2011年10月28日金曜日

かくれんぼ by やぐちけいこ


編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の執筆陣達が挑戦しました。今回のお題は「まつたけ、化粧、虫」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。今回は、やぐちけいこさんの小説をお楽しみください。

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季節は新緑が似合う時期を過ぎ、木々が赤や黄色と自己主張をし始めた頃のお話。

山のどこかで松の木母さんの声が聞こえた。
「さあ、坊やたち。これからかくれんぼを始めるよ!頭は絶対出しちゃだめ。頭を隠したい子は落ち葉を頭にかぶせときな。ほら足音がそこまで来ている。大人しくするんだよ」
カサカサと足音と共に今年も松茸を探しに人間がやってきた。


子ども達はわくわくと身を潜める。
毎年同じお爺さんが腰を曲げながら松茸を探しにやってくる。本当に必要な分だけ捕っていく。そして松の木を見上げいつも声を掛けてくれるのだ。


「松の木よ、今年も豊作かい?お前の周りには毎年たくさんの松茸があるから助かるよ」
それに応えるように風が松の葉をザザーッと揺らす。
「どれ、この辺りかな」と一つ松茸を籠に入れる。「わあ、見つかっちゃったあ」楽しそうに籠の中で騒ぐ。子ども達が籠の中でぎゅうぎゅうと身動きできなくなる頃、お爺さんは痛む腰をトントンと叩き帰り支度をする。
「松の木よ、今年はこれだけ頂いて行くよ。また来年も頼むよ」そう言いながら松の木を軽くポンポンと叩き山を下りていく。


昔松の木はこのお爺さんに傷ついた枝を治療して貰った事があった。その翌年からこのお爺さんにだけ松茸を分けているのだ。可愛いわが子をこの人になら渡せると思いながら。


根元にいる虫達は「今年の秋もそろそろ終わりだね」などと冬支度に忙しい。
もうすぐ冬がやって来る。お爺さんが歩いた山肌には雪化粧。一面真っ白になるだろう。季節は巡りやがて春になり眩しい日差しの夏を迎える。着々と時は過ぎまたかくれんぼの秋がやって来る。


きっとお爺さんはまた話しかけてくれるだろう。


「松の木よ、今年も豊作かい?」


「また来年も頼むよ」と。


はい、来年も再来年もあなたが来て話しかけてくれるならお待ちしています。子ども達とかくれんぼをしながら。
そう季節の風に乗せた。

2011年10月21日金曜日

時空間 by Miruba

編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の執筆陣達が挑戦しました。今回のお題は「まつたけ、化粧、虫」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。今回は、mirubaさんの小説をお楽しみください。
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娘の亜季が、先ほどからじっと「まつたけ」を見ている。
安かったからと、昨日主人が買ってきたのだ。

「この松茸小さな虫がいる。これアルジェリア産?日本の松茸はもっと香りがいいものね」突然亜季が言い出した。

「化粧が施されて香りもつけられたアフリカ産ですって。そういえばあなたパリにいるときにアルジェのお友達から自然の松茸を沢山戴いたものね」
私は答えながら胸がサワサワとするのを感じた。

「パリに居た時って今もパリに居るじゃないの。ママったら変なこというのね。
私食べないわよ。この前は酷い目にあったもの。酷い下痢だった。松茸の古いのは良くないらしいわ」

体中から汗が噴出してきた。まさか・・・
「ねぇ、今日本にいるのよ。ここはフランスではないわ」

亜季は怪訝な顔をしたが、部屋を見回し驚いた風だ。そして家中を歩き回り上気した顔で私の目を見て言った「ママ、今日何月何日なの?」

転勤族だった主人が定年間際に行かされたのがフランスだった。一人娘の亜季はパリ大学に留学しそのまま就職していたので、私達は10年ぶりに家族揃っての海外生活をしていた。

あの日、松茸を友人から貰ったといって亜季が嬉しそうに仕事場から帰ってきたのは、鮮明に覚えている。
ところがウジ虫のような小さな虫が沢山巣食っていたのだ。棄てるにはもったいないと思ったし、亜季もせっかくくれた友人に申し訳が無いというので、料理することにした。さっと茹で、固まった虫の残骸を取り出した後、醤油とみりんにつけて炊き込みご飯にした。なのに、私達親子は3人で腹痛に唸った。同時に食した生牡蠣のせいだとも思えたが、とにかく一番症状が酷く激しい脱水症状から高熱を出した亜季が生死をさ迷い、その後2週間も入院する羽目になった。

