日々の事に追われ、気がついたら皐月の花が散りかけている。
五月晴れの数日が過ぎると梅雨かと思わせる連続した雨が新緑の香りと共に傘の上に落ちてくる。
忙しいとはいっても、日々の暮らしはそれなりに過ぎて、たまにはダンスパーティーに出かけたりもするし、合間に映画を見たりもする。忙中閑ありだ。
もっとも、空く時間は気まぐれなので友人との約束などめったに出来やしない。
先日あるパーティーにいつもどおり1人で行こうと思ったが、知り合いのカップルに現地集合しないかと聞いてみたら_あなたが行くなら付き合うわ_との嬉しい言葉だった。
急な誘いにもかかわらず二つ返事で承諾とは、持つべきものは友達だと思ったしだい。
友人のお相手は近頃一緒に暮らし始めた素敵なロマンスグレーだ。
ダンスという同じ趣味を持ち、半年ほど前からコンペなどにも参加しているという。
会場まで同乗させて貰った車の後部座席からこのところすっかり若々しくなった助手席の友人の横顔を見ていた。
彼女はシングルマザーだった。
2人の子供を大学に出し、その娘達も良い伴侶を見つけて独立したころ、長い独り身に別れを告げ中学生のときの同級生と二度目の結婚をした。
1人で暮らすのは将来不安だから、と言う理由だった。
ところが飲み友達のときは気が合って楽しかったようだが、お互い自分の会社を持ち、長い間シングルで過ごしてきた二人は、気ままが長すぎた。
「ちょっと聞いてよ。週末に私のマンションに泊まりに来るんだけれど、自分はソファーでゴロゴロするくせに、持ってきた一週間分の汚れ物の洗濯を全部私にさせるのよ!私だって疲れているし週末はゆっくりしたいわ」私とカフェで会う度に愚痴を言うようになる。
「<奥さん>と言うのは家庭ではそういうものよ」といったところで納得せず、一年目に週末夫婦は離婚をした。
落ち込んでいる友人をダンスの世界に引っ張り込んだのは私だった。
年月が過ぎ、すっかりダンスにはまり込んだ彼女は、ダンスの相性の良い人を探し求めるパーティーダンサーになった。
そんな時あるダンスパーティーでいまのロマンスグレーの彼と再会したのだという。
二人が最初に知り合ったのはもう40年も前のこと。
まだ20代前半の若かった彼女が子供二人を連れて離婚し、子連れで仲間達と遊んでいるところにそのロマンスグレーも仲間の1人として遊びに参加して居たというのだ。
もちろんその頃はただの仲間の中の1人で、素敵な青年だったのだろうが。
「ちょっと聞いてよ!子供達の小さい頃の写真を見ていたらね、若かったこの人が娘達と遊んでいる写真があったのよ、もうびっくり」
彼女は、その細い赤い糸に手繰り寄せられた二人の縁(えにし)を感じて嬉しそうだった。
ロマンスグレーも、彼女の横でニコニコして聞いている。
只気が合うというだけでは、上手くいかない男女の仲。
自立した踊りをしながらお互いが支えあい補って表現する社交ダンスが、お互いへの信頼と尊敬を生み普段の関係にも良い影響を与えているのだろう。
自由気ままな彼女がふとした仕草などで甲斐甲斐しさを見せる様子は、愛おしさすら感じられる。
今度こそは大丈夫かな。
3度目の正直っていうものね。
ダンス談義に花を咲かせながら、笑顔の二人に私も嬉しくて顔がほころんでしまうのだ。
2016年6月3日金曜日
2016年4月7日木曜日
逆さ傘か坂の女(ひと)by Miruba
暖かいと思うと寒さが戻り、昨日外したスカーフをまた首に巻きました。玄関を出ると雨でした。
まだ人影はないようでしたが、サッと門の前を自転車が通り行き、ビニールの雨合羽が翻がえりました。
薄暗い早朝に音も無く忍び寄る霧のような雨でしたので、家の外に出るまで気がつかなかったのです。
傘にするか、フード付きのコートにするか一瞬迷いましたが、着替えている時間は無いので傘にしました。
駅への坂道を降りていきます。
たとえ傘を差したところで霧雨は軽い風にあおられて容易に傘の中に滑り込んでくるのでした。
時に顔にかかる水滴を睫毛にまで感じながら、軽く手で水気を抑えながら、なんとなく化粧が気になるのでした。
坂の上にある自宅から駅までの路の両側に並ぶ家には桜の木を植えたところが多く、街路樹のように連なっています。
先週の暖かさが桜便りを運び、このあたりもぼちぼち咲き始めたのですが、
この雨が花冷えを誘い3分咲きの桜は蕾をまた閉じてしまったように見えます。
それでも生垣のベニカナメモチの赤い若葉と桜の白っぽいピンクとのコントラストが灰色だった景色を明るく彩ります。
ふと、すたすたと私を追い越していく女性に、目を奪われました。
景色を味わっていた私はいつもより歩調がゆっくりでしたから、
別段追い越されて不思議はありませんが、その女性の所作に異様を感じたのでした。
傘を広げてはいるのですが濡れないように差すのではなく、まるで雨を溜めるように傘を逆さにしているのです。
_そうか、下から雨が舞い込むから坂の下から噴き上がって来る雨粒を避けているのよね_
私は自分に納得させる為にその行為に理由をつけました。
それにしては傘の中に溜まった水をまるでこぼさないようにするような坂を下りる逆さ傘。
