【爆買い】:戦争を前に武器弾薬、爆弾を買い漁る様。
【トリプルスリー】:産前産後産休を取ること。
【アベ政治を許さない】:あべまさはるくんのお母さんの言葉。
【安心して下さい、穿いてますよ】:誰も心配していませんよと同義語。
【一億総活躍社会】:大阪発祥の焼き肉屋がとんかつ屋さんを展開し、全国制覇を成し遂げようと考えたスローガン。正しくは「一億総カツやさかい」である。
【エンブレム】:日本語では、縁触れ無と書く。誰の考えたものともご縁に触れることはありませんよという意味。
【五郎丸ポーズ】:五郎丸が姓であることにもびっくりしたが、名前がポーズとカタカナだったことには衝撃である。この男ハーフかもしれない。
【SEALDs】:自由と民主主義のための学生緊急行動。つまり、sexual doing scrambleあたりか(違うやろ)。
【ドローン】:忍者のように飛び回り、忍術を使って消え去る。消える時の音が、ドローンというらしい。
【まいにち、修造!】:それは、イヤだぞう!
2015年12月28日月曜日
2015年11月20日金曜日
いつものように by Miruba
Photo by Mr. Takao |
クロード・フランソワ(Claude Francois)はクロクロという愛称でも知られた1960年代から1970年代にかけてのフランスで、もっとも人気があったアーティスト兼音楽プロデューサーだ。ディスコをフランスで流行らせたのもこの人だと言われている。
クロードはエジプト出身のフランス人だ。
その先祖は支配階級だったようで幼少期は裕福な家庭だったが、革命で王政が倒れるとすべてが国有化され、クロードの家族も難民同然にフランスに移住してきた。父親が貧困の中にありながら支配階級だった過去を捨てきれずにいたことがクロードにとっては悲しい滑稽に映ったのだろうか。息子が銀行員になることを願った父親はクロードが歌手になってからは口もきかなかったという。
その先祖は支配階級だったようで幼少期は裕福な家庭だったが、革命で王政が倒れるとすべてが国有化され、クロードの家族も難民同然にフランスに移住してきた。父親が貧困の中にありながら支配階級だった過去を捨てきれずにいたことがクロードにとっては悲しい滑稽に映ったのだろうか。息子が銀行員になることを願った父親はクロードが歌手になってからは口もきかなかったという。
クロードはアパートの部屋で、シャワーを浴びていて、感電死をしてしまった。
2人の幼子を残し、39歳の若さだった。
代表曲のひとつに、「Comme d'Habitude(コムダビチュード)=いつものように」がある。
代表曲のひとつに、「Comme d'Habitude(コムダビチュード)=いつものように」がある。
この曲をテレビで観たポール・アンカが、クロードに曲を使わせてほしいと頼み、英語の歌詞を付け直して「マイ・ウェイ」と言うタイトルにして、フランク・シナトラにも歌わせた。
マイ・ウェイは世界的にヒットし、エルビス・プレスリーや、日本では布施 明などにもカバーされたが、その歌詞となると、これほどまでに違うのか、と言うほどだ。
この歌をクロード・フランソワが作ったとき、「夢みるシャンソン人形」で有名なフランス・ギャルとの破局をむかえていて、仮面カップルのアンニュイな思いと、永久不変と思われた愛の儚さを表現し、それでも日々は音も無く続くのだと、平凡を歌い上げるクロード・フランソワの歌詞は、シナトラや布施明の力強い未来に向かっていく歌詞とは違うけれども、切々とした人生の応援歌であることが伝わってくる。
喜劇とは人間の悲哀の中にこそあるのだな、と思わせる。
クロード・フランソワが音楽の世界で商魂逞しかったのも、ビジュアル系でキラキラと派手な衣装を着て飛び跳ねて踊って魅せたのも、人生の悲哀と喜劇が背中合わせだということを知っていたからかもしれないと思うとき、この「Comme d'Habitude(コムダビチュード)=いつものように」と言う曲を聴くたびに、自然に涙が溢れてきてしまうのだ。
苦しい事も辛い事も悲しい事もある毎日だけれど、いつもの通りの生活を送れることが、どれほど大切なことか。
毎日の変わらない日々にこそ笑える幸せな人生が詰まっているのではないか。
世界中にテロの荒波が押し寄せ、なんでもない日常が当たり前では無い状態にあり、難民が溢れる昨今、難民でもあった亡きクロードフランソワからの贈り物「いつものとおり」が余計に身にしみてしまうのだ。
【いつものように】 訳詞:カズコリーヌ
僕は起きて君を押す
君はいつものように目を覚まさない
僕は君の上にシーツを引き上げる いつものように
君が寒くないように
僕の手は君の髪をなでる
殆ど僕の意思とは反対に いつものように
でも君は僕に背を向ける
いつものように
そして僕は急いで着替える
いつものように、部屋を出る
一人でコーヒーを飲む、
いつものように、僕は遅れている
音を立てずに家を出る
いつものように、外はすべて灰色
寒い、僕は襟を立てる
いつものように
いつものように、一日中、
僕は何かをするフリをするだろう
いつものように僕は微笑むだろう
いつものように僕は笑いさえするだろう
いつものように僕は生きるだろう
http://chansonzanmai.blog27.fc2.com/category62-1.htmlより
2015年10月17日土曜日
パリのカフェ物語10 by Miruba
Chapitre Ⅹ【パトロンヌ】
友人と待ち合わせをした。
メトロ Rique リケという駅だった。
この駅の近くには北ホテルで有名なサンマルタン運河やそれに連なるウルク運河などがあるのでつけられた名前なのだろうと推察できる。
と言うのは、世界遺産にもなっているフランス南部に位置する「ミディー運河」を設計考案したのが、ピエール・ポール・リケという人だったからだ。運河つながりというところか。
Canal du Midi(ミディ運河)とは、南仏トゥールーズから、地中海にまで向かう支流を含め総延長 360 km に及ぶ運河である。
17世紀中ごろ作られた運河で、19世紀に鉄道が出来るまで、大西洋と地中海との間を船舶で結ぶ、重要な輸送ルートだった。
この運河のおかげで、運河沿いの地区の産物の流通が盛んとなり、ボルドー、サンテミリオンなど、世界的に有名なワインの発展に大きく寄与した。
だが、当時の最先端の土木工事は難航を極め、資金も不足がちで、Riqueリケは自分の全財産をつぎ込んだ。
それにもかかわらず、その完成を見ることなくこの世を去っている。
幸いなことにリケの息子が引継いでリケの死約一年後にミディ運河は完成したという。
その運河は19世紀以後は観光船を通すことで発展を継続してきた。今も行き交う観光船に乗る観光客で賑わっている。
私は毎年自名入りのワインをケースごと頼むのだが、
どんなところで作られているのか見たいと思いその生産地ボルドーに寄った帰り、トゥールーズへ足を伸ばしたことがある。
ミディ運河沿いを散歩し、ふと寄ったカフェ。
近代的なカフェだった。
セルフサービスタイプになっていてカウンターにサービスの女の子が居て、座る前に飲み物を注文し、支払ってから好みの席に座るという、スタバなど現代のカフェ専門店のシステムだった。
当時は「このタイプのカフェって、ギャルソンを好むパリでは無理だろうな」と思ったものだ。
私はビールを頼んで運河の見える窓辺に座った。
暑い夏なのに、運河を通ってくる風は涼しい。
先ほどのカウンターの女の子が「Mere(メール)、ありがとうございます。助かりました、なくなってたのよ」と、なにか材料を受け取っている風だ。
フランスではママンと言う言い方が多く「お母様」をあらわす「メール」と言う呼び方は珍しいのでつい、振り返ってしまった。
そして私が振り向いたことで、その「メール」は私を見た。
「アッ」「Oh la la!C'est vous・・オララ!あなたは・・・」
懐かしいその年配の女性は私のパリの自宅近くにあったカフェのパトロンヌ(店主)だったのだ。
ある日突然閉店をしたため彼女がその後どうしているのかと時々カフェの前を通ると思っていたものだ。
パトロンヌのご主人はカンボジア内戦のとき派遣されたフランス軍の兵士として戦闘に巻き込まれ亡くなっていた。
さらにそのご主人との子供を交通事故で亡くし、加えて愛するその子を可愛がってくれていた恋人が、交通事故を起こした加害者を口論の末刺し殺し刑務所に入れられてしまった。
飛び出した子供が悪いのだと正当性を訴えるばかりで悔やみの言葉すらなかったことが理由だったため、情状酌量を願い出たけれど、結局10年の刑で服役していた。
パトロンヌは恋人を待っていたのだが、刑務所から出てくると言う一ヶ月前になんとその恋人は病気で亡くなるという悲しみに見舞われた。
度重なる不幸に彼女は店を閉めどこかに居なくなっていた。
「心配したのよ。元気でしたか?」
「ええ、ありがとう。あの時は自暴自棄になったけれど、結局カフェをやるしかほかに何も出来ないのでね」
流れ着いたこの町でカフェに勤めていたら、今のご主人と知り合ったのだと言う。ご主人は没落した公爵の子孫だとのことだ。
それで「Mereメール」なのかと納得がいった。世界中、上流階級の人は言葉使いにはうるさいもののようである。
「あの子は主人の子供なのよ。元公爵と言っても城を維持するだけで大変なので市に寄付してしまって、門番小屋に住んでいる始末よ。
それでも私のパリの住まいなんか比べ物にならないくらい豪邸なのよ、門番小屋なのに」と笑った。
カフェを出すお金はご主人が出資してくれたらしい。
人を雇う余裕が無かったのでセルフタイプのカフェにしたら意外に好評で、今では娘さんがアルバイトで継続してやっているという。
娘さんがアメリカ留学で居なくなれば、別のアルバイトを雇うからいいのよ、と笑顔だ。
「あなたの子供達は元気?下の子はまだbebeベベだったわ」とパトロンヌが聞いてきた。
学校の向かいにあった彼女のカフェには娘達も良く連れて行ったので知っているのだ。
「上の子は今カナダにボーイフレンドと旅行中。下の子は修学旅行でスペイン旅行よ」
「大きくなったでしょうね。」と懐かしげに目を細めてくれる。
「幸せそうで良かったわ」と別れ際に言うと、「あなたも、お元気でね」そう言ってハグをしてくれた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「お待たせ」友人が汗を拭きながら現れた。
「あわてなくていいのに、、待ち人は来てくれたらOKよ」
メトロ Rique 近くのウルク運河のカフェはセルフサービスになっている。
あのパトロンヌの南仏のカフェにそっくりだ。
久しぶりにビエール・ペッシュを頼んだ。
今、あのパトロンヌは元気かな、ふと思った。
絶望の果てにつかんだ幸せ。
いつまでも幸せで居て欲しいと願った。
FIN
友人と待ち合わせをした。
メトロ Rique リケという駅だった。
