私は、まわりの人がうさんくさく思えてならなかった時期がある。あちらでは、こんなことを言っているくせに、こちらでは全然違うことを真顔で言っている。今思えば、TPOを使い分けているだけのことであったのだろうが、当時の私にはまわりの人はみな演技をしていると思えたのである。親でさえ信用できない。この世に真実などないのではないかとさえ思っていた。そういう私自身も、会う人により毎日演技を使い分けていたのだ。
そんな私が、大学で一人の教授と出会う。この教授もなかなかの変わり者であり、この世は全て幻想であるという持論を持っていた。正しいか正しくないかは絶対的なものではなく、正しいと信じている人たちのあいだでのみそれは真実であり、信じていない人たちにとっては真実ではない。それは、単に共同の幻想を持ちうるかどうかの差なんだよというような学説であった。常識と思われていることも、それは常識と思っている人たちの中だけで通用することであり、異なった文化の中で育った人たちには非常識に映る場合も多い。
その学説は唯幻論と呼ばれており、賛否は両論だったようだ。しかし、私には非常に身近に思えた。心の中のもやもやを吹き飛ばしてくれるような明快な説明を与えてくれた。たとえば、子をかわいがらぬ親はいない。これは常識だと思われていた。しかし、我が子を虐待する親が存在するのも確かである。常識の中では説明がつかない出来事であり、その親は常識人からは病気扱いをされるしかない。もちろん、虐待していいわけがないが、病気扱いをして隔離するとか、けしからんと刑罰を下すだけでは事は解決しないのである。誰にでもその素養はあり、実際に行動に移すかどうかは紙一重なのだ。それを理解することが重要であ り、非難するだけでは何も解決しない。理性があればそんなことはしないと思うかもしれないが、この理性という代物がいざとなると意外とあてにならない。
理性は本能を抑えるブレーキのように思われているが、そもそも本能に従って行動して日常生活に適応できないようでは、その本能は現実に根ざしていないニセモノ(不完全なもの)であると言えよう。本能どおりに行動してうまく生きていけない動物は、おそらく人間以外に存在しない。人間の本能が壊れているのではないかと言われるゆえんである。その壊れた本能のブレーキ役として理性がベビーフェースとして誕生したのだが、本来の欲求を抑圧するという非常にフラストレーションのたまる役割をおおせつかっている。ベビーフェースを気取ってはいるが、本能の欲求をうらやましく思っているのも確かなのだ。
いずれにせよ、本能も理性も同じ一人の人格の中に存在するものであり、本能だけを悪者扱いし理性だけを優遇するのでは、本能さんがかわいそうな気がしてならない。同じ穴のむじななのに…