2012年6月16日土曜日

東京NAMAHAGE物語•8 by 勇智イソジーン真澄


<愛犬散歩で見たもの>
私にはずっと片思いの男性がいた。
彼に始めて会ったのは、共通の友人たちとの食事会だった。 
誰かの誕生日、というとそれを口実にワイワイ集まり、楽しく飲み食いをする。
当初は10人近くいた仲間だが、年々減り始め、ここ数年は5人で集まることが定番になってきた。
照明器具販売の会社を経営している彼、カメラマンのカップル、スタイリストの人妻、そして私の5人だ。
 
私も彼も独身。
彼は私より一つ年下だ。
一つくらいの年の差なんか誰も気にしないだろう、彼も気にかけないだろうと思っていた。 
ことわざにも「一つ姉は買うて持て」とある。
一つ上の姉さん女房は所帯のやりくりが上手なので、買ってでも妻にするとよいとのこと。 
ほうらね、昔の人はいいことを言う。
まるで私のためにあるような言葉だ。
 
彼は藤井フミヤに感じも体型も似ていて、女を惹きつける魅力がある。
小柄な私は、小柄な男性も好きだ。
しかし、小柄な男性は自らにコンプレックスがあるせいなのか、なぜかスタイルのいい女性を好む。
それも若ければ、もっといいらしい。
 
人数が減った分、もちろん誕生日も少なくなった。
同じ月や近い月の誕生日は一緒に祝うので、食事会は年に3回程度に減少した。 
それでも彼に会えるのが嬉しくて、私は誰かの誕生日が近づくと気持ちがウキウキしてくる。
ましてや自分の誕生日となったら大変だ。 
自分がいくつになったかなんて、そんなこと考えていられない。
ただ彼と会えることが楽しみでしょうがないのだ。
 
いつまでたっても、この時ばかりは乙女心になってしまう。
何を着るかで悩み、美容院で髪をセットする。
くまのある疲れた顔はみせたくないので、前日には十分な睡眠をとる。
少しでも綺麗にみえるように、パックも怠らない。
なのに、彼は私のことなど恋愛対象としては眼中にないのだった。
 
それでも私は、気のあるそぶりを発散している。
しかしそれは、うるさいコバエのように、彼のどこ吹く風に追いはらわれてしまう。
けなげな私の心情は、蝿たたきで潰されたハエのようにペチャンコになる。
 
友人としての枠からはみださない、彼の付き合い方にも慣れてきた。
でも、私は友人以上になりたいと熱望しているので、何かことあるごとにメールをしてみる。
好きな人に相談を持ちかけるのは、会うきっかけを作りたいからだ。 
律儀な彼は、すぐ返事をくれる。
が、その返信は他人事としての意見だけで、その度に私の期待は崩れてガッカリする。
しかし、なにか繋がっていたくてまたメールをしてみる。
 
仕事を探していた私は、その悩みを打ち明けてみた。
行き過ぎた年齢がじゃまをして、採用してくれる会社がない。
もしかしたら、彼の会社で働かせてくれないかな、と淡い哀願をこめてみた。
返事は「人生何とかなるでしょう、頑張って」だ。 


定収入もないのに、今度は住んでいる賃貸マンションの立ち退き要請が襲いかかってきた。
にっちもさっちもいかなくなって、それも相談してみた。
彼は広尾ガーデンヒルズに住んでいる。
一人では広すぎる、余っている部屋があるはずだ。


僕のところに来れば、と言って欲しかったのに「ヒトには乗り越えられない試練はやってきません。
なぜなら全部自分が選んでいるからです。という事は楽しんでそれに向かいましょう!必ずなんとかなります」と励ましのお言葉のみ。
 
グループで集まる以外には、私と会う気はないらしい。
わかっちゃいるけど諦めきれない私の女心。
ヘビ年の私は、しつこさもトグロを巻いているようだ。
 
彼と一番仲の良いカメラマンの彼女が、彼と私がうまくいけばいいとなにかと情報を伝えてくれる。
彼女達に会うのも食事会のときくらいだから、時々メールを送ってくる。
会ったときには、さりげなく彼の近況を聞きだしてもくれる。
 
「旅行に連れて行きたいと思える、22歳の彼女ができた」と彼が言い出した集まりの日、私はショックを隠しつつ味のわからない食事をした。
いつもなら冗談を言っている私の口は、ワインばかり飲み込んでいる。 
おかげで帰りは足元がふらつき、助けの手が欲しいところだったが、気丈に頑張った。
醜態を見せるわけには行かない。
でも、こんな無理に頑張るところも、彼の気にいらない私の一部なのかもしれない。
 
数日後、カメラマンの彼女から、あの子とは別れたらしいよ、とメールがきた。
やっぱり若い子は駄目よね、とコメントまで付いている。
そうすると、無理だと感じてはいても私の士気は高まる。
老いてからの恋は、十代に戻ったように加速する。
なにせ、先が短いのだから。
 