彼女自身には吹き上げる霧雨にも天からの雨からも遮る物が無いといえるでしょう。
何の為の傘でしょう。
顔はすでに通り過ぎたのでわかりませんでしたが、後姿の美しさに魅了されます。
桜絵をちりばめたウメネズ色の着物が季節をあらわし洒落ていて、襟足も美しくすっきりと結い上げた髪が少しほつれ風になびくのです。
衣擦れの音がこの湿り気の中でも聞こえるほどでした。
けだしが翻るほどに急ぐので草履がまどろっこしくなったのか、片足ずつまるで天気を占うように、ポーンとほうりました。
片方は晴れ、片方は雨でした。
_あたり_などと思いましたが、流石に少しだけ気味が悪くて立ち止まる私でした。
それもほんの一時でした。坂が終わりかけていたので、女性が角を曲がってしまうと、また景色は静寂です。
夢でも見ていたのでしょうか。転がった草履が雨に濡れているのを見ても、現実感がありませんでした。
_桜の精が悪戯をしたのかもしれない。_私は軽く頭を振って先を急ぎました。早番の仕事に遅れそうです。
夕方になっても雨は止むことなく続いていました。
気温が上がってきて桜も生き生きと見えます。反対にこちらは疲れ切った状態です。
それでなくとも一日の終わり、買い物をしたので登りの坂道は少しきついのです。
重くなったスーパーの袋を持ち直し、そぼ降る雨から濡れないよう、肩の上で傘を移動させていると、声を掛けられました。
有無を言わさぬ印籠のような警察手帳を見せながら、二人の屈強そうな男たちが私の行く手を阻むように立つのです。
「済みませんが、お話を聞かせていただけませんか、お時間は取らせません」
あまりすまなそうでも無いその言い方に_時間が無いので_と断りたかったのですが、次の言葉にはっとしたのでした。
「いつもこの坂をお使いになるのですよね。今日も朝早くに通ったのでしょうか?何か見ませんでしたか?」
見なかった事にしたかったのですが、私は結局今朝見た逆さ傘の坂の女の話をしました。
事件があって自首してきた女の話を裏付けるものを探していたと言うのです。
「ただ、草履はどこにもありませんでした」
出頭するときに持っていた傘に被害者の血が着いていたのだそうです。
ああ、そうか、と思いました、血液が雨によって流されるのを防ごうと逆さ傘だったのだわ。
「自分は間違いなく犯人だ。逃げるときに女の人とすれ違ったから探してほしいと、容疑者の女が言いましてね」
といった女の話もまた奇妙なニオイがしました。
私に印象を残す為の芝居だったのではないのかしらと感じました。
草履は高価そうでしたから、誰かが持っていったのかもしれません。
その女は坂の上にある恋人の家に通ってきていたのだそうです。
で、事件は起こったのでしょう。夫がその女の恋人を殺してしまったので、罪の意識から夫を庇った、とか。
子供がいて、母親の恋人が気に入らなくて・・・それを庇ったとか。
色々想像しましたけれど、本当はどういう理由だったのか、詳しくは警察も教えてくれないし、新聞にも出ませんでした。
今朝も霧のような雨でした。
すでに桜は満開を過ぎて、桜の花びらが地面いっぱいに落ちていました。
玄関の中でフードつきのコートを羽織っていたら、通りをサッとビニールの雨合羽を羽織った人が行過ぎました。
デジャヴュ
そうでした。あの逆さ傘か坂の女を見かけたとき、その少し前、自転車の男を見かけたのでした。
ビニールの半透明の自転車用雨合羽にピンクの模様が入っているように見えたのは、アレはもしかしたら、返り血を浴びていたからなのかもしれません。
面倒ですが、ちょっと交番に寄って行こうかしら、と考えました。
桜の景色の似合う寂しげな後姿のあのひとは、これからどうして生きていくのでしょうね。
桜たちは毎日色々なドラマを見ているのだろうな、なんて思ったりしました。
_おどろおどろしいのは嫌だけれど、どうせなら私にも、少しはドラマチックな話が無いかしら_とつぶやきながら、潔く散った桜の花びらを踏み、早番の仕事に向かうのでした。
2015年12月28日月曜日
2015年流行語・大誤解 by 夢野来人
【爆買い】:戦争を前に武器弾薬、爆弾を買い漁る様。【トリプルスリー】:産前産後産休を取ること。
【アベ政治を許さない】:あべまさはるくんのお母さんの言葉。
【安心して下さい、穿いてますよ】:誰も心配していませんよと同義語。
【一億総活躍社会】:大阪発祥の焼き肉屋がとんかつ屋さんを展開し、全国制覇を成し遂げようと考えたスローガン。正しくは「一億総カツやさかい」である。
【エンブレム】:日本語では、縁触れ無と書く。誰の考えたものともご縁に触れることはありませんよという意味。
【五郎丸ポーズ】:五郎丸が姓であることにもびっくりしたが、名前がポーズとカタカナだったことには衝撃である。この男ハーフかもしれない。
【SEALDs】:自由と民主主義のための学生緊急行動。つまり、sexual doing scrambleあたりか(違うやろ)。
【ドローン】:忍者のように飛び回り、忍術を使って消え去る。消える時の音が、ドローンというらしい。
【まいにち、修造!】:それは、イヤだぞう!