だが苦悩はそれからだったのだ。退院した亜季は他人のようで何を聞いても心此処にあらずという表情してまともに反応を示してくれない。物忘れが酷く道に迷うので、警察から何度か連絡が来た。脳の検査をしては何も異常がなく、精神科に回されたりもした。一種の記憶喪失なのだろうか、だが名前も年齢も私たち両親の生年月日さえ答えるし、書くことも出来たし、普通に生活ができるのだ。最終的には医師から「問題なし」と診断を受ける。なのに亜季と話をしていると、喜怒哀楽が希薄で時に返事がまともに返ってこないばかりか、全く赤の他人と接しているような冷ややかな空気を感じるのだった。

仕事も3ヶ月後には辞めてしまう。学生のときからの恋人恭祐君も、最初は足しげく通ってきてくれ、ドライブなどにも行ってくれたが、一方通行の恋をしているようで辛いと、いつの間にか去っていった。辛くはないのだろうか?当の本人は他人事のように無頓着だった。見るでもなくテレビ画面に目を向ける亜季の傍にいるだけで、私達夫婦は将来を思い途方にくれた。


「ママ!今日は何月何日なの?」
自我の強かった亜季の目が戻り、私の心を強く揺さぶった。
5年ぶりに見る意志のある瞳がそこにある。
答えるより、私は泣き崩れた。

まるで他人のようだったそれまでとは打って変わって、長い沈黙を取り戻すかのように息せき切って質問する彼女に答えながら、だが私は嬉しさに歓喜した。
主人と私の最愛の娘が、やっと戻ってきてくれた気がした。

不思議なことに、亜季はこの5年の間の何もかもを覚えていなかった。そんなことがあるのだろうか?
入退院時の写真。パリの仕事場を退職した時の写真。日本に帰国した時の写真。恭祐君や家族との旅行の写真を見せても、全く記憶に無いというのだ。確かに写真の彼女の目はまさに生気がなかった。


病院で新たに精密検査を受けたが、何もわからないままだ。高熱によって見えないところの脳を損傷したが自己再生により回復したのか。想像の域を超えなかった。


人間の体の不思議を思う。

ただ私達は「まつたけ」を見るたびに特別な感慨にふけるだろう。
直接の原因ではなかったにしろ、そのせいで亜季は記憶の無い時空間の世界に行き。
直接の要員ではなかったとはいえ、現実の世界に戻ってくるきっかけを作ってくれたのは、松茸の虫だったのだから。