彼はマラソンに凝っていて、早朝、自宅界隈を走っているという。
レースにも参加するが、国内ではなく海外でだけ。
それもハワイ近郊で行われるレースかオーストラリアで開催されるもののようだ。 
暖かく、走っている時に景色のいい場所が好きだからという。
だから、出張以外に、少なくとも年4回は渡航していることになる。
白いTシャツの似合う、彼の浅黒い肌の理由がわかる。
 
食事会のときには、レース時の写真を持参してくる。
私は彼の姿や景色を楽しく見ているが、もう一人の私は他の女性が写っていないかを確かめている。
そうして、女性が写っていないことで私は安心する。
そんな写真は除いてきたのかもしれないなどとは考えないし、彼ひとりの写真を誰が撮ったのかも問題にしない。
臭いものにはふたをしてしまうのが私の性癖だ。
 
私は毎年1度、マウイ島に行くのが恒例になっていた。
姉と一緒というのが寂しいが、同伴する男性がいないのだからしょうがない。


2年前、マウイマラソンに彼が参加すると聞き、私は姉を説き伏せ旅行日程をこの日に合わせた。 
私たちは一週間マウイ島滞在、彼はレース前後の3日のみマウイ島で後半はオアフ島に滞在するのだという。
レース前日は体調を整えるためとかで私たちと会う時間はなかったが、レースの後に会う約束まではこぎつけた。
 
レース当日、ゴールに応援出迎えに行った。
早朝5時スタートなので、早起きの苦手な私は見送りには間に合わなかったのだ。
私が寝ている間に彼は走っていた。
そして、4時間50秒代でゴールに帰ってきた。 
クタクタの彼に駆け寄り、回復するまで2人で芝生に座っていた。
ランニングシャツの胸が大きく揺れ、汗で光る筋肉質の腕は力を無くしていた。     
持参したスポーツタオルをうなだれた彼の首にかけた。                
会話をしなくても通じ合える、信頼し合ったカップルのように見えていたかもしれない。 
ちょっとだけ恋人の気分を味わった。                        
 
その日のディナー、次の日の乗馬は姉も交え3人で行動した。
楽しかった。
彼もそうだったはずだ。 
一人での食事はつまらないし、乗馬も友と一緒なら後で想い出を語れる。


遠く、それも海外まで応援に行ったのだから、私の気持ちを汲んでくれるんじゃないかと心待ちにしていた。 
東京に戻ったら、なにかアクションがあるだろうと思っていた。
が、いつもと同じ、グループで会うことだけで他には何もなかった。
いい感じだと思っていたのは、私だけだった。
 
彼は愛犬の運動に、午前と午後の二回、広尾の有栖川宮記念公園を散歩しているという。
いまの時期は新緑がきれいだと聞いたので、森林浴にかこつけて行ってみた。 
公園に初めて足を踏み入れた私は、その大きさと緑の多さに感動した。
入ってすぐに池があり魚釣りをしている人、ノンビリ浮かんでいるカモ、甲羅干し中の亀、悠々と泳ぐ鯉などが目に入る。
松の木に絡まるヘビを見つけたりも出来る。
近くに住んでいながら、なぜもっと早くにここに来なかったのだろう、と後悔した。
 
この公園は、いい具合にベンチがおいてある。
つかず離れず、それぞれがじゃまをしない配置だ。
そこに腰掛け、サラサラと鳴る枝の音や、流れる水の音を聞きながらの読書は実に気持ちのいいものだ。
彼と偶然会えたらいいと、下心ありありの行動だったが、そんなことはひととき忘れてしまっていた。
 
彼の愛犬はゴールデンリトリバー、名前はミックス。
ここは実に、この品種犬の散歩が多い。
大型犬を飼えるのは、それなりの大きさの家を所有しているということなのだろう。
平日なのに、働き盛りの人が犬の散歩をしている。
彼もそうだが、自分の自由になる時間を自分で決められる地位にいる人が多いのかな。
私が平日いられるのは、雇ってくれる職場がないからなのに、彼らとは雲泥の差だ。
 
何度目かの公園訪問をする時に、広尾橋交差点かどの神戸屋キッチンで1ピースのピザを買った。
彼が、とても美味しいと言っていたからだ。
聞いていたとおり温めてもらい、三軒先のマクドナルドでコーラも買った。
天気のいい日で、公園でのランチには絶好の日だった。
今日はどこのベンチで食べようか考えながら、ピザとコーラの入った紙袋を持ち公園に向かった。


あっ、彼! 前方に見覚えのある後姿があった。
ドキッとした。
もちろんミックスも一緒だ。
偶然会えたらラッキーだと思っていたのに、こんなにすぐ正夢になるなんて嘘みたいだ。
だが、いざ見かけるとすぐには声をかけられない。
高鳴る鼓動を抑え、息を整え、話しかける言葉を捜していた。


えっ、女性と一緒? 私の足は歩くことを止め、わなわな震えていた。
彼が振り向きそうで、私は思わず自動販売機の陰に隠れた。
悪いことをしているわけでもないのに、なぜかこそこそしてしまう。
偶然といえない下心があるからだろうか。
相手に伝わらない、自分の気持ちが重すぎるからだろうか。