2015年11月20日金曜日
いつものように by Miruba
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| Photo by Mr. Takao |
クロード・フランソワ(Claude Francois)はクロクロという愛称でも知られた1960年代から1970年代にかけてのフランスで、もっとも人気があったアーティスト兼音楽プロデューサーだ。ディスコをフランスで流行らせたのもこの人だと言われている。
クロードはエジプト出身のフランス人だ。
その先祖は支配階級だったようで幼少期は裕福な家庭だったが、革命で王政が倒れるとすべてが国有化され、クロードの家族も難民同然にフランスに移住してきた。父親が貧困の中にありながら支配階級だった過去を捨てきれずにいたことがクロードにとっては悲しい滑稽に映ったのだろうか。息子が銀行員になることを願った父親はクロードが歌手になってからは口もきかなかったという。
その先祖は支配階級だったようで幼少期は裕福な家庭だったが、革命で王政が倒れるとすべてが国有化され、クロードの家族も難民同然にフランスに移住してきた。父親が貧困の中にありながら支配階級だった過去を捨てきれずにいたことがクロードにとっては悲しい滑稽に映ったのだろうか。息子が銀行員になることを願った父親はクロードが歌手になってからは口もきかなかったという。
クロードはアパートの部屋で、シャワーを浴びていて、感電死をしてしまった。
2人の幼子を残し、39歳の若さだった。
代表曲のひとつに、「Comme d'Habitude(コムダビチュード)=いつものように」がある。
代表曲のひとつに、「Comme d'Habitude(コムダビチュード)=いつものように」がある。
この曲をテレビで観たポール・アンカが、クロードに曲を使わせてほしいと頼み、英語の歌詞を付け直して「マイ・ウェイ」と言うタイトルにして、フランク・シナトラにも歌わせた。
マイ・ウェイは世界的にヒットし、エルビス・プレスリーや、日本では布施 明などにもカバーされたが、その歌詞となると、これほどまでに違うのか、と言うほどだ。
この歌をクロード・フランソワが作ったとき、「夢みるシャンソン人形」で有名なフランス・ギャルとの破局をむかえていて、仮面カップルのアンニュイな思いと、永久不変と思われた愛の儚さを表現し、それでも日々は音も無く続くのだと、平凡を歌い上げるクロード・フランソワの歌詞は、シナトラや布施明の力強い未来に向かっていく歌詞とは違うけれども、切々とした人生の応援歌であることが伝わってくる。
喜劇とは人間の悲哀の中にこそあるのだな、と思わせる。
クロード・フランソワが音楽の世界で商魂逞しかったのも、ビジュアル系でキラキラと派手な衣装を着て飛び跳ねて踊って魅せたのも、人生の悲哀と喜劇が背中合わせだということを知っていたからかもしれないと思うとき、この「Comme d'Habitude(コムダビチュード)=いつものように」と言う曲を聴くたびに、自然に涙が溢れてきてしまうのだ。
苦しい事も辛い事も悲しい事もある毎日だけれど、いつもの通りの生活を送れることが、どれほど大切なことか。
毎日の変わらない日々にこそ笑える幸せな人生が詰まっているのではないか。
世界中にテロの荒波が押し寄せ、なんでもない日常が当たり前では無い状態にあり、難民が溢れる昨今、難民でもあった亡きクロードフランソワからの贈り物「いつものとおり」が余計に身にしみてしまうのだ。
【いつものように】 訳詞:カズコリーヌ
僕は起きて君を押す
君はいつものように目を覚まさない
僕は君の上にシーツを引き上げる いつものように
君が寒くないように
僕の手は君の髪をなでる
殆ど僕の意思とは反対に いつものように
でも君は僕に背を向ける
いつものように
そして僕は急いで着替える
いつものように、部屋を出る
一人でコーヒーを飲む、
いつものように、僕は遅れている
音を立てずに家を出る
いつものように、外はすべて灰色
寒い、僕は襟を立てる
いつものように
いつものように、一日中、
僕は何かをするフリをするだろう
いつものように僕は微笑むだろう
いつものように僕は笑いさえするだろう
いつものように僕は生きるだろう
http://chansonzanmai.blog27.fc2.com/category62-1.htmlより
2015年10月17日土曜日
パリのカフェ物語10 by Miruba
Chapitre Ⅹ【パトロンヌ】
友人と待ち合わせをした。
メトロ Rique リケという駅だった。
この駅の近くには北ホテルで有名なサンマルタン運河やそれに連なるウルク運河などがあるのでつけられた名前なのだろうと推察できる。
と言うのは、世界遺産にもなっているフランス南部に位置する「ミディー運河」を設計考案したのが、ピエール・ポール・リケという人だったからだ。運河つながりというところか。
Canal du Midi(ミディ運河)とは、南仏トゥールーズから、地中海にまで向かう支流を含め総延長 360 km に及ぶ運河である。
17世紀中ごろ作られた運河で、19世紀に鉄道が出来るまで、大西洋と地中海との間を船舶で結ぶ、重要な輸送ルートだった。