この駅の近くには北ホテルで有名なサンマルタン運河やそれに連なるウルク運河などがあるのでつけられた名前なのだろうと推察できる。
と言うのは、世界遺産にもなっているフランス南部に位置する「ミディー運河」を設計考案したのが、ピエール・ポール・リケという人だったからだ。運河つながりというところか。
Canal du Midi(ミディ運河)とは、南仏トゥールーズから、地中海にまで向かう支流を含め総延長 360 km に及ぶ運河である。
17世紀中ごろ作られた運河で、19世紀に鉄道が出来るまで、大西洋と地中海との間を船舶で結ぶ、重要な輸送ルートだった。
この運河のおかげで、運河沿いの地区の産物の流通が盛んとなり、ボルドー、サンテミリオンなど、世界的に有名なワインの発展に大きく寄与した。
だが、当時の最先端の土木工事は難航を極め、資金も不足がちで、Riqueリケは自分の全財産をつぎ込んだ。
それにもかかわらず、その完成を見ることなくこの世を去っている。
幸いなことにリケの息子が引継いでリケの死約一年後にミディ運河は完成したという。
その運河は19世紀以後は観光船を通すことで発展を継続してきた。今も行き交う観光船に乗る観光客で賑わっている。
私は毎年自名入りのワインをケースごと頼むのだが、
どんなところで作られているのか見たいと思いその生産地ボルドーに寄った帰り、トゥールーズへ足を伸ばしたことがある。
ミディ運河沿いを散歩し、ふと寄ったカフェ。
近代的なカフェだった。
セルフサービスタイプになっていてカウンターにサービスの女の子が居て、座る前に飲み物を注文し、支払ってから好みの席に座るという、スタバなど現代のカフェ専門店のシステムだった。
当時は「このタイプのカフェって、ギャルソンを好むパリでは無理だろうな」と思ったものだ。
私はビールを頼んで運河の見える窓辺に座った。
暑い夏なのに、運河を通ってくる風は涼しい。
先ほどのカウンターの女の子が「Mere(メール)、ありがとうございます。助かりました、なくなってたのよ」と、なにか材料を受け取っている風だ。
フランスではママンと言う言い方が多く「お母様」をあらわす「メール」と言う呼び方は珍しいのでつい、振り返ってしまった。
そして私が振り向いたことで、その「メール」は私を見た。
「アッ」「Oh la la!C'est vous・・オララ!あなたは・・・」
懐かしいその年配の女性は私のパリの自宅近くにあったカフェのパトロンヌ(店主)だったのだ。
ある日突然閉店をしたため彼女がその後どうしているのかと時々カフェの前を通ると思っていたものだ。
パトロンヌのご主人はカンボジア内戦のとき派遣されたフランス軍の兵士として戦闘に巻き込まれ亡くなっていた。
さらにそのご主人との子供を交通事故で亡くし、加えて愛するその子を可愛がってくれていた恋人が、交通事故を起こした加害者を口論の末刺し殺し刑務所に入れられてしまった。
飛び出した子供が悪いのだと正当性を訴えるばかりで悔やみの言葉すらなかったことが理由だったため、情状酌量を願い出たけれど、結局10年の刑で服役していた。
パトロンヌは恋人を待っていたのだが、刑務所から出てくると言う一ヶ月前になんとその恋人は病気で亡くなるという悲しみに見舞われた。
度重なる不幸に彼女は店を閉めどこかに居なくなっていた。
「心配したのよ。元気でしたか?」
「ええ、ありがとう。あの時は自暴自棄になったけれど、結局カフェをやるしかほかに何も出来ないのでね」
流れ着いたこの町でカフェに勤めていたら、今のご主人と知り合ったのだと言う。ご主人は没落した公爵の子孫だとのことだ。
それで「Mereメール」なのかと納得がいった。世界中、上流階級の人は言葉使いにはうるさいもののようである。
「あの子は主人の子供なのよ。元公爵と言っても城を維持するだけで大変なので市に寄付してしまって、門番小屋に住んでいる始末よ。
それでも私のパリの住まいなんか比べ物にならないくらい豪邸なのよ、門番小屋なのに」と笑った。
カフェを出すお金はご主人が出資してくれたらしい。
人を雇う余裕が無かったのでセルフタイプのカフェにしたら意外に好評で、今では娘さんがアルバイトで継続してやっているという。
娘さんがアメリカ留学で居なくなれば、別のアルバイトを雇うからいいのよ、と笑顔だ。
「あなたの子供達は元気?下の子はまだbebeベベだったわ」とパトロンヌが聞いてきた。
学校の向かいにあった彼女のカフェには娘達も良く連れて行ったので知っているのだ。
「上の子は今カナダにボーイフレンドと旅行中。下の子は修学旅行でスペイン旅行よ」
「大きくなったでしょうね。」と懐かしげに目を細めてくれる。
「幸せそうで良かったわ」と別れ際に言うと、「あなたも、お元気でね」そう言ってハグをしてくれた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「お待たせ」友人が汗を拭きながら現れた。
「あわてなくていいのに、、待ち人は来てくれたらOKよ」
メトロ Rique 近くのウルク運河のカフェはセルフサービスになっている。
あのパトロンヌの南仏のカフェにそっくりだ。
久しぶりにビエール・ペッシュを頼んだ。
今、あのパトロンヌは元気かな、ふと思った。
絶望の果てにつかんだ幸せ。
いつまでも幸せで居て欲しいと願った。
FIN
2015年8月22日土曜日
パリのカフェ物語9 by Miruba
<待ち人>
娘がマテルネル(幼稚園)に通いはじめた頃のことだ。
私達両親が日本人では、同じ年頃のフランス人の友達が出来ないだろうと、早くから通わせた。
マテルネルはオシメが取れていることを条件としていたので、大体2歳くらいから入ることが出来る。
まだおしゃぶりやビブロン(哺乳瓶)を口にくわえたまま通ってくる子もいる。
それ以前の生後直ぐから2歳までを預かってくれるクレーシュ(託児所)と、レコールプリメール(小学校)も
仕事を持つ両親が年齢の違う兄弟達を迎えに来易い様にまとめて隣接し建てられている。
日本と違って安全は個人責任だから、両親が朝晩と昼食の送り迎えをしなくてはならない。
1人で通わせたりすると、育児放棄虐待とみなされることがある。
仕事のある忙しい親に代わって送り迎えと、学校給食を頼まない場合追加でお昼を食べさせてくれる行政の認可を受けた個人託児家庭が一般にある。
大抵は自分も子育てをしている同級生の専業主婦が3,4人まとめて面倒を見る、という場合が多いようだ。
幼稚園の道路を挟んだ真向かいに、カフェがある。
娘の送り迎えは朝・夕・お昼と4往復するわけで、送った後買い物に行き自宅に戻らずお昼のお迎えをする時など、カフェで時間調整をしたりした。
近くに商業ビルやホテルもあるので、仕事帰りのサラリーマン・サラリーウーマンや工事中の作業服姿の人たちが
カウンターで一杯飲んでいたり、夜はビストロ風になり食事を楽しむ観光客や家族連れがいたりでいつも賑わっていた。
夏の暑い日は娘に時々アイスクリームを食べさせに寄った。
私はビエールペッシュ(桃のシロップとビールを混ぜたもの)だ。
「Avec ta maman?c'est bien.T'es contente,n'est ce pas?」
テラスに座る娘にマダムがママと一緒でいいわねと話しかけてくる。
この女性がパトロンヌ(店主)だった。
特別愛想がいいという訳ではなかったが、上品な感じの美しい中年の女性で、うっすらと汗をかきながらいつも忙しそうだけれど細やかな気遣いをする彼女と話したい男達でカウンターはいつも立つ場所がないくらいだった。
「うん、パパが出張なの」
「オララ~、【出張】だなんて難しい言葉知っているのね、えらいわ」
などと子供好きではあるらしく、忙しいギャルソンに代わってアイスはいつも彼女がカウンターから出てきて運んでくれた。
「マダムのパパも出張?」と3歳の娘。
「あはは、そうね、長いこと天国に出張しているわ」
そして私に向かってつぶやいた。「恋人もね、出張なの、もう7年になるかしら」
「え?亡くなったの?」と問いかけた私に、「いいえ」と言ったきり、カウンターに戻ってしまったので、その後があやふやだったが、何年も通ううちに、少しずつ聞かせてくれた。
私がまともにフランス語も話せない外人だったからむしろ、語ってくれたのかもしれなかった。
パトロンヌの両親はパリ市内でカフェをしていた為、彼女がカフェを継いだという。
客だった男性と結婚し子供が出来て直ぐに、兵隊だった夫はカンボジアの内戦に巻き込まれ亡くなってしまった。
シングルマザーの彼女を支えてくれたのが恋人だった。
彼が子供を可愛がってくれたので、彼女は再婚も考えていたらしい。
ところが不運なことに子供が交通事故で亡くなってしまった。
どれほど辛かっただろう。
それも、自分がカフェをやっていた為に、子供が道路に飛び出したことに気がつかなかったのだという。
さらに彼女を不幸が襲った。
子供を可愛がってくれていた恋人が、車を運転していた加害者の態度に反省の色がないことを許せないといって
こともあろうに刺し殺してしまったのだ。
情状酌量を願い出たが、実の子供というわけではなかった為に、有罪判決を受けたのだった。
彼女はパリのカフェを売り、学校の見えるこの場所で彼を待つ新しいカフェを始めた。
学校の前に道路があるが、そこを子供が多く通るというので、日本で言う<緑のおばさん>を設置するように進言したのもこのカフェのパトロンヌだった。
「もう直ぐ出てくるのよ」
嬉しそうにしていたのに。
いつも何者にも動じない風情のパトロンヌが、そわそわして、客にも「マダム、恋人でも出来たのか?」などと
冷やかされるほどだったのに。
刑務所から出てくるほんの一ヶ月前に、愛しい恋人は脳溢血で帰らぬ人となったのだった。
なんということだろう・・・
その日からパトロンヌの姿を見ることはなかった。
暫くカフェは閉まっていたが、ヴァカンス開けに再開したときは店主が変わっていた。
その後駅前に大型の商業施設がはいったので、商店街はすっかり錆びれ、カフェの客も激減した様子だった。
娘たちが大きくなって幼稚園・小学校の前はパンを買いに行くときだけ寄るようになって、
短い間に何代か変わったカフェには入っていない。
マテルネルの前にあるカフェは、今ではどこの国のカフェかわからない変な音楽が流れ、足を向ける気にもなれない。
子供達との思い出のカフェ。
あの懐かしいパトロンヌは、今、どこでどうしているだろうか。
どうか、幸せで居て欲しいと願うのだ。
娘がマテルネル(幼稚園)に通いはじめた頃のことだ。
私達両親が日本人では、同じ年頃のフランス人の友達が出来ないだろうと、早くから通わせた。
マテルネルはオシメが取れていることを条件としていたので、大体2歳くらいから入ることが出来る。
まだおしゃぶりやビブロン(哺乳瓶)を口にくわえたまま通ってくる子もいる。
それ以前の生後直ぐから2歳までを預かってくれるクレーシュ(託児所)と、レコールプリメール(小学校)も
仕事を持つ両親が年齢の違う兄弟達を迎えに来易い様にまとめて隣接し建てられている。
