2016年4月7日木曜日

逆さ傘か坂の女(ひと)by Miruba

暖かいと思うと寒さが戻り、昨日外したスカーフをまた首に巻きました。
玄関を出ると雨でした。
まだ人影はないようでしたが、サッと門の前を自転車が通り行き、ビニールの雨合羽が翻がえりました。
薄暗い早朝に音も無く忍び寄る霧のような雨でしたので、家の外に出るまで気がつかなかったのです。
傘にするか、フード付きのコートにするか一瞬迷いましたが、着替えている時間は無いので傘にしました。
駅への坂道を降りていきます。
たとえ傘を差したところで霧雨は軽い風にあおられて容易に傘の中に滑り込んでくるのでした。
時に顔にかかる水滴を睫毛にまで感じながら、軽く手で水気を抑えながら、なんとなく化粧が気になるのでした。


坂の上にある自宅から駅までの路の両側に並ぶ家には桜の木を植えたところが多く、街路樹のように連なっています。
先週の暖かさが桜便りを運び、このあたりもぼちぼち咲き始めたのですが、
この雨が花冷えを誘い3分咲きの桜は蕾をまた閉じてしまったように見えます。

それでも生垣のベニカナメモチの赤い若葉と桜の白っぽいピンクとのコントラストが灰色だった景色を明るく彩ります。

ふと、すたすたと私を追い越していく女性に、目を奪われました。
景色を味わっていた私はいつもより歩調がゆっくりでしたから、
別段追い越されて不思議はありませんが、その女性の所作に異様を感じたのでした。

傘を広げてはいるのですが濡れないように差すのではなく、まるで雨を溜めるように傘を逆さにしているのです。

_そうか、下から雨が舞い込むから坂の下から噴き上がって来る雨粒を避けているのよね_
私は自分に納得させる為にその行為に理由をつけました。
それにしては傘の中に溜まった水をまるでこぼさないようにするような坂を下りる逆さ傘。
彼女自身には吹き上げる霧雨にも天からの雨からも遮る物が無いといえるでしょう。
何の為の傘でしょう。

顔はすでに通り過ぎたのでわかりませんでしたが、後姿の美しさに魅了されます。

桜絵をちりばめたウメネズ色の着物が季節をあらわし洒落ていて、襟足も美しくすっきりと結い上げた髪が少しほつれ風になびくのです。
衣擦れの音がこの湿り気の中でも聞こえるほどでした。
けだしが翻るほどに急ぐので草履がまどろっこしくなったのか、片足ずつまるで天気を占うように、ポーンとほうりました。
片方は晴れ、片方は雨でした。
_あたり_などと思いましたが、流石に少しだけ気味が悪くて立ち止まる私でした。

それもほんの一時でした。坂が終わりかけていたので、女性が角を曲がってしまうと、また景色は静寂です。
夢でも見ていたのでしょうか。転がった草履が雨に濡れているのを見ても、現実感がありませんでした。
_桜の精が悪戯をしたのかもしれない。_私は軽く頭を振って先を急ぎました。早番の仕事に遅れそうです。


夕方になっても雨は止むことなく続いていました。
気温が上がってきて桜も生き生きと見えます。反対にこちらは疲れ切った状態です。
それでなくとも一日の終わり、買い物をしたので登りの坂道は少しきついのです。
重くなったスーパーの袋を持ち直し、そぼ降る雨から濡れないよう、肩の上で傘を移動させていると、声を掛けられました。

有無を言わさぬ印籠のような警察手帳を見せながら、二人の屈強そうな男たちが私の行く手を阻むように立つのです。
「済みませんが、お話を聞かせていただけませんか、お時間は取らせません」
あまりすまなそうでも無いその言い方に_時間が無いので_と断りたかったのですが、次の言葉にはっとしたのでした。
「いつもこの坂をお使いになるのですよね。今日も朝早くに通ったのでしょうか?何か見ませんでしたか?」

見なかった事にしたかったのですが、私は結局今朝見た逆さ傘の坂の女の話をしました。
事件があって自首してきた女の話を裏付けるものを探していたと言うのです。
「ただ、草履はどこにもありませんでした」

出頭するときに持っていた傘に被害者の血が着いていたのだそうです。
ああ、そうか、と思いました、血液が雨によって流されるのを防ごうと逆さ傘だったのだわ。
「自分は間違いなく犯人だ。逃げるときに女の人とすれ違ったから探してほしいと、容疑者の女が言いましてね」
といった女の話もまた奇妙なニオイがしました。
私に印象を残す為の芝居だったのではないのかしらと感じました。
草履は高価そうでしたから、誰かが持っていったのかもしれません。