この運河のおかげで、運河沿いの地区の産物の流通が盛んとなり、ボルドー、サンテミリオンなど、世界的に有名なワインの発展に大きく寄与した。
だが、当時の最先端の土木工事は難航を極め、資金も不足がちで、Riqueリケは自分の全財産をつぎ込んだ。
それにもかかわらず、その完成を見ることなくこの世を去っている。
幸いなことにリケの息子が引継いでリケの死約一年後にミディ運河は完成したという。
その運河は19世紀以後は観光船を通すことで発展を継続してきた。今も行き交う観光船に乗る観光客で賑わっている。
私は毎年自名入りのワインをケースごと頼むのだが、
どんなところで作られているのか見たいと思いその生産地ボルドーに寄った帰り、トゥールーズへ足を伸ばしたことがある。
ミディ運河沿いを散歩し、ふと寄ったカフェ。
近代的なカフェだった。
セルフサービスタイプになっていてカウンターにサービスの女の子が居て、座る前に飲み物を注文し、支払ってから好みの席に座るという、スタバなど現代のカフェ専門店のシステムだった。
当時は「このタイプのカフェって、ギャルソンを好むパリでは無理だろうな」と思ったものだ。
私はビールを頼んで運河の見える窓辺に座った。
暑い夏なのに、運河を通ってくる風は涼しい。
先ほどのカウンターの女の子が「Mere(メール)、ありがとうございます。助かりました、なくなってたのよ」と、なにか材料を受け取っている風だ。
フランスではママンと言う言い方が多く「お母様」をあらわす「メール」と言う呼び方は珍しいのでつい、振り返ってしまった。
そして私が振り向いたことで、その「メール」は私を見た。
「アッ」「Oh la la!C'est vous・・オララ!あなたは・・・」
懐かしいその年配の女性は私のパリの自宅近くにあったカフェのパトロンヌ(店主)だったのだ。
ある日突然閉店をしたため彼女がその後どうしているのかと時々カフェの前を通ると思っていたものだ。
パトロンヌのご主人はカンボジア内戦のとき派遣されたフランス軍の兵士として戦闘に巻き込まれ亡くなっていた。
さらにそのご主人との子供を交通事故で亡くし、加えて愛するその子を可愛がってくれていた恋人が、交通事故を起こした加害者を口論の末刺し殺し刑務所に入れられてしまった。
飛び出した子供が悪いのだと正当性を訴えるばかりで悔やみの言葉すらなかったことが理由だったため、情状酌量を願い出たけれど、結局10年の刑で服役していた。
パトロンヌは恋人を待っていたのだが、刑務所から出てくると言う一ヶ月前になんとその恋人は病気で亡くなるという悲しみに見舞われた。
度重なる不幸に彼女は店を閉めどこかに居なくなっていた。
「心配したのよ。元気でしたか?」
「ええ、ありがとう。あの時は自暴自棄になったけれど、結局カフェをやるしかほかに何も出来ないのでね」
流れ着いたこの町でカフェに勤めていたら、今のご主人と知り合ったのだと言う。ご主人は没落した公爵の子孫だとのことだ。
それで「Mereメール」なのかと納得がいった。世界中、上流階級の人は言葉使いにはうるさいもののようである。
「あの子は主人の子供なのよ。元公爵と言っても城を維持するだけで大変なので市に寄付してしまって、門番小屋に住んでいる始末よ。
それでも私のパリの住まいなんか比べ物にならないくらい豪邸なのよ、門番小屋なのに」と笑った。
カフェを出すお金はご主人が出資してくれたらしい。
人を雇う余裕が無かったのでセルフタイプのカフェにしたら意外に好評で、今では娘さんがアルバイトで継続してやっているという。
娘さんがアメリカ留学で居なくなれば、別のアルバイトを雇うからいいのよ、と笑顔だ。
「あなたの子供達は元気?下の子はまだbebeベベだったわ」とパトロンヌが聞いてきた。
学校の向かいにあった彼女のカフェには娘達も良く連れて行ったので知っているのだ。
「上の子は今カナダにボーイフレンドと旅行中。下の子は修学旅行でスペイン旅行よ」
「大きくなったでしょうね。」と懐かしげに目を細めてくれる。
「幸せそうで良かったわ」と別れ際に言うと、「あなたも、お元気でね」そう言ってハグをしてくれた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「お待たせ」友人が汗を拭きながら現れた。
「あわてなくていいのに、、待ち人は来てくれたらOKよ」
メトロ Rique 近くのウルク運河のカフェはセルフサービスになっている。
あのパトロンヌの南仏のカフェにそっくりだ。
久しぶりにビエール・ペッシュを頼んだ。
今、あのパトロンヌは元気かな、ふと思った。
絶望の果てにつかんだ幸せ。
いつまでも幸せで居て欲しいと願った。
FIN
友人と待ち合わせをした。
メトロ Rique リケという駅だった。
この駅の近くには北ホテルで有名なサンマルタン運河やそれに連なるウルク運河などがあるのでつけられた名前なのだろうと推察できる。
と言うのは、世界遺産にもなっているフランス南部に位置する「ミディー運河」を設計考案したのが、ピエール・ポール・リケという人だったからだ。運河つながりというところか。
Canal du Midi(ミディ運河)とは、南仏トゥールーズから、地中海にまで向かう支流を含め総延長 360 km に及ぶ運河である。
