2011年9月23日金曜日

日本人の知らない韓国の常識・その3 <倭寇討伐で朝鮮王朝初代王> by 御美子


日本では李氏朝鮮と呼ばれる王国建国の英雄
「将軍、遼東半島への明軍侵攻を止めるための出陣命令が出ましたが」
「分かった直に出陣だ。ただし、高麗に引き返して首都を攻撃する」
「謀反を起こすのですか?」
「元の力は弱まり明の時代がそこまで来ている。親元高麗政府を終わらせる良い機会だ」
「官僚たちの王への不満も高まっていますし、いよいよやるのですね」
「明とも親明派の王を立てると申し合わせ済みだ」


こうして高麗の将軍であった李成桂(イソンゲ)は、高麗王朝末期の混乱に乗じてクーデターを成功させ、最初こそ親明派の高麗王を立てたものの2年後には周囲から請われて自らが王になる。


しかしながら、直に朝鮮王朝へ移行した訳ではなく、朝鮮半島では古来から中国からの許可があって初めて王や国の名前を決めることが出来たので、朝鮮という国名もお伺いを立てた2つの候補から、1つを明の王に選んでもらって決めたものだった。


李成桂(イソンゲ)の活躍は、元の武官から高麗の武官として豆満江や鴨緑江方面の女真族平定元の残存勢力討伐・国都防衛・倭寇討伐と本領はあくまでも軍事であったが、その中でも特に倭寇討伐で英雄視されている。


日本で倭寇と言えば、戦国時代の没落した武士や土地を追われた農民が、食料等を略奪したくらいにしか認識がなかったが、韓国や中国で倭寇と言えば、日本方面からの執拗で大規模な侵略行為そのものや豊臣秀吉の朝鮮出兵時の日本軍の侵攻まで、多岐に渡ったものを総称して倭寇と呼んでいる。


また、後に多数の朝鮮人や中国人が倭寇に便乗したことが、韓国や中国の資料にもあるのだが、実害が多かったのが朝鮮半島だったので、今でも倭寇を日本人の野蛮行為と同義で使う人がいるらしい。


さて、周囲に推されて王になった李成桂(イソンゲ)だが、早々に八男に王位を譲ろうとしたところ、王子たちが殺しあうこととなり、傷心して仏門に帰依してしまった。


崇儒廃仏(儒教を高めて仏教を排斥する)が特徴の李氏朝鮮だが、実行されるのは孫の第4代世宗(セジョン)大王になってからになる。


因みに李氏朝鮮と呼ぶことは好まれず、建国神話の頃の朝鮮は古朝鮮と呼んで区別している。

2011年9月17日土曜日

とある休日5 by やぐちけいこ

定期検診。と言っても身体はいたって健康だから必要無い。
ただここの院長の部屋で少しだけ話をするだけだ。私には両親がいないので院長に話を聞いて貰っていると父親と話をしているようで落ち着く。難を言えば薫の父親って事だ。まあ、目を瞑ろう。そう思いながら勝手知ったる病院の長い廊下を歩いていた。

途中ナースステーションで来院した事を告げようと寄ろうとした時看護師たちの会話が聞こえてきた。知った名前を聞いたので思わず身を隠し盗み聞きする。
「今日って霞さんが来るんでしたっけ?薫さんもいつまであの人に付きっきりになってるんですか?飲みに誘ってもそのせいでいつも断られてるんですよ」
「あら、私は記憶が蘇った時にパニックにならないように監視してるって聞いたけど」
そのあとは何が話されていたかは耐えられなくて逃げ帰ったため分からない。

自分が今日の検診に来なかった事を院長はどう思うのだろう。
家に帰る道すがら頭を占めるのは今聞いたばかりの「監視」と言う看護師の言葉。

そっか、あいつは監視するためにいつも私の所に来ていたのだな。悪態をつく私を笑ってくれていたのはそういう訳だったのか。
子どもの頃から一緒にいたから気付けなかった。友人では無かったのか。あいつと過ごす時間は嫌いではなかったのに残念だ。うん、本当に残念だ。
私は結局独りなのだ。それもきっと徐々に慣れていけば普通になるはず。だからこの胸の痛みも無くなるだろう。

