私のいつも使っているメトロ3番線にBORSEブルス(パリの証券取引所)の駅がある。
観光客の多いオペラから2駅離れているのでサラリーマンが多くカフェの乱立している場所でもある。
その中の小さな一軒が私の好みだった。カウンターは10人も立てばいっぱいで、テーブル席も5、6しかない。
そのかわり店の表には店の3倍くらいのテーブルが歩道を埋め尽くしている。
私は表もカウンターも見渡せる角の2人がけ用丸テーブルに陣取って、ノート型のパソコンでエッセイや新聞への投稿などを書いていた。
「C'est chez SONY それ、ソニー?」
「Je vous envie いいな~欲しいな~今度日本に出張だから買ってこようかな」
当時は珍しがられて、よく声を掛けられたものだ。
その後不良外人が増えパソコンを目の前で盗られる事件が発生するようになって、私も一時はパソコンの持ち出しをしなくなったのだが・・・。
軽食を出すカフェは昼食時はレストラン並に忙しくなる。
昼の喧騒が終わったころ、店内にいつもの常連さんが入ってきた。
「Bonjour monsieur Lion!pas encore・・・こんにちはリオンさん、・・まだですよ・・・」
リオンさんは、他の常連さんの笑顔の中、握手をしたりハグをしたりして、カウンターを移動し、時々顔を見かける私へも手を差し出して挨拶をした後エスプレッソを頼んでカウンターの端に立った。
本当はリオンさんという名前ではない。クレディリオネという銀行に勤めているからついたあだ名だった。
「・・まだですよ」とギャルソンが言っていたのは彼がいつもカフェで一緒になる女性のことなのだ。
彼の、おそらく、待っている女性は、リオンさんより頭ひとつ大きな背が高く美しい人だ。
日本人とロシア人のクオーターと聞いている。
日本の証券会社からの単身赴任でバリバリのキャリアウーマンだ。お酒も強い人で、私がたまに夕方カフェに寄ると、彼女は仕事帰りのみんなと政治論やフットボール(サッカー)の話で盛り上がっていて、ワインを2本も3本も空けていた。
その横で、リオンさんは時々議論に加わるのだがその博学に皆は舌を巻くのだ。
でもその他は物静かでニコニコと彼女の横顔を愛おしそうに眺めながら、ただコーヒーを飲んでいるので、ギャルソンも常連さんも余計に彼をからかうのだった。
私のテーブルひとつ先に数人の日本人が座って先ほどから小声で話していた。
「どうする?会社は飛行機でご遺体を運びましょうかって言ってくれているけれど、日本に帰ったってねぇ」
「フランスって火葬するところがあまり無いらしいよ。どうしようか」
カトリック教会が法令で禁止していた火葬を認めたのが1963年だ。土葬が一般的だったフランスが火葬を認めたのは、衛生上もあるが、外国人が増え、パリの人口も増え、お墓の数も足りなくなってきたからと聞いている。
1989年5%だった火葬率は、現在パリにおいては40%以上にもなるという。
日本人の私達から見ると、いまだに土葬率が60%近くにもなるの?と驚きの数字ではある。
当時はそれでも火葬はまだ少なく、日本から来たばかりの人では火葬場を探すのは大変だったろうと思った。
「しかし、豊さんにはあきれたわね。いくら万理と別居状態だったとは言え、まだ一応旦那さんじゃないの。それを葬儀に来られないってどういうことかしら」
「お母さんの介護で動けないって、たぶんお母さんに止められているのよ。マザコンだから」
「あんなやつ、だから結婚には反対したんだ」
「従兄妹のあなたが言ったってしょうがないじゃないの。どうする?」
私はたまらず声を掛けた。
「あの、失礼ですが、お話が聞こえてしまって。・・あの万理さんってまさか、角の証券会社に勤めているMARIさんじゃないですよね?」
後姿の私をフランス人だと思っていたらしく、突然日本語で話しかけられたので驚いたと言いながら、
「日本の方でしたか。えっと、万理をご存知でしたか?」
「ハイ、このカフェでよくご一緒しました。確か旦那さんが豊さんと言う名前だと聞いたことがあったものですから、今驚いてしまって。だって、先週の金曜日にお話したばかりですよ」