日本と違って安全は個人責任だから、両親が朝晩と昼食の送り迎えをしなくてはならない。
1人で通わせたりすると、育児放棄虐待とみなされることがある。
仕事のある忙しい親に代わって送り迎えと、学校給食を頼まない場合追加でお昼を食べさせてくれる行政の認可を受けた個人託児家庭が一般にある。
大抵は自分も子育てをしている同級生の専業主婦が3,4人まとめて面倒を見る、という場合が多いようだ。
幼稚園の道路を挟んだ真向かいに、カフェがある。
娘の送り迎えは朝・夕・お昼と4往復するわけで、送った後買い物に行き自宅に戻らずお昼のお迎えをする時など、カフェで時間調整をしたりした。
近くに商業ビルやホテルもあるので、仕事帰りのサラリーマン・サラリーウーマンや工事中の作業服姿の人たちが
カウンターで一杯飲んでいたり、夜はビストロ風になり食事を楽しむ観光客や家族連れがいたりでいつも賑わっていた。
夏の暑い日は娘に時々アイスクリームを食べさせに寄った。
私はビエールペッシュ(桃のシロップとビールを混ぜたもの)だ。
「Avec ta maman?c'est bien.T'es contente,n'est ce pas?」
テラスに座る娘にマダムがママと一緒でいいわねと話しかけてくる。
この女性がパトロンヌ(店主)だった。
特別愛想がいいという訳ではなかったが、上品な感じの美しい中年の女性で、うっすらと汗をかきながらいつも忙しそうだけれど細やかな気遣いをする彼女と話したい男達でカウンターはいつも立つ場所がないくらいだった。
「うん、パパが出張なの」
「オララ~、【出張】だなんて難しい言葉知っているのね、えらいわ」
などと子供好きではあるらしく、忙しいギャルソンに代わってアイスはいつも彼女がカウンターから出てきて運んでくれた。
「マダムのパパも出張?」と3歳の娘。
「あはは、そうね、長いこと天国に出張しているわ」
そして私に向かってつぶやいた。「恋人もね、出張なの、もう7年になるかしら」
「え?亡くなったの?」と問いかけた私に、「いいえ」と言ったきり、カウンターに戻ってしまったので、その後があやふやだったが、何年も通ううちに、少しずつ聞かせてくれた。
私がまともにフランス語も話せない外人だったからむしろ、語ってくれたのかもしれなかった。
パトロンヌの両親はパリ市内でカフェをしていた為、彼女がカフェを継いだという。
客だった男性と結婚し子供が出来て直ぐに、兵隊だった夫はカンボジアの内戦に巻き込まれ亡くなってしまった。
シングルマザーの彼女を支えてくれたのが恋人だった。
彼が子供を可愛がってくれたので、彼女は再婚も考えていたらしい。
ところが不運なことに子供が交通事故で亡くなってしまった。
どれほど辛かっただろう。
それも、自分がカフェをやっていた為に、子供が道路に飛び出したことに気がつかなかったのだという。
さらに彼女を不幸が襲った。
子供を可愛がってくれていた恋人が、車を運転していた加害者の態度に反省の色がないことを許せないといって
こともあろうに刺し殺してしまったのだ。
情状酌量を願い出たが、実の子供というわけではなかった為に、有罪判決を受けたのだった。
彼女はパリのカフェを売り、学校の見えるこの場所で彼を待つ新しいカフェを始めた。
学校の前に道路があるが、そこを子供が多く通るというので、日本で言う<緑のおばさん>を設置するように進言したのもこのカフェのパトロンヌだった。
「もう直ぐ出てくるのよ」
嬉しそうにしていたのに。
いつも何者にも動じない風情のパトロンヌが、そわそわして、客にも「マダム、恋人でも出来たのか?」などと
冷やかされるほどだったのに。
刑務所から出てくるほんの一ヶ月前に、愛しい恋人は脳溢血で帰らぬ人となったのだった。
なんということだろう・・・
その日からパトロンヌの姿を見ることはなかった。
暫くカフェは閉まっていたが、ヴァカンス開けに再開したときは店主が変わっていた。
その後駅前に大型の商業施設がはいったので、商店街はすっかり錆びれ、カフェの客も激減した様子だった。
娘たちが大きくなって幼稚園・小学校の前はパンを買いに行くときだけ寄るようになって、
短い間に何代か変わったカフェには入っていない。
マテルネルの前にあるカフェは、今ではどこの国のカフェかわからない変な音楽が流れ、足を向ける気にもなれない。
子供達との思い出のカフェ。
あの懐かしいパトロンヌは、今、どこでどうしているだろうか。
どうか、幸せで居て欲しいと願うのだ。
2015年8月14日金曜日
御美子の韓流怪談「工業団地」
私は当時、ソウルの塾で早稲田大学入学を希望する韓国人高校生達の英語クラスの講師をしていた。
この話は生徒のガヨンちゃん(仮名)から聞いたものである。
ガヨンちゃんはソウルで生まれ育ち、教育熱心な母親のすすめで、高校からはソウルから車で2時間ほどのところにあるインターナショナルスクールに入学した。この学校は帰国子女や、それに相当する英語力のある子供達向けに、新しい埋立て開発地に、鳴りもの入りで建てられたものだった。ソウルからはアクセスが悪いため、学生寮に入る学生も多かった。
新入生オリエンテーションの夜。ガヨンちゃんたち寮の新人は、先輩たちに連れられて寮の屋上に来ていた。歓迎の夜景見学会はオリエンの恒例行事のひとつともなっていた。
この一帯の埋立地には、計画的に高層ビル群が建てられている。みんなはその美しい夜景にしばし見入った。
そのときだった。ガヨンちゃんは、ふと東側からの風に違和感を感じた。その方向に顔を向けると異様に暗い地域がひろがっていることに気がついた。物怖じしない性格のガヨンちゃんは、思いついたまま聞いてみた。
「先輩、あの暗い一帯には何があるんですか?」
近くにいた一人の先輩に聞いたつもりだったが、先輩全員が一斉にガヨンちゃんの方を振り向き、訊ねたガヨンちゃんの方が一瞬ひるんだ。
ひとりの先輩が答えた。
「ああ、あそこは南洞(ナムドン)工業団地よ。工場の退勤時間は早いから暗く見えるのよ」
と言った途端、先輩たちが一様に安堵の表情を見せたのが逆に心に引っかかった。
翌日、クラスメイト達と学校のカフェテリアでランチを食べていると中の一人が言い出した。
「ねえ、工業団地の噂、知ってる?」
ガヨンちゃんは昨夜の先輩たちの態度が気になっていたので、思わず聞き耳を立てた。
「あそこの下にはたくさんの死体が埋まってるんだって」
「ええっ?」
「あの一帯は政府から安く払い下げられたから、いまは、小さな町工場が集中しているんだけど、安く払い下げられた理由は、あそこの地下には朝鮮戦争の時、軍の秘密施設があったからなのよ」
「秘密施設って?」
「北のスパイと疑われた人たちを拷問する施設。いまでもその人たちの死体がたくさん埋まっているそうよ」
「やっぱり、あそこは普通じゃなかったんだ」思わずつぶやいた。
「何、何?どうかしたの?ガヨンちゃん」
「昨日屋上から見たとき、嫌な感じがする一帯があって、そこが南洞工団だって先輩が言ってたから」
ガヨンちゃんはクラスメイトを怖がらせないように明るく笑ったが、実は昨夜から突然の頭痛に悩まされていた。
その後も軽い頭痛が続き、誰にも相談できないまま、1学期が終わった。夏休みのため、母親が車でキャンパスに迎えに来てくれた。車がキャンパスを離れると頭痛は収まったが、高速道路が工団近くに差し掛かると、いつもより激しい頭痛にみまわれた。
やっぱり頭痛の原因はここにあるんだ!ガヨンちゃんは、これまで半信半疑だったが、もう認めざるを得なかった。ソウルの自宅に戻ると頭痛はすっかりなくなっていた。
新学期が始まり、ガヨンちゃんは暗澹たる気持ちになっていた。学校に戻ると、また頭痛が始まったからだ。しかし、それより驚いたのは、カフェテリアで工団の話を教えてくれたクラスメイトが、退学していたことだった。出身校がバラバラな学生が集まっているので、「なにか事故にあった」という理由以外、消息も尋ねようもなかった。
その後、ガヨンちゃんは生徒会活動に参加するようになった。
その宿泊研修会が、キャンパスを離れて田舎の修練院で行われた。ここでは、ガヨンちゃんは頭痛も消えて、いつになく饒舌になっていた。
「先輩、やっぱり空気が綺麗なところはいいですね。いつも頭痛に悩まされているのが嘘みたいです」
その途端、他の先輩たちまで一斉に振り返った。新入生オリエンテーションの夜のことが蘇り、ガヨンちゃんは思わず身構えた。
「学校にいると、いつも頭痛がするっていう意味?」
「いいえ。たまにです」とっさにウソをついた。
「よかった。いつもだったら、先生に相談しなければならないわ」
「何故ですか?」
「過去にそんな生徒が何人か出て退学になったから」
「先生に相談したら、退学になるんですか?」
「心の病気だと判断されたらね」
ガヨンちゃんは怖くなって、急いで話題を変えた。頭痛にはなにか秘密があり、頭痛がすることを話してはいけないのだということをこのとき確信したという。
高校3年生になり、進学先を早稲田大学に決めたガヨンちゃんは、学校の授業がない週末に、私の早稲田大学英語対策クラスに通うようになった。彼女は、講師の私の間違いを指摘するくらい頭脳明晰だったが、頭痛が理由での欠席が目立ち、留学できるのか心配していた。何回か講座に通ううちに、私たちはいろいろなことを話すようになった。そして、先の話をしてくれたのだ。私が、正式な教師ではなく臨時の講師であったということもあるのであろう。
「自分なりに調べてみたんですけど、この学校の土地の埋立てには工団地帯の土も使われているらしいんです」
ともガヨンちゃんは言った。
拷問で殺された人の中には若い人も多くいたということだ。
浮かばれない霊の仕業なのか、それとも、強大な無念の思いや恨みの念の集積が、同世代の若い学生にだけ、なんらかの形で影響を与えたり、厄災をもたらしたなどということがあるのであろうか。
その後、ガヨンちゃんは、無事に早稲田大学に合格し日本でのキャンパスライフを謳歌した。頭痛はすっかりなくなったという。
一昨年韓国で、修学旅行中にフェリー転覆の大事故に遭い、多くの犠牲者を出した高校があった。その高校も工団からさほど遠くない距離にある、ということは、事故とは無関係であると信じたい。
<この物語はフィクションで、登場する人物,団体名等は実在するものではありません>
2015年5月10日日曜日
「譲り受けた想い」 by Miruba
街中を通り畑や林を抜け田舎屋を左右に見てカーブを行くと、突然のように海が見える。
朱塗の大きな橋を渡る。いつの間に通行料を取らなくなったのだろうか、昔あった料金所が無くなっていた。
5月の太陽に光り輝く海原を左右の視界に入れながら車を走らせる。
橋を渡り終えると道路脇が色とりどりのツツジの壁絵となって去っていく。
少し暑くなって窓を開けると爽やかな海風が飛び込んできて潮の香りとともに修の頬をかすめた。
海の景色を離れ内陸にハンドルを切ると直ぐに林の中へ。