今自分が住んでいる家も院長が用意してくれたものだった。病院の敷地内に建てられた小さな平屋建ての一軒家。どうせ使ってないから自由に使ってと言われる ままにそこに住み始めたのは中学に上がる頃。最初の頃はほとんど寝に帰るだけだった。それまでは薫の家族と一緒に過ごしていた。少しずつ一人暮らしになれ るように年を重ねるごとにその与えられた部屋で過ごす時間が増えていった。

最近はどうだろう。そう言えば店を出すなんて言い出して驚いたけど結局あの話はどうなったかな。私の反応を楽しんでいただけだったのかもしれない。休みのたびにここへ来ては取りとめのない話をするだけで帰っていく。
あれは私を見張るためだけだなんて信じたくない。では何を信じたら良いのだろう。
何だか疲れた。何も考えたく無いし何もしたくない。
気付けばソファに座ったまま何時間もぼうっとしていた。だけどお腹もすかないし手足も動かない。

遠くでインターフォンが鳴っている気がする。
ピンポ~ンピンポ~ンピンポンピンポンピンポ~ン♪
あぁ、またあいつが私を見張りに来たのか。
院長の所へ行かなかった事を叱りに来たのか。
もう私に関わる必要などないぞ。私は独りでも大丈夫だ。大丈夫だからもうここには来ないでくれ。
いやだ。私を独りにしないで。独りは怖い。また薫の笑顔が見たいのにここは暗くて何も見えない。何も見えないんだ。静かすぎて怖いのに心地よさもどこかに感じる。相反する感情を止められない。

「ねえ、薫。薫は私を監視するために傍に居てくれたのか?そのせいでいろんな誘いを断っていたのか。私は知らない間に縛り付けていたんだな。ごめん。今ま で気付けずにいてごめん。何を言っても許されていたから甘えすぎていたよ。ごめん…」うわ言のように弱弱しくそれは繰り返された。

再び支えをなくした心はただ暗闇に倒れ誰の手も届かない所にあった。

2011年9月9日金曜日

『東京NAMAHAGE物語・1』 by 勇智イソジーン真澄

<イヤンのばか>
ああ、また雪かきから一日が始まる。
昨日までは時折太陽が顔を見せ、幾層にも積み重なった雪を解かしかけたばかりだというのに冬に逆戻りか。
人差し指で少しだけカーテンを引き開けて覗いた、白い外を眺めて思う。

はあ~、実家での生活が始まって何回、いや何十回目のため息だろうか。
雪のように白くて冷たい息がガラスに張り付き乳白色の円を描く。
一年の半分は暖房の世話になる地域。
雪灯りはあるが暗い日常……。

父が病に伏したのを機に、秋田県男鹿市に戻り3年が経った。
その間、父は他界、その1年後母が入院しペースメーカー埋め込み術を施した。
どちらの入院中も側にいたくて、ほぼ毎日病院に通った。父の件も落ち着き、母も自宅生活ができるほど回復し退院した。

仕事を辞め東京での生活にピリオドを打ち、実家で母と二人だけの生活になって5カ月。
一人暮らしが長い私と、父との二人暮らしだった母とは環境も思いも違う。

干渉されるのに慣れていない私と、父に干渉していた母。いま、母の関心は同居している私に向いている。
台所に立てば背後から「何してるの?」、席を立つと「どこ行くの?」、起床時間が少し遅いと「具合が悪いのか?」と枕元に立っている。

一々返答する気になれないくらい、それが頻繁なのだ。 
家に帰りたくないと居酒屋で一杯ひっかける倦怠期の夫のように、一歩外に出たら無駄な用を作り、少しでも遅く帰宅しようとする。
そうしてしまう自分がいる。
依存されることの煩わしさから逃げている。

しかし、そうはしていても、帰宅が遅いと心配し、一人でいることが心細くて不安でならない母の顔がちらつき居ても経ってもいられなくなる。

「やっぱり君がいないとだめだ」と花束を持って追いかけてくる男もいなければ、高齢化の地元周辺には、すがりつきたい男も見当たらない。
桜は来月が見ごろ。
私はこのまま葉桜の時期を過ぎて、姥桜になってしまうのだろうか。
なんてこった。