「ええ、その金曜日の夜、心臓発作で。救急車を自分で呼んでそのままだったそうです」
「土曜日に私達は日本を発って昨日パリに着いたばかりで・・、病院に行って確認してきたばかりなのです」
「どうしていいか、途方にくれているのです。本人が以前からもう日本には帰らないと言っていたし、死ぬときはスイスの山へ散骨がいいといっていたのですが・・・」
目頭を押さえながら話してくれる。
お悔やみを言いながら、私はどうしたものかとカウンターにいるリオンさんを見やった。
カウンターではリオンさんをさかなに皆で賑やかだ。
しかたがない。私は声を強めて言った。
「Ecoutez!Messieurs! 聞いてくださいみなさん、MARIさんが亡くなったんですって、心臓発作で」
日本人は驚いたときは「えっ!!」と息を吐くが、フランス人は驚いた顔と共にスーーーっと息を吸い込むので、いっせいにひーーっという音が響いた。カウンターにいる常連さん達の顔が固まったようにみえる。
リオンさんが気を失って倒れた。
それを皆で抱える。
お酒をあまり飲まないリオンさんの口に、EAU DE VIE オードヴィ「命の水」と言われるブランデーを含ませる。
私はその光景を見ながら、まるで映画みたいだわ、と不謹慎にも思っていた。
急いでハンカチを水で濡らし額に当ててあげたら、すぐに眼を覚ました。
リオンさんは呆然としていたが、静かに涙を流し、私に言った。
「マダム、MARIの家族たちに、私もお葬式に参列させてもらっていいだろうか、と聞いてくれませんか?」
色々な手配は万理さんが勤めていた会社の人がやってくれたようで、葬儀にはリオンさんやカフェの常連達、カフェのギャルソンや私も参列した。
会社の人たちが数人と、両親や兄弟はいないという万理さんの親戚数人そして私達だけの寂しいお葬式だった。
火葬後は半分を日本のお墓へ、半分はパリのペールラシェーズに埋葬することになった、契約は10年と言う。その後は共同墓地に入れられるのだ。
万理さんが希望したスイスでの散骨は無理だと、親戚の人たちは日本に帰っていった。
あわただしい一週間が過ぎた。
いつものように私はカウンターと表通りの見える端っこのテーブルに座っていた。
いつものように、常連が集まってきて、元気の無いリオンさんを励まそうと、賑やかな声も変わらなかった。
日本の宅配がフランスでも始まっていた。
ネコちゃんマークの箱を宅配のお兄さんがカフェのマスターに手渡している。
マスターが中を開けて声を上げた。
「Quelle surprise!! なんてこった!天国のMARIさんからお便りだよ!皆にサン・ヴァランタンのプレゼントだって」
そういって、20個はあるチョコレートが私達に配られた。私ももらってしまった。かわいいハート型のブランドチョコレートだ。
今でこそパリにもハート型チョコレートは探せばあるが、同じブランドがフランスにもあるのに、90年代当時ハート型のチョコレートはパリにはほとんど売っていなかった。
サン・ヴァランタンは恋人達の日なので、花束とか下着とか靴下を贈るものだったから。
万理さんは、いつも集う仲間達に、ヴァレンタインデーの日本のハート型チョコレートを感謝の気持ちとして贈りたかったのかもしれない。
まさか自分が、みんなの笑顔を見る前に亡くなってしまうことなど、想像もしなかったのだろう。
そしてリオンさんへのサプライズも入っていた。
マスターが
「ほら、ムッシューリオン、あなたへは特別大きいリボンが付いているよ」
万理さんからの贈り物と聞いて、コーヒーカップを取り落としていたリオンさんは、カウンターの端で青い顔をしていた。
震える手でチョコレートの包みを受け取り、そしてメッセージカードを読み始めた。
観光客の多いオペラから2駅離れているのでサラリーマンが多くカフェの乱立している場所でもある。
その中の小さな一軒が私の好みだった。カウンターは10人も立てばいっぱいで、テーブル席も5、6しかない。
そのかわり店の表には店の3倍くらいのテーブルが歩道を埋め尽くしている。
私は表もカウンターも見渡せる角の2人がけ用丸テーブルに陣取って、ノート型のパソコンでエッセイや新聞への投稿などを書いていた。
「C'est chez SONY それ、ソニー?」