17世紀中ごろ作られた運河で、19世紀に鉄道が出来るまで、大西洋と地中海との間を船舶で結ぶ、重要な輸送ルートだった。
この運河のおかげで、運河沿いの地区の産物の流通が盛んとなり、ボルドー、サンテミリオンなど、世界的に有名なワインの発展に大きく寄与した。
だが、当時の最先端の土木工事は難航を極め、資金も不足がちで、Riqueリケは自分の全財産をつぎ込んだ。
それにもかかわらず、その完成を見ることなくこの世を去っている。
幸いなことにリケの息子が引継いでリケの死約一年後にミディ運河は完成したという。
その運河は19世紀以後は観光船を通すことで発展を継続してきた。今も行き交う観光船に乗る観光客で賑わっている。
私は毎年自名入りのワインをケースごと頼むのだが、
どんなところで作られているのか見たいと思いその生産地ボルドーに寄った帰り、トゥールーズへ足を伸ばしたことがある。
ミディ運河沿いを散歩し、ふと寄ったカフェ。
近代的なカフェだった。
セルフサービスタイプになっていてカウンターにサービスの女の子が居て、座る前に飲み物を注文し、支払ってから好みの席に座るという、スタバなど現代のカフェ専門店のシステムだった。
当時は「このタイプのカフェって、ギャルソンを好むパリでは無理だろうな」と思ったものだ。
私はビールを頼んで運河の見える窓辺に座った。
暑い夏なのに、運河を通ってくる風は涼しい。
先ほどのカウンターの女の子が「Mere(メール)、ありがとうございます。助かりました、なくなってたのよ」と、なにか材料を受け取っている風だ。
フランスではママンと言う言い方が多く「お母様」をあらわす「メール」と言う呼び方は珍しいのでつい、振り返ってしまった。
そして私が振り向いたことで、その「メール」は私を見た。
「アッ」「Oh la la!C'est vous・・オララ!あなたは・・・」
懐かしいその年配の女性は私のパリの自宅近くにあったカフェのパトロンヌ(店主)だったのだ。
ある日突然閉店をしたため彼女がその後どうしているのかと時々カフェの前を通ると思っていたものだ。
パトロンヌのご主人はカンボジア内戦のとき派遣されたフランス軍の兵士として戦闘に巻き込まれ亡くなっていた。
さらにそのご主人との子供を交通事故で亡くし、加えて愛するその子を可愛がってくれていた恋人が、交通事故を起こした加害者を口論の末刺し殺し刑務所に入れられてしまった。
飛び出した子供が悪いのだと正当性を訴えるばかりで悔やみの言葉すらなかったことが理由だったため、情状酌量を願い出たけれど、結局10年の刑で服役していた。
パトロンヌは恋人を待っていたのだが、刑務所から出てくると言う一ヶ月前になんとその恋人は病気で亡くなるという悲しみに見舞われた。
度重なる不幸に彼女は店を閉めどこかに居なくなっていた。
「心配したのよ。元気でしたか?」
「ええ、ありがとう。あの時は自暴自棄になったけれど、結局カフェをやるしかほかに何も出来ないのでね」
流れ着いたこの町でカフェに勤めていたら、今のご主人と知り合ったのだと言う。ご主人は没落した公爵の子孫だとのことだ。
それで「Mereメール」なのかと納得がいった。世界中、上流階級の人は言葉使いにはうるさいもののようである。
「あの子は主人の子供なのよ。元公爵と言っても城を維持するだけで大変なので市に寄付してしまって、門番小屋に住んでいる始末よ。
それでも私のパリの住まいなんか比べ物にならないくらい豪邸なのよ、門番小屋なのに」と笑った。
カフェを出すお金はご主人が出資してくれたらしい。
人を雇う余裕が無かったのでセルフタイプのカフェにしたら意外に好評で、今では娘さんがアルバイトで継続してやっているという。
娘さんがアメリカ留学で居なくなれば、別のアルバイトを雇うからいいのよ、と笑顔だ。
「あなたの子供達は元気?下の子はまだbebeベベだったわ」とパトロンヌが聞いてきた。
学校の向かいにあった彼女のカフェには娘達も良く連れて行ったので知っているのだ。
「上の子は今カナダにボーイフレンドと旅行中。下の子は修学旅行でスペイン旅行よ」
「大きくなったでしょうね。」と懐かしげに目を細めてくれる。
「幸せそうで良かったわ」と別れ際に言うと、「あなたも、お元気でね」そう言ってハグをしてくれた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「お待たせ」友人が汗を拭きながら現れた。
「あわてなくていいのに、、待ち人は来てくれたらOKよ」
メトロ Rique 近くのウルク運河のカフェはセルフサービスになっている。
あのパトロンヌの南仏のカフェにそっくりだ。
久しぶりにビエール・ペッシュを頼んだ。
今、あのパトロンヌは元気かな、ふと思った。
絶望の果てにつかんだ幸せ。
いつまでも幸せで居て欲しいと願った。
FIN
2015年8月22日土曜日
パリのカフェ物語9 by Miruba
<待ち人>
娘がマテルネル(幼稚園)に通いはじめた頃のことだ。
私達両親が日本人では、同じ年頃のフランス人の友達が出来ないだろうと、早くから通わせた。
マテルネルはオシメが取れていることを条件としていたので、大体2歳くらいから入ることが出来る。
