編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の執筆陣達が挑戦しました。今回のお題は「まつたけ、化粧、虫」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。今回は、mirubaさんの小説をお楽しみください。
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娘の亜季が、先ほどからじっと「まつたけ」を見ている。
安かったからと、昨日主人が買ってきたのだ。
「この松茸小さな虫がいる。これアルジェリア産?日本の松茸はもっと香りがいいものね」突然亜季が言い出した。
「化粧が施されて香りもつけられたアフリカ産ですって。そういえばあなたパリにいるときにアルジェのお友達から自然の松茸を沢山戴いたものね」
私は答えながら胸がサワサワとするのを感じた。
「パリに居た時って今もパリに居るじゃないの。ママったら変なこというのね。
私食べないわよ。この前は酷い目にあったもの。酷い下痢だった。松茸の古いのは良くないらしいわ」
体中から汗が噴出してきた。まさか・・・
「ねぇ、今日本にいるのよ。ここはフランスではないわ」
亜季は怪訝な顔をしたが、部屋を見回し驚いた風だ。そして家中を歩き回り上気した顔で私の目を見て言った「ママ、今日何月何日なの?」
転勤族だった主人が定年間際に行かされたのがフランスだった。一人娘の亜季はパリ大学に留学しそのまま就職していたので、私達は10年ぶりに家族揃っての海外生活をしていた。
あの日、松茸を友人から貰ったといって亜季が嬉しそうに仕事場から帰ってきたのは、鮮明に覚えている。
ところがウジ虫のような小さな虫が沢山巣食っていたのだ。棄てるにはもったいないと思ったし、亜季もせっかくくれた友人に申し訳が無いというので、料理することにした。さっと茹で、固まった虫の残骸を取り出した後、醤油とみりんにつけて炊き込みご飯にした。なのに、私達親子は3人で腹痛に唸った。同時に食した生牡蠣のせいだとも思えたが、とにかく一番症状が酷く激しい脱水症状から高熱を出した亜季が生死をさ迷い、その後2週間も入院する羽目になった。
だが苦悩はそれからだったのだ。退院した亜季は他人のようで何を聞いても心此処にあらずという表情してまともに反応を示してくれない。物忘れが酷く道に迷うので、警察から何度か連絡が来た。脳の検査をしては何も異常がなく、精神科に回されたりもした。一種の記憶喪失なのだろうか、だが名前も年齢も私たち両親の生年月日さえ答えるし、書くことも出来たし、普通に生活ができるのだ。最終的には医師から「問題なし」と診断を受ける。なのに亜季と話をしていると、喜怒哀楽が希薄で時に返事がまともに返ってこないばかりか、全く赤の他人と接しているような冷ややかな空気を感じるのだった。
仕事も3ヶ月後には辞めてしまう。学生のときからの恋人恭祐君も、最初は足しげく通ってきてくれ、ドライブなどにも行ってくれたが、一方通行の恋をしているようで辛いと、いつの間にか去っていった。辛くはないのだろうか?当の本人は他人事のように無頓着だった。見るでもなくテレビ画面に目を向ける亜季の傍にいるだけで、私達夫婦は将来を思い途方にくれた。
「ママ!今日は何月何日なの?」
自我の強かった亜季の目が戻り、私の心を強く揺さぶった。
5年ぶりに見る意志のある瞳がそこにある。
答えるより、私は泣き崩れた。
まるで他人のようだったそれまでとは打って変わって、長い沈黙を取り戻すかのように息せき切って質問する彼女に答えながら、だが私は嬉しさに歓喜した。
主人と私の最愛の娘が、やっと戻ってきてくれた気がした。
不思議なことに、亜季はこの5年の間の何もかもを覚えていなかった。そんなことがあるのだろうか?
入退院時の写真。パリの仕事場を退職した時の写真。日本に帰国した時の写真。恭祐君や家族との旅行の写真を見せても、全く記憶に無いというのだ。確かに写真の彼女の目はまさに生気がなかった。
病院で新たに精密検査を受けたが、何もわからないままだ。高熱によって見えないところの脳を損傷したが自己再生により回復したのか。想像の域を超えなかった。
人間の体の不思議を思う。
ただ私達は「まつたけ」を見るたびに特別な感慨にふけるだろう。
直接の原因ではなかったにしろ、そのせいで亜季は記憶の無い時空間の世界に行き。
直接の要員ではなかったとはいえ、現実の世界に戻ってくるきっかけを作ってくれたのは、松茸の虫だったのだから。
「亜季、なんて綺麗なの?」
何年も化粧をしなかったので気がつかなかったが、年齢が彼女に潤いを与えていた。ましてや今日は久しぶりのデートなのだ。
恭祐君は、結局亜季を待っていてくれたことになるだろうか。彼にも色々な交際はあったろうが、年に一度くらいは亜季の様子を見に来てくれていた。
チャイムが鳴って扉が開いた。
恭祐君が顔を出したとたん、亜季は飛びつくように彼の首に腕を回しキスをした。
泣き出した亜季を強く抱き寄せる恭祐君。
その様子を笑顔で見ている主人と私に、恥ずかしそうにしながらも、
彼の目から、涙が一筋、零れ落ちた。
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写真:テクノフォト高尾 by高尾清延 |