その女は坂の上にある恋人の家に通ってきていたのだそうです。
で、事件は起こったのでしょう。夫がその女の恋人を殺してしまったので、罪の意識から夫を庇った、とか。
子供がいて、母親の恋人が気に入らなくて・・・それを庇ったとか。

色々想像しましたけれど、本当はどういう理由だったのか、詳しくは警察も教えてくれないし、新聞にも出ませんでした。


今朝も霧のような雨でした。
すでに桜は満開を過ぎて、桜の花びらが地面いっぱいに落ちていました。
玄関の中でフードつきのコートを羽織っていたら、通りをサッとビニールの雨合羽を羽織った人が行過ぎました。
デジャヴュ
そうでした。あの逆さ傘か坂の女を見かけたとき、その少し前、自転車の男を見かけたのでした。
ビニールの半透明の自転車用雨合羽にピンクの模様が入っているように見えたのは、アレはもしかしたら、返り血を浴びていたからなのかもしれません。
面倒ですが、ちょっと交番に寄って行こうかしら、と考えました。

桜の景色の似合う寂しげな後姿のあのひとは、これからどうして生きていくのでしょうね。

桜たちは毎日色々なドラマを見ているのだろうな、なんて思ったりしました。
_おどろおどろしいのは嫌だけれど、どうせなら私にも、少しはドラマチックな話が無いかしら_とつぶやきながら、潔く散った桜の花びらを踏み、早番の仕事に向かうのでした。

2015年12月28日月曜日

2015年流行語・大誤解 by 夢野来人

【爆買い】:戦争を前に武器弾薬、爆弾を買い漁る様。

【トリプルスリー】:産前産後産休を取ること。

【アベ政治を許さない】:あべまさはるくんのお母さんの言葉。

【安心して下さい、穿いてますよ】:誰も心配していませんよと同義語。

【一億総活躍社会】:大阪発祥の焼き肉屋がとんかつ屋さんを展開し、全国制覇を成し遂げようと考えたスローガン。正しくは「一億総カツやさかい」である。

【エンブレム】:日本語では、縁触れ無と書く。誰の考えたものともご縁に触れることはありませんよという意味。

【五郎丸ポーズ】:五郎丸が姓であることにもびっくりしたが、名前がポーズとカタカナだったことには衝撃である。この男ハーフかもしれない。

【SEALDs】:自由と民主主義のための学生緊急行動。つまり、sexual doing scrambleあたりか(違うやろ)。

【ドローン】:忍者のように飛び回り、忍術を使って消え去る。消える時の音が、ドローンというらしい。

【まいにち、修造!】:それは、イヤだぞう!

2015年11月20日金曜日

いつものように by Miruba

Photo by Mr. Takao
フランスのテレビを見ていたら、クロード・フランソワの物真似をする人が出てきた。歌も姿もそっくりで、なんだか可笑しくて笑ってしまう。 

クロード・フランソワ(Claude Francois)はクロクロという愛称でも知られた1960年代から1970年代にかけてのフランスで、もっとも人気があったアーティスト兼音楽プロデューサーだ。ディスコをフランスで流行らせたのもこの人だと言われている。
クロードはエジプト出身のフランス人だ。
その先祖は支配階級だったようで幼少期は裕福な家庭だったが、革命で王政が倒れるとすべてが国有化され、クロードの家族も難民同然にフランスに移住してきた。父親が貧困の中にありながら支配階級だった過去を捨てきれずにいたことがクロードにとっては悲しい滑稽に映ったのだろうか。息子が銀行員になることを願った父親はクロードが歌手になってからは口もきかなかったという。

クロードはアパートの部屋で、シャワーを浴びていて、感電死をしてしまった。
2人の幼子を残し、39歳の若さだった。

代表曲のひとつに、「Comme d'Habitude(コムダビチュード)=いつものように」がある。
この曲をテレビで観たポール・アンカが、クロードに曲を使わせてほしいと頼み、英語の歌詞を付け直して「マイ・ウェイ」と言うタイトルにして、フランク・シナトラにも歌わせた。
マイ・ウェイは世界的にヒットし、エルビス・プレスリーや、日本では布施 明などにもカバーされたが、その歌詞となると、これほどまでに違うのか、と言うほどだ。


この歌をクロード・フランソワが作ったとき、「夢みるシャンソン人形」で有名なフランス・ギャルとの破局をむかえていて、仮面カップルのアンニュイな思いと、永久不変と思われた愛の儚さを表現し、それでも日々は音も無く続くのだと、平凡を歌い上げるクロード・フランソワの歌詞は、シナトラや布施明の力強い未来に向かっていく歌詞とは違うけれども、切々とした人生の応援歌であることが伝わってくる。