木々が鬱蒼とし、その中に隠れるようにひっそりとした佇まいの家が見える。
修の実家だ。
だが、誰が迎えてくれるでもない。
鍵をあけ、締め切りにしていた雨戸をガタガタとさせながら開放し、無人の部屋独特のかび臭い空気を新鮮な外の大気と入れ替える。
「帰ってきちゃったな」
少し西に方向転換した太陽の陽差しを縁側で受けながら、庭にある八朔の木を眺めた。
採る人も無い沢山の実が橙色を増して美味しそうだ。
その下には昨年の実が落ちたのだろう、そこ等じゅうに八朔が芽吹いていた。
_あとで草刈をしないとだめだな_修はつぶやく。
親代わりに育ててくれた兄が独り身のまま亡くなって、田畑と家の相続をしてしまったのだ。
余程手放してしまおうかと思ったが、当時は仕事が忙しくそのままにしてあった。
兄が亡くなって、もう4年目に入ろうとしていた。
長年勤めていた会社が定年間際に倒産してしまい、
「こんなはずじゃなかった」とお嬢さん育ちのわがまま女房は、親の家に行ったきり帰ってこないし、子供は高校の時から自分で決めた外国暮らしで、すでに基盤は向こうだし、人生のはしごを外された気がして、修は都会から逃げるように実家に来てしまったのだった。
何か当てがあるわけではない。
失業保険をもらいながらどこかに職を見つけることにする。
年齢がネックになってスキルを行かせる仕事など見つからないだろうとは想像したくも無い。
部屋は突然亡くなった兄のものが、今にも畑から帰ってきそうなほどに、そのままになっている。
両親の思い出があまり無い修は、兄が親のようなものだったから、つい甘えていたのだ。
自分の孤独に押しつぶされそうな思いで居る修は、一人暮らしで兄は寂しくなかったのだろうかと思った。
兄の愛用していた安楽椅子に座って、_もっと頻繁に帰ってきてやればよかった_とつぶやく。
兄の部屋は物が溢れていて、本当に大切なものだけ残そうと片付け始めた。
意外に手間取り10日経っても終わらない。それでも就職の決まらない不安な気持ちをかき消すには、片付けは最高だった。
両親の書類や写真は捨てられない。兄の子供の頃の成績表もあった。修よりはるかに成績が良かったようだ。_まけた〜_などと独り言を言いながら、修は部屋が段々綺麗になっていくことが楽しくなっていた。
そんな時、日記を見つけてしまった。
修のことが書いてある。ついつい読みふけってしまう。
無口だった兄が日記の中では意外におしゃべりだと言うことをはじめて知った。
兄には好きな人が居たようだ。
_マリアベルナデット島田あき?_カトリック教の洗礼名か。
選りに選って相手はシスターだった。
だから兄はずっと独身だったのだ。
修は、それでもほっとしていた。あの不器用な兄が恋をしていたんだ。そう思うと心が穏やかな気分になる。
日曜日、近くの教会に行ってみた。
子供の頃兄に連れられて日曜学校に通ったが、都会に出てからは教会になどクリスマスにも行ったことがなかったのだ。
なんとなく、神に祈りたい心境だった修は(これが困ったときの神頼みか)と自嘲しながらミサに参列し、賛美歌を歌うシスター達のなかに、島田あきさんはいるだろうか?と思いながらも、流石にシスターに「島田さんという名前ですか?」とは尋ね辛く、そのまま散歩がてら町のほうへ歩いた。
途中畑やこれから稲を植えるのだろう、水を張った段々になった田んぼなどが見える。
だがそれと同じくらい荒れ果てた休耕田、荒廃地もみえる。農家を続ける後継者が居ないのだろう。
困ったことだな、と修は自分が都会に出ていたくせに思う。
菜の花が咲く一角があった。水の枯れた休耕田には雑草が背の高さほどもある。
足を止めて見ていたら、「あれ〜修君じゃないの?」と腰の曲がったおばあさんが声を掛けてきた。
いい年したオヤジを捕まえて「くん」も無いだろうが、昔からの知り合いで「駄菓子屋のおばちゃん」とみんなで呼んでいた人だった。
懐かしさに笑顔が浮かぶ。もうすっかりおばあさんになっている。修が子供の頃教会でもよく見かけたのだ。
「修君兄さんにそっくりになったね」と言う。
「そこの菜の花が咲いてるとこ、修君の兄さんが田植えしてあげてたのよ」
_え?田植えして、あげた?_
「そこの土地は教会のものですもん。昔はシスター達が自分達のお米は自分達で作っていたんだけれど、段々と農作業をするシスターが居なくなってねぇ。シスター達も贅沢になっちゃうのかしら。
修君の兄さんがシスター達の為に田植えをしてお米を作って上げてたのよ。
信者さんなんか沢山居るのにね誰も手伝う人が居なくてね、まぁ、ボランチアっていうの?あれだね」
「そうだったんですか、つかぬ事を伺いますが、シスターの中に島田さんっていましたか?」
「え?島田さん?はてね、洗礼名しか知らないからね」
「兄がお慕いしていたようなんですが」
「え?シスターを?それはないだろうよ。修君の勘違いだよ。兄さんは皆さんに優しかったからね。
でも、御心(みこころ)を同じくしていたと言えば、さてねぇ・・・・あの亡くなったシスターかね〜いや、年が合わないね〜
もしかしたら、あっちのシスターのことかもしれないね。
なんでも偉くなってね、外国の法皇様のところへいらしたようだよ。それっきり帰ってこなかったみたいだけれど」
頭を左右にかしげながらおばあさんは頭の中の過去帳から搾り出してくれた。
その女性だと修は思った。
日記にもシスターがローマに行ってしまう、とその寂しさと苦悩が書かれてあったのだ。
現役の頃出張で何度かヴァチカンを訪れ、キリスト像などをお土産に贈ったものだが、
あの時兄は何を思ったろうか、と修は兄の心を慮った。
夕暮れ色に染まる畑を眺めていたら、兄の悲しそうな顔が浮かんできた。
修は、急に喉の奥に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。どれほど切なかっただろうか。
兄の遺影と一緒に酒でも酌み交わそうと修は商店街へ足を向けた。
「修君、精がでるねぇ、もう田植え?」
「ああ、駄菓子屋のおばちゃん。去年もダメだったけれど、今年はなんとしても良い米にしたいからね」
修は、兄の代わりに農作業をしていた。
もちろん初めてのことばかりで失敗も多いのだが、長期プロジェクトと考えて何とか少しずつこなしている。
教会の土地も初めて見た日の翌日には機械を買って田んぼつくりをはじめた。
だが土地がやせてしまっていたので不作は続き。
土地の人のアドヴァイスを受けたりネットでの勉強を重ね、3年目の今年はなんとかいけそうだった。
市役所のアルバイトをしているのだが、早く仕事が終わるので、農作業も出来る。
女房は相変わらずだったが、外国に住む息子も、昨年はヴァカンスに家族を連れて一ヶ月ほど滞在してくれた。
一人暮らしもやっと慣れてきていた。
一旦作業を終えようと靴を履き替えていると、見慣れないシスターが佇んでいるのに気がついた。
「あの、失礼ですが、修さんですか?」
「はい」
「お兄さんに優秀な弟さんが居るのだと、よくお噂を伺っていたのです。お兄さんによく似ていらして少し驚きました」
「いや、お恥ずかしい。兄は身びいきでそう言っただけで、私は優秀なんかじゃないんですよ」
修は直感した。
このシスターがマリアベルナデット島田あきさんなんだ、と。
顔に年齢を重ねたシワは見えるが上品な美しさがその凛とした姿勢とともに近寄り難い印象を受けた。
だが、話していると、その穏やかな話しぶりに引き込まれてしまう。
シスターはヴァチカンで過ごした後、秋田と東京の教会に配属になり、またこの地方に戻ってくることになったという。
修の作業を手伝うと言い出した。ベールはしているが、服は作業がしやすいような短めの洋服になっている。
最近は修道服を着ない宗会派もあるのだという。
苗をすべて植え終わると、畝に囲まれた水の中に綺麗に並んだ苗が春の日差しを受けて輝いている。
「シスター、兄はシスターのことが好きでした。」
修はどうしても告げたかった言葉を投げかけた。
シスターは長い沈黙の後、青空を見上げ、両手を合わせてささやくように言った。
「お兄さんのお心に触れたとき、たった一度だけ、修道所を離れようと思ったことがございました。」
兄との交流はシスターがヴァチカンに配属されたことで終わったことだったのかもしれない。
それ以上シスターの口から話される事は無かった。
だが、修はその言葉を聞いただけで満足だった。兄もきっと喜んでいるだろう。
修は兄の変わりに、これからもずっと水田に苗を植えていこうと、思った。
シスターと同じように見上げた青空に、兄の笑顔がふっと浮かんだ気がした。
朱塗の大きな橋を渡る。いつの間に通行料を取らなくなったのだろうか、昔あった料金所が無くなっていた。
5月の太陽に光り輝く海原を左右の視界に入れながら車を走らせる。
橋を渡り終えると道路脇が色とりどりのツツジの壁絵となって去っていく。
少し暑くなって窓を開けると爽やかな海風が飛び込んできて潮の香りとともに修の頬をかすめた。
海の景色を離れ内陸にハンドルを切ると直ぐに林の中へ。
木々が鬱蒼とし、その中に隠れるようにひっそりとした佇まいの家が見える。
修の実家だ。
だが、誰が迎えてくれるでもない。
鍵をあけ、締め切りにしていた雨戸をガタガタとさせながら開放し、無人の部屋独特のかび臭い空気を新鮮な外の大気と入れ替える。
「帰ってきちゃったな」
少し西に方向転換した太陽の陽差しを縁側で受けながら、庭にある八朔の木を眺めた。
採る人も無い沢山の実が橙色を増して美味しそうだ。
その下には昨年の実が落ちたのだろう、そこ等じゅうに八朔が芽吹いていた。
_あとで草刈をしないとだめだな_修はつぶやく。
親代わりに育ててくれた兄が独り身のまま亡くなって、田畑と家の相続をしてしまったのだ。
余程手放してしまおうかと思ったが、当時は仕事が忙しくそのままにしてあった。
兄が亡くなって、もう4年目に入ろうとしていた。
長年勤めていた会社が定年間際に倒産してしまい、
「こんなはずじゃなかった」とお嬢さん育ちのわがまま女房は、親の家に行ったきり帰ってこないし、子供は高校の時から自分で決めた外国暮らしで、すでに基盤は向こうだし、人生のはしごを外された気がして、修は都会から逃げるように実家に来てしまったのだった。
何か当てがあるわけではない。
失業保険をもらいながらどこかに職を見つけることにする。
年齢がネックになってスキルを行かせる仕事など見つからないだろうとは想像したくも無い。
部屋は突然亡くなった兄のものが、今にも畑から帰ってきそうなほどに、そのままになっている。
両親の思い出があまり無い修は、兄が親のようなものだったから、つい甘えていたのだ。
自分の孤独に押しつぶされそうな思いで居る修は、一人暮らしで兄は寂しくなかったのだろうかと思った。
兄の愛用していた安楽椅子に座って、_もっと頻繁に帰ってきてやればよかった_とつぶやく。
兄の部屋は物が溢れていて、本当に大切なものだけ残そうと片付け始めた。
意外に手間取り10日経っても終わらない。それでも就職の決まらない不安な気持ちをかき消すには、片付けは最高だった。