本当に2人連れなのか、もしかしたら歩道が狭いので、たまたま並んで歩いている他人同士かもしれない。
後者であって欲しいと願いつつ、私は物陰から2人と1匹を見ていた。
2人と1匹は、同時にナショナルスーパーマーケットの前に立ち止まった。
やっぱり一緒だったのだ。
胸からスーッと寂しさが落ちていき、息が一瞬止まった。
息をつめたまま彼らを凝視している私の顔は、食べ残されて時間がたった刺身のように変色していたに違いない。


彼らはテイクアウトのコーヒーを買っている。
それも1つだ。
ということは、一つを二人で飲むのよね。
普通の関係じゃないんだ……。
私は温めてもらったピザが冷めるのもかまわず、公園に入っていく2人と1匹をただじっと見つ
めていた。


彼と偶然に会い、そこから運命を切り開くという私の野望は、幻に終わった。
相手のことを考えもせず、自分の思い込みのまま行動し、物陰から覗き見してるなんてなんだかストーカーな気分だ。
この日私は、彼の彼女とストーカーになりえる自分の姿を見てしまった。


このまま、ここにいては自分が惨めになるだけだ。
私は踵を返し、公園に背を向けた。
(了)



2012年6月9日土曜日

新作噺「キツネのムコ入り」 by k.m.Joe


コンコンコココン、コンコココン、コココンコココン、コココンコン・・・


えー、毎度バカバカしいお噺を一席。


昔から、キツネやタヌキは化けて人をダマすてな事を言います。


それでも、タヌキは体も丸っこく、顔も愛嬌がありますから、ダマされてもイタズラされたみたいな感じですかな。一方キツネの方はツンとしたすまし顔ですから、ダマされた後味が良くない感じも致しますな。まぁ、実際はどうなんでしょうか。


もっとも、キツネだろうが、タヌキだろうが、人間の化けっぷりやダマし合いに比べたら可愛いらしいもんですがね。


ある街に、里山と呼ばれる小さな山がありまして。人間たちは知りませんでしたが、ここにキツネの一族が住んでおりました。


キツネの世界では、人間に化ける事が出来て初めて「一人前」だそうです。正確にはキツネだから「一匹前」かも知れませんが。


化け方を教える学校まであるそうですな。そこを無事に卒業すると、麓の街や少し離れた街に「留学」する事も出来るそうで、実はそのまま戻って来ないで人間として一生を終えるものもおるそうです。麓の街での油揚げの消費量が全国的に見て高い理由を、分かってないのは人間たちばかりなんですな。


キツネが人間界に混じっても、決してトラブルを起こしません。人間相手に感情を高ぶらせると、元のキツネに戻ってしまうからなんです。しかも、一度戻ると二度と化けられなくなる。


「化けないキツネはただのキツネだ!」と罵られ、群れから追いやられてしまうんですな。ですから、誰も留学中には無茶な事をせず、仕事や勉強を熱心に務め上げるってえ寸法です。


さて、忠八(ちゅうはち)という名前の若いキツネが居りまして、今度初めて留学する事になりました。実は忠八には秘かに想いを寄せる女狐が居りました。紅子(べにこ)という歳上の女ですが、紅子は忠八の気持ちなど知らず、一年前から麓の街で働いて居ります。


働いていると言えば、人間に化けたキツネ族には共通点があります。「コン」という言葉に敏感なんですな。自分たちの鳴き声を連想して落ち着くんでしょうかな。働き場所も「コン」の付く所を好みます。


紅子は結コン式場に勤めております。他の仲間たちはと言いますと、コンパニオンにコンサルタント、コンダクターやコントラバス奏者、ゼネコン関係・生コン関係、コンニャク農家に大コン農家、ボディコン・ミスコン、うっはうは(笑)・・・あ、こいつぁ失礼しました(汗)。


ま、とにかく山を降りた忠八は、紅子がいます結婚式場へ向かいました。街の様子は話には聞いていたものの、驚きの連続です。あちらこちらとヨソ見して歩くもんですから、とうとう女性にぶつかってしまいました。


「あ、どうもすいません」ペコペコ謝る忠八を、女性はニコニコしながら見続けております。まぁ、愛しの女性に気が付かないのも情けない話ですが・・・。


「何だい、忠八。アタシがわかんないのかい?」「あッ、紅子姐さん!」人間に姿を変えているとはいえ、キツネ一族同士は直ぐに分かるもんです。忠八、よほど舞い上がっておったんでしょうな。


キツネの中でも美キツネで通っておりました紅子、人間に化けてもなかなかのものです。切れ長の一重まぶた、キレイに通った鼻筋、尖ったようにスラリとしたアゴ、小麦色の肌、正に理想的なキツネ美人であります。