喜劇とは人間の悲哀の中にこそあるのだな、と思わせる。
クロード・フランソワが音楽の世界で商魂逞しかったのも、ビジュアル系でキラキラと派手な衣装を着て飛び跳ねて踊って魅せたのも、人生の悲哀と喜劇が背中合わせだということを知っていたからかもしれないと思うとき、この「Comme d'Habitude(コムダビチュード)=いつものように」と言う曲を聴くたびに、自然に涙が溢れてきてしまうのだ。

苦しい事も辛い事も悲しい事もある毎日だけれど、いつもの通りの生活を送れることが、どれほど大切なことか。
毎日の変わらない日々にこそ笑える幸せな人生が詰まっているのではないか。

世界中にテロの荒波が押し寄せ、なんでもない日常が当たり前では無い状態にあり、難民が溢れる昨今、難民でもあった亡きクロードフランソワからの贈り物「いつものとおり」が余計に身にしみてしまうのだ。


【いつものように】 訳詞:カズコリーヌ
僕は起きて君を押す
君はいつものように目を覚まさない
僕は君の上にシーツを引き上げる いつものように
君が寒くないように
僕の手は君の髪をなでる
殆ど僕の意思とは反対に いつものように
でも君は僕に背を向ける
いつものように
そして僕は急いで着替える
いつものように、部屋を出る
一人でコーヒーを飲む、
いつものように、僕は遅れている
音を立てずに家を出る
いつものように、外はすべて灰色
寒い、僕は襟を立てる
いつものように
いつものように、一日中、
僕は何かをするフリをするだろう
いつものように僕は微笑むだろう
いつものように僕は笑いさえするだろう
いつものように僕は生きるだろう
http://chansonzanmai.blog27.fc2.com/category62-1.htmlより

2015年10月17日土曜日

パリのカフェ物語10 by Miruba

Chapitre Ⅹ【パトロンヌ】

友人と待ち合わせをした。
メトロ Rique リケという駅だった。

この駅の近くには北ホテルで有名なサンマルタン運河やそれに連なるウルク運河などがあるのでつけられた名前なのだろうと推察できる。
と言うのは、世界遺産にもなっているフランス南部に位置する「ミディー運河」を設計考案したのが、ピエール・ポール・リケという人だったからだ。運河つながりというところか。

Canal du Midi(ミディ運河)とは、南仏トゥールーズから、地中海にまで向かう支流を含め総延長 360 km に及ぶ運河である。
17世紀中ごろ作られた運河で、19世紀に鉄道が出来るまで、大西洋と地中海との間を船舶で結ぶ、重要な輸送ルートだった。
この運河のおかげで、運河沿いの地区の産物の流通が盛んとなり、ボルドー、サンテミリオンなど、世界的に有名なワインの発展に大きく寄与した。
だが、当時の最先端の土木工事は難航を極め、資金も不足がちで、Riqueリケは自分の全財産をつぎ込んだ。
それにもかかわらず、その完成を見ることなくこの世を去っている。
幸いなことにリケの息子が引継いでリケの死約一年後にミディ運河は完成したという。


その運河は19世紀以後は観光船を通すことで発展を継続してきた。今も行き交う観光船に乗る観光客で賑わっている。



私は毎年自名入りのワインをケースごと頼むのだが、
どんなところで作られているのか見たいと思いその生産地ボルドーに寄った帰り、トゥールーズへ足を伸ばしたことがある。


ミディ運河沿いを散歩し、ふと寄ったカフェ。
近代的なカフェだった。
セルフサービスタイプになっていてカウンターにサービスの女の子が居て、座る前に飲み物を注文し、支払ってから好みの席に座るという、スタバなど現代のカフェ専門店のシステムだった。
当時は「このタイプのカフェって、ギャルソンを好むパリでは無理だろうな」と思ったものだ。

私はビールを頼んで運河の見える窓辺に座った。
暑い夏なのに、運河を通ってくる風は涼しい。


先ほどのカウンターの女の子が「Mere(メール)、ありがとうございます。助かりました、なくなってたのよ」と、なにか材料を受け取っている風だ。
フランスではママンと言う言い方が多く「お母様」をあらわす「メール」と言う呼び方は珍しいのでつい、振り返ってしまった。

そして私が振り向いたことで、その「メール」は私を見た。
「アッ」「Oh la la!C'est vous・・オララ!あなたは・・・」

懐かしいその年配の女性は私のパリの自宅近くにあったカフェのパトロンヌ(店主)だったのだ。
ある日突然閉店をしたため彼女がその後どうしているのかと時々カフェの前を通ると思っていたものだ。

パトロンヌのご主人はカンボジア内戦のとき派遣されたフランス軍の兵士として戦闘に巻き込まれ亡くなっていた。
さらにそのご主人との子供を交通事故で亡くし、加えて愛するその子を可愛がってくれていた恋人が、交通事故を起こした加害者を口論の末刺し殺し刑務所に入れられてしまった。