「Je vous envie いいな~欲しいな~今度日本に出張だから買ってこようかな」
当時は珍しがられて、よく声を掛けられたものだ。
その後不良外人が増えパソコンを目の前で盗られる事件が発生するようになって、私も一時はパソコンの持ち出しをしなくなったのだが・・・。
軽食を出すカフェは昼食時はレストラン並に忙しくなる。
昼の喧騒が終わったころ、店内にいつもの常連さんが入ってきた。
「Bonjour monsieur Lion!pas encore・・・こんにちはリオンさん、・・まだですよ・・・」
リオンさんは、他の常連さんの笑顔の中、握手をしたりハグをしたりして、カウンターを移動し、時々顔を見かける私へも手を差し出して挨拶をした後エスプレッソを頼んでカウンターの端に立った。
本当はリオンさんという名前ではない。クレディリオネという銀行に勤めているからついたあだ名だった。
「・・まだですよ」とギャルソンが言っていたのは彼がいつもカフェで一緒になる女性のことなのだ。
彼の、おそらく、待っている女性は、リオンさんより頭ひとつ大きな背が高く美しい人だ。
日本人とロシア人のクオーターと聞いている。
日本の証券会社からの単身赴任でバリバリのキャリアウーマンだ。お酒も強い人で、私がたまに夕方カフェに寄ると、彼女は仕事帰りのみんなと政治論やフットボール(サッカー)の話で盛り上がっていて、ワインを2本も3本も空けていた。
その横で、リオンさんは時々議論に加わるのだがその博学に皆は舌を巻くのだ。
でもその他は物静かでニコニコと彼女の横顔を愛おしそうに眺めながら、ただコーヒーを飲んでいるので、ギャルソンも常連さんも余計に彼をからかうのだった。
私のテーブルひとつ先に数人の日本人が座って先ほどから小声で話していた。
「どうする?会社は飛行機でご遺体を運びましょうかって言ってくれているけれど、日本に帰ったってねぇ」
「フランスって火葬するところがあまり無いらしいよ。どうしようか」
カトリック教会が法令で禁止していた火葬を認めたのが1963年だ。土葬が一般的だったフランスが火葬を認めたのは、衛生上もあるが、外国人が増え、パリの人口も増え、お墓の数も足りなくなってきたからと聞いている。
1989年5%だった火葬率は、現在パリにおいては40%以上にもなるという。
日本人の私達から見ると、いまだに土葬率が60%近くにもなるの?と驚きの数字ではある。
当時はそれでも火葬はまだ少なく、日本から来たばかりの人では火葬場を探すのは大変だったろうと思った。
「しかし、豊さんにはあきれたわね。いくら万理と別居状態だったとは言え、まだ一応旦那さんじゃないの。それを葬儀に来られないってどういうことかしら」
「お母さんの介護で動けないって、たぶんお母さんに止められているのよ。マザコンだから」
「あんなやつ、だから結婚には反対したんだ」
「従兄妹のあなたが言ったってしょうがないじゃないの。どうする?」
私はたまらず声を掛けた。
「あの、失礼ですが、お話が聞こえてしまって。・・あの万理さんってまさか、角の証券会社に勤めているMARIさんじゃないですよね?」
後姿の私をフランス人だと思っていたらしく、突然日本語で話しかけられたので驚いたと言いながら、
「日本の方でしたか。えっと、万理をご存知でしたか?」
「ハイ、このカフェでよくご一緒しました。確か旦那さんが豊さんと言う名前だと聞いたことがあったものですから、今驚いてしまって。だって、先週の金曜日にお話したばかりですよ」
「ええ、その金曜日の夜、心臓発作で。救急車を自分で呼んでそのままだったそうです」
「土曜日に私達は日本を発って昨日パリに着いたばかりで・・、病院に行って確認してきたばかりなのです」
「どうしていいか、途方にくれているのです。本人が以前からもう日本には帰らないと言っていたし、死ぬときはスイスの山へ散骨がいいといっていたのですが・・・」
目頭を押さえながら話してくれる。
お悔やみを言いながら、私はどうしたものかとカウンターにいるリオンさんを見やった。
カウンターではリオンさんをさかなに皆で賑やかだ。
しかたがない。私は声を強めて言った。