忠八は取り敢えず、紅子と同じ結婚式場に勤める事になりました。甥という名目です。根はマジメなもんですから、よく働き、職場の信頼も得ていきました。


それでも、忠八の内心は毎日ドキドキしております。原因は紅子ですな。一緒のマンションに住み、あれこれ世話を焼いてくれる姿や、無防備にリラックスした様子からスヤスヤ寝顔まで見るにつけ、恋心は燃えるばかりでございます。今日こそは気持ちを伝えよう伝えようと思う内、日にちは過ぎるばかりです。


そんなある日、仕事が終わって、紅子が運転する車で家路を辿っている時の事でございます。カーラジオから「コンドミニアム」という言葉が聞こえてきました。その他の部分は聞こえなかったのですが「コン」が付く言葉は記憶に残ります。


「紅子姐さん、コンドミニアムって何です?」
「エッ?コンドミニアム?そりゃあ、お前あれだよ。どう説明したらいいかねぇ。あのー、そのー」


結局、紅子も知らないんですがね(笑)


「まだ若い内からそんな事は知らなくていいよ!」


と、妙な言い訳をしたちょうどその時、左の歩道からスケートボードを履いた若者が飛び出して来ました。ぶつかりはしませんでしたが、若者はバランスを崩し膝を着いてしまいました。しかし、どうもわざとらしい。連れらしい男たちが3人ほど、ニタニタしながら近づいてきます。どうも、あまり素行の良さそうな連中ではございません。


紅子も察したものの、人間界でのトラブルは御法度です。何とか収めようと、大丈夫ですか?と低姿勢で話しかけていきました。


「ちょっと、オバチャン。ヒロシが痛がってるよ。どうしてくれるの?」
そう言った男は紅子の手を思いっきり引っ張ったもんですから、紅子はバランスを崩し、歩道に転がってしまいます。からかうように男達は倒れた紅子を足で小突いたりし始めました。


さあ、忠八は堪りません。最初に手を引っ張った男に飛び掛り、首を絞め始めました。不良どもは突然のことで動きが止まったのですが、さらに忠八の形相を見て固まりました。狐に戻りかけているようで、顔は徐々に尖り、唸り声を発し始めています。おまけに目は白眼を剥き始めています。


紅子は驚き、「あんた達、逃げなさい!」と若者達に言うやいなや忠八を男から引き離し、車へ急いで連れ戻り、猛然と走らせました。部屋に着くと、まだ唸り声を上げる忠八を抱え上げベッドに寝かせます。ズボンのお尻の部分も膨らみ始めました。尻尾が生え始めているようです。紅子はこういう場合の処置も習ってはいるのですが、慌てて何も思い出せません。ここで忠八が狐に戻る事は死に等しいのです。


紅子はひたすら、忠八の口先とお尻を両手で押さえ込み、「忠八、忠八・・・戻るな、戻っちゃダメ!」と耳元で怒鳴るばかりです。涙をボロボロ流しながら声が枯れるまで忠八の名を呼び続けました。


電気も点け忘れた室内がすっかり暗くなった頃、忠八は身体に重みを感じ、目が覚めました。紅子が自分の顔に顔を重ねているのに気がつくとビックリし、起き上がると同時に紅子の両肩を揺さぶりました。「紅子姐さん、紅子姐さん」。すっかりくたびれ果てた紅子でしたが、人間の姿になっている忠八を見ると、「ちゅうはちー」と喜びの余り抱きしめました。


忠八の記憶も徐々に戻りました。自分が狐に戻ろうとするのを紅子が必死に引き戻してくれた事も状況から察しました。「紅子姐さん。すみませんでした」抱きついたままの紅子の耳元に、彼は遂に思いのたけを告げました。「紅子姐さん、俺と結婚してくれませんか?」。


叱られるか笑われるかと思いきや、「いいよ」と素直に返す紅子でした。紅子には忠八の気持ちが十分判ったし、自分が忠八を思う気持ちにも気づかされたんですな。


さてさて、愛のムードが高まってきた二人ですから、当然そういう事になっても良いわけですからそういう事になりました。


「ところで、忠八、お前、アレは持ってるんだろうね。私はできちゃったコンなんて嫌だよ」
純朴な忠八、ピンときません。「アレ、ですか?」
「コンで始まるヤツだよ」「コン・・・」「ああ、じれったいね。女のアタシに言わせるのかい。コ・ン・ド」「コンド」忠八、やっと解りました。「アッ、コンドミニアム!」


「バカーー!」


いやいや、夫婦になっても力関係は恐らく変わりませんな、この二人。それでも、その夜の内にムコ入りは無事済ませたようでございます。


まあ、とりあえず、コン!グラッチュレイション!ってとこですかな・・・お後が宜しいようで。


コンコンコココン、コンコココン、コココンコココン、コココンコン・・・

2012年6月2日土曜日

パリのカフェ物語4 by Miruba


<Chapitre Ⅳ ギャルソン>
桜が終るとマロニエの花が咲く、落葉樹ばかりのパリの街路樹に、あっという間に若葉が茂る。ニセアカシアの花が空に舞う。パリの一番美しくなる季節だ。

 夏のような太陽が照りつけるなか、私は道を急いでいた。語学の交換レッスンの約束をしているのに、メトロがポイント故障で止まってしまった。すぐに動くようなことを言うので、無駄に待ってしまったのだ。