飛び出した子供が悪いのだと正当性を訴えるばかりで悔やみの言葉すらなかったことが理由だったため、情状酌量を願い出たけれど、結局10年の刑で服役していた。

パトロンヌは恋人を待っていたのだが、刑務所から出てくると言う一ヶ月前になんとその恋人は病気で亡くなるという悲しみに見舞われた。
度重なる不幸に彼女は店を閉めどこかに居なくなっていた。


「心配したのよ。元気でしたか?」

「ええ、ありがとう。あの時は自暴自棄になったけれど、結局カフェをやるしかほかに何も出来ないのでね」

流れ着いたこの町でカフェに勤めていたら、今のご主人と知り合ったのだと言う。ご主人は没落した公爵の子孫だとのことだ。
それで「Mereメール」なのかと納得がいった。世界中、上流階級の人は言葉使いにはうるさいもののようである。

「あの子は主人の子供なのよ。元公爵と言っても城を維持するだけで大変なので市に寄付してしまって、門番小屋に住んでいる始末よ。
それでも私のパリの住まいなんか比べ物にならないくらい豪邸なのよ、門番小屋なのに」と笑った。

カフェを出すお金はご主人が出資してくれたらしい。
人を雇う余裕が無かったのでセルフタイプのカフェにしたら意外に好評で、今では娘さんがアルバイトで継続してやっているという。
娘さんがアメリカ留学で居なくなれば、別のアルバイトを雇うからいいのよ、と笑顔だ。

「あなたの子供達は元気?下の子はまだbebeベベだったわ」とパトロンヌが聞いてきた。

学校の向かいにあった彼女のカフェには娘達も良く連れて行ったので知っているのだ。
「上の子は今カナダにボーイフレンドと旅行中。下の子は修学旅行でスペイン旅行よ」

「大きくなったでしょうね。」と懐かしげに目を細めてくれる。


「幸せそうで良かったわ」と別れ際に言うと、「あなたも、お元気でね」そう言ってハグをしてくれた。

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「お待たせ」友人が汗を拭きながら現れた。

「あわてなくていいのに、、待ち人は来てくれたらOKよ」

メトロ Rique 近くのウルク運河のカフェはセルフサービスになっている。
あのパトロンヌの南仏のカフェにそっくりだ。

久しぶりにビエール・ペッシュを頼んだ。
今、あのパトロンヌは元気かな、ふと思った。
絶望の果てにつかんだ幸せ。
いつまでも幸せで居て欲しいと願った。

FIN


2015年8月22日土曜日

パリのカフェ物語9 by Miruba

<待ち人>

娘がマテルネル(幼稚園)に通いはじめた頃のことだ。
私達両親が日本人では、同じ年頃のフランス人の友達が出来ないだろうと、早くから通わせた。
マテルネルはオシメが取れていることを条件としていたので、大体2歳くらいから入ることが出来る。
まだおしゃぶりやビブロン(哺乳瓶)を口にくわえたまま通ってくる子もいる。
それ以前の生後直ぐから2歳までを預かってくれるクレーシュ(託児所)と、レコールプリメール(小学校)も
仕事を持つ両親が年齢の違う兄弟達を迎えに来易い様にまとめて隣接し建てられている。

日本と違って安全は個人責任だから、両親が朝晩と昼食の送り迎えをしなくてはならない。
1人で通わせたりすると、育児放棄虐待とみなされることがある。
仕事のある忙しい親に代わって送り迎えと、学校給食を頼まない場合追加でお昼を食べさせてくれる行政の認可を受けた個人託児家庭が一般にある。
大抵は自分も子育てをしている同級生の専業主婦が3,4人まとめて面倒を見る、という場合が多いようだ。

幼稚園の道路を挟んだ真向かいに、カフェがある。

娘の送り迎えは朝・夕・お昼と4往復するわけで、送った後買い物に行き自宅に戻らずお昼のお迎えをする時など、カフェで時間調整をしたりした。

近くに商業ビルやホテルもあるので、仕事帰りのサラリーマン・サラリーウーマンや工事中の作業服姿の人たちが
カウンターで一杯飲んでいたり、夜はビストロ風になり食事を楽しむ観光客や家族連れがいたりでいつも賑わっていた。

夏の暑い日は娘に時々アイスクリームを食べさせに寄った。
私はビエールペッシュ(桃のシロップとビールを混ぜたもの)だ。

「Avec ta maman?c'est bien.T'es contente,n'est ce pas?」
テラスに座る娘にマダムがママと一緒でいいわねと話しかけてくる。
この女性がパトロンヌ(店主)だった。
特別愛想がいいという訳ではなかったが、上品な感じの美しい中年の女性で、うっすらと汗をかきながらいつも忙しそうだけれど細やかな気遣いをする彼女と話したい男達でカウンターはいつも立つ場所がないくらいだった。

