あの日。
2011年3月11日、午後2時46分。
自分は、珍しく母と共に、職場に居た。
何故、珍しかったかと言えば、去年の8月に
父が脳梗塞で倒れ、母と弟と自分の3人で運営していた職場を、私一人が、継ぐ事になったからである。
(このテキストを打っている今、座布団の下が、ガクガク揺れているような、そんな感覚を覚えるが)
その朝。
市場に行って、仕入れをしながら、母が妙な事を言った。
何の話か忘れたが、「それじゃ、のろしでも上げるようだね」
と言ったのだ。
変な事を言うなぁ、と、思っていた。
昼食は、早めに大衆割烹(そのチョイスも珍しい。何故ならば、
花屋はそれほど儲からず、私に任されてから、昼食は1日¥500と
決めていたからである)へ行った。
¥785ぐらいの、揚げ出し豆腐定食だったと思った。
午後からは、花束の注文(10個)を、早いペースでこなして、
一息ついた頃だっただろうか……?
「えっ? なになに、揺れてるよ。地震!?」
母も、それに反応して、、
「あ。揺れてる、地震。早く、レジ(のキー)抜いて!」
『えぇ!?』
人が。いや、建物ごと、大きな横揺れで、揺さぶられて居る。
10秒くらいの判断時間だったかと思うが、
一瞬、巨大なアトラクションに乗ったような錯覚を覚えた。
目の前で起こっている事が、脳では、理解出来ない。
『(柱に捕まって、何を遊んでいるんだ……)』
私の脳は、そういった奇妙な感覚で一旦は捉えた。
こういう想定外の事態で、的確な判断が出来ないのは危険だ!
瞬時の判断誤りが、命を落とす場合だって在る…………。
およそ1分後ぐらい。
自分の身に起こっている事が、ようやく理解でき、
出入口に向かって、早足で歩き出した。
ゴォーー! とも ガラーーー! とも、何とも表現できない
感覚で、兎に角(とにかく)揺さぶられ続ける。
上を見ると、照明器具が、左右に、揺られている。
出入口の付近に居て、ガードマンが「外に出て!」と叫ぶ。
皆、殺到までは行かないまでも、歩みを早めて、出口に急ぐ。
長い周期の揺れは、ようやく、収まった。
誰かが、ポツリと呟いた。
「これは……遠くで、トンデモナイ事に、なってるな……」
テレビのニュースで、速報が出た。
黄色と赤の、津波警報。日本全国の太平洋側が、ほぼゾーンに入る。
○○県××市の波の高さ、10m
この意味も、即座に、理解できなかった。
震度が出て来ない……
その時は、何故、震度より波の高さ情報を優先するのだろう?
と思った(しかしそれは、帰宅後に続報を観て、愕然とするのだが)
3時過ぎにも、また揺れた。
今度は、レジを素早く閉めて、出口に走る。
外に出て、周囲を見渡す。
母が、居ない。何をしているのだ?
店まで引き返すと、シャッターを閉めようとしている。
おまけに、ご丁寧に「CLOSED」の札までかけている(汗)
大地震だぞ! 何をしてるんだ!! はやく
「いや、お前が寒いと思ったから、ダウンでも……」
『馬鹿っ。今度遅れたら、置いて行くからな。
死んでも、知らんぞ!!』
再び、出口に向かう途中で、揺れは収まった。
判断ミスの連続である・・・・・・
それからは、冷静になって考えると、恐ろしさがこみ上げて来て
ほとんど、仕事に集中できなかった。
2回の地震後にようやく、トイレには行ったが。
会社の売店の女の子と。
「・・・携帯、通じた? 通じないね」
『ああ。揺れが止まってから、すぐにかけてみたけど……』
「通じないでしょ?」
通話が集中して、処理が、出来ないでいるのだ。
携帯は諦めて、ついったー(Twitter)で、情報収集する。
携帯の繋がりにくさ100%に反比例して
ついったーは意外にも、重い他は、リアルタイムに様々な情報を
提供してくれた。なんと、心強いことか。
母が、焦る。
「家と……連絡がとれない」
私には分かっていた。ほぼ、無理である。
通話が繋がらないと何回もかける。
回線に負担がかかって、ますます繋がらない……
ここまで来たら、悪循環としかいいようがない。
少し待って、公衆電話からの通話を試みた。
十円玉を、5~6枚、握りしめて。
※続く
・この度の震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に
被害に遭われた方の、一日でも早い回復を願っております。