陽が落ちてしまえば民家の灯りだけで、街灯もなく外は闇。
夕食の時間も就寝も早く、家々の灯りは早々に消えてしまう。
テレビのチャンネル数も少ないし、ちょいと一杯、と飲みに行く店もなければ、おしゃれなレストランも見当たらない。
欲しいものが揃う店もない。
以前暮らしていた東京・恵比寿とは比べ物にならないくらい、ここは何もない。

何もないといえば小遣いも足りなくなった。
母の収入は遺族年金となり、父の生存時に受給していた年金額の半分近くに減った。

私は仕事もなく、この半分になった年金から私にかかる費用を捻出しなければいけない。
二人住まいに変わりはないのに、収入だけが減り、家計は火の車だ。
年に数回の海外旅行ができていたバブルなころが懐かしい。

バブル絶頂期に購入した高級ブランドの服もバッグも靴もアクセサリーも、着用することもなくなった。
身に付けたとしても誰が気づいてくれようことか。
プラダだろうがプラデだろうが、グッチだろうがゲッツだろうがどうでもいい。
動きやすく、汚れても平気な服で十分なのだ。

若かりし頃の黒髪は、染めても染めても白髪が目立ち始める。
悪あがきをあざ笑うかのように、根元から白カビのように生え出てくる。
年相応だ、と言われればそれまでだが、母という枷と、ない物ねだりのストレスによる心労が一因かもしれない。
そう、きっとそうだ。

いつも何かに追い立てられている気分にかられている。
あれもしたい、これもしたい。
あれもできない、これもできない。
何かしよう、なんとかしなければ、と焦る気持ちなのだろうか。
思いどおりに行かない苛立ちなのだろうか。

いやだ嫌だ。
あぁ、いやだ。
こんな生活、もういやだ。

いや?
58(いや)? 
いやだ、今日は私の誕生日、それも58回目の。
イヤン……。

やだやだ、とため息ばかりついている場合ではない。
自分の置かれている状況を受け入れれば新しい発見があるはずだ。

何のために、貴重な経験をしてきたのだ。
これまで十分、自由気ままに遊んできたじゃないか。
楽しいことも辛かったことも、すべてはこれからの歩みへの必然だったのだ。

過去に思いを残すことはない。
父の残してくれた木造家屋は住み心地がいい。
小さいながらも庭があり、気候のいい時期は木陰で読書をする。
男鹿半島の先端まで行けば自然な美しい景色がある。
海を見ながら、のんびりとした一日もおくれる。

上手くやり繰りさえすれば、母と二人の生活は何とかできないこともない。
いざとなったら、何としてでも働けばいいだけのこと。

静かで心躍ることもない代わりに波風も立たない。
過去に引きずられたり、他人をうらやんだり、見栄を張ることも着飾ることもいらない。
いくら髪を染めて外見を変えようが私は私、あるがままの自分でいい。

レフ・トルストイの作品に「イワンのばか」という童話があった。
主人公イワンは純朴遇直で欲がなくて、小悪魔からの誘惑のささやきにも耳を貸さず、バカだと言われても自分の生活を変えることはなく、最後には幸運を手にするという話だった。

確か、濡れ手で粟、の金儲けをすることの虚しさと儚さを教えてもいたはずだ。
まったくもって今までの私、耳が痛い。

新しい歳になったのだ。
このまま毎日を嫌だ無意味だと否定ばかりしていては、ただイヤンと言ってるだけのバカ者になってしまう。

イワンのように全ての欲を取り除くことは難しい事だが、少しでも見習うことができないだろうか。
無欲になり、身の丈に合う日々を過ごせればいい。
一日一歩ずつでも、それに向かって新たな道を進んで行ければいい。