「亜季、なんて綺麗なの?」
何年も化粧をしなかったので気がつかなかったが、年齢が彼女に潤いを与えていた。ましてや今日は久しぶりのデートなのだ。

恭祐君は、結局亜季を待っていてくれたことになるだろうか。彼にも色々な交際はあったろうが、年に一度くらいは亜季の様子を見に来てくれていた。

チャイムが鳴って扉が開いた。


恭祐君が顔を出したとたん、亜季は飛びつくように彼の首に腕を回しキスをした。
泣き出した亜季を強く抱き寄せる恭祐君。

その様子を笑顔で見ている主人と私に、恥ずかしそうにしながらも、
彼の目から、涙が一筋、零れ落ちた。





写真:テクノフォト高尾  by高尾清延

2011年10月15日土曜日

南米から来たお姫様 by 御美子



編集部より出された3つのお題を使って作品をつくる「三題話」に、週刊「ドリームライブラリ」の執筆陣達が挑戦しました。今回のお題は「まつたけ、化粧、虫」。一見なんの脈絡もないこれらの単語を全て折り込んで、エッセイ、小説、落語などの作品を作り上げていきます。今回は、御美子さんの小説をお楽しみください。
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1965年頃のことです。ブラジルに移住し農場を経営していた古本隆寿さんが現地の人達が好んで食べるキノコを食べてみたところ「これは旨い。何とか量産できないものだろうか」と考えました。栽培方法知るために手にしたのが「キノコ類の栽培方法」という本で、古本さんは筆者の岩出博士に手紙と共にそのキノコを送りました。博士が見たところ、それはハラタケの一種のようでしたが、食べてみると、既存のキノコより味もよく香りも強いことが分かりました。
岩出博士の専門は菌学で、研究当初の目的は日本の農家の副業としてキノコ栽培が有望だと考え、フランスから持ち帰ったキノコを人工培養することに日本人として初めて成功していました。ところが、ブラジルから送られたキノコの培養には予想以上の困難が待ち受けていました。
研究費も底をつき、研究員の日雇いや博士の年金を研究費に当てなければいけないほどでした。ある時、栽培用棚の材料に研究員のアルバイト先から竹を譲り受けたところ、雑菌や寄生虫が発生し、肝心のキノコの菌が全滅したこともありました。
人工培養を始めて10年経過したある朝、研究員の一人が「教授!小指の大きさほどのキノコが頭を出しています」と報告しました。他の研究員達は手を取り合って泣きましたが。「まだ、泣くのは早い」と叱る教授の声も震えていたことは誰にも分かりました。
教授の言葉通り、実際の人工栽培までには、それから3年を要しましたが、苦労の甲斐あって、後にこのキノコには抗癌作用や免疫力強化の働きがあることが証明されました。アガリクス ブラゼイ ムリル、正式和名「姫マツタケ」は出荷前日に小さな女の子から「まあ、可愛い。お姫様みたい」と言われたのが名前の由来だということです。マツタケに比べ色白の茎が、薄化粧をしたようで、その可憐な姿からも容易に想像ができる名前です。    -10月4日、癌で逝った孝子叔母に捧ぐ-

2011年9月23日金曜日

日本人の知らない韓国の常識・その3 <倭寇討伐で朝鮮王朝初代王> by 御美子


日本では李氏朝鮮と呼ばれる王国建国の英雄
「将軍、遼東半島への明軍侵攻を止めるための出陣命令が出ましたが」
「分かった直に出陣だ。ただし、高麗に引き返して首都を攻撃する」
「謀反を起こすのですか?」
「元の力は弱まり明の時代がそこまで来ている。親元高麗政府を終わらせる良い機会だ」
「官僚たちの王への不満も高まっていますし、いよいよやるのですね」
「明とも親明派の王を立てると申し合わせ済みだ」


こうして高麗の将軍であった李成桂(イソンゲ)は、高麗王朝末期の混乱に乗じてクーデターを成功させ、最初こそ親明派の高麗王を立てたものの2年後には周囲から請われて自らが王になる。


しかしながら、直に朝鮮王朝へ移行した訳ではなく、朝鮮半島では古来から中国からの許可があって初めて王や国の名前を決めることが出来たので、朝鮮という国名もお伺いを立てた2つの候補から、1つを明の王に選んでもらって決めたものだった。


李成桂(イソンゲ)の活躍は、元の武官から高麗の武官として豆満江や鴨緑江方面の女真族平定元の残存勢力討伐・国都防衛・倭寇討伐と本領はあくまでも軍事であったが、その中でも特に倭寇討伐で英雄視されている。


日本で倭寇と言えば、戦国時代の没落した武士や土地を追われた農民が、食料等を略奪したくらいにしか認識がなかったが、韓国や中国で倭寇と言えば、日本方面からの執拗で大規模な侵略行為そのものや豊臣秀吉の朝鮮出兵時の日本軍の侵攻まで、多岐に渡ったものを総称して倭寇と呼んでいる。


また、後に多数の朝鮮人や中国人が倭寇に便乗したことが、韓国や中国の資料にもあるのだが、実害が多かったのが朝鮮半島だったので、今でも倭寇を日本人の野蛮行為と同義で使う人がいるらしい。


さて、周囲に推されて王になった李成桂(イソンゲ)だが、早々に八男に王位を譲ろうとしたところ、王子たちが殺しあうこととなり、傷心して仏門に帰依してしまった。


崇儒廃仏(儒教を高めて仏教を排斥する)が特徴の李氏朝鮮だが、実行されるのは孫の第4代世宗(セジョン)大王になってからになる。


因みに李氏朝鮮と呼ぶことは好まれず、建国神話の頃の朝鮮は古朝鮮と呼んで区別している。

2011年9月17日土曜日

とある休日5 by やぐちけいこ

定期検診。と言っても身体はいたって健康だから必要無い。
ただここの院長の部屋で少しだけ話をするだけだ。私には両親がいないので院長に話を聞いて貰っていると父親と話をしているようで落ち着く。難を言えば薫の父親って事だ。まあ、目を瞑ろう。そう思いながら勝手知ったる病院の長い廊下を歩いていた。

途中ナースステーションで来院した事を告げようと寄ろうとした時看護師たちの会話が聞こえてきた。知った名前を聞いたので思わず身を隠し盗み聞きする。
「今日って霞さんが来るんでしたっけ?薫さんもいつまであの人に付きっきりになってるんですか?飲みに誘ってもそのせいでいつも断られてるんですよ」
「あら、私は記憶が蘇った時にパニックにならないように監視してるって聞いたけど」
そのあとは何が話されていたかは耐えられなくて逃げ帰ったため分からない。