 3駅ほどの距離だったので、他の線に乗り換えるより歩いたほうが早い。遅れることを電話をしたくとも、運の悪いことに携帯の電源が切れていた。携帯電話の普及で公衆電話を見つけるのは至難の業で、連絡のとりようがない。

 とにかく友人宅へ急いだ。やっとたどり着いた友人宅の玄関先で、出かける様子の彼女とかちあった。遅れた詫びをする私に、友人も急用で出かけなくてはいけない、と謝る。電話をかけたけれど、でなかったという。そりゃそうだ、携帯は不通だったのだから。

 私は、メトロに急ぐ友人を見送って、かえってほっとしていた。もう一時間近く遅れていたのだから。友人のアパートの前にカフェがあった。

赤いテントに南仏の町の名前が書かれてある。

小さな店内の倍くらいの広さで歩道にテーブルと椅子が並んでいる。


そうだった、携帯が無くたって途中のカフェに寄って、電話をかけたらよかったのだ。

携帯に頼っているから、他のことが浮かばない自分に「ばかだな」と自分を笑う。便利になった弊害だな。



気持ちのよい風が吹いてきたので、テラスに座った。

蝶ネクタイとベスト姿も決まった中年のギャルソンが注文を取りに来る。

走ったので喉が渇いていた。

「Un demi s.v.p 生ビールをください。」私は一気に飲んだ。

「あ~最高!」散々歩いた後の、こういうビールが一番美味しい。

「Monsieur,un autre s.v.p ムッシューおかわりください」

立て続けだもの、驚くのは無理も無い。言っておくけれど、私はアル中じゃないわよ。

 ギャルソンの視線を感じたので、言い訳がましく、仕上げのコーヒーを頼む。

見ると、なにか問いかけたそうにしている。


「Madame、ニースの〇〇〇レジデンスにいませんでしたか?」

 「・・・ええ、もう十年にはなるけれど、・・・あ、あなたは・・・」

 なんと、レジデンス内にあったカフェのギャルソンだったのだ。

塀に囲まれた10棟ほどのリゾートマンションの一室を所有していて、毎年夏には一週間から数週間ニースで過ごした時期がある。そこのレジデンスにあったプールの脇にカフェがあったのだ。

 ニースの海は砂ではなく砂利だ。波も荒く真夏でも海水温度は低いために、海のそばにいながら、泳ぐのはもっぱらプールだ。朝はレジデンスの住民のためにパンも売っていたので、そのカフェには毎日通っていた。



すっかりロマンスグレーになってはいたが、確かに、この人だ。

「お元気でしたか?」

お互いに懐かしく、抱き合って頬にキスをしあった。



若いときは都会で暮らし、年をとったら南仏に住むのがフランス人の普遍的な夢だ。

なのに逆に、ニースからパリに来ている人とは珍しい。



「いえね、ここのカフェのオーナーに引き抜かれたんですよ」

ああ、それで、カフェの名前も南仏の町の名前なのか・・・

だがそれも、今年で辞めるのだという。

 「私はやはり、Midiミディ(南仏)の人間なんですよ。パリは息苦しくてね。またニースに帰ります」



南仏訛りの残る人懐こいギャルソンは、パリの空を仰ぎならがそういった。

彼はポケットから携帯電話を取り出した。



「Madame、携帯の番号は、一生変えないつもりです。いつか、ニースにきたら、絶対電話してください。また、どこかのカフェに勤めるつもりです。ビールを奢らせてくれませんか?」

 彼の携帯番号を記録しようとして、自分の携帯の電源が切れていること思い出した。

手帳を取り出し、電話帳に彼の携帯番号を記入した。結局これが一番安心だ。



何処からか、するはずのない南仏の、ラベンダーの香りがした。



【ジョェ ル タクシィ 】 歌 ヴァネッサ・パラディ
Joe le taxi Vanessa Paradis

1987年Joe Le Taxiで歌手デビュー,11週連続でナンバー1となる大ヒットを記録。当時フランスではおとなの歌手しかほとんど売れず、ヴァネッサのような、日本的アイドルは本当に珍しく、舌足らずな歌声で人気をえました。



2012年5月25日金曜日

時は流れて5…by Any Key(あにき)

<DCブランド狂想曲>
父は大正の最終年生まれで、長兄とは17歳年が離れていた。したがって、私と従姉妹ともかなりの年齢差があった。伯父の家を訪ねた小学生の頃、従姉妹四人はすでに大学生か会社勤めをしていた。完全に“お姉さまたち”であった。両親と伯父夫婦が世間話に夢中のとき、暇を持て余した私はガラステーブルの上にある、写真集みたいなものをペラペラめくっていた。非日常的な、それは華やかで、時に奇抜な洋服を着ている女性たちが写っていた。男兄弟の私には全くわからない雑誌(写真集?)だったが、妙に気になる“存在”でもあった。それ以降も、伯父夫婦を訪ねた際は、一人でその雑誌を手にしていた。