まだおしゃぶりやビブロン(哺乳瓶)を口にくわえたまま通ってくる子もいる。
それ以前の生後直ぐから2歳までを預かってくれるクレーシュ(託児所)と、レコールプリメール(小学校)も
仕事を持つ両親が年齢の違う兄弟達を迎えに来易い様にまとめて隣接し建てられている。
日本と違って安全は個人責任だから、両親が朝晩と昼食の送り迎えをしなくてはならない。
1人で通わせたりすると、育児放棄虐待とみなされることがある。
仕事のある忙しい親に代わって送り迎えと、学校給食を頼まない場合追加でお昼を食べさせてくれる行政の認可を受けた個人託児家庭が一般にある。
大抵は自分も子育てをしている同級生の専業主婦が3,4人まとめて面倒を見る、という場合が多いようだ。
幼稚園の道路を挟んだ真向かいに、カフェがある。
娘の送り迎えは朝・夕・お昼と4往復するわけで、送った後買い物に行き自宅に戻らずお昼のお迎えをする時など、カフェで時間調整をしたりした。
近くに商業ビルやホテルもあるので、仕事帰りのサラリーマン・サラリーウーマンや工事中の作業服姿の人たちが
カウンターで一杯飲んでいたり、夜はビストロ風になり食事を楽しむ観光客や家族連れがいたりでいつも賑わっていた。
夏の暑い日は娘に時々アイスクリームを食べさせに寄った。
私はビエールペッシュ(桃のシロップとビールを混ぜたもの)だ。
「Avec ta maman?c'est bien.T'es contente,n'est ce pas?」
テラスに座る娘にマダムがママと一緒でいいわねと話しかけてくる。
この女性がパトロンヌ(店主)だった。
特別愛想がいいという訳ではなかったが、上品な感じの美しい中年の女性で、うっすらと汗をかきながらいつも忙しそうだけれど細やかな気遣いをする彼女と話したい男達でカウンターはいつも立つ場所がないくらいだった。
「うん、パパが出張なの」
「オララ~、【出張】だなんて難しい言葉知っているのね、えらいわ」
などと子供好きではあるらしく、忙しいギャルソンに代わってアイスはいつも彼女がカウンターから出てきて運んでくれた。
「マダムのパパも出張?」と3歳の娘。
「あはは、そうね、長いこと天国に出張しているわ」
そして私に向かってつぶやいた。「恋人もね、出張なの、もう7年になるかしら」
「え?亡くなったの?」と問いかけた私に、「いいえ」と言ったきり、カウンターに戻ってしまったので、その後があやふやだったが、何年も通ううちに、少しずつ聞かせてくれた。
私がまともにフランス語も話せない外人だったからむしろ、語ってくれたのかもしれなかった。
パトロンヌの両親はパリ市内でカフェをしていた為、彼女がカフェを継いだという。
客だった男性と結婚し子供が出来て直ぐに、兵隊だった夫はカンボジアの内戦に巻き込まれ亡くなってしまった。
シングルマザーの彼女を支えてくれたのが恋人だった。
彼が子供を可愛がってくれたので、彼女は再婚も考えていたらしい。
ところが不運なことに子供が交通事故で亡くなってしまった。
どれほど辛かっただろう。
それも、自分がカフェをやっていた為に、子供が道路に飛び出したことに気がつかなかったのだという。
さらに彼女を不幸が襲った。
子供を可愛がってくれていた恋人が、車を運転していた加害者の態度に反省の色がないことを許せないといって
こともあろうに刺し殺してしまったのだ。
情状酌量を願い出たが、実の子供というわけではなかった為に、有罪判決を受けたのだった。
彼女はパリのカフェを売り、学校の見えるこの場所で彼を待つ新しいカフェを始めた。
学校の前に道路があるが、そこを子供が多く通るというので、日本で言う<緑のおばさん>を設置するように進言したのもこのカフェのパトロンヌだった。
「もう直ぐ出てくるのよ」
嬉しそうにしていたのに。
いつも何者にも動じない風情のパトロンヌが、そわそわして、客にも「マダム、恋人でも出来たのか?」などと
冷やかされるほどだったのに。
刑務所から出てくるほんの一ヶ月前に、愛しい恋人は脳溢血で帰らぬ人となったのだった。
なんということだろう・・・
その日からパトロンヌの姿を見ることはなかった。
暫くカフェは閉まっていたが、ヴァカンス開けに再開したときは店主が変わっていた。
その後駅前に大型の商業施設がはいったので、商店街はすっかり錆びれ、カフェの客も激減した様子だった。
娘たちが大きくなって幼稚園・小学校の前はパンを買いに行くときだけ寄るようになって、
短い間に何代か変わったカフェには入っていない。
マテルネルの前にあるカフェは、今ではどこの国のカフェかわからない変な音楽が流れ、足を向ける気にもなれない。
子供達との思い出のカフェ。
あの懐かしいパトロンヌは、今、どこでどうしているだろうか。
どうか、幸せで居て欲しいと願うのだ。
娘がマテルネル(幼稚園)に通いはじめた頃のことだ。
私達両親が日本人では、同じ年頃のフランス人の友達が出来ないだろうと、早くから通わせた。
マテルネルはオシメが取れていることを条件としていたので、大体2歳くらいから入ることが出来る。
まだおしゃぶりやビブロン(哺乳瓶)を口にくわえたまま通ってくる子もいる。
それ以前の生後直ぐから2歳までを預かってくれるクレーシュ(託児所)と、レコールプリメール(小学校)も