明日という日はまだ手つかずに残っているのだから、あわてることはない。
幸い時間だけは沢山ある。

2011年9月2日金曜日

日本人の知らない韓国の常識・その2 <セジョン大王とハングル公布> by 御美子

セジョン大王:1万ウォンのデザインにも使われている
10年程前、仕事で韓国を訪れる機会があり、会場と宿舎の往復をする送迎バスが必ず通る道があった。
ソウルに2年以上住んだ今なら分かるのだが、その道とは光化門(カンファムン)とその前の広場との間にある道だ。
当時、光化門は撤去した旧朝鮮総督府跡に建設中で工事中の大きな壁があるだけだった。
あの大きな壁が取り払われた今なら見える青瓦台(チョンワデ:大統領官邸)や、その後ろにそびえる美しい北漢山(プッガンサン)が見えなかったのは、ソウル市や韓国そのものにとって大きな損失だったろうに、朝鮮総督府への積年の恨みの方がそれに勝っていたのだろう。

あの頃既に広場側には威風堂々とした銅像があったが有名な王様だということくらいで、名前も聞いたはずなのに特に印象には残っていなかった。

今ならこれも知らないと恥をかくくらいなのだが、この銅像こそ現在の韓国で最も尊敬され1万ウオン札の肖像でもある世宗大王(セジョンデワン)だったのだ。

因みに世宗王の肖像は一枚も現存せず、銅像やお札の肖像は空想で描かれたものであるという。

世宗王は三男で比較的温厚な性格だったとされるが、父の太宗の方は初代李成桂(イソンゲ)王の五男で、八男を跡継ぎにしようとした実の父王李成桂に反乱を起こして、腹違いの弟である八男を殺したり野心を抱いていた四男を退けたりと、武勇伝に事欠かない人物だった。

幼少の頃から本を読むことが最大の楽しみだった世宗は、兄王子達が自ら失脚した為に22歳で王として即位した。

即位2年後には集賢殿を作って若くて優秀な人材を集め、保守派の反対を押し切って新進派に訓民正音(ハングル)を作らせ、1446年に公布したことが最大の功績と言われている。

その他の功績として挙げられるのは、王立天文台・日時計・自動水時計・測雨器・火薬や火器の製造開発などだ。

当時の朝鮮王朝は高麗王朝の残存勢力がスパイとして入り込んだり、事大主義と言って大国に従属することで国を存続させようという空気があり、明(中国)の顔色を常に伺わなければならない状況で、ハングルの発明は明の支配から離れることを意味し、他の発明品?に関しても明のものが基礎になっているので、開発していることを明に知られる訳にはいかなかった。

文字に関して言えば、支配層の両班(ヤンバン)達だけが漢文を読み書きし、中下級官僚達は吏読(イドウ)という方法で漢字を朝鮮語として読んでいた。

当時吏読で使われていた漢字には、漢文を和読するために使っていたカタカナの原型と同じ字を始め、現在も日本で使われている漢字が在ることは興味深い。

例えば、「ア阿」「イ伊」「カ加」「タ多」「ヤ也」は、日本語のカタカナの原型漢字表にあるものと同じであり、この他万葉仮名やカタカナの原型漢字表にはないが、「オン温」「コ古」「サ沙」「シャ舎」「シン申」「タ他」「ト吐」「ナ那」「ナン難」「ニ尼」「ニョ女」等は、韓国人が読んでも現在日本で使われている発音とほぼ同じになる。

ところで、ハングルは日本語よりも発音の種類が多いため、あらゆる言語を表記できると言語学者が言ったとか言わないとかで、その例としてインドネシアの文字を持たない少数民族チアチア族が、2009年に彼らの言語を表記する方法として、ハングル文字を採用したことが、明るい話題としてニュースでも取り上げられた。

しかしながら、チアチア語の音声をハングル文字で表記しただけなので、韓国を表敬訪問したチアチア族の皆さんと、迎えたソウル市長達の意思疎通は、お互いの国の言語では出来るはずもなかった。

また、ハングルで表記する英語の発音に関しては、「ds」をジュ・「f」をプ・「ts」をチュ・「th」の濁る方をドゥ・「sh」をシというようにしか発音できないため、日本人同様、英語が通じなくて苦労しているようである。

両国の外来語の発音が大きく違って通じにくいことも、発音の種類が違うことに起因していることは明らかだ。

あ行からいくつか例を挙げてみると、アパート→アパトゥ、アフターサービス→アプトゥソビス、アイスコーヒー→アイスコピ、イメージアップ→イミジオップ、エアコン→エオコン等など、個人的には4,5回言ってみて、ああそうかと分かることが多い。