「うん、パパが出張なの」
「オララ~、【出張】だなんて難しい言葉知っているのね、えらいわ」
などと子供好きではあるらしく、忙しいギャルソンに代わってアイスはいつも彼女がカウンターから出てきて運んでくれた。

「マダムのパパも出張?」と3歳の娘。
「あはは、そうね、長いこと天国に出張しているわ」
そして私に向かってつぶやいた。「恋人もね、出張なの、もう7年になるかしら」

「え?亡くなったの?」と問いかけた私に、「いいえ」と言ったきり、カウンターに戻ってしまったので、その後があやふやだったが、何年も通ううちに、少しずつ聞かせてくれた。
私がまともにフランス語も話せない外人だったからむしろ、語ってくれたのかもしれなかった。

パトロンヌの両親はパリ市内でカフェをしていた為、彼女がカフェを継いだという。
客だった男性と結婚し子供が出来て直ぐに、兵隊だった夫はカンボジアの内戦に巻き込まれ亡くなってしまった。

シングルマザーの彼女を支えてくれたのが恋人だった。
彼が子供を可愛がってくれたので、彼女は再婚も考えていたらしい。

ところが不運なことに子供が交通事故で亡くなってしまった。
どれほど辛かっただろう。
それも、自分がカフェをやっていた為に、子供が道路に飛び出したことに気がつかなかったのだという。
さらに彼女を不幸が襲った。

子供を可愛がってくれていた恋人が、車を運転していた加害者の態度に反省の色がないことを許せないといって
こともあろうに刺し殺してしまったのだ。
情状酌量を願い出たが、実の子供というわけではなかった為に、有罪判決を受けたのだった。

彼女はパリのカフェを売り、学校の見えるこの場所で彼を待つ新しいカフェを始めた。
学校の前に道路があるが、そこを子供が多く通るというので、日本で言う<緑のおばさん>を設置するように進言したのもこのカフェのパトロンヌだった。




「もう直ぐ出てくるのよ」
嬉しそうにしていたのに。

いつも何者にも動じない風情のパトロンヌが、そわそわして、客にも「マダム、恋人でも出来たのか?」などと
冷やかされるほどだったのに。

刑務所から出てくるほんの一ヶ月前に、愛しい恋人は脳溢血で帰らぬ人となったのだった。
なんということだろう・・・
その日からパトロンヌの姿を見ることはなかった。

暫くカフェは閉まっていたが、ヴァカンス開けに再開したときは店主が変わっていた。

その後駅前に大型の商業施設がはいったので、商店街はすっかり錆びれ、カフェの客も激減した様子だった。
娘たちが大きくなって幼稚園・小学校の前はパンを買いに行くときだけ寄るようになって、
短い間に何代か変わったカフェには入っていない。

マテルネルの前にあるカフェは、今ではどこの国のカフェかわからない変な音楽が流れ、足を向ける気にもなれない。


子供達との思い出のカフェ。
あの懐かしいパトロンヌは、今、どこでどうしているだろうか。
どうか、幸せで居て欲しいと願うのだ。

2015年8月14日金曜日

御美子の韓流怪談「工業団地」


 私は当時、ソウルの塾で早稲田大学入学を希望する韓国人高校生達の英語クラスの講師をしていた。

 この話は生徒のガヨンちゃん(仮名)から聞いたものである。

 ガヨンちゃんはソウルで生まれ育ち、教育熱心な母親のすすめで、高校からはソウルから車で2時間ほどのところにあるインターナショナルスクールに入学した。この学校は帰国子女や、それに相当する英語力のある子供達向けに、新しい埋立て開発地に、鳴りもの入りで建てられたものだった。ソウルからはアクセスが悪いため、学生寮に入る学生も多かった。

 新入生オリエンテーションの夜。ガヨンちゃんたち寮の新人は、先輩たちに連れられて寮の屋上に来ていた。歓迎の夜景見学会はオリエンの恒例行事のひとつともなっていた。
この一帯の埋立地には、計画的に高層ビル群が建てられている。みんなはその美しい夜景にしばし見入った。
そのときだった。ガヨンちゃんは、ふと東側からの風に違和感を感じた。その方向に顔を向けると異様に暗い地域がひろがっていることに気がついた。物怖じしない性格のガヨンちゃんは、思いついたまま聞いてみた。
「先輩、あの暗い一帯には何があるんですか?」
近くにいた一人の先輩に聞いたつもりだったが、先輩全員が一斉にガヨンちゃんの方を振り向き、訊ねたガヨンちゃんの方が一瞬ひるんだ。
ひとりの先輩が答えた。
「ああ、あそこは南洞(ナムドン)工業団地よ。工場の退勤時間は早いから暗く見えるのよ」
と言った途端、先輩たちが一様に安堵の表情を見せたのが逆に心に引っかかった。