自分が今日の検診に来なかった事を院長はどう思うのだろう。
家に帰る道すがら頭を占めるのは今聞いたばかりの「監視」と言う看護師の言葉。

そっか、あいつは監視するためにいつも私の所に来ていたのだな。悪態をつく私を笑ってくれていたのはそういう訳だったのか。
子どもの頃から一緒にいたから気付けなかった。友人では無かったのか。あいつと過ごす時間は嫌いではなかったのに残念だ。うん、本当に残念だ。
私は結局独りなのだ。それもきっと徐々に慣れていけば普通になるはず。だからこの胸の痛みも無くなるだろう。

今自分が住んでいる家も院長が用意してくれたものだった。病院の敷地内に建てられた小さな平屋建ての一軒家。どうせ使ってないから自由に使ってと言われる ままにそこに住み始めたのは中学に上がる頃。最初の頃はほとんど寝に帰るだけだった。それまでは薫の家族と一緒に過ごしていた。少しずつ一人暮らしになれ るように年を重ねるごとにその与えられた部屋で過ごす時間が増えていった。

最近はどうだろう。そう言えば店を出すなんて言い出して驚いたけど結局あの話はどうなったかな。私の反応を楽しんでいただけだったのかもしれない。休みのたびにここへ来ては取りとめのない話をするだけで帰っていく。
あれは私を見張るためだけだなんて信じたくない。では何を信じたら良いのだろう。
何だか疲れた。何も考えたく無いし何もしたくない。
気付けばソファに座ったまま何時間もぼうっとしていた。だけどお腹もすかないし手足も動かない。

遠くでインターフォンが鳴っている気がする。
ピンポ~ンピンポ~ンピンポンピンポンピンポ~ン♪
あぁ、またあいつが私を見張りに来たのか。
院長の所へ行かなかった事を叱りに来たのか。
もう私に関わる必要などないぞ。私は独りでも大丈夫だ。大丈夫だからもうここには来ないでくれ。
いやだ。私を独りにしないで。独りは怖い。また薫の笑顔が見たいのにここは暗くて何も見えない。何も見えないんだ。静かすぎて怖いのに心地よさもどこかに感じる。相反する感情を止められない。

「ねえ、薫。薫は私を監視するために傍に居てくれたのか?そのせいでいろんな誘いを断っていたのか。私は知らない間に縛り付けていたんだな。ごめん。今ま で気付けずにいてごめん。何を言っても許されていたから甘えすぎていたよ。ごめん…」うわ言のように弱弱しくそれは繰り返された。

再び支えをなくした心はただ暗闇に倒れ誰の手も届かない所にあった。

2011年9月9日金曜日

『東京NAMAHAGE物語・1』 by 勇智イソジーン真澄

<イヤンのばか>
ああ、また雪かきから一日が始まる。
昨日までは時折太陽が顔を見せ、幾層にも積み重なった雪を解かしかけたばかりだというのに冬に逆戻りか。
人差し指で少しだけカーテンを引き開けて覗いた、白い外を眺めて思う。

はあ~、実家での生活が始まって何回、いや何十回目のため息だろうか。
雪のように白くて冷たい息がガラスに張り付き乳白色の円を描く。
一年の半分は暖房の世話になる地域。
雪灯りはあるが暗い日常……。

父が病に伏したのを機に、秋田県男鹿市に戻り3年が経った。
その間、父は他界、その1年後母が入院しペースメーカー埋め込み術を施した。
どちらの入院中も側にいたくて、ほぼ毎日病院に通った。父の件も落ち着き、母も自宅生活ができるほど回復し退院した。

仕事を辞め東京での生活にピリオドを打ち、実家で母と二人だけの生活になって5カ月。
一人暮らしが長い私と、父との二人暮らしだった母とは環境も思いも違う。

干渉されるのに慣れていない私と、父に干渉していた母。いま、母の関心は同居している私に向いている。
台所に立てば背後から「何してるの?」、席を立つと「どこ行くの?」、起床時間が少し遅いと「具合が悪いのか?」と枕元に立っている。

一々返答する気になれないくらい、それが頻繁なのだ。 
家に帰りたくないと居酒屋で一杯ひっかける倦怠期の夫のように、一歩外に出たら無駄な用を作り、少しでも遅く帰宅しようとする。
そうしてしまう自分がいる。
依存されることの煩わしさから逃げている。