仕事を持つ両親が年齢の違う兄弟達を迎えに来易い様にまとめて隣接し建てられている。
日本と違って安全は個人責任だから、両親が朝晩と昼食の送り迎えをしなくてはならない。
1人で通わせたりすると、育児放棄虐待とみなされることがある。
仕事のある忙しい親に代わって送り迎えと、学校給食を頼まない場合追加でお昼を食べさせてくれる行政の認可を受けた個人託児家庭が一般にある。
大抵は自分も子育てをしている同級生の専業主婦が3,4人まとめて面倒を見る、という場合が多いようだ。
幼稚園の道路を挟んだ真向かいに、カフェがある。
娘の送り迎えは朝・夕・お昼と4往復するわけで、送った後買い物に行き自宅に戻らずお昼のお迎えをする時など、カフェで時間調整をしたりした。
近くに商業ビルやホテルもあるので、仕事帰りのサラリーマン・サラリーウーマンや工事中の作業服姿の人たちが
カウンターで一杯飲んでいたり、夜はビストロ風になり食事を楽しむ観光客や家族連れがいたりでいつも賑わっていた。
夏の暑い日は娘に時々アイスクリームを食べさせに寄った。
私はビエールペッシュ(桃のシロップとビールを混ぜたもの)だ。
「Avec ta maman?c'est bien.T'es contente,n'est ce pas?」
テラスに座る娘にマダムがママと一緒でいいわねと話しかけてくる。
この女性がパトロンヌ(店主)だった。
特別愛想がいいという訳ではなかったが、上品な感じの美しい中年の女性で、うっすらと汗をかきながらいつも忙しそうだけれど細やかな気遣いをする彼女と話したい男達でカウンターはいつも立つ場所がないくらいだった。
「うん、パパが出張なの」
「オララ~、【出張】だなんて難しい言葉知っているのね、えらいわ」
などと子供好きではあるらしく、忙しいギャルソンに代わってアイスはいつも彼女がカウンターから出てきて運んでくれた。
「マダムのパパも出張?」と3歳の娘。
「あはは、そうね、長いこと天国に出張しているわ」
そして私に向かってつぶやいた。「恋人もね、出張なの、もう7年になるかしら」
「え?亡くなったの?」と問いかけた私に、「いいえ」と言ったきり、カウンターに戻ってしまったので、その後があやふやだったが、何年も通ううちに、少しずつ聞かせてくれた。
私がまともにフランス語も話せない外人だったからむしろ、語ってくれたのかもしれなかった。
パトロンヌの両親はパリ市内でカフェをしていた為、彼女がカフェを継いだという。
客だった男性と結婚し子供が出来て直ぐに、兵隊だった夫はカンボジアの内戦に巻き込まれ亡くなってしまった。
シングルマザーの彼女を支えてくれたのが恋人だった。
彼が子供を可愛がってくれたので、彼女は再婚も考えていたらしい。
ところが不運なことに子供が交通事故で亡くなってしまった。
どれほど辛かっただろう。
それも、自分がカフェをやっていた為に、子供が道路に飛び出したことに気がつかなかったのだという。
さらに彼女を不幸が襲った。
子供を可愛がってくれていた恋人が、車を運転していた加害者の態度に反省の色がないことを許せないといって
こともあろうに刺し殺してしまったのだ。
情状酌量を願い出たが、実の子供というわけではなかった為に、有罪判決を受けたのだった。
彼女はパリのカフェを売り、学校の見えるこの場所で彼を待つ新しいカフェを始めた。
学校の前に道路があるが、そこを子供が多く通るというので、日本で言う<緑のおばさん>を設置するように進言したのもこのカフェのパトロンヌだった。
「もう直ぐ出てくるのよ」
嬉しそうにしていたのに。
いつも何者にも動じない風情のパトロンヌが、そわそわして、客にも「マダム、恋人でも出来たのか?」などと
冷やかされるほどだったのに。
刑務所から出てくるほんの一ヶ月前に、愛しい恋人は脳溢血で帰らぬ人となったのだった。
なんということだろう・・・
その日からパトロンヌの姿を見ることはなかった。
暫くカフェは閉まっていたが、ヴァカンス開けに再開したときは店主が変わっていた。
その後駅前に大型の商業施設がはいったので、商店街はすっかり錆びれ、カフェの客も激減した様子だった。
娘たちが大きくなって幼稚園・小学校の前はパンを買いに行くときだけ寄るようになって、
短い間に何代か変わったカフェには入っていない。
マテルネルの前にあるカフェは、今ではどこの国のカフェかわからない変な音楽が流れ、足を向ける気にもなれない。
子供達との思い出のカフェ。
あの懐かしいパトロンヌは、今、どこでどうしているだろうか。
どうか、幸せで居て欲しいと願うのだ。
2015年8月14日金曜日
御美子の韓流怪談「工業団地」
私は当時、ソウルの塾で早稲田大学入学を希望する韓国人高校生達の英語クラスの講師をしていた。
この話は生徒のガヨンちゃん(仮名)から聞いたものである。
ガヨンちゃんはソウルで生まれ育ち、教育熱心な母親のすすめで、高校からはソウルから車で2時間ほどのところにあるインターナショナルスクールに入学した。この学校は帰国子女や、それに相当する英語力のある子供達向けに、新しい埋立て開発地に、鳴りもの入りで建てられたものだった。ソウルからはアクセスが悪いため、学生寮に入る学生も多かった。