両親の書類や写真は捨てられない。兄の子供の頃の成績表もあった。修よりはるかに成績が良かったようだ。_まけた〜_などと独り言を言いながら、修は部屋が段々綺麗になっていくことが楽しくなっていた。
そんな時、日記を見つけてしまった。
修のことが書いてある。ついつい読みふけってしまう。
無口だった兄が日記の中では意外におしゃべりだと言うことをはじめて知った。
兄には好きな人が居たようだ。
_マリアベルナデット島田あき?_カトリック教の洗礼名か。
選りに選って相手はシスターだった。
だから兄はずっと独身だったのだ。
修は、それでもほっとしていた。あの不器用な兄が恋をしていたんだ。そう思うと心が穏やかな気分になる。
日曜日、近くの教会に行ってみた。
子供の頃兄に連れられて日曜学校に通ったが、都会に出てからは教会になどクリスマスにも行ったことがなかったのだ。
なんとなく、神に祈りたい心境だった修は(これが困ったときの神頼みか)と自嘲しながらミサに参列し、賛美歌を歌うシスター達のなかに、島田あきさんはいるだろうか?と思いながらも、流石にシスターに「島田さんという名前ですか?」とは尋ね辛く、そのまま散歩がてら町のほうへ歩いた。
途中畑やこれから稲を植えるのだろう、水を張った段々になった田んぼなどが見える。
だがそれと同じくらい荒れ果てた休耕田、荒廃地もみえる。農家を続ける後継者が居ないのだろう。
困ったことだな、と修は自分が都会に出ていたくせに思う。
菜の花が咲く一角があった。水の枯れた休耕田には雑草が背の高さほどもある。
足を止めて見ていたら、「あれ〜修君じゃないの?」と腰の曲がったおばあさんが声を掛けてきた。
いい年したオヤジを捕まえて「くん」も無いだろうが、昔からの知り合いで「駄菓子屋のおばちゃん」とみんなで呼んでいた人だった。
懐かしさに笑顔が浮かぶ。もうすっかりおばあさんになっている。修が子供の頃教会でもよく見かけたのだ。
「修君兄さんにそっくりになったね」と言う。
「そこの菜の花が咲いてるとこ、修君の兄さんが田植えしてあげてたのよ」
_え?田植えして、あげた?_
「そこの土地は教会のものですもん。昔はシスター達が自分達のお米は自分達で作っていたんだけれど、段々と農作業をするシスターが居なくなってねぇ。シスター達も贅沢になっちゃうのかしら。
修君の兄さんがシスター達の為に田植えをしてお米を作って上げてたのよ。
信者さんなんか沢山居るのにね誰も手伝う人が居なくてね、まぁ、ボランチアっていうの?あれだね」
「そうだったんですか、つかぬ事を伺いますが、シスターの中に島田さんっていましたか?」
「え?島田さん?はてね、洗礼名しか知らないからね」
「兄がお慕いしていたようなんですが」
「え?シスターを?それはないだろうよ。修君の勘違いだよ。兄さんは皆さんに優しかったからね。
でも、御心(みこころ)を同じくしていたと言えば、さてねぇ・・・・あの亡くなったシスターかね〜いや、年が合わないね〜
もしかしたら、あっちのシスターのことかもしれないね。
なんでも偉くなってね、外国の法皇様のところへいらしたようだよ。それっきり帰ってこなかったみたいだけれど」
頭を左右にかしげながらおばあさんは頭の中の過去帳から搾り出してくれた。
その女性だと修は思った。
日記にもシスターがローマに行ってしまう、とその寂しさと苦悩が書かれてあったのだ。
現役の頃出張で何度かヴァチカンを訪れ、キリスト像などをお土産に贈ったものだが、
あの時兄は何を思ったろうか、と修は兄の心を慮った。
夕暮れ色に染まる畑を眺めていたら、兄の悲しそうな顔が浮かんできた。
修は、急に喉の奥に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。どれほど切なかっただろうか。
兄の遺影と一緒に酒でも酌み交わそうと修は商店街へ足を向けた。
「修君、精がでるねぇ、もう田植え?」
「ああ、駄菓子屋のおばちゃん。去年もダメだったけれど、今年はなんとしても良い米にしたいからね」
修は、兄の代わりに農作業をしていた。
もちろん初めてのことばかりで失敗も多いのだが、長期プロジェクトと考えて何とか少しずつこなしている。
教会の土地も初めて見た日の翌日には機械を買って田んぼつくりをはじめた。
だが土地がやせてしまっていたので不作は続き。
土地の人のアドヴァイスを受けたりネットでの勉強を重ね、3年目の今年はなんとかいけそうだった。
市役所のアルバイトをしているのだが、早く仕事が終わるので、農作業も出来る。
女房は相変わらずだったが、外国に住む息子も、昨年はヴァカンスに家族を連れて一ヶ月ほど滞在してくれた。
一人暮らしもやっと慣れてきていた。
一旦作業を終えようと靴を履き替えていると、見慣れないシスターが佇んでいるのに気がついた。
「あの、失礼ですが、修さんですか?」
「はい」
「お兄さんに優秀な弟さんが居るのだと、よくお噂を伺っていたのです。お兄さんによく似ていらして少し驚きました」
「いや、お恥ずかしい。兄は身びいきでそう言っただけで、私は優秀なんかじゃないんですよ」
修は直感した。
このシスターがマリアベルナデット島田あきさんなんだ、と。
顔に年齢を重ねたシワは見えるが上品な美しさがその凛とした姿勢とともに近寄り難い印象を受けた。
だが、話していると、その穏やかな話しぶりに引き込まれてしまう。
シスターはヴァチカンで過ごした後、秋田と東京の教会に配属になり、またこの地方に戻ってくることになったという。
修の作業を手伝うと言い出した。ベールはしているが、服は作業がしやすいような短めの洋服になっている。
最近は修道服を着ない宗会派もあるのだという。
苗をすべて植え終わると、畝に囲まれた水の中に綺麗に並んだ苗が春の日差しを受けて輝いている。
「シスター、兄はシスターのことが好きでした。」
修はどうしても告げたかった言葉を投げかけた。
シスターは長い沈黙の後、青空を見上げ、両手を合わせてささやくように言った。
「お兄さんのお心に触れたとき、たった一度だけ、修道所を離れようと思ったことがございました。」
兄との交流はシスターがヴァチカンに配属されたことで終わったことだったのかもしれない。
それ以上シスターの口から話される事は無かった。
だが、修はその言葉を聞いただけで満足だった。兄もきっと喜んでいるだろう。
修は兄の変わりに、これからもずっと水田に苗を植えていこうと、思った。
シスターと同じように見上げた青空に、兄の笑顔がふっと浮かんだ気がした。
2015年3月22日日曜日
隣の碧い鳥 by Miruba
「小鳥ちゃん、何しに来たの?餌なんか無いわよ」
声をかけたら、飛び離れるどころか近づいて来て私の肩に停まった。
足首に細い青いリボンが結んである。
おまけに<ハナチャンアソボハナチャーン、アソボー>と言うではないか。
「あらら、あなたハナちゃんのお友達?それともあなたが<ハナちゃん>というの?」
誰かに飼われていた小鳥が逃げ出してしまったのだろう。
肩から離れない鳥に、困ったなと思った。
手で払って空へ飛ばしてから部屋に入ろうとしたら、私より先に部屋の中に入ってハイビスカスのプランターに停まった。
「やだ、ハナちゃん、お家に帰りなさいよ、窓を開けてあげるから」
私は窓を開け放した。
まだ開放するには寒い2月の黄昏時、早く飛び去ってくれないかと思うが、
肝心の小鳥はハイビスカスの枝に停まったきり動かないで<ハナチャン、アソボ>と繰り返している。
仕方が無い、私は小鳥をそのままにして、夕飯の支度を始めた。
そこに旦那が帰ってきた。
「なんだこの寒いのに窓を開けっ放しで、大体あんたはなんでもやりっぱなしなんだ」
「え?なんだこの鳥はどうしたんだ?まさか買ったんじゃないだろうな?預かったのか?追い払えよ」
私はため息が出た。
いったいこの人は何が楽しくて生きているのだろう。
口を開けば文句ばかり言っている。
もううんざりだ。
テーブルに食事の支度をして、小鳥のそばに行ってみた。
<ハナちゃん>は、直ぐ私の肩に停まる。
逃がすのを諦めて私は経営しているヘアーサロンに向かう、自宅と繋がっているのだ。
この店は私が45年も前に自分で建てた美容院だ。2,3階はアパートにしてある。
毎日ここで仕事をしてきた、私の世界のすべてだった。
一番落ち着く私の城がもうすぐ無くなる。
旦那が自分で新しいマンションに建て替えると言い出したのだ。
もう70になろうとする私達が新築の家に?
自分の城のまま最後まで終の棲家として過ごそうと思っていた私はショックだった。
私の築き上げてきたすべてが否定されたような切なさを感じた。
なのに旦那はこんな隙間風だらけの汚い家とはおさらばするのだと、
勝手にハウスメーカーに電話をして、あれよあれよと言う間に、再新築が決まってしまった。
小さいがマンションにするというので仕上がりは半年後だ。
出来上がる間近くの部屋を借りて住まうことしたのだが、
なにせ成人して家を出て行った3人の子供達のものや私達の45年間に蓄えられた膨大な量の家財だ。すべてが仮部屋に収まるはずもなく。
それら思い出の品々から、最小限度のものを除いてすべて廃棄処分にするという旦那に、まともに反論できない自分が情けない。
昨日は私が美容師になって初めて買った、お嫁さんの被る日本髪の鬘(かつら)用の笄(こうがい)やかんざしを捨てられてしまった。
「これは私が日本髪のコンクールで優秀賞取ったときのものよ。思い出のものなんだから」
「だからさ、何時の話だよ。それって使うのかよ。客もいないだろ?もう使わないだろ?何十年も使わないもの、捨ててしまわなかったら片付かないじゃないか。新しいマンションに古臭いもの持って来るなよ」
それまで仕舞って置いたかんざしの数々をゴミ袋に入れた。
ダンボールに3箱もあるのだ、旦那の言うことも一理ある。
それでも、私の思い出がゴミになっていく。
わかってはいても、涙がこぼれた。
確かにもう若いお客様はめったに来ないが、昔からの馴染みが顔を出してくれる。
「あなたがお店閉めたら、私どこに行けばいいのよ」と言ってくださるお客様だって5人や6人じゃないのだ。なのに・・・
捨てる、捨てないの罵倒合戦が台所から各部屋まで毎日起きるのだ。
私は片付けるだけで疲れ果てていた。
「この年になって何でこんな大変な思いをしなくてはならないのだろう」
<ハナチャン、ゼロキューニー・・・・・・アソボー>
え?私は耳を疑った。小鳥が何かの番号を言っている。電話番号?
何時だったかニュースで住所を言うインコが飼い主の元に帰ったと言う話をしていたのを思い出した。
最近は迷子になったときの為に住所を教え込むのかもしれない。
「ハナちゃん、頭いいのね^^ 092 ・・・・ なんだっけ?もう一度言って」
<ハナチャン、○○シー、△△マチー、イッチニ>
おお、住所だ。私は急いで書き留める。
電話を掛けたが_お客様のご都合により、取り外されております_という。
入金が無いときは、確か別の言い方をするはず。取り外すってどういうことか?
