<秋の夜に>
10年ほど前のことなんですけど、とFさんは楽しそうな表情を目に浮かべて、話を切り出してくれた。
「丁度、今と同じ頃だったと思います。夜になると秋の風が吹き始めてましたから」
その日、Fさんは、いつものように、アルバイト先のお店へと向かっていた。Fさんが働いていたのは、小さなレストランで、当時、大学生で一人暮らしをしていたFさんのアパートからは、歩いて10分ほどの場所にあった。レストランの周りには、昔ながらの家が並び、その間を細い路地が縫っている、古い街並みが残っていた。アルバイトの時間は夕方5時から、夜の10時までだった。
バイト先へと歩きながら、Fさんは、路地のあちこちに何匹かの猫の姿が見えることに気がついた。そこの塀の上に、あちらの電柱の根元に、こちらの店の軒先に…といった具合で、猫の姿など、界隈ではほとんど見かけたことがなかったので、Fさんはどこにこんなに、と少し驚いた。よく晴れた空から差し込む夕暮れの気配が薄く滲んだ光の下で、猫達はのんきに目を細めたり、通り過ぎるFさんに丸い目を向けたりしている。そんな猫達の姿に、Fさんはふと、幼い頃の出来事を、思い出した。
「小さい頃にも、猫が街のあちこちに出てくることがあったんです。それも、一匹や二匹じゃなくて、ホントにたくさん……。今と違って、二十年以上も昔のことですし、海や、港も近くにありましたしね。だから、猫がたくさんいるのは不思議でもなんでもなかったんですけど、それでも普段見かけるよりもずっと多くて…」
街の至る所にいるようにも思えたその猫達の姿が、夜になると、消えてしまう。飼い猫は家に帰ったのだとしても、野良の姿も、一匹も見当たらなくなる。それなのに、泣き声だけは、街のあちこちから聞こえた。
そんな夜、Fさんのお母さんが、決まってこう言った。
「『今夜は、猫の寄り合いがあるんだよ。大事な話があるから、みんな夕方から出てきて、夜になると、邪魔されないように隠れて、お話してるんだよ』って。」
だから、邪魔しちゃいけないよ。お母さんが何度もそう言っていたことをFさんは思い出したのである。
今日は、この街のどこかで、猫達が寄り合いを開くのかもしれない。猫達の姿に、Fさんはそんなことを考えた。
アルバイトが終わり、家へ向かって、歩きながら、Fさんは夕方に見かけた猫達の姿を探した。
「一匹も見当たりませんでした。だから、ああ、やっぱり、って思ったんですよね」
アパートに帰ったら、実家のお母さんに電話しよう。この街でも、猫は寄り合いを開いてるみたいだよって。きっと、喜んでくれるだろう。そう思いながら、角を曲がったFさんの足が、止まった。
角を曲がった先、アパートへと続く短い通りに差し掛かった瞬間、雲の切れ間から、一瞬、明るい月の光が差し込んだ。その青い月の光に照らされて、道の中ほどに数匹の猫がいるのが見えた。街灯もない暗い道で、月光が差し込まなければ、きっと間近に近づくまで気づくことはなかっただろう。月の光は、またすぐに雲に隠れ、道は闇に隠れ、猫達の姿も見えなくなった。
Fさんは、曲がり角で、躊躇った。アパートには、目の前の道を行けば、1分もかからずに帰り着ける。しかし…
「母が言ってたことを思い出したんですよ」
猫の寄り合いを邪魔しちゃいけない。隠れて、大事な話をしてるのだから。
まさか、と思い、足を前に踏み出しかけたものの、結局、Fさんは思いとどまり、その道を通らず、遠回りをして、帰ることにした。
「母の話を信じてたって訳じゃないんです。猫が集まってるように見えたって言っても、一瞬だけだったし…。見間違いだろうって思いました。見間違いじゃなかったとしても、まさか、ホントに寄り合いをしてるわけでもないだろうし、偶然、何匹か集まってだけだだろうって……。でも…」
本当に猫がいるのなら、どのみち人間が近づけば、追い払ってしまうことになる。そうなると、せっかくのお母さんへの楽しいお土産話に自分で水を差してしまうことになるだろう。遠回りと言っても、どうせ、数分のことでもあるし、それなら…と、Fさんは猫達のの邪魔にならぬようにと、角を曲がらずに、そのまま先へと進み、別の道からアパートに向かった。
不思議なこともあるものだ。これはますますお母さんに電話しなければ…と、急ぎ足でアパートの前に来たFさんは、再度、立ち止まってしまった。
通り過ぎた隣家の前の路上に、郵便ポストがあったことに気づいたのだ。路上に郵便ポストがあるのは何もおかしいことではない。ただし…
「夕方、家を出る時には、ポストなんてなかったんですよ。真っ暗な道だし、違和感もなかったから、危うくそのまま家に入るとこでした」
通り過ぎたものの、違和感を感じ、立ち止まって、振り返ると、やはり郵便ポストらしき影が見えた。
アルバイトに出かけている間に設置されたのだろうか。それにしたって、どうも妙だ。夜間にポストを設置するとも考えにくい。それに、改めて眺めると、街中で目にする機会も少ない円筒型だった。
不審に思って、Fさんが近づこうとした矢先、突然、ポストの影が形を変えた。一回り大きくなり、縦に少し長くなった。おまけに、てっぺんに三角のシルエットが二つ浮かび上がった。
Fさんが、驚くよりも、呆気に取られ、立ちすくんだその時、再び、雲が途切れたのか、月の光が暗い道を照らした。青白い光の下、ポスト——に見えていた影が、ゆっくりと動き、Fさんの方を振り返った。
「でっかい猫、でした。三角のシルエットが耳で…」
大きな丸い目が、月明かりに、きらりと光り、糸のように細くなった。ごろごろと、喉を鳴らす音が聞こえた。
次の瞬間、月に雲が差し掛かったのだろう。再び、辺りが暗くなった。暗闇の中、目を凝らしたFさんの視界から、ポストサイズの猫は消えていた。
訳がわからず、夢でも見たのかと思いながら、アパートに帰ったFさんは、急いで実家に電話した。Fさんの話を聞いたお母さんは、受話器の向こうで笑った。
アンタ、そりゃ、猫の王様だよ。忘れたの?
そう問い返されて、Fさんは、忘れていたお母さんの話の続きを思い出した。
猫が時々姿を消すのは、猫の王様の所に行くからだ。猫が寄り合いで話しているのは、その王様の所へと詣でる旅のことだ。だから、邪魔をしてはいけない。
「アンタが猫の寄り合いを邪魔しなかったから、王様が代わりに御礼に来てくれたんじゃないかい」
ありがたいことじゃないか。わざわざ、ポストに化けてまで、待っててくれたんだから。「母の言うとおり、ありがたいなって思いましたけど…。どうせなら、母にもみせてやりたいなって思いました」
そう語るFさんは、いつも出かける時には、辺りに猫がいないか探すことが習慣になっていると言う。