「Ecoutez!Messieurs! 聞いてくださいみなさん、MARIさんが亡くなったんですって、心臓発作で」
日本人は驚いたときは「えっ!!」と息を吐くが、フランス人は驚いた顔と共にスーーーっと息を吸い込むので、いっせいにひーーっという音が響いた。カウンターにいる常連さん達の顔が固まったようにみえる。
リオンさんが気を失って倒れた。
それを皆で抱える。
お酒をあまり飲まないリオンさんの口に、EAU DE VIE オードヴィ「命の水」と言われるブランデーを含ませる。
私はその光景を見ながら、まるで映画みたいだわ、と不謹慎にも思っていた。
急いでハンカチを水で濡らし額に当ててあげたら、すぐに眼を覚ました。
リオンさんは呆然としていたが、静かに涙を流し、私に言った。
「マダム、MARIの家族たちに、私もお葬式に参列させてもらっていいだろうか、と聞いてくれませんか?」
色々な手配は万理さんが勤めていた会社の人がやってくれたようで、葬儀にはリオンさんやカフェの常連達、カフェのギャルソンや私も参列した。
会社の人たちが数人と、両親や兄弟はいないという万理さんの親戚数人そして私達だけの寂しいお葬式だった。
火葬後は半分を日本のお墓へ、半分はパリのペールラシェーズに埋葬することになった、契約は10年と言う。その後は共同墓地に入れられるのだ。
万理さんが希望したスイスでの散骨は無理だと、親戚の人たちは日本に帰っていった。
あわただしい一週間が過ぎた。
いつものように私はカウンターと表通りの見える端っこのテーブルに座っていた。
いつものように、常連が集まってきて、元気の無いリオンさんを励まそうと、賑やかな声も変わらなかった。
日本の宅配がフランスでも始まっていた。
ネコちゃんマークの箱を宅配のお兄さんがカフェのマスターに手渡している。
マスターが中を開けて声を上げた。
「Quelle surprise!! なんてこった!天国のMARIさんからお便りだよ!皆にサン・ヴァランタンのプレゼントだって」
そういって、20個はあるチョコレートが私達に配られた。私ももらってしまった。かわいいハート型のブランドチョコレートだ。
今でこそパリにもハート型チョコレートは探せばあるが、同じブランドがフランスにもあるのに、90年代当時ハート型のチョコレートはパリにはほとんど売っていなかった。
サン・ヴァランタンは恋人達の日なので、花束とか下着とか靴下を贈るものだったから。
万理さんは、いつも集う仲間達に、ヴァレンタインデーの日本のハート型チョコレートを感謝の気持ちとして贈りたかったのかもしれない。
まさか自分が、みんなの笑顔を見る前に亡くなってしまうことなど、想像もしなかったのだろう。
そしてリオンさんへのサプライズも入っていた。
マスターが
「ほら、ムッシューリオン、あなたへは特別大きいリボンが付いているよ」
万理さんからの贈り物と聞いて、コーヒーカップを取り落としていたリオンさんは、カウンターの端で青い顔をしていた。
震える手でチョコレートの包みを受け取り、そしてメッセージカードを読み始めた。
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リオンさん、いえ、ジャンクロード。
ハッピーサンバレンタイン!
私決めたの。長い間別居していた主人とは別れることにしたから、
これからもずっとパリに住むことにするわ。
あなたが私を好きなことは判ってる。違うと言っても無駄よ。
ずっと前から知っているもの。
そして、私もあなたを好きなことに気が付いてしまった。
愛しているわジャンクロード。
あなたのMARI
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リオンさんはチョコレートを抱きしめて泣き崩れてしまった。
リオンさんだけじゃない、
私達は、チョコレートの包みをなでながら、皆泣いた。
リオンさんの本当の名前はジャンクロードというのか、と思いながら・・・
後にリオンさんは、万理さんの希望通り、スイスとフランスの国境にあるモンブランに、ヘリコプターをチャーターして散骨に行ったと聞いた。
【恋はいつか終わる】ジョルジュムスタキ