やがて、1980年代を迎える。DCブランドのブームが本格化した時代だ。私は大学生となり、バイト全開、収入の殆どは洋服代へと消えた。新進気鋭のデザイナーたちは、大量生産型のアパレル企業と対極にある「差異化、少数派」の個性的なデザインを次々と発信。POPEYEやananといった雑誌も強力に流行の後押しをした。全国にDCブランド旋風が吹き荒れた。カラス族と揶揄され、ハウスマヌカンなる言葉も生まれた。バーゲンともなればそれはそれはすごかった。行列に行列が重なる。開店と同時にお目当てのブランドに突進。それがニュースで放映される。テレビに出演するタレントたちもDCブランドを身に纏う。だれそれが○○ブランドを着ているという話が仲間内で話題になったりもした。

当時280円で毎週金曜発売のananを大学卒業まで買い続けた。モデルは甲田益也子さん、くればやし美子さんが中心だったと記憶(林マヤさんもいたような)。イラストレーターの大橋歩さんのコーナーもあったな。で、なんでananを買い続けたか?それは、単純に綺麗で面白かったから。男性雑誌に無い香りがあった。コーディネート、色使いは断然女性ファッションが参考になった。じゃあ、何がきっかけで手にしたのか? たぶんそれは、冒頭の私のお姉さまたちの雑誌がananだったからなのか・・・と今になって思う(確証はないけど)。

DCブランドにハマった学生時代が懐かしい。個人的には、川久保玲の COMME des
GARÇONS HOMME が好きだった。定番のセーターは、今でもあの時代の象徴としてタンスの奥で眠っている。

2012年5月18日金曜日

パリのカフェ物語3 by Miruba


<Chapitre Ⅲ ミラーボール>

シャンゼリゼ大通りをちょっとはいったところに、コーヒーも出すダンスサロンがある。

 黒い縁の格子とガラスの壁面に黒い扉、見落としてしまいそうな看板だが、中はミラーボールがいくつもひかり、狭いフロアーは人で一杯だった。

 場所柄なのか、いかにも高級そうなスーツを着て蝶ネクタイの恰幅のいい紳士や、ブランドで身を固めた金髪のご婦人が軽やかに踊っていた。

 サルサの曲が流行り、若い人たちもたくさん踊っていた。フロアーの一角はバーカウンターがあり、バーテンダーはみなハンサムだった。

 綺麗にお化粧をして年齢を一つでも若くしたいご婦人の肩に手をやって、優しく微笑む年の離れた若いジゴロが、止まり木に半ば腰掛けるようにして寄りかかっている。

その隣には、モデルのように美しく若い女性が、葉巻をくゆらす年配の男性の頬にキスをしている。

半円形になったソファーが、フロアーを囲んでいくつも並んでいた。それさえ満杯で席に座れない人は、物欲しげでなくさりげなく、さりとて自己PRの笑みを絶やさず、踊る相手を探して、テーブルの周りを行き来している。


そこのサロンの指定の足型で踊る時は、全員参加をして、フロアーは笑いに満ちた。

私は、一緒に行った恋人と散々踊って汗をかき、席に戻る。扇子を取り出し、顔を扇ぐ。さっき注文したジントニックの氷が解けて生ぬるくなっていたけれど一気に飲み干した。

「まず~い」そう言って、彼と高揚した笑いを交わした。



溢れる音楽に、体は何時までもダンスを求めた。


「マダム、お一人ですか?この年寄りと踊ってはもらえませんかね」

その声に、私は「はっ」とした。



今まで見ていたのは、過去の幻想か? まだ氷も解けていないジントニックを、一気に飲み干したために、酔いが一度に回ったのだろうか。

一緒に頼んであったコーヒーを流し込んだ。

真っ黒のエクスプレス。

そのまずい苦さに顔を思わずしかめる。


アルゼンチンタンゴの切ない曲が耳に入ってきた。私は、優しそうなその年配の紳士に手を預け、立ち上がった。 踊る人が少ないから、狭いホールがやたら広く感じる。ミラーボールが、角の破けた皮のソファーを白々しく照らす。バンドがいた「お立ち台」も、ガランとして、間が抜けた空間になっていた。

十年ぶりにふらりと覗いてみたダンスサロンだった。

 受付の女性も、そのとき若かったバーテンダーも、踊っている紳士淑女も、タイムスリップをし・・・・そこにいた。

 時の流れの残酷を見た気がする。それはまるで、場末のダンスホールだった。


あの華やかな時代に毎晩踊り明かした恋人とほんの数時間前、別れたばかりだった私は、驚く紳士の肩を借りて、涙を流しながら時間の流れをステップにたどった。




Jane Birkin - Je t'aime moi non plus - 1969

 ♪「ジュテーム モワノンプリュ 」歌ジェーンバーキン

前歯がすきっぱで片言のフランス語が可愛い女性です。

題がまずセンセーショナルでした。本当は、「je t'aime,moi aussiジュテームモワオゥシー」という言い方なのです。フランス語の先生は認めませんでしたね。私は愛していない、と言ったとき、「Je ne T'aime pas ,moi non plus 愛していないわ、わたしもよ」といえるのですが。