しかし、そうはしていても、帰宅が遅いと心配し、一人でいることが心細くて不安でならない母の顔がちらつき居ても経ってもいられなくなる。

「やっぱり君がいないとだめだ」と花束を持って追いかけてくる男もいなければ、高齢化の地元周辺には、すがりつきたい男も見当たらない。
桜は来月が見ごろ。
私はこのまま葉桜の時期を過ぎて、姥桜になってしまうのだろうか。
なんてこった。

陽が落ちてしまえば民家の灯りだけで、街灯もなく外は闇。
夕食の時間も就寝も早く、家々の灯りは早々に消えてしまう。
テレビのチャンネル数も少ないし、ちょいと一杯、と飲みに行く店もなければ、おしゃれなレストランも見当たらない。
欲しいものが揃う店もない。
以前暮らしていた東京・恵比寿とは比べ物にならないくらい、ここは何もない。

何もないといえば小遣いも足りなくなった。
母の収入は遺族年金となり、父の生存時に受給していた年金額の半分近くに減った。

私は仕事もなく、この半分になった年金から私にかかる費用を捻出しなければいけない。
二人住まいに変わりはないのに、収入だけが減り、家計は火の車だ。
年に数回の海外旅行ができていたバブルなころが懐かしい。

バブル絶頂期に購入した高級ブランドの服もバッグも靴もアクセサリーも、着用することもなくなった。
身に付けたとしても誰が気づいてくれようことか。
プラダだろうがプラデだろうが、グッチだろうがゲッツだろうがどうでもいい。
動きやすく、汚れても平気な服で十分なのだ。

若かりし頃の黒髪は、染めても染めても白髪が目立ち始める。
悪あがきをあざ笑うかのように、根元から白カビのように生え出てくる。
年相応だ、と言われればそれまでだが、母という枷と、ない物ねだりのストレスによる心労が一因かもしれない。
そう、きっとそうだ。

いつも何かに追い立てられている気分にかられている。
あれもしたい、これもしたい。
あれもできない、これもできない。
何かしよう、なんとかしなければ、と焦る気持ちなのだろうか。
思いどおりに行かない苛立ちなのだろうか。

いやだ嫌だ。
あぁ、いやだ。
こんな生活、もういやだ。

いや?
58(いや)? 
いやだ、今日は私の誕生日、それも58回目の。
イヤン……。

やだやだ、とため息ばかりついている場合ではない。
自分の置かれている状況を受け入れれば新しい発見があるはずだ。

何のために、貴重な経験をしてきたのだ。
これまで十分、自由気ままに遊んできたじゃないか。
楽しいことも辛かったことも、すべてはこれからの歩みへの必然だったのだ。

過去に思いを残すことはない。
父の残してくれた木造家屋は住み心地がいい。
小さいながらも庭があり、気候のいい時期は木陰で読書をする。
男鹿半島の先端まで行けば自然な美しい景色がある。
海を見ながら、のんびりとした一日もおくれる。

上手くやり繰りさえすれば、母と二人の生活は何とかできないこともない。
いざとなったら、何としてでも働けばいいだけのこと。

静かで心躍ることもない代わりに波風も立たない。
過去に引きずられたり、他人をうらやんだり、見栄を張ることも着飾ることもいらない。
いくら髪を染めて外見を変えようが私は私、あるがままの自分でいい。

レフ・トルストイの作品に「イワンのばか」という童話があった。
主人公イワンは純朴遇直で欲がなくて、小悪魔からの誘惑のささやきにも耳を貸さず、バカだと言われても自分の生活を変えることはなく、最後には幸運を手にするという話だった。

確か、濡れ手で粟、の金儲けをすることの虚しさと儚さを教えてもいたはずだ。
まったくもって今までの私、耳が痛い。

新しい歳になったのだ。
このまま毎日を嫌だ無意味だと否定ばかりしていては、ただイヤンと言ってるだけのバカ者になってしまう。

イワンのように全ての欲を取り除くことは難しい事だが、少しでも見習うことができないだろうか。
無欲になり、身の丈に合う日々を過ごせればいい。
一日一歩ずつでも、それに向かって新たな道を進んで行ければいい。