 翌日、クラスメイト達と学校のカフェテリアでランチを食べていると中の一人が言い出した。
「ねえ、工業団地の噂、知ってる?」
ガヨンちゃんは昨夜の先輩たちの態度が気になっていたので、思わず聞き耳を立てた。
「あそこの下にはたくさんの死体が埋まってるんだって」
「ええっ?」
「あの一帯は政府から安く払い下げられたから、いまは、小さな町工場が集中しているんだけど、安く払い下げられた理由は、あそこの地下には朝鮮戦争の時、軍の秘密施設があったからなのよ」
「秘密施設って?」
「北のスパイと疑われた人たちを拷問する施設。いまでもその人たちの死体がたくさん埋まっているそうよ」
「やっぱり、あそこは普通じゃなかったんだ」思わずつぶやいた。
「何、何?どうかしたの?ガヨンちゃん」
「昨日屋上から見たとき、嫌な感じがする一帯があって、そこが南洞工団だって先輩が言ってたから」
ガヨンちゃんはクラスメイトを怖がらせないように明るく笑ったが、実は昨夜から突然の頭痛に悩まされていた。

 その後も軽い頭痛が続き、誰にも相談できないまま、1学期が終わった。夏休みのため、母親が車でキャンパスに迎えに来てくれた。車がキャンパスを離れると頭痛は収まったが、高速道路が工団近くに差し掛かると、いつもより激しい頭痛にみまわれた。
やっぱり頭痛の原因はここにあるんだ!ガヨンちゃんは、これまで半信半疑だったが、もう認めざるを得なかった。ソウルの自宅に戻ると頭痛はすっかりなくなっていた。

 新学期が始まり、ガヨンちゃんは暗澹たる気持ちになっていた。学校に戻ると、また頭痛が始まったからだ。しかし、それより驚いたのは、カフェテリアで工団の話を教えてくれたクラスメイトが、退学していたことだった。出身校がバラバラな学生が集まっているので、「なにか事故にあった」という理由以外、消息も尋ねようもなかった。

 その後、ガヨンちゃんは生徒会活動に参加するようになった。
その宿泊研修会が、キャンパスを離れて田舎の修練院で行われた。ここでは、ガヨンちゃんは頭痛も消えて、いつになく饒舌になっていた。
「先輩、やっぱり空気が綺麗なところはいいですね。いつも頭痛に悩まされているのが嘘みたいです」
その途端、他の先輩たちまで一斉に振り返った。新入生オリエンテーションの夜のことが蘇り、ガヨンちゃんは思わず身構えた。
「学校にいると、いつも頭痛がするっていう意味?」
「いいえ。たまにです」とっさにウソをついた。
「よかった。いつもだったら、先生に相談しなければならないわ」
「何故ですか?」
「過去にそんな生徒が何人か出て退学になったから」
「先生に相談したら、退学になるんですか?」
「心の病気だと判断されたらね」
ガヨンちゃんは怖くなって、急いで話題を変えた。頭痛にはなにか秘密があり、頭痛がすることを話してはいけないのだということをこのとき確信したという。

 高校3年生になり、進学先を早稲田大学に決めたガヨンちゃんは、学校の授業がない週末に、私の早稲田大学英語対策クラスに通うようになった。彼女は、講師の私の間違いを指摘するくらい頭脳明晰だったが、頭痛が理由での欠席が目立ち、留学できるのか心配していた。何回か講座に通ううちに、私たちはいろいろなことを話すようになった。そして、先の話をしてくれたのだ。私が、正式な教師ではなく臨時の講師であったということもあるのであろう。
「自分なりに調べてみたんですけど、この学校の土地の埋立てには工団地帯の土も使われているらしいんです」
ともガヨンちゃんは言った。

 拷問で殺された人の中には若い人も多くいたということだ。
 浮かばれない霊の仕業なのか、それとも、強大な無念の思いや恨みの念の集積が、同世代の若い学生にだけ、なんらかの形で影響を与えたり、厄災をもたらしたなどということがあるのであろうか。

 その後、ガヨンちゃんは、無事に早稲田大学に合格し日本でのキャンパスライフを謳歌した。頭痛はすっかりなくなったという。

 一昨年韓国で、修学旅行中にフェリー転覆の大事故に遭い、多くの犠牲者を出した高校があった。その高校も工団からさほど遠くない距離にある、ということは、事故とは無関係であると信じたい。


<この物語はフィクションで、登場する人物,団体名等は実在するものではありません>

2015年5月10日日曜日

「譲り受けた想い」 by Miruba

街中を通り畑や林を抜け田舎屋を左右に見てカーブを行くと、突然のように海が見える。
朱塗の大きな橋を渡る。いつの間に通行料を取らなくなったのだろうか、昔あった料金所が無くなっていた。