新入生オリエンテーションの夜。ガヨンちゃんたち寮の新人は、先輩たちに連れられて寮の屋上に来ていた。歓迎の夜景見学会はオリエンの恒例行事のひとつともなっていた。
この一帯の埋立地には、計画的に高層ビル群が建てられている。みんなはその美しい夜景にしばし見入った。
そのときだった。ガヨンちゃんは、ふと東側からの風に違和感を感じた。その方向に顔を向けると異様に暗い地域がひろがっていることに気がついた。物怖じしない性格のガヨンちゃんは、思いついたまま聞いてみた。
「先輩、あの暗い一帯には何があるんですか?」
近くにいた一人の先輩に聞いたつもりだったが、先輩全員が一斉にガヨンちゃんの方を振り向き、訊ねたガヨンちゃんの方が一瞬ひるんだ。
ひとりの先輩が答えた。
「ああ、あそこは南洞(ナムドン)工業団地よ。工場の退勤時間は早いから暗く見えるのよ」
と言った途端、先輩たちが一様に安堵の表情を見せたのが逆に心に引っかかった。
翌日、クラスメイト達と学校のカフェテリアでランチを食べていると中の一人が言い出した。
「ねえ、工業団地の噂、知ってる?」
ガヨンちゃんは昨夜の先輩たちの態度が気になっていたので、思わず聞き耳を立てた。
「あそこの下にはたくさんの死体が埋まってるんだって」
「ええっ?」
「あの一帯は政府から安く払い下げられたから、いまは、小さな町工場が集中しているんだけど、安く払い下げられた理由は、あそこの地下には朝鮮戦争の時、軍の秘密施設があったからなのよ」
「秘密施設って?」
「北のスパイと疑われた人たちを拷問する施設。いまでもその人たちの死体がたくさん埋まっているそうよ」
「やっぱり、あそこは普通じゃなかったんだ」思わずつぶやいた。
「何、何?どうかしたの?ガヨンちゃん」
「昨日屋上から見たとき、嫌な感じがする一帯があって、そこが南洞工団だって先輩が言ってたから」
ガヨンちゃんはクラスメイトを怖がらせないように明るく笑ったが、実は昨夜から突然の頭痛に悩まされていた。
その後も軽い頭痛が続き、誰にも相談できないまま、1学期が終わった。夏休みのため、母親が車でキャンパスに迎えに来てくれた。車がキャンパスを離れると頭痛は収まったが、高速道路が工団近くに差し掛かると、いつもより激しい頭痛にみまわれた。
やっぱり頭痛の原因はここにあるんだ!ガヨンちゃんは、これまで半信半疑だったが、もう認めざるを得なかった。ソウルの自宅に戻ると頭痛はすっかりなくなっていた。
新学期が始まり、ガヨンちゃんは暗澹たる気持ちになっていた。学校に戻ると、また頭痛が始まったからだ。しかし、それより驚いたのは、カフェテリアで工団の話を教えてくれたクラスメイトが、退学していたことだった。出身校がバラバラな学生が集まっているので、「なにか事故にあった」という理由以外、消息も尋ねようもなかった。
その後、ガヨンちゃんは生徒会活動に参加するようになった。
その宿泊研修会が、キャンパスを離れて田舎の修練院で行われた。ここでは、ガヨンちゃんは頭痛も消えて、いつになく饒舌になっていた。
「先輩、やっぱり空気が綺麗なところはいいですね。いつも頭痛に悩まされているのが嘘みたいです」
その途端、他の先輩たちまで一斉に振り返った。新入生オリエンテーションの夜のことが蘇り、ガヨンちゃんは思わず身構えた。
「学校にいると、いつも頭痛がするっていう意味?」
「いいえ。たまにです」とっさにウソをついた。
「よかった。いつもだったら、先生に相談しなければならないわ」
「何故ですか?」
「過去にそんな生徒が何人か出て退学になったから」
「先生に相談したら、退学になるんですか?」
「心の病気だと判断されたらね」
ガヨンちゃんは怖くなって、急いで話題を変えた。頭痛にはなにか秘密があり、頭痛がすることを話してはいけないのだということをこのとき確信したという。
高校3年生になり、進学先を早稲田大学に決めたガヨンちゃんは、学校の授業がない週末に、私の早稲田大学英語対策クラスに通うようになった。彼女は、講師の私の間違いを指摘するくらい頭脳明晰だったが、頭痛が理由での欠席が目立ち、留学できるのか心配していた。何回か講座に通ううちに、私たちはいろいろなことを話すようになった。そして、先の話をしてくれたのだ。私が、正式な教師ではなく臨時の講師であったということもあるのであろう。
「自分なりに調べてみたんですけど、この学校の土地の埋立てには工団地帯の土も使われているらしいんです」
ともガヨンちゃんは言った。
拷問で殺された人の中には若い人も多くいたということだ。
浮かばれない霊の仕業なのか、それとも、強大な無念の思いや恨みの念の集積が、同世代の若い学生にだけ、なんらかの形で影響を与えたり、厄災をもたらしたなどということがあるのであろうか。
その後、ガヨンちゃんは、無事に早稲田大学に合格し日本でのキャンパスライフを謳歌した。頭痛はすっかりなくなったという。
一昨年韓国で、修学旅行中にフェリー転覆の大事故に遭い、多くの犠牲者を出した高校があった。その高校も工団からさほど遠くない距離にある、ということは、事故とは無関係であると信じたい。
<この物語はフィクションで、登場する人物,団体名等は実在するものではありません>
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