私は愛しているといいながら、否定している。でも、これって、日本人ならその気持ちも言い方もなんとなくわかりますよね。

ジェーンバーキンの夫セルジュ・ゲンズブールの曲なのですが、彼はそれ以前にB.B.ブリジットバルドーと同じ曲を吹き込んでいました。退廃的だと、ヨーロッパ中で非難ごうごうだった曲ですが、でも、愛の歌ですからね、ひきつけられてしまうのです。




2012年5月11日金曜日

春夏秋冬 廻りゆく命 by やぐちけいこ


それは一通の封書が私宛に届いた事から始まった物語。差出人の名はどこにも書かれていなかった。
普段ならそのままゴミ箱行きなのだが、開封しようと思ったのは、あまりにも自分の名が綺麗な文字で書かれていたからだろう。
伸び伸びとして流れるようにしたためられている文字。
こんな綺麗な字を書ける人はいったいどんな人物なのか興味が湧いたから。それは奇妙な内容だった。


この世に生を受け、愛情を知る。
自分の世界が全てで他の世界などどこにも無いと思っていたのではないだろうか。
何の悩みも無く、ただただ生きる事だけを使命としていた。暖かい愛情を与えられながら。
これからいったいどんな人生を歩むのか無限の可能性を秘め幸せを感じていた。


初めて好きな人が出来た。人の気持ちの難しさや切なさを知った。いろいろな悩みもあった。
自分の周りにはたくさんの友人や肉親がいるのにも関わらず何故か孤独感と戦っていた。
誰も自分の事を分かってくれない。他人が羨ましいと思ったりもした。
その時は気付けなかった。自分が相手を理解しようと努力していなかった事を。
自分の狭い世界が全てだと驕っていた。

ある日、大好きな友達と大喧嘩した。本音をぶつけ合った。しばらく口も利かなかった。
そんな時素直になれず、独り涙を流した。
改めて友達のありがたみや大切さを知った。
いろいろなモノに守られながら人生を謳歌していた思春期だった。


愛する人と巡り合い結ばれた。
小さな家族も増えた。無防備に愛情を求めてやまない小さな命の偉大さを知った。
無垢で穢れを知らない赤ん坊はどんなものよりも大きな存在だった。
この子のためなら自分をも犠牲にできるとも思った。
守ってあげたかった。ただ笑っていて欲しかった。
わが子の成長と共に自分も成長していった。
その度に今まで見えなかった事や気づきもせず通り過ぎていた些細な物事に気づかされた。

自分は独りで生きてきたのでは無い。

周りの愛情に気付けなかっただけだ。親の存在の大きさを知った。
何て自分は勝手気ままに過ごしていたのだろう。

子どもが自分のそぐわない事をするようになった時、思わず手をあげてしまった。
痛かった。手より心が痛かった。自分の情けなさを思い知る。
子どもの綺麗な瞳は有りのままの自分を映し出していた。


自分でも老いたなと思うようになった。
目も悪くなったし、所々身体の痛い場所も出てきた。
何より思い出せない事柄が多くなってきたように思う。
今まで大きな病気もせずここまで生きてこられたことは何よりも幸せなことだ。

あの時の小さな我が子はいつの間にか親になっている。自分にも孫ができたのだ。
あと何年 孫の成長を見る事が出来るだろう。
お宮参り、幼稚園入園、小学校卒業。どんどん孫は大きくなり自分はどんどん年老いた。
中学校へ通うようになり、あっという間に高校を卒業し立派な大人になった。
自分はそれを病室で見守ることになる。

あと何年、あと何カ月、あと何日生きていけるだろう。
最近夜眠るのが怖い。
もしかしたら朝目覚めないのではないかという恐怖感があるのだ。
まだ自分の人生にやり残したことがあるのかもしれない。
だから起きられない事が怖いのだ。こんなに長く生きてもまだ何をしたいのか自分では分からない。
幸せな一生だった。
平凡で何の変哲もないどこにでもある人生だったけれど、それが自分の生きた道だと誇れる。
いまさら新しく何かをしようとは思わない。なのに何が怖いのだろう。

もうすぐ自分は命が尽きる。その前にやり残したことがあるのだろうか。
毎朝目覚めた時に感じる安心感と疑問。自分の細くなりすぎた手をじっと見つめる。
何故か涙がこぼれた。
この手の中に自分の人生が詰まっているのだ。
誰にも渡せない自分だけの生きた標(しるし)。涙だけでは無い、目が霞んで見えなくなってきた。

誰かが自分を呼んでいる。それにはもう答える事が出来ない。
自分はとうとう旅立つ時を迎えたのだ。
ほらそこに手を差し伸べてくれる綺麗な女神が見える。

その女神が自分に問う。最期に伝えたい言葉はありますか?と。

あぁ、そうだ。自分はまだみんなに伝えていなかった。だから今伝えよう。
『ありがとう』と。そして『幸せだったよ』と。
きっと声にはならなかっただろう。それでもきっと伝わったに違いない。
心がこんなに晴れ晴れとしているのだから。
心からありがとう。この命が誰かに受け継がれる事を信じて。