5月の太陽に光り輝く海原を左右の視界に入れながら車を走らせる。
橋を渡り終えると道路脇が色とりどりのツツジの壁絵となって去っていく。
少し暑くなって窓を開けると爽やかな海風が飛び込んできて潮の香りとともに修の頬をかすめた。

海の景色を離れ内陸にハンドルを切ると直ぐに林の中へ。
木々が鬱蒼とし、その中に隠れるようにひっそりとした佇まいの家が見える。
修の実家だ。

だが、誰が迎えてくれるでもない。
鍵をあけ、締め切りにしていた雨戸をガタガタとさせながら開放し、無人の部屋独特のかび臭い空気を新鮮な外の大気と入れ替える。

「帰ってきちゃったな」

少し西に方向転換した太陽の陽差しを縁側で受けながら、庭にある八朔の木を眺めた。
採る人も無い沢山の実が橙色を増して美味しそうだ。
その下には昨年の実が落ちたのだろう、そこ等じゅうに八朔が芽吹いていた。
_あとで草刈をしないとだめだな_修はつぶやく。

親代わりに育ててくれた兄が独り身のまま亡くなって、田畑と家の相続をしてしまったのだ。
余程手放してしまおうかと思ったが、当時は仕事が忙しくそのままにしてあった。
兄が亡くなって、もう4年目に入ろうとしていた。

長年勤めていた会社が定年間際に倒産してしまい、
「こんなはずじゃなかった」とお嬢さん育ちのわがまま女房は、親の家に行ったきり帰ってこないし、子供は高校の時から自分で決めた外国暮らしで、すでに基盤は向こうだし、人生のはしごを外された気がして、修は都会から逃げるように実家に来てしまったのだった。

何か当てがあるわけではない。
失業保険をもらいながらどこかに職を見つけることにする。
年齢がネックになってスキルを行かせる仕事など見つからないだろうとは想像したくも無い。

部屋は突然亡くなった兄のものが、今にも畑から帰ってきそうなほどに、そのままになっている。

両親の思い出があまり無い修は、兄が親のようなものだったから、つい甘えていたのだ。
自分の孤独に押しつぶされそうな思いで居る修は、一人暮らしで兄は寂しくなかったのだろうかと思った。
兄の愛用していた安楽椅子に座って、_もっと頻繁に帰ってきてやればよかった_とつぶやく。


兄の部屋は物が溢れていて、本当に大切なものだけ残そうと片付け始めた。
意外に手間取り10日経っても終わらない。それでも就職の決まらない不安な気持ちをかき消すには、片付けは最高だった。
両親の書類や写真は捨てられない。兄の子供の頃の成績表もあった。修よりはるかに成績が良かったようだ。_まけた〜_などと独り言を言いながら、修は部屋が段々綺麗になっていくことが楽しくなっていた。

そんな時、日記を見つけてしまった。
修のことが書いてある。ついつい読みふけってしまう。


無口だった兄が日記の中では意外におしゃべりだと言うことをはじめて知った。
兄には好きな人が居たようだ。
_マリアベルナデット島田あき?_カトリック教の洗礼名か。
選りに選って相手はシスターだった。
だから兄はずっと独身だったのだ。
修は、それでもほっとしていた。あの不器用な兄が恋をしていたんだ。そう思うと心が穏やかな気分になる。

日曜日、近くの教会に行ってみた。
子供の頃兄に連れられて日曜学校に通ったが、都会に出てからは教会になどクリスマスにも行ったことがなかったのだ。
なんとなく、神に祈りたい心境だった修は(これが困ったときの神頼みか)と自嘲しながらミサに参列し、賛美歌を歌うシスター達のなかに、島田あきさんはいるだろうか?と思いながらも、流石にシスターに「島田さんという名前ですか?」とは尋ね辛く、そのまま散歩がてら町のほうへ歩いた。


途中畑やこれから稲を植えるのだろう、水を張った段々になった田んぼなどが見える。
だがそれと同じくらい荒れ果てた休耕田、荒廃地もみえる。農家を続ける後継者が居ないのだろう。
困ったことだな、と修は自分が都会に出ていたくせに思う。


菜の花が咲く一角があった。水の枯れた休耕田には雑草が背の高さほどもある。
足を止めて見ていたら、「あれ〜修君じゃないの?」と腰の曲がったおばあさんが声を掛けてきた。
いい年したオヤジを捕まえて「くん」も無いだろうが、昔からの知り合いで「駄菓子屋のおばちゃん」とみんなで呼んでいた人だった。
懐かしさに笑顔が浮かぶ。もうすっかりおばあさんになっている。修が子供の頃教会でもよく見かけたのだ。

