん、また明日来るからね」
妻の芳子は、チョコをもらったらもう用はないとばかりにテレビ画面を眺めながら、手をゆらゆらと振った。
幸蔵は枕の位置を直してやり、布団の上をトントンとたたいて「じゃぁね」と病室を出た。
ナースステーションの前を過ぎようとしたら、担当の看護師に呼び止められた。
「尾田さん、そろそろ奥様の入院が90日に迫りましてね。介護施設のほうへ移っていただかないといけないのですよ」
「はぁ、そうですか」
幸蔵はため息をついた。
病院ではテレビが各部屋についているが施設には歓談室にしかテレビがない。
自分の見たいテレビ(番組)が無い、と言って芳子がぐずぐず言うのだ。
ワンセグは使えますよと言われても、操作ができるはずもない。
それに時々そっと持ってくる大好きなチョコも、施設では「規則ですから」と取り上げられてしまう。
かといって、自宅に連れて帰っては仕事ができず、仕事ができないと年金だけでは生活できそうにない。蓄えはすっかり底をついていた。
最近少し離れた場所に新設の介護施設が出来たのだが、そこでは各部屋にテレビはあるし食事も自由がきくようなので妻にはぴったりだが、少々割高だった。
「もう少しパートの時間を増やすかな」
幸蔵は疲れの溜まった体を奮い立たせるようにエレベーターではなく階段を降りた。
「芳さん、この施設気に入った?テレビがあってよかったね」
新設の養護施設に空きがあるというので思い切って入れたのだが、芳子は我関せずという顔をしていた。
スタッフもみんな元気で優しそうだ。
幸蔵はほっとしたのだった。
「芳さん、また明日来るね」と声をかけた。
いつもテレビを見たら振り向きもしない妻の芳子が「ほら、ほら」と窓に向かって指を指す。
「なに?」と幸蔵が近寄ると、「あれは家」と芳子がつぶやく。
窓の外には小高い丘が見え、山のようにそびえている。
その中腹あたりに幸蔵夫婦の家が確かに見えるのだ。
居間の少し大きめの窓ガラスが光線の具合で光っている。
「本当だね、芳さんよく気が付いたね。芳さんがベットに寝たまま見えるなんてすごいね」
「家が見える。いいねぇ」
「そうだね、芳さん嬉しいかい」
「うん」
こんな風に話が伝わるとき、妻の認知症は本当なのだろうかと思う幸蔵だった。
幸蔵が洗濯物をもってエレベーターに乗り込もうとしたら、後ろから誰かが乗ってくる。
振り向いた幸蔵は驚いた。普段トイレ以外はほとんど歩かないパジャマ姿の芳子が幸蔵を追ってエレベーターに乗りこんできたのだ。
「芳さん、来ちゃダメじゃないか。どうしたんだよ」
「家に帰るのよ。幸蔵さんと家に帰るの」
幸蔵は言葉に詰まった。
どれほど家に帰りたいのだろう。図らずも自宅の姿を見て、望郷の念にかられたのだろうか。
自分がふがいないばかりに、自宅療養をさせてあげられない。幸蔵は切なかった。
介護師さんが飛んできた。
「芳子さん、今日は帰れないのですよ。少し微熱があったでしょう?今日は帰るのはやめときましょう」
幸蔵も口を添えた。
「芳さん、帰りたかったら、早く良くなってね、そうしたら家に帰ろうね」
芳子はうなづくと部屋に戻っていく。
しかし、次の日もまた幸蔵の後を追ってエレベーターまで来てしまうのだった。
幸蔵は芳子が不憫で、よほど連れて帰ろうかと思ったが、仕事のことを思うとやはり無理だと考え直す。
「芳さん、家の窓が見えるでしょ?私が家に帰ったらタオルを振るからね、見ててね」
芳子はやっと納得したように笑顔を見せた。
しかし仕事を増やした幸蔵は黄昏時にはなかなか窓からタオルを振れないでいた。
「窓からタオルが見えないの。変でしょう?」と不思議がる芳子。
「そうだ、芳さん、時計を見て。この針が朝6時になったら、ほら、ここのところ、そしたらタオルを振るよ」
幸蔵はテレビの横に置いてある時計を指さしながら言った。
朝、霞んで見える施設は遠く芳子が見ているのかさえ定かではなかったが、それから毎日幸蔵は出勤前にタオルを振って見せた。
「タオル見えた?」と幸蔵がきくと。
「タオル?どうだったかなぁ」などと言ってがっかりさせたかと思うと、
「今日のタオルはピンクだったの」とはっきり覚えていることもあり、幸蔵を一喜一憂させてくれる芳子だった。
介護師さんが「奥様もこちらからタオルを振っているんですよ。かわいいですね」と笑っている。
その日も幸蔵は洗濯物を持って階段を降りていた。
エレベーターを使おうと思ったが、また芳子がついてくるといけないので廊下裏にあって部屋から見えなくなる階段を使ったのだ。
荷物を持ち替えた時だった。
疲れがたまっていたのだ。
ふらついて幸蔵は階段を転げ落ちてしまった。
幸蔵は意識が薄れていく中で「芳さん、ごめんね。タオルが振れない・・・・」と声にならない声を出したのだった。
介護師の吉田は各部屋を回っていた。
入所者の体温を計るためだ。
「芳子さん、手を下げてくださいね。体温計りますよ」
そう言っても芳子はタオルを窓に向かって振っている。
「タオル振ってくれないの」とつぶやく。
吉田は黙って反対の腕に体温計をあてがった。
もうタオルを振ってくれる人はいないのにと思うと、ちょっと喉のあたりがつまった。
新人の吉田は詳しい事情を知らないが芳子には子供がいないと聞いている。
遠くに住む親戚の誰かが面倒を見るらしいが、電話連絡だけで一度も顔を見たことはない。
施設に入居している人たちはみな事情を抱えているが、芳子も可哀想な人なのだなと思った。
その日もまた介護師の吉田が入所者の体温を計るために各部屋を回っていた時だ。
「幸蔵さーーん。ここよー幸蔵さーん」
と芳子がタオルを振りながら声を上げているのだ。
吉田はため息をつきながら芳子のそばによって目を見張った。
窓の外に見える丘の中腹あたりに家が見え、四角い窓が朝日に光り、確かにタオルが振られているのを見ることが出来る。
吉田は自分のことのように嬉しくなった。
「芳子さん、タオルが振られていますよ!ご主人が退院なさったんですね。よかったですね」
芳子はその言葉を聞いているのかどうか、
「幸蔵さーん、ここよ〜幸蔵さーん」
といつまでも手に持ったタオルを振っているのだった。