手紙はそこで終わっていた。何と奇妙な内容なのだろう。
気づけば私は涙を流していた。とめどもなく流れ落ちる涙。
送り主はこれを私に読ませて何が言いたかったのだろう。それはいまだに分からない。
もしかしたら私が死ぬときに初めて理解できるのかもしれない。それならまだまだ先の話だ。
きっと分からないままでいいのかもしれない。相変わらず綺麗な字が並んでいる。
乱れることもなく淡々と綴られた文章。

それを封筒に丁寧に戻し、引き出しに閉まった。いつしかそれは私の心の宝物になった。
手紙の内容は理解出来ないままに。



2012年5月4日金曜日

パリのカフェ物語2 by Miruba

写真:テクノフォト高尾
<Chapitre  Ⅱ 傘>

PTT(郵便局)で、日本宛の手紙に、シャガールのデザインがほどこされた大振りの記念切手を貼って、エトランジェー(外国)の投稿口に、一通また一通と落とし込む。

「きっと喜んでくれるわ」独りよがりに、相手の喜ぶ顔を想像し、嬉しくなってニタニタしてしまう。

そんな気分も、あっという間に消えた。
さっき横に立て掛けて置いたはずの、買ったばかりの大ぶりの傘が無くなっているのだ。持ち手部分の木の肌触りが気持ちよく、とても気にいっていた。

_やられた_
誰かが持っていったのに違いない。周りを見回したが、それらしい人がいるわけも無かった。腹立たしい。
全くどういう国だろうね、人の物を勝手に持っていくなんて泥棒の国だよこりゃ。
などと嘆いたものだが、今にして思えば日本も大して違わない。
「忘れられている(ような)人の傘を持っていくことが何で悪いの?なんて、開き直る人がいる世の中だもの」

しかたがない、雨の中を歩くしかない。
外に出ると、霧雨になっていた。
高速道路の高架がすぐ横を走っているので、酸性雨が降り注いでいるのかもしれないが、頬にかかるちょっとヒヤッとした水滴が気持ちよく、霧雨の中をとぼとぼ歩きはじめた。

だが、直ぐに雨脚が強くなってきた・・・やばい。
駅外れにあるカフェに飛び込んだ。



エクスプレスをやめてノワゼットにした。(noisette ミルク入りエクスプレス )
 少しからだが冷えた気がしたからだ。

ふとみると、見たことがあるような傘がカウンターの端に立て掛けてある。
その横には若い男がタバコをくゆらしながら、コーヒーを飲んでいた。

ちょっとドキドキした。絶対あれ私の傘だよな・・・う~ん、違うかな。

男がトイレに行った。
その間に私もトイレに行くふりをして、傘を確認した。
やはり、私の傘だ。
私は、その傘を持って行こうとした。

「おいおい、マダム、人の傘を持っていっちゃいけないな」

席に座っていた年配の男性が、私に声をかけた。何とはなしに見ていたのだろう。

トイレから戻った男の視線とぶつかった。

私は、席に座っていた紳士に言った。
「さっき、この人にこの傘を貸したのです」

紳士が、怪訝そうな顔をして、男の返事を待つように、彼を見た。
男はめんどくさそうに答えた、「C'est ca  (そうだよ)」

紳士が吐き捨てるように、「レ・ミゼラブルか」といったので、私はカチンと来てしまった。

「ここに日本語で私の名前が書いてあります、先ほど郵便局で行方不明になりました。偶然ですが、私の傘は、ここに現れました」

男は何も言わず走り去るようにカフェを出て行った。

今度は紳士が、あわてた様子を見せた。
「なんてこった。<神父>はあなただったのか?」と、指先で頬をかいている。

私は思わず笑った。
「暴露しては<神父>ではないでしょう。貴方は間違っていませんでした。
私の行動は、不審を与えるに十分でしたもの」

紳士が、お詫びにコーヒーを奢らせてくれと言ってきかない。
雨にぬれたから寒いでしょう。とcafe au lait を頼んでくれた。

紳士とは少しの時間、「モラル」について話をした。
あったかいカフェ・オ・レは、心も暖かくするようだった。

その傘は、いったんは私の手元に戻ったが、再度、どこかで無くしてしまった。
縁の薄い傘だったのかもしれない。



♪シェルブールの雨傘  唄 ダニエル・リカーリ
Les Parapluies de Cherbourg    Danielle LICARI

1963年、シェルブールの雨傘でカトリーヌドヌーブの吹き替えを担当して知名度を上げました。カトリーヌの声はキンキンしてよくないし歌も歌えないからでした。

1970年に「ふたりの天使」で人気を決定付けますが、ポールモーリアの1971年のヒット曲「エーゲ海の真珠」 において、スキャットをダニエル・リカーリが謳ったことで、広く世界でも知られるようになりました。美しく澄んだ声が、人々を惹き付けました。