明日という日はまだ手つかずに残っているのだから、あわてることはない。
幸い時間だけは沢山ある。

2011年9月2日金曜日

日本人の知らない韓国の常識・その2 <セジョン大王とハングル公布> by 御美子

セジョン大王:1万ウォンのデザインにも使われている
10年程前、仕事で韓国を訪れる機会があり、会場と宿舎の往復をする送迎バスが必ず通る道があった。
ソウルに2年以上住んだ今なら分かるのだが、その道とは光化門(カンファムン)とその前の広場との間にある道だ。
当時、光化門は撤去した旧朝鮮総督府跡に建設中で工事中の大きな壁があるだけだった。
あの大きな壁が取り払われた今なら見える青瓦台(チョンワデ:大統領官邸)や、その後ろにそびえる美しい北漢山(プッガンサン)が見えなかったのは、ソウル市や韓国そのものにとって大きな損失だったろうに、朝鮮総督府への積年の恨みの方がそれに勝っていたのだろう。

あの頃既に広場側には威風堂々とした銅像があったが有名な王様だということくらいで、名前も聞いたはずなのに特に印象には残っていなかった。

今ならこれも知らないと恥をかくくらいなのだが、この銅像こそ現在の韓国で最も尊敬され1万ウオン札の肖像でもある世宗大王(セジョンデワン)だったのだ。

因みに世宗王の肖像は一枚も現存せず、銅像やお札の肖像は空想で描かれたものであるという。

世宗王は三男で比較的温厚な性格だったとされるが、父の太宗の方は初代李成桂(イソンゲ)王の五男で、八男を跡継ぎにしようとした実の父王李成桂に反乱を起こして、腹違いの弟である八男を殺したり野心を抱いていた四男を退けたりと、武勇伝に事欠かない人物だった。

幼少の頃から本を読むことが最大の楽しみだった世宗は、兄王子達が自ら失脚した為に22歳で王として即位した。

即位2年後には集賢殿を作って若くて優秀な人材を集め、保守派の反対を押し切って新進派に訓民正音(ハングル)を作らせ、1446年に公布したことが最大の功績と言われている。

その他の功績として挙げられるのは、王立天文台・日時計・自動水時計・測雨器・火薬や火器の製造開発などだ。

当時の朝鮮王朝は高麗王朝の残存勢力がスパイとして入り込んだり、事大主義と言って大国に従属することで国を存続させようという空気があり、明(中国)の顔色を常に伺わなければならない状況で、ハングルの発明は明の支配から離れることを意味し、他の発明品?に関しても明のものが基礎になっているので、開発していることを明に知られる訳にはいかなかった。

文字に関して言えば、支配層の両班(ヤンバン)達だけが漢文を読み書きし、中下級官僚達は吏読(イドウ)という方法で漢字を朝鮮語として読んでいた。

当時吏読で使われていた漢字には、漢文を和読するために使っていたカタカナの原型と同じ字を始め、現在も日本で使われている漢字が在ることは興味深い。

例えば、「ア阿」「イ伊」「カ加」「タ多」「ヤ也」は、日本語のカタカナの原型漢字表にあるものと同じであり、この他万葉仮名やカタカナの原型漢字表にはないが、「オン温」「コ古」「サ沙」「シャ舎」「シン申」「タ他」「ト吐」「ナ那」「ナン難」「ニ尼」「ニョ女」等は、韓国人が読んでも現在日本で使われている発音とほぼ同じになる。

ところで、ハングルは日本語よりも発音の種類が多いため、あらゆる言語を表記できると言語学者が言ったとか言わないとかで、その例としてインドネシアの文字を持たない少数民族チアチア族が、2009年に彼らの言語を表記する方法として、ハングル文字を採用したことが、明るい話題としてニュースでも取り上げられた。

しかしながら、チアチア語の音声をハングル文字で表記しただけなので、韓国を表敬訪問したチアチア族の皆さんと、迎えたソウル市長達の意思疎通は、お互いの国の言語では出来るはずもなかった。

また、ハングルで表記する英語の発音に関しては、「ds」をジュ・「f」をプ・「ts」をチュ・「th」の濁る方をドゥ・「sh」をシというようにしか発音できないため、日本人同様、英語が通じなくて苦労しているようである。

両国の外来語の発音が大きく違って通じにくいことも、発音の種類が違うことに起因していることは明らかだ。

あ行からいくつか例を挙げてみると、アパート→アパトゥ、アフターサービス→アプトゥソビス、アイスコーヒー→アイスコピ、イメージアップ→イミジオップ、エアコン→エオコン等など、個人的には4,5回言ってみて、ああそうかと分かることが多い。