「おい」
店に顔を出した旦那が相変わらず苦虫をつぶしたような機嫌の悪そうな顔をして、
「客のいないとこでいつまでも何やってるんだよ。テレビ台を壊すから中の物出せよ」
「あのテレビ台は捨てないわよ。サイドボードになっていて便利だし高かったのよ。まだ使えるもの」
「ダメダメあんな古臭いもの、新しい家に似合わないよ、壊すって言ったら壊すんだよ、さっさとしろ」
朝方までかかってサイドボードの中に入れてあるウイスキーやワインを取り出し、引き出しに入れてあったナフキンなど箱に入れ替えた。
このテレビ台は旦那自身が二人の結婚の祝いと言って買ったものだ。
そんなことも忘れたのかあのジジイは。私は一人毒づいた。
鏡の中の自分がすっかり老け込んでいるのに気がついて、思わず眼をそらす。
なんだか鬱々と怒りがこみ上げてきた。
もう旦那の顔も見たくない、と思った。
気が付いたら東京駅に来ていた。
田舎に行こうかな。
急に行ったら姉さん驚くかな。
私は電車に乗ろうとして、車掌さんに止められた。
「お客さん困ります、鳥は籠に入れてください」
「え?」
なんということ。コートを引っ掛けて出てきてしまったのだが、肩に<ハナちゃん>が停まっているのに気が付かなかったのだ。
それほど私も落ち込んでいたのだろうかと、自分が可愛そうになる。
<ハナちゃん>の住所は私の田舎と同じ九州だった。
なぜ遠くこの地まで来たのか判らない。
飼い主が新しい住所に越したのだろうか、長距離トラックにでも紛れ込んだ可能性もある。
とにかく私は<ハナちゃん>の家を探すことにした。
バックを持たないで買い物袋を持っていた私はそのなかに<ハナちゃん>をいれた。
騒いで飛んでいけばそれでもいいと思ったが、存外におとなしくしている。
先ほど呼び止められた車掌さんの見えない別の改札から乗り込んだ。
5時間で博多駅に着いた。
ここからまた電車を乗り継いでいく。
福岡も大きな都会だが、一歩奥に入ると田園風景の田舎である。
携帯で住所から地図を検索する。
便利になったものだ、これだから迷子にならずにすむ。
「<ハナちゃん>着いたよ、ここがあなたの家みたいだけれどね・・・」
恐れていたように、無人のようだ。
住む者の居なくなった家は、恐ろしいスピードで荒廃が進む。
やる事の無くなった人間の老化が進むのに似ている。
とっくに買い物籠から飛び出しそこらじゅうを飛び回っていた<ハナちゃん>、判るのだろうか?
「あら<ハナちゃん>じゃない?青いリボンしているし」
私はご近所らしい老婦人に経緯を話し、その女性も私に<ハナちゃん>の飼い主の話を聞かせてくれた。
「この家のおばあちゃんは東京にいる娘さんに引き取られていったんですよ。20年も前にご主人と離婚して一人暮らししていたんですけれどね。
結局一人暮らしは寂しかったんでしょうね。でも、東京に行っていくらもしないで亡くなったんだそうですよ。そんなことなら、
ここに居ればよかったかもしれないって、娘さんが泣いてましたね。ハナちゃんは、飼えないからって、空に放ったそうですけれどね。帰ってくるんですね、可哀相に」
<ハナちゃん>はそこの家から離れようとしなかったので、そのままそっとしておくことにした。自然に帰るのだろうか。
体がだるくて仕方が無かったが、私は姉の居る町へのローカルディーゼル列車に乗り込んだ。
姉の家までやっとたどり着いたことは覚えている。
気がついたら病院のベットの上だった。
血圧が280を超えていて気を失ったのだと言う。
連日の引越し準備で体が悲鳴を上げていたのだろう。私も若くないと言うところか。
旦那が心配そうな顔をして、ベットの横に座っていた。
「あなた来てくれたの?」
「脅かさないでくれよ。どれほど心配したと思っているんだ。よかったぁ」本当に安心したと泣きそうな顔でつぶやく。
「もう、帰らないつもりだったんですよ。美容師は私の仕事だから、死ぬまでやりたいんです。取り上げられたら私は死んだも同然ですから」
「何を言っているんだよ。ほら図面持ってきたから見てごらん。今まで見せなかったのは驚かそうと思ったからさ。ここの洋間と書いてあるところは、ビューティーサロンにするんだよ。椅子一つだけ作って、親しい客だけ来てもらえばいいじゃないか。悪かったよ、小言ばかり言って、部屋数沢山は作れないからね、少しでも荷物減らそうとあせったんだな、俺」
涙が溢れてきた。
年寄りの私でもこんなに涙が出るんだ、と思った。
「一人にしないでおくれよ、一緒に新しい家に住もうよ。女房のあんたが建ててくれた家で家族が住んできた。これからは俺が建てた家であんたとふたり、老後を過ごそうと思ったんだよ。」
そうだったのか。私のためだったのか。
「私こそ一人にしないでくださいね」そういうのが精一杯だった。
「オイ、俺はあんたに鍵を預けただろう?何でちゃんとしておかないんだよ。なんでもやりっぱなしなんだから」
「はいはい、すみませんね」
私が適当に返事をしていると、新築した家に遊びに来た姪っ子が私にささやいた。
「ね、おばちゃん、おじちゃんったらえらい小言が増えたね。あんなだったっけ?」
「いいのよ、いわせておけば」私は笑いながら言った。
姪っ子も「おばちゃん、寛大ね〜」と旦那のほうへお茶持って行きながら
「おじちゃん、そんな小言ばっかり言っていると濡れ落ち葉になっちゃうよ」などといって笑っている。
ふと庭を見ると、
まだ植林したてのか弱い桜の枝に、
青いリボンを足に結んだ小鳥が留っているのが目に入った。
2015年2月14日土曜日
パリのカフェ物語 8 by Miruba
Chapitre Ⅷ【愛しのヴァレンタイン便り】
リオンさん、いえ、ジャンクロード。
ハッピーサンバレンタイン!
リオンさんはチョコレートを抱きしめて泣き崩れてしまった。
リオンさんだけじゃない、
私達は、チョコレートの包みをなでながら、皆泣いた。
リオンさんの本当の名前はジャンクロードというのか、と思いながら・・・
私のいつも使っているメトロ3番線にBORSEブルス(パリの証券取引所)の駅がある。
観光客の多いオペラから2駅離れているのでサラリーマンが多くカフェの乱立している場所でもある。
その中の小さな一軒が私の好みだった。カウンターは10人も立てばいっぱいで、テーブル席も5、6しかない。
そのかわり店の表には店の3倍くらいのテーブルが歩道を埋め尽くしている。
私は表もカウンターも見渡せる角の2人がけ用丸テーブルに陣取って、ノート型のパソコンでエッセイや新聞への投稿などを書いていた。
「C'est chez SONY それ、ソニー?」
「Je vous envie いいな~欲しいな~今度日本に出張だから買ってこようかな」
当時は珍しがられて、よく声を掛けられたものだ。
その後不良外人が増えパソコンを目の前で盗られる事件が発生するようになって、私も一時はパソコンの持ち出しをしなくなったのだが・・・。
軽食を出すカフェは昼食時はレストラン並に忙しくなる。
昼の喧騒が終わったころ、店内にいつもの常連さんが入ってきた。
「Bonjour monsieur Lion!pas encore・・・こんにちはリオンさん、・・まだですよ・・・」
リオンさんは、他の常連さんの笑顔の中、握手をしたりハグをしたりして、カウンターを移動し、時々顔を見かける私へも手を差し出して挨拶をした後エスプレッソを頼んでカウンターの端に立った。
本当はリオンさんという名前ではない。クレディリオネという銀行に勤めているからついたあだ名だった。
「・・まだですよ」とギャルソンが言っていたのは彼がいつもカフェで一緒になる女性のことなのだ。
彼の、おそらく、待っている女性は、リオンさんより頭ひとつ大きな背が高く美しい人だ。
日本人とロシア人のクオーターと聞いている。
日本の証券会社からの単身赴任でバリバリのキャリアウーマンだ。お酒も強い人で、私がたまに夕方カフェに寄ると、彼女は仕事帰りのみんなと政治論やフットボール(サッカー)の話で盛り上がっていて、ワインを2本も3本も空けていた。
その横で、リオンさんは時々議論に加わるのだがその博学に皆は舌を巻くのだ。
でもその他は物静かでニコニコと彼女の横顔を愛おしそうに眺めながら、ただコーヒーを飲んでいるので、ギャルソンも常連さんも余計に彼をからかうのだった。
私のテーブルひとつ先に数人の日本人が座って先ほどから小声で話していた。
「どうする?会社は飛行機でご遺体を運びましょうかって言ってくれているけれど、日本に帰ったってねぇ」
「フランスって火葬するところがあまり無いらしいよ。どうしようか」
カトリック教会が法令で禁止していた火葬を認めたのが1963年だ。土葬が一般的だったフランスが火葬を認めたのは、衛生上もあるが、外国人が増え、パリの人口も増え、お墓の数も足りなくなってきたからと聞いている。
1989年5%だった火葬率は、現在パリにおいては40%以上にもなるという。
日本人の私達から見ると、いまだに土葬率が60%近くにもなるの?と驚きの数字ではある。
当時はそれでも火葬はまだ少なく、日本から来たばかりの人では火葬場を探すのは大変だったろうと思った。
「しかし、豊さんにはあきれたわね。いくら万理と別居状態だったとは言え、まだ一応旦那さんじゃないの。それを葬儀に来られないってどういうことかしら」
「お母さんの介護で動けないって、たぶんお母さんに止められているのよ。マザコンだから」
「あんなやつ、だから結婚には反対したんだ」
「従兄妹のあなたが言ったってしょうがないじゃないの。どうする?」
私はたまらず声を掛けた。
「あの、失礼ですが、お話が聞こえてしまって。・・あの万理さんってまさか、角の証券会社に勤めているMARIさんじゃないですよね?」
後姿の私をフランス人だと思っていたらしく、突然日本語で話しかけられたので驚いたと言いながら、
「日本の方でしたか。えっと、万理をご存知でしたか?」
「ハイ、このカフェでよくご一緒しました。確か旦那さんが豊さんと言う名前だと聞いたことがあったものですから、今驚いてしまって。だって、先週の金曜日にお話したばかりですよ」
「ええ、その金曜日の夜、心臓発作で。救急車を自分で呼んでそのままだったそうです」
「土曜日に私達は日本を発って昨日パリに着いたばかりで・・、病院に行って確認してきたばかりなのです」
「どうしていいか、途方にくれているのです。本人が以前からもう日本には帰らないと言っていたし、死ぬときはスイスの山へ散骨がいいといっていたのですが・・・」
目頭を押さえながら話してくれる。
お悔やみを言いながら、私はどうしたものかとカウンターにいるリオンさんを見やった。
カウンターではリオンさんをさかなに皆で賑やかだ。
しかたがない。私は声を強めて言った。
「Ecoutez!Messieurs! 聞いてくださいみなさん、MARIさんが亡くなったんですって、心臓発作で」