「修君兄さんにそっくりになったね」と言う。
「そこの菜の花が咲いてるとこ、修君の兄さんが田植えしてあげてたのよ」

_え?田植えして、あげた?_

「そこの土地は教会のものですもん。昔はシスター達が自分達のお米は自分達で作っていたんだけれど、段々と農作業をするシスターが居なくなってねぇ。シスター達も贅沢になっちゃうのかしら。
修君の兄さんがシスター達の為に田植えをしてお米を作って上げてたのよ。
信者さんなんか沢山居るのにね誰も手伝う人が居なくてね、まぁ、ボランチアっていうの?あれだね」

「そうだったんですか、つかぬ事を伺いますが、シスターの中に島田さんっていましたか?」

「え?島田さん?はてね、洗礼名しか知らないからね」
「兄がお慕いしていたようなんですが」
「え?シスターを?それはないだろうよ。修君の勘違いだよ。兄さんは皆さんに優しかったからね。
でも、御心(みこころ)を同じくしていたと言えば、さてねぇ・・・・あの亡くなったシスターかね〜いや、年が合わないね〜
もしかしたら、あっちのシスターのことかもしれないね。
なんでも偉くなってね、外国の法皇様のところへいらしたようだよ。それっきり帰ってこなかったみたいだけれど」
頭を左右にかしげながらおばあさんは頭の中の過去帳から搾り出してくれた。


その女性だと修は思った。


日記にもシスターがローマに行ってしまう、とその寂しさと苦悩が書かれてあったのだ。

現役の頃出張で何度かヴァチカンを訪れ、キリスト像などをお土産に贈ったものだが、
あの時兄は何を思ったろうか、と修は兄の心を慮った。

夕暮れ色に染まる畑を眺めていたら、兄の悲しそうな顔が浮かんできた。
修は、急に喉の奥に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。どれほど切なかっただろうか。
兄の遺影と一緒に酒でも酌み交わそうと修は商店街へ足を向けた。



「修君、精がでるねぇ、もう田植え?」
「ああ、駄菓子屋のおばちゃん。去年もダメだったけれど、今年はなんとしても良い米にしたいからね」

修は、兄の代わりに農作業をしていた。
もちろん初めてのことばかりで失敗も多いのだが、長期プロジェクトと考えて何とか少しずつこなしている。


教会の土地も初めて見た日の翌日には機械を買って田んぼつくりをはじめた。
だが土地がやせてしまっていたので不作は続き。
土地の人のアドヴァイスを受けたりネットでの勉強を重ね、3年目の今年はなんとかいけそうだった。
市役所のアルバイトをしているのだが、早く仕事が終わるので、農作業も出来る。
女房は相変わらずだったが、外国に住む息子も、昨年はヴァカンスに家族を連れて一ヶ月ほど滞在してくれた。
一人暮らしもやっと慣れてきていた。



一旦作業を終えようと靴を履き替えていると、見慣れないシスターが佇んでいるのに気がついた。


「あの、失礼ですが、修さんですか?」
「はい」
「お兄さんに優秀な弟さんが居るのだと、よくお噂を伺っていたのです。お兄さんによく似ていらして少し驚きました」
「いや、お恥ずかしい。兄は身びいきでそう言っただけで、私は優秀なんかじゃないんですよ」

修は直感した。
このシスターがマリアベルナデット島田あきさんなんだ、と。
顔に年齢を重ねたシワは見えるが上品な美しさがその凛とした姿勢とともに近寄り難い印象を受けた。
だが、話していると、その穏やかな話しぶりに引き込まれてしまう。


シスターはヴァチカンで過ごした後、秋田と東京の教会に配属になり、またこの地方に戻ってくることになったという。
修の作業を手伝うと言い出した。ベールはしているが、服は作業がしやすいような短めの洋服になっている。
最近は修道服を着ない宗会派もあるのだという。
苗をすべて植え終わると、畝に囲まれた水の中に綺麗に並んだ苗が春の日差しを受けて輝いている。



「シスター、兄はシスターのことが好きでした。」

修はどうしても告げたかった言葉を投げかけた。


シスターは長い沈黙の後、青空を見上げ、両手を合わせてささやくように言った。

「お兄さんのお心に触れたとき、たった一度だけ、修道所を離れようと思ったことがございました。」



兄との交流はシスターがヴァチカンに配属されたことで終わったことだったのかもしれない。
それ以上シスターの口から話される事は無かった。
だが、修はその言葉を聞いただけで満足だった。兄もきっと喜んでいるだろう。


修は兄の変わりに、これからもずっと水田に苗を植えていこうと、思った。

シスターと同じように見上げた青空に、兄の笑顔がふっと浮かんだ気がした。