日本人は驚いたときは「えっ!!」と息を吐くが、フランス人は驚いた顔と共にスーーーっと息を吸い込むので、いっせいにひーーっという音が響いた。カウンターにいる常連さん達の顔が固まったようにみえる。
リオンさんが気を失って倒れた。
それを皆で抱える。
お酒をあまり飲まないリオンさんの口に、EAU DE VIE オードヴィ「命の水」と言われるブランデーを含ませる。
私はその光景を見ながら、まるで映画みたいだわ、と不謹慎にも思っていた。
急いでハンカチを水で濡らし額に当ててあげたら、すぐに眼を覚ました。
リオンさんは呆然としていたが、静かに涙を流し、私に言った。
「マダム、MARIの家族たちに、私もお葬式に参列させてもらっていいだろうか、と聞いてくれませんか?」
色々な手配は万理さんが勤めていた会社の人がやってくれたようで、葬儀にはリオンさんやカフェの常連達、カフェのギャルソンや私も参列した。
会社の人たちが数人と、両親や兄弟はいないという万理さんの親戚数人そして私達だけの寂しいお葬式だった。
火葬後は半分を日本のお墓へ、半分はパリのペールラシェーズに埋葬することになった、契約は10年と言う。その後は共同墓地に入れられるのだ。
万理さんが希望したスイスでの散骨は無理だと、親戚の人たちは日本に帰っていった。
あわただしい一週間が過ぎた。
いつものように私はカウンターと表通りの見える端っこのテーブルに座っていた。
いつものように、常連が集まってきて、元気の無いリオンさんを励まそうと、賑やかな声も変わらなかった。
日本の宅配がフランスでも始まっていた。
ネコちゃんマークの箱を宅配のお兄さんがカフェのマスターに手渡している。
マスターが中を開けて声を上げた。
「Quelle surprise!! なんてこった!天国のMARIさんからお便りだよ!皆にサン・ヴァランタンのプレゼントだって」
そういって、20個はあるチョコレートが私達に配られた。私ももらってしまった。かわいいハート型のブランドチョコレートだ。
今でこそパリにもハート型チョコレートは探せばあるが、同じブランドがフランスにもあるのに、90年代当時ハート型のチョコレートはパリにはほとんど売っていなかった。
サン・ヴァランタンは恋人達の日なので、花束とか下着とか靴下を贈るものだったから。
万理さんは、いつも集う仲間達に、ヴァレンタインデーの日本のハート型チョコレートを感謝の気持ちとして贈りたかったのかもしれない。
まさか自分が、みんなの笑顔を見る前に亡くなってしまうことなど、想像もしなかったのだろう。
そしてリオンさんへのサプライズも入っていた。
マスターが
「ほら、ムッシューリオン、あなたへは特別大きいリボンが付いているよ」
万理さんからの贈り物と聞いて、コーヒーカップを取り落としていたリオンさんは、カウンターの端で青い顔をしていた。
震える手でチョコレートの包みを受け取り、そしてメッセージカードを読み始めた。
観光客の多いオペラから2駅離れているのでサラリーマンが多くカフェの乱立している場所でもある。
その中の小さな一軒が私の好みだった。カウンターは10人も立てばいっぱいで、テーブル席も5、6しかない。
そのかわり店の表には店の3倍くらいのテーブルが歩道を埋め尽くしている。
私は表もカウンターも見渡せる角の2人がけ用丸テーブルに陣取って、ノート型のパソコンでエッセイや新聞への投稿などを書いていた。
「C'est chez SONY それ、ソニー?」
「Je vous envie いいな~欲しいな~今度日本に出張だから買ってこようかな」
当時は珍しがられて、よく声を掛けられたものだ。
その後不良外人が増えパソコンを目の前で盗られる事件が発生するようになって、私も一時はパソコンの持ち出しをしなくなったのだが・・・。
軽食を出すカフェは昼食時はレストラン並に忙しくなる。
昼の喧騒が終わったころ、店内にいつもの常連さんが入ってきた。
「Bonjour monsieur Lion!pas encore・・・こんにちはリオンさん、・・まだですよ・・・」
リオンさんは、他の常連さんの笑顔の中、握手をしたりハグをしたりして、カウンターを移動し、時々顔を見かける私へも手を差し出して挨拶をした後エスプレッソを頼んでカウンターの端に立った。
本当はリオンさんという名前ではない。クレディリオネという銀行に勤めているからついたあだ名だった。
「・・まだですよ」とギャルソンが言っていたのは彼がいつもカフェで一緒になる女性のことなのだ。
彼の、おそらく、待っている女性は、リオンさんより頭ひとつ大きな背が高く美しい人だ。
日本人とロシア人のクオーターと聞いている。
日本の証券会社からの単身赴任でバリバリのキャリアウーマンだ。お酒も強い人で、私がたまに夕方カフェに寄ると、彼女は仕事帰りのみんなと政治論やフットボール(サッカー)の話で盛り上がっていて、ワインを2本も3本も空けていた。
その横で、リオンさんは時々議論に加わるのだがその博学に皆は舌を巻くのだ。
でもその他は物静かでニコニコと彼女の横顔を愛おしそうに眺めながら、ただコーヒーを飲んでいるので、ギャルソンも常連さんも余計に彼をからかうのだった。
私のテーブルひとつ先に数人の日本人が座って先ほどから小声で話していた。
「どうする?会社は飛行機でご遺体を運びましょうかって言ってくれているけれど、日本に帰ったってねぇ」
「フランスって火葬するところがあまり無いらしいよ。どうしようか」
カトリック教会が法令で禁止していた火葬を認めたのが1963年だ。土葬が一般的だったフランスが火葬を認めたのは、衛生上もあるが、外国人が増え、パリの人口も増え、お墓の数も足りなくなってきたからと聞いている。
1989年5%だった火葬率は、現在パリにおいては40%以上にもなるという。
日本人の私達から見ると、いまだに土葬率が60%近くにもなるの?と驚きの数字ではある。
当時はそれでも火葬はまだ少なく、日本から来たばかりの人では火葬場を探すのは大変だったろうと思った。
「しかし、豊さんにはあきれたわね。いくら万理と別居状態だったとは言え、まだ一応旦那さんじゃないの。それを葬儀に来られないってどういうことかしら」
「お母さんの介護で動けないって、たぶんお母さんに止められているのよ。マザコンだから」
「あんなやつ、だから結婚には反対したんだ」
「従兄妹のあなたが言ったってしょうがないじゃないの。どうする?」
私はたまらず声を掛けた。
「あの、失礼ですが、お話が聞こえてしまって。・・あの万理さんってまさか、角の証券会社に勤めているMARIさんじゃないですよね?」
後姿の私をフランス人だと思っていたらしく、突然日本語で話しかけられたので驚いたと言いながら、
「日本の方でしたか。えっと、万理をご存知でしたか?」
「ハイ、このカフェでよくご一緒しました。確か旦那さんが豊さんと言う名前だと聞いたことがあったものですから、今驚いてしまって。だって、先週の金曜日にお話したばかりですよ」
「ええ、その金曜日の夜、心臓発作で。救急車を自分で呼んでそのままだったそうです」
「土曜日に私達は日本を発って昨日パリに着いたばかりで・・、病院に行って確認してきたばかりなのです」
「どうしていいか、途方にくれているのです。本人が以前からもう日本には帰らないと言っていたし、死ぬときはスイスの山へ散骨がいいといっていたのですが・・・」
目頭を押さえながら話してくれる。
お悔やみを言いながら、私はどうしたものかとカウンターにいるリオンさんを見やった。
カウンターではリオンさんをさかなに皆で賑やかだ。
しかたがない。私は声を強めて言った。
「Ecoutez!Messieurs! 聞いてくださいみなさん、MARIさんが亡くなったんですって、心臓発作で」
日本人は驚いたときは「えっ!!」と息を吐くが、フランス人は驚いた顔と共にスーーーっと息を吸い込むので、いっせいにひーーっという音が響いた。カウンターにいる常連さん達の顔が固まったようにみえる。
リオンさんが気を失って倒れた。
それを皆で抱える。
お酒をあまり飲まないリオンさんの口に、EAU DE VIE オードヴィ「命の水」と言われるブランデーを含ませる。
私はその光景を見ながら、まるで映画みたいだわ、と不謹慎にも思っていた。
急いでハンカチを水で濡らし額に当ててあげたら、すぐに眼を覚ました。
リオンさんは呆然としていたが、静かに涙を流し、私に言った。
「マダム、MARIの家族たちに、私もお葬式に参列させてもらっていいだろうか、と聞いてくれませんか?」
色々な手配は万理さんが勤めていた会社の人がやってくれたようで、葬儀にはリオンさんやカフェの常連達、カフェのギャルソンや私も参列した。
会社の人たちが数人と、両親や兄弟はいないという万理さんの親戚数人そして私達だけの寂しいお葬式だった。
火葬後は半分を日本のお墓へ、半分はパリのペールラシェーズに埋葬することになった、契約は10年と言う。その後は共同墓地に入れられるのだ。
万理さんが希望したスイスでの散骨は無理だと、親戚の人たちは日本に帰っていった。
あわただしい一週間が過ぎた。
いつものように私はカウンターと表通りの見える端っこのテーブルに座っていた。
いつものように、常連が集まってきて、元気の無いリオンさんを励まそうと、賑やかな声も変わらなかった。
日本の宅配がフランスでも始まっていた。
ネコちゃんマークの箱を宅配のお兄さんがカフェのマスターに手渡している。
マスターが中を開けて声を上げた。
「Quelle surprise!! なんてこった!天国のMARIさんからお便りだよ!皆にサン・ヴァランタンのプレゼントだって」
そういって、20個はあるチョコレートが私達に配られた。私ももらってしまった。かわいいハート型のブランドチョコレートだ。
今でこそパリにもハート型チョコレートは探せばあるが、同じブランドがフランスにもあるのに、90年代当時ハート型のチョコレートはパリにはほとんど売っていなかった。
サン・ヴァランタンは恋人達の日なので、花束とか下着とか靴下を贈るものだったから。
万理さんは、いつも集う仲間達に、ヴァレンタインデーの日本のハート型チョコレートを感謝の気持ちとして贈りたかったのかもしれない。
まさか自分が、みんなの笑顔を見る前に亡くなってしまうことなど、想像もしなかったのだろう。
そしてリオンさんへのサプライズも入っていた。
マスターが
「ほら、ムッシューリオン、あなたへは特別大きいリボンが付いているよ」
万理さんからの贈り物と聞いて、コーヒーカップを取り落としていたリオンさんは、カウンターの端で青い顔をしていた。
震える手でチョコレートの包みを受け取り、そしてメッセージカードを読み始めた。
______________________________
リオンさん、いえ、ジャンクロード。
ハッピーサンバレンタイン!
私決めたの。長い間別居していた主人とは別れることにしたから、
これからもずっとパリに住むことにするわ。
あなたが私を好きなことは判ってる。違うと言っても無駄よ。
ずっと前から知っているもの。
そして、私もあなたを好きなことに気が付いてしまった。
愛しているわジャンクロード。
あなたのMARI
______________________________
リオンさんはチョコレートを抱きしめて泣き崩れてしまった。
リオンさんだけじゃない、
私達は、チョコレートの包みをなでながら、皆泣いた。
リオンさんの本当の名前はジャンクロードというのか、と思いながら・・・
後にリオンさんは、万理さんの希望通り、スイスとフランスの国境にあるモンブランに、ヘリコプターをチャーターして散骨に行ったと聞いた。
【恋はいつか終わる】ジョルジュムスタキ
2015年1月17日土曜日
隙間 by Miruba
高見は、小さなバスターミナルビルの掃除をもう30年もやっている。
昔ターミナルが、行き交う町の人で溢れていたころ、ビルのオーナーに雇われたのだ。
その後町の人口減少もありビルの持ち主が変わったり都会の大きなビル管理会社が管理することになっても、古く小さなターミナルの、たった2、3時間くらいの掃除をする人がいないらしく、高見はずっと継続して交代するオーナーに頼まれ、盆暮れなく毎日掃除をしていた。
今では利用する人のすっかり少なくなったバスターミナルビルは近く取り壊しになるとのことだ。
周りの町並みがその時々変化し小奇麗な建物になっていく中で、バスターミナルだけが昔のまま残されていて、湾の景観を損ねると言う話が度々持ち上がっていた。
高見の仕事は無くなるが、もう卒業してもいいのだ。
養う家族がいるわけでもないし、どちらにしても小遣い程度の実入りだったのだ。
この仕事がおしまいとなれば、他に半日くらいのパートの仕事を探せるし、かえっていいや、と高見は思った。
トイレ掃除を終えて待合に眼をやったら、また爺さんが座っていた。
「オイ、爺さん、また出たのか?もうそろそろ成仏しろよ」
と高見が言ったとたんその影は消えた。
生きていたその爺さんがバスターミナルビルに来るようになったのは、4,5年ほど前からだった。
待合には2畳ほどの畳台の部分があるのだが、その爺さんはいつもそこで昼寝をしていた。
冷暖房完備のターミナルの待合は休憩するにはもってこいだ。
最初は近くの作業員が昼休みに利用しているのだろうと、気にも留めないでいたが、
高見が作業を終えて帰宅した後にも何時間も座っていることがあったらしく、バスを利用する学生の親達から、苦情が出たのだ。
「爺さん、ここはみんなが利用するところだから座っていていけないということは無いんだけれどね、一日中いられるとね、困るんだよ」
「何で困るんだよ、誰にも迷惑掛けて無いだろ」
「いや、そうだけれどさ」
そんなやり取りがあってから、高見はその爺さんと会話を交わすようになった。
奥さんや子供とも別れ一人この町に流れ来たという爺さんは、大手の会社に勤めていたが、若いころからの仕事のやりすぎと付き合いの飲みすぎがたたり、肝臓を痛め、腎臓も病んで、長期入院から会社を辞めざるを得ず、今では透析に通っていると言うことだった。
だが、その透析も貯金を取り崩して受けていて、とうとう毎回は受けられなくなったのだという。
「生活保護とかあるんじゃないか?行政に頼れよ」と高見が薦めても、黄色くなった顔に薄笑いを浮かべるだけだった。
ある日高見が掃除を終えて帰ろうとしたとき、ターミナルの待合が騒がしくなったことに気が付いた。
あわてて行って見ると、爺さんと、バスを時々利用する見かけたことのある女の人が言い争いをしている。
「あなたじゃなきゃ誰が盗るのよ」
「わたしは知らないよ。ずっとここの畳に寝ていたんだから」
「そんなこと信じられないわ。私がトイレに行っている間買い物籠はここにあったし、他に誰も来た様子無いもの。ね?おじさん」
最後は高見に賛同を求めてきたが、見ていなかったので返事の仕様が無い。
どうやら、女性は買い物籠とその中に入れた財布を待合の椅子の上に置きっぱなしだったようだ。
バックは手にしていたのでうっかりたと言う。
「大体、浮浪者のように何時もいつもここに寝ていて気持ち悪いのよ、皆がそういってるわ」
段々罵倒が激しくなってきて、とうとう警察を呼ぶといって、角の派出所に走っていった。
爺さんは高見に「おっちゃん、わたしじゃないからな、絶対わたしじゃないからな。今まで話してくれてありがとよ」
そう言って、裏の出口から逃げていってしまった。
次の日、爺さんは海に浮かんでいた。
湾沿いにはフェリーの付く場所にも湾岸に沿った道路側にも人が誤って海に落ちないよう転落防止のフェンスがある。
一箇所、停泊する民間用ボートの為に海への階段があるため、2メートルくらいの隙間が開いている箇所が2箇所あるだけだ。
その一箇所から身を投げたようだった。フェンスの横に律儀に靴がそろえてあったという。
なんと早まったことをしたんだ、と高見は思った。
結局のところ爺さんを泥棒扱いしたのは勘違いでその女性が自分でどこかに財布を落としていて、その財布はすでに警察に届けてあったのだから。
爺さんは常々いつでも死ぬ準備は出来ていると言っていた。
健康にも生活にも不安を抱えていたのだろう。
そこに泥棒扱いを受け、これで終わりとばかりに自分の人生に決着をつけたのかもしれない。
世間の狭間に生きる孤独な人間の姿を見るようで、高見は自分のことのように切なくなった。
朝まだ暗い時間にターミナルの掃除をし始めていたら、爺さんが畳の上に座った姿で現れたのだ。
少しはビクッとしたが、
_成仏できないんだろうな_そう思うと、高見はそれほど恐ろしさは感じなかった。
爺さんは、何か問いたげにしたが、高見が声を掛けようとすると消えた。
そんなことが2回あって・・・
数日後、路地から飛び出してきた猫を避けようとした車が海に落ちて、運転していた女性がレスキュー隊に助け出され九死に一生を得た。
普通なら車は海には落ちずにフェンスにぶつかって止まっていたはずなのに、よりによって急ブレーキを掛けたために横倒しになり、そのまま歩道を乗り越えて、あの爺さんが身を投げた海への階段のところから落ちてしまったと言う。
「ありえねーよ。海沿いに延々とフェンスがあるのに、橋げた用の隙間から、それも普通にぶつかればフェンスで引っかかるのに横倒しですんなりと海にダイビングしたんだ。まるで海に引き込まれていくようだったよ」目撃者の若者が興奮気味にテレビ取材のカメラに向かってしゃべっていた。
海に落ちた女性は、爺さんを罵倒したあの女の人だった。
こんな偶然があるだろうか。高見ははじめてゾッとしたのだった。
爺さんの幽霊がまた現れたら、なんてことしたんだと、問い詰めてやろうと思ったが、それから二度と現れなかった。
高見はまた新しくなるバスターミナルで再就職が決まった。
車でダイブし、助かったあの女の人がフェンスのところに花を手向けている姿をみかけて、「爺さん、また現れるかな」と高見は海への隙間を眺めながらひとりつぶやいた。
昔ターミナルが、行き交う町の人で溢れていたころ、ビルのオーナーに雇われたのだ。
その後町の人口減少もありビルの持ち主が変わったり都会の大きなビル管理会社が管理することになっても、古く小さなターミナルの、たった2、3時間くらいの掃除をする人がいないらしく、高見はずっと継続して交代するオーナーに頼まれ、盆暮れなく毎日掃除をしていた。
今では利用する人のすっかり少なくなったバスターミナルビルは近く取り壊しになるとのことだ。
周りの町並みがその時々変化し小奇麗な建物になっていく中で、バスターミナルだけが昔のまま残されていて、湾の景観を損ねると言う話が度々持ち上がっていた。
高見の仕事は無くなるが、もう卒業してもいいのだ。
養う家族がいるわけでもないし、どちらにしても小遣い程度の実入りだったのだ。
この仕事がおしまいとなれば、他に半日くらいのパートの仕事を探せるし、かえっていいや、と高見は思った。
トイレ掃除を終えて待合に眼をやったら、また爺さんが座っていた。
「オイ、爺さん、また出たのか?もうそろそろ成仏しろよ」
と高見が言ったとたんその影は消えた。
生きていたその爺さんがバスターミナルビルに来るようになったのは、4,5年ほど前からだった。
待合には2畳ほどの畳台の部分があるのだが、その爺さんはいつもそこで昼寝をしていた。
冷暖房完備のターミナルの待合は休憩するにはもってこいだ。
最初は近くの作業員が昼休みに利用しているのだろうと、気にも留めないでいたが、
高見が作業を終えて帰宅した後にも何時間も座っていることがあったらしく、バスを利用する学生の親達から、苦情が出たのだ。
「爺さん、ここはみんなが利用するところだから座っていていけないということは無いんだけれどね、一日中いられるとね、困るんだよ」
「何で困るんだよ、誰にも迷惑掛けて無いだろ」
「いや、そうだけれどさ」
そんなやり取りがあってから、高見はその爺さんと会話を交わすようになった。
奥さんや子供とも別れ一人この町に流れ来たという爺さんは、大手の会社に勤めていたが、若いころからの仕事のやりすぎと付き合いの飲みすぎがたたり、肝臓を痛め、腎臓も病んで、長期入院から会社を辞めざるを得ず、今では透析に通っていると言うことだった。
だが、その透析も貯金を取り崩して受けていて、とうとう毎回は受けられなくなったのだという。
「生活保護とかあるんじゃないか?行政に頼れよ」と高見が薦めても、黄色くなった顔に薄笑いを浮かべるだけだった。
ある日高見が掃除を終えて帰ろうとしたとき、ターミナルの待合が騒がしくなったことに気が付いた。
あわてて行って見ると、爺さんと、バスを時々利用する見かけたことのある女の人が言い争いをしている。
「あなたじゃなきゃ誰が盗るのよ」
「わたしは知らないよ。ずっとここの畳に寝ていたんだから」
「そんなこと信じられないわ。私がトイレに行っている間買い物籠はここにあったし、他に誰も来た様子無いもの。ね?おじさん」
最後は高見に賛同を求めてきたが、見ていなかったので返事の仕様が無い。
どうやら、女性は買い物籠とその中に入れた財布を待合の椅子の上に置きっぱなしだったようだ。
バックは手にしていたのでうっかりたと言う。
「大体、浮浪者のように何時もいつもここに寝ていて気持ち悪いのよ、皆がそういってるわ」
段々罵倒が激しくなってきて、とうとう警察を呼ぶといって、角の派出所に走っていった。
爺さんは高見に「おっちゃん、わたしじゃないからな、絶対わたしじゃないからな。今まで話してくれてありがとよ」
そう言って、裏の出口から逃げていってしまった。
次の日、爺さんは海に浮かんでいた。
湾沿いにはフェリーの付く場所にも湾岸に沿った道路側にも人が誤って海に落ちないよう転落防止のフェンスがある。
一箇所、停泊する民間用ボートの為に海への階段があるため、2メートルくらいの隙間が開いている箇所が2箇所あるだけだ。
その一箇所から身を投げたようだった。フェンスの横に律儀に靴がそろえてあったという。
なんと早まったことをしたんだ、と高見は思った。
結局のところ爺さんを泥棒扱いしたのは勘違いでその女性が自分でどこかに財布を落としていて、その財布はすでに警察に届けてあったのだから。
爺さんは常々いつでも死ぬ準備は出来ていると言っていた。
健康にも生活にも不安を抱えていたのだろう。
そこに泥棒扱いを受け、これで終わりとばかりに自分の人生に決着をつけたのかもしれない。
世間の狭間に生きる孤独な人間の姿を見るようで、高見は自分のことのように切なくなった。
朝まだ暗い時間にターミナルの掃除をし始めていたら、爺さんが畳の上に座った姿で現れたのだ。
少しはビクッとしたが、
_成仏できないんだろうな_そう思うと、高見はそれほど恐ろしさは感じなかった。
爺さんは、何か問いたげにしたが、高見が声を掛けようとすると消えた。
そんなことが2回あって・・・
数日後、路地から飛び出してきた猫を避けようとした車が海に落ちて、運転していた女性がレスキュー隊に助け出され九死に一生を得た。
普通なら車は海には落ちずにフェンスにぶつかって止まっていたはずなのに、よりによって急ブレーキを掛けたために横倒しになり、そのまま歩道を乗り越えて、あの爺さんが身を投げた海への階段のところから落ちてしまったと言う。
「ありえねーよ。海沿いに延々とフェンスがあるのに、橋げた用の隙間から、それも普通にぶつかればフェンスで引っかかるのに横倒しですんなりと海にダイビングしたんだ。まるで海に引き込まれていくようだったよ」目撃者の若者が興奮気味にテレビ取材のカメラに向かってしゃべっていた。
海に落ちた女性は、爺さんを罵倒したあの女の人だった。
こんな偶然があるだろうか。高見ははじめてゾッとしたのだった。
爺さんの幽霊がまた現れたら、なんてことしたんだと、問い詰めてやろうと思ったが、それから二度と現れなかった。
高見はまた新しくなるバスターミナルで再就職が決まった。
車でダイブし、助かったあの女の人がフェンスのところに花を手向けている姿をみかけて、「爺さん、また現れるかな」と高見は海への隙間を眺めながらひとりつぶやいた。
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